<その時は偶然に>

その日の放課後、部活の前に職員室に立ち寄った。

高校卒業後の進路ついての相談と、間近に迫った吹奏楽のコンクールについてのことだ。

進路に関しては彼の心の中で固まっている。

高校卒業後、彼自身はオーストリアに帰るつもりだった。

ウィーン(注1)の音楽学校に入り、その後は音楽で身を立てていこうと考えていたのである。

担任にはもうその旨は伝えてある。

だから相談というほどのものはないが、何かと職員室に呼ばれる事が多くなった。

吹奏楽の方はコンクールが間近になってきているので、自由曲についていろいろ顧問との話がある。

そのために職員室に頻繁に出入りするようになっている。

「私は、やはり『ベルキス』(注2)の方がいいと思うんです。金管が主体ですから。」

「そうか〜。」

顧問がうなずく。

「管楽器で弦楽器の表現をするのには限界がありますから・・。

『ベルキス』ならそれをカバーしきれますし。」

「よし、そうしよう。」

心を決めたように顧問の先生が言う。

「で、グスタフはどうするんだ?」

改めてグスタフの方を向き、聞いた。

「私は、夏はオーストリアに帰るつもりです。部活の方は申し訳ないですけど・・・。」

「そうか。それはしょうがないな。3年ぶりだろうし。」

「はい。」

日本に来てからの初めてオーストリアに帰るのだなと思う。

去年まではまったく帰るつもりはなかった。

このところ、彼女の面影を思い出す事が多くなったからだろうか。

やたらとオーストリアが恋しい。

「うん。君がいなくてもなんとかなるだろう。卓越したホルン奏者が抜けるのは痛いけどね。」

「私がいないほうが、音がまとまりますよ。」

これは本音だった。

彼があまりに他の生徒とのレベルが違いすぎていて、彼がいると逆にまとまらないことがある。

それは音楽全体のバランスを壊す。

彼がいない方がかえってバランスのいい事もあるのである。

「そんなこともないだろう。」

と担任は苦笑して言い、もう話は終わりというかのように立ち上がり職員室の奥に入っていった。

その姿を目線で追っていたが、その先に結花の姿が見えたので見入る。

どうやら、英語の教師に呼び出されているらしいかった。

何を話しているのかはわからないが、何やらプリントを提出しているらしかった。

そこまで見て、職員室でぼーっと見入っているのもおかしいなと思い職員室を出た。

「失礼しました」

と言い、職員室の戸を閉めていると声をかけられた。

「ダグラス先輩♪」

にこにこ顔の亜都が向こうで手を振っている。

グスタフは戸を閉めきってから、亜都の方へと歩いていった。

「こんにちは。」

にこやかにグスタフが言う。

亜都はにこにこしている。

なにかその微笑みには含みがあるような気がしたのは、気のせいだろうか。

「どうしたのですか?にこにこして。」

そのまま疑問が出てしまった。

「なんでもあらへん♪」

そういってまだにこにこしている。

どうもおかしい。

とはいえ、それ以上は突っ込んで聞く事はできない。

「結花さんをまっているのですか?」

「うん♪」

かなりの上機嫌だ。

「あれ?ダグラス先輩、なんでそのことわかったん?」

「さっき職員室の中で結花さんの姿を見たんですよ。」

何気ないように言う。

そう話しているうちに結花が職員室から出てきた。

「あ、亜都ちゃん、お待たせ〜。」

小走りに結花が近づいてきた。

グスタフには気がつかなかったらしい。

その声を聞いてグスタフが振り返ると、結花と目線があった。

結花が驚く。

「こ、こんにちは。」

そういってぺこんと頭を下げた。

「こんにちは、結花さん。」

グスタフもにっこり微笑んで挨拶を返した。

笑顔が暖かい。

それは明らかに普段の穏やかな笑顔とはまた違った笑顔だった。

「あ、結花。ダグラス先輩に頼んでみたらどう?」

亜都がなにかいい事を思い付いたという表情で、言った。

「えっ?ええっ?!」

結花はグスタフに気がついた時よりもさらに驚いた。

「はい?何をですか?」

グスタフは話の脈絡がまったく読めない。

「ええやん♪ダグラス先輩なら適任やし。」

グスタフの言葉を聞かなかったかのように、亜都が結花に言う。

「で、でも・・・。」

結花がうつむいてしまった。

顔が心なしか赤いような気がする。

結花が口ごもったのを見て、亜都がやっとグスタフに説明をした。

「あの、結花は英語が苦手やねん。

それで、誰か家庭教師をつけよっかどうしようかという話やったんですよ。」

「そうなのですか?」

グスタフがうつむいている結花に聞く。

結花はこっくりとうなずいた。

「ええやろ?ダグラス先輩♪」

結花の意志は関係ないのだろうか?そんな疑問が頭に浮かんだ。

特別クラスは授業の多くが英語で行われるので、英語は苦手ではない。

日本語と同じくらい上手く話せる。

ただ日本の授業の英語を教えれるかというとやや疑問が残る。

「いや、ですが・・。」

そう断ろうとすると亜都がさえぎった。

「結花はええんやろ?」

結花はその言葉に少し戸惑っていたが、やがて小さな声で「うん」と言った。

こう言われてはグスタフに断れるわけがない。

元来人の頼み事は断れる質ではないのもあったろう。

「わかりました。引き受けますよ。」

しかたがないという様子で彼は言った。

そう装わなければいけないような気持ちがした。

「よかったな、結花♪」

「う、うん。」

結花はまだ小声で言う。

「それじゃ、うちは用事があるから♪」

そういって亜都が二人を残して走りさっていった。

結花が、「あっ・・」と声を出したがその声は届かなかった。

沈黙が二人の間を支配する。

「それじゃぁ、どうしましょうか。詳しい事は・・・。」

「あ、あのっ!迷惑じゃないですか?その、家庭教師なんて。」

結花がグスタフの目をみて言う。

言い終えるとまた目線が下になる。

そんなに私と話すのが恥ずかしいのかなと思う。

「いえいえ。そんなことはないですよ。結花さんの家庭教師ができるなんて光栄です。」

やや芝居がかったセリフだったが、それは決して嘘ではなかった。

迷惑どころか、心の中は不思議な明るさに包まれていた。

この気持ちはなんだろうとは思わなかった。

自分でもわかりつつある。

この娘にひかれつつある自分がいる事を。

でも、そうなってはいけないと思う。

なら接触しなければいいのだし、彼女の家庭教師もひきうけなければいいのだが、それもまた彼には出来なかった。

『恋愛はロジックじゃない。』

そんなセリフが頭の中にまた思い浮かぶ。

だけどこれは恋ではない。

そうなってはいけないのだ。

「結花さんは私が家庭教師になるのが嫌ですか?」

「い、いえ・・。そんなことないです。」

少しトーンが落ちた。

顔がまた赤くなっている。

「それでは、私が家庭教師になってもいいですか?」

結花はまだためらっていたようだが、やがて、

「はい。」

と返事をした。

「では、よろしくお願いします。」

そういって手を差し出す。

「こ、こちらこそ。」

結花はその手を握った。

思ったよりも結花の手は小さかった。

握手を終えるとグスタフがいった。

「それでは、詳しい事は部活が終わった後に話しましょう。

そうですね・・・・、部活が終わったら昇降口で待ってますから一緒に帰りましょう。

そこでこれからどうするか話しましょうか。」

結花は「はい」と今度ははっきりといった。

「では、また部活の後で。」

そういってグスタフはかばんを取りに自分の教室に戻っていった。

気持ちよ晴れた初夏のある日の午後。


以下注釈です

注1:ウィーン

ヨーロッパの中央にあるオーストリアという国の首都。

別名「音楽の都」。

モーツァルトやベートーヴェンなど偉大な音楽家を生み出した。

現在でもウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(略称:VPO)という世界一のオーケストラを持つ。

またオペラ座なども多く、まさに音楽の都と呼ぶにふさわしい。

もともとはハプスブルク家の王都であり、シェーンブルン宮殿など数多くの壮麗な建物がある。

この街で売っているザッハトルテは絶品。

注2:ベルキス

オットリーノ・レスピーギ(1879〜1936)作曲のバレエ組曲「シバの女王ベルキス」の事。

バレエ自体は80分にわたるが、その中の数曲を抜粋して、4曲、20分程度の組曲となっている。

第1曲から順に、「ソロモンの夢」「戦いの踊り」「ベルキスの暁の踊り」「狂宴の踊り」となる。

吹奏楽では非常にメジャーな曲で、コンクールで度々演奏される。

コンクールの場合、時間制限がありたいてい7分くらいにおさめる必要があるため、さらに抜粋して演奏する。

音楽自体は金管・打楽器が非常に活躍する。

元々はオーケストラの曲で、弦楽器があるが吹奏楽版でも弦楽器がないとは思えないほどの演奏が可能。

難易度も高く、高いレベルの演奏水準が求められる。


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