言葉は無力だ。





[[[言霊交差]]]






「う〜…」

 物凄い形相で、シリウス・ブラックは唸っていた。
 場所はグリフィンドールの談話室。その手に持つのは小振りの羽ペンと日刊預言者新聞。

「目潰し魔法…は、違うのか…んじゃflash…ダメだ、合わない」

 整った眉をきゅっと寄せ、ブツブツ言いつつ紙面と睨めっこ。
 いつもの様に一番座り心地の良いソファに長々と寝そべり、うつ伏せの体勢で肘を立てている。預言者新聞を縦にしたり横にしたりして唸り続ける様は、真剣に悩んでいるらしい本人には悪いがとても滑稽だ。

 だが、グリフィンドールの寮生達はここ数日続いているその光景にすっかり慣れっこになっていた。

「わかんね……うぅー」
「シリウス」
「んー」
「シリウス」
「糞ッ、何なんだー!? ああっわからねー!!」
「シリウスってば!」
「…んだよジェームズ。っせーなァ…邪魔すんな」

「あのねぇ…君がクロスワードパズルに夢中になって唸りまくるのは勝手にしてくれればいいけど、僕の膝の上で悶えるのはやめてくれない?」

 そうなのだ。
 シリウスは長椅子に座る親友の膝をクッションよろしく抱え込み、太腿に頬を擦り付けては眉間に皺を寄せ苦悩の表情を浮かべていた。飛行術で鍛えられた大腿筋は、柔らかいとは言い難い。その筋肉にグリグリ額を押し付けて妙な声を出す様は確かに悶えているようにも見える。

 実に奇怪な光景だが、美貌の誉れ高い麗人がやると怪しいというより妖しい。

 いくら何より近しく多くの秘密と様々な感情を分かち合う相棒兼悪友とはいえ、己の股間に向かって「う〜」だの「ああっ」だの言われてはジェームズ・ポッターも心穏やかでいられなかった。
 せめて股間でなく顔を見て欲しいものだ。

「ん、どーしてだ?」
「友よ…言いたくても言えない男心を理解してくれ」
「はぁ?」

 眉間に深いシワを寄せ、わけわからん!とシリウスが態度で示す。
 気まぐれな彼はそれも一瞬の事で、起き上がると親友に預言者新聞のクロスワードパズルの頁を見せた。
 
「なぁ、ジェームズこれわかるか?」
「どれどれ」

 ジェームズは、やっと自分の膝から退いてくれた相手にホっとした様な残念な様な気分。示された縦の鍵の欄に視線を落とせば、簡潔な活字が印刷されている。


『人はこの魔法にかかると盲目になります』


 ははあ、アレか…と合点する。確かに勉強はできてもちょっぴりお馬鹿さんでとっても鈍いシリウスにはわかるまい。
 ジェームズは意地悪気にニヤリと笑った。心底バカにした笑顔で。

「君、こんなのもわかんないのかい?」
 馬鹿じゃない?

 案の定、沸点の低いシリウスの機嫌線は目に見えてナナメになった。
「じゃあ、テメーはわかんのかよ」

 グリフィンドール一の癇癪玉の不機嫌な低い声に、周囲の生徒達が身構える。
 シリウス・ブラックという少年は普段は気のいい奴だし、鑑賞と絶賛に値する素晴しい美貌とクルクル変る豊かな表情で目を楽しませてくれる。本当に良い男なのだ。
 一般常識の欠落と、あの気性の激しさがなければ。

「もちろん。本当にわからない? すっごく簡単だよ」
「ううう」

 自分が散々考えても導き出せなかった答えを、この眼鏡の親友は一瞬でわかってしまったなんて非常に面白くない。シリウスはくちびるを尖らせて唸った。
 素直に相棒に答えを訊くかどうか、真剣に悩んでいるのだろう。プライドとクロスワードパズル熱に挟まれて葛藤する様が、ジェームズには手に取るようにわかった。

(可愛いなぁ…)

 やるからには完璧を目指すシリウスだ。パズルは全部埋めたいが、自力で解きたいに違いない。
 悔しげなグレイアイズが日刊預言者新聞と、ニヤニヤ笑いの相棒の顔の間をうつろっている。長い睫毛を伏せて紙面を睨んでいたかと思えば、困った様子で伺うようにジェームズをチラリと窺う。

(…君は負けず嫌いだもんな。耳の先とか赤くなっちゃって本当に可愛い)

 形好くカーブを描く耳殻に齧りつきたい衝動に駆られるが、余計に怒らせそうなのでぐっと我慢。最愛の親友を手に入れないまま、この世とお別れするのは御免こうむりたい。

「…ヒント寄越せ」

 そう来たか。

「タダで?」
「くそ…っ、レポート一つ」
「魔法薬学のな」

 シリウスの表情が苦味を増す。クロスワードパズルの鍵のヒント一つには、あまりに手痛い代償だ。
 唇を噛んでぐるぐる唸る相棒に、ジェームズは譲歩した。

「じゃあ、キス一つ」

 周囲に聞こえないようにそっと囁く。

 シリウスの耳がますます朱に染まった。キツイ視線がジェームズを睨みつける。
 彼には事あるごとに、こうして冗談交じりに接吻を求めてくる相棒の意図が理解できない。キスそのものは嫌いではないし、親友とするのも吝かではない。男だけど。
 たとえ相手が男で感情が伴っていなくてもキスはキスだ。唇による身体的接触で感じられる親密さは気に入っている。シリウスは人に触られるのは大嫌いだが、触るのは好きだった。
 誰かの体温は安心するものだ。

(ジェームズ見た目も上等だしな)

 整った眉に大きめの涼しい目、高めの鼻、意志の強そうな唇が端整な輪郭にバランス良く配置されている。
 身長は平均より少し下だが足が大きいので確実に伸びる。まだ成長途中で不恰好な部分もあるが、よく運動する身体は引締まってて贅肉のカケラもなかった。
 だからこそ、不思議で仕方ない。

(どーして俺なんかとキスしたがるんだコイツ…)

 学年首席の相棒は、それはもう引く手数多だというのに。シリウスは気に入る相手がいれば付き合ったりしているが、ジェームズにはそういった様子はあまりない。謎である。
 もしやパブリックスクール旧き悪しき伝統のアレなのだろうか? 女子がいるにも関わらず?

(うー…くそ、俺を女扱いか!?)

 基本的に単純でストレートなシリウスが行き着く答えはそこだった。シリウスにとっては誠に腹立たしく、ジェームズにとってはかなり歯痒い結論だ。
 それでも、キス一つでヒントが貰えるならば魔法薬学のレポートを二つ書くよりは……と腹を括る。
 深く険しい皺を眉間に刻み込み、シリウスが地を這う低音で言う。

「ここじゃ、駄目だ」

 限りなく不機嫌ではあるものの、了承を示す返事にジェームズは踊る胸をおさえた。
 最初に無理難題をふっかけて少し譲歩案を出せば簡単に釣れるだろうとは思っていたが、こうも上手くいくと笑いが止まらない。

 あのブラック家で帝王学を叩き込まれただろうに、あまりに世間ずれしていなくて可愛すぎる。
 表情を隠せない。駆引きに慣れていない。馬鹿の所以だ。

「じゃあ何処ならいい?」

 しばし逡巡したシリウスが挙げた場所は、グリフィンドール寮塔から程近いホグワーツ城の空き部屋の一つだった。
 彼等は透明マントを被って夜な夜な校内をうろつくのが大好きで、その探検の折に見つけたものだ。確かにそこなら滅多な事では人も来ないだろうし、秘め事をするには持って来いである。
 ジェームズにとってはまさに飛んで火に入る夏の虫。

(今日こそ何とかその気にさせて、二人きりの甘い時間を…)

 シリウス・ブラックと自分は固い友情で結ばれている。にも関わらず、相棒の中に決して踏み込めない闇があると気付いたのはいつだったか。
 最初は、彼をもっと知りたい、もっと近づきたい―ただそれだけだったと思う。ごく単純に、水臭い奴だな…程度だったかもしれない。

 相棒の事で、知らない事があるなんて我慢ならない。

 ジェームズがそう思い始めた時から、何らかの歯車が狂ってしまった。
 欲しくなってしまったのだ。シリウスの何もかもが。

 趣味嗜好はほぼ完璧に把握したし、高慢で猪突猛進な性格も大凡は掴んだ。絶対的な信頼と無二の親友という立場もおそらく不動のものだ。
 あと足りないのは、この激情をぶつける為の肉体。

 現時点では性欲からくるものではなかった。多分、支配欲と興味だ。
 暴力と紙一重のその欲求は、行き過ぎた憧れによる相棒への神聖視と子供っぽい独占欲との天秤で、微妙な均衡を保っている。
 シリウスの体が欲しい。けれど無理強いはできない。

 限りなく恋情に似ているが、抱きたいというより撫で回して弄くって反応を見たいという気持ちが強い。彼はどんな風に乱れるのだろう。
 幸いスキンシップはお互い好きだ。入学したばかりの頃は極端に触れられるのを嫌っていたシリウスを、この手に馴染ませるのには苦労したものだ。それも楽しかったが。
 あの直感と三大欲求だけで生きてる様な相棒の事、なんとか雰囲気で持っていけば望みは叶うのではないだろうか。

 不埒な闘争心を燃え上がらせているジェームズの内心など知らず、シリウスは隣でチェスに熱中していたリーマスとピーターに一声かけて、日刊預言者新聞を手に席を立つところだった。思い立ったら即行動なのだ。

「何ボーっとしてんだ? 早く行こうぜ」

 長椅子に座ったまま思考を飛ばしていたジェームズが我に返る。
 不審そうな目付きのシリウスが、杖腕を差し出していた。

「ごめんごめん。行こうか」
 躊躇せず手を掴んで立ち上がり、次の一手を考えるのに夢中なピーターの頭越しにリーマスに視線を送る。鳶色の瞳に浮かんだ不穏な光は一瞬で消え、穏やかな微笑みに見送られた。

(悪いな)

 作り物の微笑に唇を歪めるだけの笑みで返し、シリウスの手を握ったまま談話室を横切っていく。
 仲良く手を繋ぐ彼らに、

「これからデートか?」
「フィルチに見つかんなよー」

 などと揶揄の声がかかる。常に二人ベッタリなのでこの手の揶いはいつもの事。
 馴れたもので、冗談の応酬を楽しみながら悠々と寮生達の間を擦り抜け、太った貴婦人の肖像画を通り抜けて空き部屋に向かった。

 暗く細い廊下を進む中、何が楽しいのかシリウスは繋いだ手を前後に揺らしている。スキップでも始めそうな雰囲気だ。
 口もとにうっすらと笑みを刷き、相棒の顔を見ては目が合うと少し頬を染めて笑みを深くする。

「御機嫌だね」
「ワクワクしね?」
「うーん…」

(君の態度が可愛くてどきどきします)
 とは流石に言えない。いくら厚顔無恥と評されるジェームズでも。

「こう、二人で歩いてさ、これから誰も知らないトコ行くんだと思うとスゲー楽しい!」

 俺たちだけのヒミツだなと歯を見せて笑うシリウスは、どこからどう見ても同じ男なのに何故こうも心音を掻き乱されるのか。
 背だってジェームズより高いし、声だってジェームズより低いし、脚だってジェームズより長いし、可愛いと感じる要素なんか無い筈だ。
 相棒は格好いい。しかし、それ以上に可愛らしいと思う。

「お前は楽しくねーの?」
 返事を返さない親友に焦れたシリウスが、不思議そうに、少し不安げにグレイアイズを翳らせる。
 そんな顔をさせるのは本意ではない。

「君といると楽しいよ」

 途端、ぱぁっと華やぐかんばせ。

「へへへ。俺も」

 淡い銀灰の瞳が細められ和らぐ。
 白い陶器の様な頬に淡く紅がさす。
 繋いだ手がきゅっと強く握られる。

 まるで眩暈に似た酩酊感。
 階段に差し掛かり少し上を歩いていたジェームズは、親友の笑顔に見惚れたのだと意識する間も無く綻んだ相手のそれに唇を重ねていた。
 下手に動くと階段なので危ない。シリウスの片手は日刊預言者新聞と羽ペンでふさがっていて、もう一方の手は繋いだまま動かせない。

 ろくに抗う事もできず呆然と立ち竦む。
 密着してるわけではない。繋いだ腕の距離だけなら、多少危険を冒せば逃げられる。
 それでもシリウスが離れないのは、同意しているからだ。
 本当に嫌なら、新聞を放り出して殴ればいい。

「…馬鹿! こんなトコで…っ!!」

 無神経な相棒への罵倒は再び唇によって遮られた。
 抗議も悪態も全てジェームズの口の中に吐き出され、まともな言葉となって鼓膜を震わせることはなくただ無意味な音声と湿った音だけが静まり返った暗い階段に響く。

 技巧に長けた口付けとは言い難い。唇を吸い、舌を擦り合わせ、時折熱い息を吹き込み合う。
 ただそれだけでも、十分過ぎる刺激だった。シリウスは首筋まで真っ赤になっていた。
 階段一段分上向かされた白い喉を唾液が伝い落ちていく。漸く長い接吻が終った時、互いの呼吸は少々あがっていた。

「鍵のヒントだけど…」
「お、おう」

 相棒の顎に残った跡を拭いながら当初の目的を切り出す。まだ目立たない喉仏が微かに上下する。

「人は誰でも、例えばマグルでもこの魔法を使える」
「そうなのか!?」
 予想だにしない言葉に、シリウスは階段の真ん中という事も忘れ大声で聞き返した。

「うん。勿論、君も、僕も」
 にこりと笑うジェームズ。
 対して唸るシリウス。サッパリわからない。
「もっとヒントいる?」
「くれ」

「じゃ、今度はココね」
 ニヤっと口端を吊り上げ、顎の下に鼻先を突っ込んだ。首の柔らかい皮膚を食む。
「…ぁっ」
 僅かに漏れる声に湧き立つ衝動を抑えて、ジェームズはまた相棒を正面から見下ろした。

「僕はその魔法にかかりたいと思ってる。
 ひょっとすると、もうかけられてるのかもしれない…シリウス、きみにね」
「お、俺に!? 何もしてねーぞ!!」

 シリウスには、ジェームズに何か魔法をかけた覚えなど全くなかった。
 盲目になるような危険な呪文を、相棒にかけたりするものか。喧嘩ならともかく。
 なんなんだその魔法は。

「スペシャルヒント、いる?」
「いる!」
 俄然興味が湧いて、好奇心の命じるまま相棒の巧みな誘いに乗ってしまう。

「次はココかな」
 嬉々としてジェームズはシリウスの頬に口唇を寄せた。紅潮した肌をペロリと舐める。
「ひゃッ!?」
 味はしなかったが、相棒の愉快な反応に満足。

「現在進行形で、僕はシリウスにこの魔法をかけている」

 ついでのように、繋いだ手にも唇を落とした。
 顔を顰めてそれを見ていたシリウスは、ますますわからなくなって眉根を寄せる。

「…なんだよそりゃ、全然わかんねぇ」

 ニヤニヤと甲や指に歯を立てたり舌を這わせたりしている物好きな相棒を睨み、自分の手を取り戻そうとするが、確り掴まれているので無理だった。

「降参するかい?」

 勝ち誇ったように高い位置から覗き込んでくるヘイゼルアイズに、シリウスは心底悔しそうに唇を噛んで唸った。
 ここまでヒントを貰っておいて今更白旗なんて自尊心が許さない。だが、どう考えてもわからない。
 誰にでも使えて、現在相棒にかけられているらしいアルファベット四文字の魔法の単語。

「…………んだ」
「んん? 聞こえないよー?」
「降参だッ! さっさと答え教えろ!!」

 ジェームズはやっと繋いだままだった手を放し、両腕で愛しい相棒を抱きしめた。低い位置の背中に手の平を這わせ、力を込める。
 布越しに伝わる高めの体温や僅かに身じろぐ筋肉の動き、発展途上の瑞々しい感触が最高だ。

「ジェームズ、何して――」

 抗議の声を無視し、今度こそ我慢せずにジェームズは綺麗なカーブを描くシリウスの耳殻に齧りついた。
 闇色の髪の良い匂いが、嗅覚をくすぐる。想像していたのよりもずっと素晴しい舌触り。
 息を詰めて硬直する親友に、静かに囁く。

“Love”

 激しい動揺の気配。
 気にせず赤く染まった耳朶を口に含み、歯で挟んで舌先で嬲る。離れようともがく手も捩られる体も、全力で腕の中に閉じ込めた。

「あっ…ふぁ、はっ放せ…! よく考えろ、男同士だぞっ!?
 俺には、心の準備が……!!」

 どうやらシリウスは何か勘違いしているらしい。ジェームズは笑いを噛み殺すのに必死だった。
 仕方なく耳を開放し、抱きついたまま相棒と視線を交わらせる。

「シリウス違う」
「…あ、冗談か。マジでビビった…」
「いや冗談じゃなくて」
「じゃあ本気か!? ジェームズ悪いが俺は…」
 ゲイじゃないぞ、と続けようとする台詞を呆れた相棒の声が遮る。

「あのね、いつ僕が君を好きだって言った?」
「俺が嫌いなのかっ!?」
 混乱しているシリウスは既に涙目だ。

「そんなわけないだろ!
 loveがクロスワードパズルの鍵だよ!!」

 いっそ嫌いになれたらどんなに楽か。
 ものわかりの悪い想い人を持つと苦労させられるものだ。

「…んだよ、一瞬本気にしちまったじゃねーか!」
 心から安心したように、ほぅっと息を吐き出すシリウスが、ちょっとだけ憎い。ジェームズ自身、自らの気持ちを掴みかねている以上あまり真に受けられても困るのだが。

「残念?」
「馬鹿野郎」

 シリウスは不機嫌そうに目を逸らしてしまった。
 それでも抱きしめられたままでいる相棒に勇気を得て、少し大胆な事を言ってみる。

「好きだ」

 弾かれた様に淡い灰色の双眸が親友を凝視する。
 徐々に鋭さを増す視線を、ジェームズは真っ直ぐ受け止めた。間近にある互いの顔の間で、静かに眼差しが交錯する。
 痛い様な沈黙の後、漸くシリウスが口を開いた。

「…俺も好きだぞ?」

 僅かに首を傾かせ、何を今更といった風に不思議そうな響きすら滲ませて告げる。
 仄かな狂おしい光がヘイゼルの瞳の奥に過ぎった。
 捕らえた長身を乱暴にかき抱く。骨まで折れそうなきつい抱擁。

「ジェームズ痛ぇ…」
「そういう意味じゃなくて。僕は、君が―」
「わー! わー! わー!
 俺は知らねぇ!! 何も聞いてねぇ!!!!」

 本当に聞かなかった事にしたい。何の冗談だ。
 気のせいだ。気のせいという事にしておこう。シリウスは誓う。

 ジェームズがやたらベタベタ触ってくるのも、お互いキスが好きなのも、全てただのスキンシップだ。
 心の平穏の為にはそれが一番だ。
 相棒みたいな男相手に好いた惚れたなんて話はとても不毛だ。

「俺は、知らないからな」
「……ずるいぞ」
 胸に顔を埋めてしまったシリウスの頭を、仕方なしに撫でる。すっぽりと掌で包み込めてしまいそうな程、頭蓋骨が小さい。
 ジェームズは普段では有得ないこの体勢を甘受する事にした。眼下に黒い旋毛が見え、階段にこっそり感謝する。
 なめらかで滑りの良い髪は指に絡まる事なく零れ落ち、気持ちが良かった。



 あやふやで頼りない、聞く程に不安になる言葉より、目を閉じて相手の鼓動を聞くほうがいい。
 矜持や意地や照れよりもっとやっかいなものが邪魔して上手く紡げない言葉なら、眼差しひとつの方が余程雄弁だ。

 でも、何よりもそんな風にもどかしい態度で胸の内の全てを読み取られそうで怖い。

 まだ少し赤面しているシリウスが、ジェームズの胸から顔をあげて言う。
「もう一度、キスしよーぜ」
「どういう風の吹き回し?」

 嬉しい驚き。無論断る理由などない。
 綺麗に落とされた目蓋にまず口づけ、薄く開いた唇を味わおうと唇を寄せ……どこからともなく聞こえた咳払いに、固まった。

「…あー、君たち? それ以上はどうか二人きりの時にやってくれないかな?」
「仲がよろしくて結構ですこと」
「羨ましいねぇ〜!」

 苦虫を噛み潰した様な顔をしているのは老紳士の肖像画。
 何故か楽しげな少女の肖像画。
 揶揄の口笛を吹いているのは音楽隊の肖像画。

 彼らは、ここが階段の真ん中である事を失念していた。

 ジェームズは自分の失態に内心舌打ちする。
 折角いい雰囲気だったのに…それもこれも、魅力的すぎる相棒の笑顔がいけない。もっと自制心を鍛えなくては。
 つらつら考えていると、項垂れてふるふると震えていたシリウスが突然大声で提案した。

「…ジェームズ! こいつら纏めて燃やそう!!」
「馬鹿シリウス、いくらなんでも駄目だって!」
「じゃなきゃ忘却術だ!」
「肖像画に効くのかな? …って、こら! 杖をおろせーっ!!」


 どんな言葉を重ねてもこの調子。
 言葉なんて何の役にも立たない。

 彼らの間では、同じ響きを持つ言語が全く違った意味を持って成立するのだ。
 それはまるでクロスワードパズルの縦と横の鍵の様に、交わる事はあっても重なる事は無い。

 人と人の距離を埋めるもの、心を動かすものは言葉だけとは限らないけれど。

 シリウスがどうしてもわからなくて、一瞬でわかったジェームズにも扱いかねる縦の鍵。





 ――人はこの魔法にかかると盲目になります。


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