<時には昔のように>

バス停まではそれほど遠くない。

太陽は最後の抵抗のように建物の影から紅の光をだしていたが、もはや沈むのは時間の問題だろう。

あたりは暗い。

そして彼らの間には沈黙があった。

自分が声をかければまた慌てるのだろうなと思ったので、あえてグスタフは結花に話し掛けなかったためである。

自分の後をついて来ている事は、彼女の歩く音が自分のすぐ後ろでするのでわかった。

無言という重圧もあるが、別にグスタフにとってみれば無理にしゃべる事もあるまいと思っていた。

気がつけばバス停まで来ていた。

あやうく通りすぎてしまいそうだったため、彼は急に立ち止まった。

結花は考え事をしていたらしい。

彼が止まったことに気がつかず、そのまま彼の背中にぶつかった。

「ふにゃっ」

後ろで結花の声がする。

さすがにグスタフもこれには驚いた。

振り向くと、すぐ下に結花の驚いている顔があった。

「す、すみませんっ!」

彼と目線があった途端に、結花が慌てて言った。

別にそんなに謝るほどの事ではないのにと思う。

そんな思考も結花が歩道のでっぱりにつまずいてバランスを崩すのを見た瞬間に消えた。

「にゃぁっ!?」

結花が後ろに倒れそうになる。

「あ、危ない!」

思わず手が出ていた。

それはあまりに自然で、反射といってもいい。

グスタフの両手が結花を包み込む。

ちょうど抱きかかえるような感じになる。

「大丈夫ですか?」

抱きかかえる格好のまま、グスタフが結花に言う。

「だ、大丈夫です!!す、すいません。」

結花はさらに動揺してしまったようだ。

頭を下げながら一歩後ろへとさがった。

失礼な事をしたかな?と思ったが、あれは自分で思ったことではないし、謝るのもおかしいと思い直した。

「このバス停で大丈夫ですか?」

話題をその話から避けるように、グスタフが言う。

「は、はい!」

結花が言う。

その目は潤んでいる。

「本当に大丈夫ですか?」

その目を見てさすがに心配になった。

「は、はい!」

結花はそういって首を縦に振ったが、どうみても大丈夫そうには見えない。

やっと顔を上げて彼女は時刻表を見ていたが、その顔には不安の色がにじみでてきた。

このままここで帰るわけにはいかないと思う。

彼女が乗りたいバスがない事は、先ほどの様子からわかっていたのでターミナルにでるのだろうと判断した。

「バスターミナルまで、私も行くのですが、ゆかさんもですか?」

自分でも不思議なほど、彼女の事は心配になっている。

彼女はただの部活の後輩なのに。

「え、あ…はい。」

結花が答える。

「そうですか。では、この52分のバスですね。」

そういってにっこりと微笑む。

こんな笑い方はしばらくしなかった。

そう自覚できるほどの自然な微笑みだった。

「で、でも。先輩は帰る途中だったんじゃ…」

結花が遠慮がちに言う。

「いえ、歩いても、バスでもそう変わりませんから。」

あからさまな嘘である。

彼女にも嘘だという事がわかっただろうと自分の陳腐な嘘に苦笑する。

しかし、結花はそのままバスが来るまで黙ってしまった。

しばらくしてバスが来た。

「気をつけて。」

思わず声をかける。

もう彼女も子供でもあるまいに。

そんな事を思うが、どうも彼女の事は心配になる。

「は、はい」

結花が返事をする。

通勤ラッシュの終わりごろのためだろうか。

バスの中は混み合っていた。

「大丈夫ですか?」

「はい、大丈夫です。」

バスが大きく揺れるたびに繰り返されるやりとり。

他愛のないやりとりだったがグスタフには楽しかった。

何故なのかな?とぼんやりと考える。

バスはしばらくしてターミナルについた。

さすがにここから先は送っていくわけにはいかない。

「ありがとうございました。あ、あのここからは大丈夫ですから…」

結花が先にそう言った。

「いえいえ。大丈夫ですか?本当に。」

やはり心配な心が残る。

あたりはすでに真っ暗である。

「ほ、本当に大丈夫です。」

その言葉に少し残念な気持ちが湧き出た。

「そうですか、では気をつけて。」

そういうと結花は、

「は、はい。ありがとうございました。」

といってちょこんと頭を下げて家へと帰るバス停へと向かった。

その姿を見送りながら、大丈夫かなぁという気持ちは消えなかった。

それから10日ぐらいが過ぎている。

別にあれから結花との接点はない。

今までそれほど接点がなかったのだから、今の状態が前に戻ったといえばそれまでだ。

中等部と高等部という違いもある。

普段はめったに会う機会はない。

それでも、何回か遠目に結花の姿を見ている。

決して自分には見せないような、自然な顔をしている結花だ。

ああいう顔もするんですねと心の中で彼女を見るたびに思う。

自分の前では顔を真っ赤にして下を向いている少女からは考えられない顔だ。

「おい、ディスカウ。」

ぼんやりとそんなことを考えていると声をかけられた。

「はい?」

自分の世界からまだ現実へと戻りきれてない声で答えた。

「何考え事しているんだよ。あ、さてはこの間の娘のことかな?隅に置けないねぇ。」

同級生はこの手の話題が好きなのか、それとも彼をからかうのが好きなのか、あの日からこの話題ばかりを振ってくる。

さすがに閉口する気持ちがある。

「いえいえ、違いますよ。」

その通りだとは口が裂けても言えずにそう答えた。

結花の事を考えていたなどといえば、彼になんと言われる事か。

「ふ〜ん。そうか、そういうことにしておこう。」

いやにあっさりと彼がこの話題から離れた事に疑問を感じた。

嫌な予感がする。

「でさ、ちょっとお願いがあるんだが。」

彼が続けてまじめな顔でいう。

嫌な予感は確信となった。

「何ですか?」

それでも人からの頼みごとは断れないのが彼である。

「うん。ちょっと中等部の部長に用があってさ。呼んで来てくれない?」

そう言って、彼の顔が再び笑顔になる。

どうもまたからかおうという魂胆らしい。

「はい?自分で行ったらどうですか?暇なんでしょう?」

「い〜や。お前に行って欲しいの。」

断固として彼は言った。笑顔が顔中にある。

「せっかくあの娘と会う機会をあげてるんだ。ありがたく行ってこい。」

彼はそういって頼んだといわんばかりに肩を叩いて、部室の奥に行った。

彼の思っているようなことは何もないんですけどねぇと思いながら、グスタフは部室を後にする。

人がいいといえばそれまでだが、久しぶりに結花の顔を見たいという気持ちがその底にあった。

それはまだ彼の意識の上にはのぼって来ていない。

中等部は今日は個人練習の日らしかった。

思い思いの場所でみんなが楽器を吹いている。

部長はあっという間に見つかった。

どうやら、同級生は中等部に楽器を貸す話を持ち掛けられていたらしい。

そういえば、彼は自分のソプラノサックス(注1)を持っていたなと思いだす。

そのために呼び出したらしい。

しかし、結花の姿は音楽室には見えなかった。

おかしいなぁと思いながら、見渡すがやはりいない。

とはいえ、誰かに彼女の所在をきくのもおかしいし、それこそ同級生の思うつぼだ。

そう思い直して楽器を吹きに戻うと思い、音楽室を後にした。

途中職員室に用事があったのを思い出し、さっき来た道とは違う方向に向かった。

音楽室は遠のくにつれ、楽器の音も小さくなってくる。

遠くから聞こえる楽器の音にはその上手いへたは関係なく、哀愁があるから不思議なものだ。

楽器の音が遠くなるのを背中に感じていると、前にある教室からクラリネットの音がきこえてくる。

あまり上手くはない。

音のする教室を覗くと、やはり結花の姿があった。

教室の中で一人で練習しているらしい。

今度のコンクールでやる曲を一生懸命練習しているらしいが、いかんせんリズムがあっていない。

老婆心かな?と思ったが、教室に入り結花に近づいた。

「こんにちは。」

その声を聞いて、結花がふりかえった。

「あ。こ、こんにちは。」

まだどもるのですね、と思った。

「一人で練習ですか?」

「は、はい。私、あんまり上手くないから、みんなの迷惑になると思って・・・」

そういってうつむいてしまった。

それは自分のふがいなさからなのか、グスタフの前だからなのか。

また彼女の目が潤んでいる。

メトロノームがかちっかちっとリズムを刻む音が二人しかいない教室に響く。

「うーん。誰だって最初は上手くはありませんよ。」

「で、でも、私いくら練習してもあんまり上手くならなくて・・・せっかく前先輩に教えてもらったのに…」

最後の方は涙声になってきた。

「あ、泣かないでください。」

そういったのが間違いだったのかもしれない。

その言葉を合図にあふれ出るかのように、結花の目から涙が落ちる。

グスタフはかける声を探したが、それを言葉にすることができなかった。

彼女は楽器に涙がかかっていたが、そんな事を気にする事もなく泣いていた。

声もなく、ただ涙がこぼれてくるという感じで、メトロノームの規則的な音とときどきしゃくりあげる結花の声が教室に響いた。

立ち去るわけにもいかず、なすすべもなくグスタフはただ心配そうな顔で、彼女を見つめていた。

しばらくして彼女が泣き止みはじめた。

「落ち着きましたか?」

落ち着いた声できいてみる。

「は、はい。す、すみません。」

まだ時折しゃくりあげる。

「いいえ。いいんですよ。」

そういって一呼吸おく。

「それじゃ、練習をしましょう。」

それをきいて結花が驚く。

「誰かと一緒に練習した方が一人でやるより上達しますよ。」

ゆっくりとさとすように言う。

「で、でも、私下手だから・・・」

その言葉を途中でさえぎる。

「そんなことを言ってはいけません。みんな練習して上手くなるんです。

誰だって苦労して時間をかけて上手くなるんですよ。

結花さんだって頑張ればきっと上手くなりますよ。

まだ上手くなる時がきていないだけです。

自分が下手なんだなんて思ってはいけません。

今の自分はまだ発展途上なんだって思って、頑張るのです。」

その言葉を聞いて落ち着いたのか、結花は楽器をかまえた。

「よし、それじゃここからやってみましょう。」

そういって、楽譜の最初の部分を指差して、メトロノームのネジを巻いた。

気がつけば、時計は下校する時間をさしている。

「もうこんな時間ですね。そろそろ終わりにしましょう。」

「は、はい。」

グスタフは椅子を片付け、楽器の後片付けをしている結花を見ていた。

「あ、楽器の手入れをもっとしっかりやった方がいいですよ。さっき涙でぬれていましたから。」

結花がこっくりとうなずいた。

その様子を見て、自分も楽器を出しっぱなしにしていた事にはたと気がついた。

しまったという気持ちが出てくる。はやくいかなければ、楽器が部室から締め出されてしまう。

「それじゃ、私はこれで帰りますね。結花さん。」

そういうと彼は結花に背を向けた。

「あ、あのっ!」

ん?とグスタフが結花のほうを向く。

「きょ、今日はありがとうございましたっ!」

いえいえと笑顔で返した。

その笑顔は穏やかというよりはどちらかといえば照れているような感じだった。

「それでは、さようなら。気をつけて帰ってくださいね。」

穏やかに言う。

「は、はい!さようなら、グスタフ先輩。」

結花が深々とお辞儀をした。

その様子を見て、グスタフは教室を後にする。

教室を出ると、今日も鮮やかな夕焼けである事に気がついた。

 

注1:ソプラノサックス

サックスという楽器はメジャーですね。

しかし、よくTVとかに出ているサックス(=サキソフォーン)はテナーサックスが主流でソプラノ

はそれほど有名ではありません。

サックスとい楽器もリード楽器の一種です。

それはソプラノ、テナー、アルト、テナーの各種のサックスに共通です。

金属で出来ている楽器ですが、吹奏楽では木管楽器として扱われるのはそのためです。

サックス自体は新しい楽器で、アドルフ・サックスという人が木管楽器と金管楽器の中間の音色を目

指して作りました(私の記憶によれば)。

非常に科学的かつ機能的な楽器です。

新しい楽器のためにオーケストラでは居場所がありません。

かろうじて、ハチャトウリャンという人が作曲したバレエ組曲「ガイーヌ」の中の「剣の舞い」の中

間部にテナーサックスのソロがあるくらいです。

吹奏楽部では大変重要な楽器で、大抵テナー・アルト・バリトンが何人かずついます。

しかし、ソプラノサックスはあまりいません。大きな編成のバンドになればいますけどね。

ソプラノサックスは他のサックスと違って筒状で、オトナの音色を出します。

ジャズではかなり活躍しているので、さがしみるといいかもしれません。


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