<彼女>

ウィーン郊外の一等地にディスカウ家の広大な家がある。
いや、正確にはあったというべきか。
今現在は、ウィーンの家は帰るべきものではなく、旅行の時や仕事の時に使われるものとなっている。
3年前にウィーンを去る時、売ろうかという話もでたのだが、さすがの父フランツも伝統ある家を手放せなかった。
ディスカウ家は、もう500年以上続く貴族の直系である。
今現在のフランツが手がけている事業ももともとは、その貴族としての財産をもとにして行われている。
事業自体は、フランツの数代前から行われているもので、フランツの代になって飛躍的に事業が拡大された。
それはフランツ自身の商才もあるだろうし、彼の妻テレーゼの力もあったろう。
「やはりなつかしいですね。」
その父さえも手放せなかった家の一室にグスタフの姿がある。
テーブルに座り、夏の日差しが窓から差し込んでいる部屋で、紅茶を飲んでいた。
紅茶の葉は、こちらの管理人が用意することはないだろうと思っていたので、日本から持って来ていた。
「お兄ちゃん、遅れるよぉ。」
エーディトが部屋のドアを開けて、焦れながら言った。
「まだ大丈夫ですよ。3時間も予定まであるじゃないですか。」
そうグスタフが苦笑しながら言う。
こちらにきても二人の会話は日本語で行われている。
エーディトいわく、 「お兄ちゃんのかわいい彼女が来るまでは、日本語を使わないとね。 わすれちゃうから。」 ということらしい。
結花と亜都が来ることを知ってから、エーディトはすっかり結花をグスタフの彼女と思いこんでいるらしい。
いくら違うと否定しても信じてはもらえない。
「だって〜。ここから空港まで2時間はかかるよ。車が混んでいたら、遅れちゃうじゃない。」
不満そうに言う。
「それじゃ、これを飲んだら行きましょう。 まだ大丈夫ですよ。」
そういってまたカップに傾けた。
結局、エーディトの粘り勝ちというか、15分後にはすでに車に乗っていた。
車は、管理人一家の息子のものである。
この管理人は何代も前からディスカウ家に仕えてきた執事の末裔である。
「ねぇ、結花さんってどんな人?」
車の中でエーディトがもう何度も彼女の兄に聞いた質問を繰り返す。
「だから、部の後輩ですよ。」
「そんなの知ってる〜。だから、お兄ちゃんにとってどんな人?」
また繰り返す。
グスタフはまた同じ答えを返す。
「部の後輩です。」
不毛な会話である。

待ち合わせ場所の入国ゲートに着いたのは予定よりわずか10分前だった。
この時ばかりは、エーディトの方が正しかったと思わざるをえなかった。
自分1人だったら間違いなく遅れていたろう。
それは、外国人の苦手な結花にとっては地獄だろう。
なんとか間に合ってよかったなぁと思い、ゲートの方向を見つめていると小さな二人の日本人の少女がやってきた。
「結花さん、亜都さん。」
きょろきょろとあちこちを見ていた二人だが、その声でグスタフの姿を見つけれたらしい。
「あ、先輩!」
「ほんまや、ダグラス先輩やん♪」
結花と亜都がほとんど同時に言う。
そして重そうな荷物をかかえながらグスタフのもとへとやってきた。
「長旅ご苦労様でした。」
グスタフが言うと、亜都が安心したのか、ふいに無防備に疲れた表情をした。
「ほんまつかれた〜」
この娘にも世話になってしまいましたね。
亜都を見ながら、そう思う。
「結花さんもご苦労様でした。」
久しぶりに見る、結花。
なぜだかとても長い間見ていなかったような気持ちがする。
たった10日くらいの間だったのに。
「あ、いいえ。」
結花が疲れの見える表情で言う。
さすがに疲れたろうと思う。
「先輩の家はここから近いんですかぁ〜?」
亜都が疲れた声で聞く。
「ここからそう時間は掛かりませんよ。」
といっても2時間近くかかる。
「よかったぁ〜はよ、休みたいわ〜」
グスタフの言葉を素直に信じたのか、亜都は元気良く、空港の出口に向かった。
「そうだね。」
結花もそういって後に続く。
グスタフは結花の姿に見入っていた。
気がついたら結花を呼び止めていた。
「…結花さん?」
自分でもなぜ呼んだのかはわからない。
「はい?」
結花がそういって振り返った。
何か言いたい。
そう思ったが、言葉が上手く出てこなかった。
「先輩?」
彼の沈黙をどう思ったのか、結花が不思議そうな表情で聞いてくる。
その時、亜都が絶妙のタイミングで彼らを呼んだ。
「結花〜ダグラス先輩、はよう〜!」
その言葉で、グスタフは我に返る。
「あ、いえ。いいんです。亜都さんが待ってますね。行きますか。」
そういって、結花の荷物を持ってグスタフは空港を後にした。

しかし、女の子同士というのは不思議なものである。
エーディトと結花、亜都とは初対面のはずであるが、会ってすぐに仲良く会話をし始めた。
エーディトはずっと車の中でグスタフが戻ってくるのを待っていたが、何度か待ちきれずに空港の中に入ろうとしたらしい。
彼女を押さえるのに苦労しましたよと運転手が楽しそうに言う。
久しぶりにディスカウ家がにぎやかになるのが嬉しいらしい。
後ろの席では、相変わらず3人が話している。
もっぱら話しているのは、亜都とエーディトで、その間にいる結花はじっと黙っている。
だが、時折笑いもするし、エーディトに対してもそれほどの緊張はないのではないだろうかと思う。
「でも、グスタフ様が、恋人をお連れになるとはねぇ。 それもあんな可愛い。」
そう笑いをこらえながら運転手が言う。
目線はバックミラーの結花をちらちら見ている。
「恋人じゃないよ。」
当然、グスタフはドイツ語で返す。
こんな会話を後ろの結花がわかってしまったらどうなるだろうと、ふと思った。
「日本の学校の後輩なんだ。 夏休みになったから、遊びに来ないかと冗談で言っていたら、本当に来ちゃったんだ。 私の方もびっくりしているよ。」
そう返事を返す。
目はバックミラーにうつる結花の姿を見ている。
「そういうことにしておきましょう。」
また笑いをこらえながら、運転手が言った。
グスタフのさっきからの行動を見れば、誰でも、彼が結花を好きだと言う事はわかるだろう。
「しかし・・・・。」
そう真顔になって、運転手が言う。
ふと、バックミラーの結花と目が合った。
慌てて目をそらす。
「こんなに早く立ち直るとは思ってませんでしたよ。 エリー様との一件から。」
エリーとの一件を知る人間は数少ない。
この運転手と、彼の母、そしてエリーとグスタフくらいである。
「立ち直った・・・のかな? 私にはわからないよ。」
グスタフは前の景色を凝視しながら答えた。
「あれからすぐに、私は好都合にもウィーンを去れた。あの時、ウィーンにずっといたら、気が狂っていたと思う。そういう意味では助かった。でも・・・。」
日本に行った事で立ち直ったわけではない。
確かに、何事もなかったように暮らす事は出来た。
しかし、1年以上、月を見るたびにエリーの事を思い出したし、またウィーンが恋しくてしょうがなかった。
「立ち直りましたよ。 あの時の笑顔を取り戻しているじゃないですか。」
そう元気付けるように運転手が言う。
その言葉に嘘がない事は、グスタフ自身よくわかっている。
そしてそれが誰のおかげなのかもよくわかっている。
だから、結花にウィーンに来てもらったのだ。
最初は冗談かと思ったが。
「確かにそうだなぁ。」
とぼけたようにグスタフが言う。
これ以上、エリーの事について話したくないと思う。
また目はバックミラーに映る結花の姿を見ていた。
なにやら楽しそうに笑っている。
本当に可愛い笑顔だなぁと思う。
心を穏やかにしてくれる、心を救ってくれる笑顔というものは本当に存在するのだ。
「そうですよ。 彼女に感謝しないと駄目ですよ。」
運転手はそう言いながら、今のグスタフは、あの時よりももっと幸せそうだと思う。
まだ実ってはいないだろうとも思う。
だが、それは実る。
そう結花を見て確信した。
そしてあの時よりも大きな幸福を彼女はもたらしてくれるだろうと感じた。
直感と言っていい。
だが、自分の直感はよく当たる。
そう思い、グスタフを立ち直るきっかけをくれた彼女に感謝した。
「もうすぐ、着きますよ。」
グスタフが後ろの3人にそういって声をかけていた。


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