――――――、0
私立祁承学園の校舎は倒壊寸前だった。もっとも、それは僕が受験を受けるときにはじめて校舎を見たときの感想であり、実際は倒壊寸前の寸前だった。
歴史と伝統が物理的に刻まれているこの校舎は、今年で創立百周年を迎える。無論百年もの間建て替えを一度もしなかったわけではないだろうが、しかし百年前に作られたものだと言われても誰も疑いはしないだろう。それ程に老朽化が進んでいるのである。
最近では、屋上のフェンスが遂に姿を消した。たった一枚だけ屋上の一角に立ち竦んでいたが、それは錆び付いていてフェンスとしての効果を失っており(というか囲んでいない時点で効果はないと言っていいだろう)、ただのオブジェと化していた。何でこんな無意味なものをいつまでも残しておくのだろうと生徒も教師も思っていた矢先のことだ。突然の暴風がこの地区の全域を襲撃し、その被害でフェンスは遥か彼方へと飛び立っていってしまったのだ。
こうして屋上は丸裸になった。のちに職員会議で生徒の屋上への立入禁止が決定した。
屋上の扉は南京錠できっちりと閉じられており、それからというもの誰ひとりとそこに近づく者はいなくなった。
僕と、音霧伊織を除いては。
「今日もいい天気ね」と、伊織は無表情のまま空を見上げた。どんよりと分厚い雲に覆われた空は決して『いい天気』と呼べるものではない。今にも泣き出しそうに歪んだ雲からは五月のものとは思えないほど冷たい風が吹いてくる。
正直、僕は滅入っていた。
確かに昼休みになればいつもこうして夕顔と一緒に屋上で昼食を共にするが(それを可能にしているのは僕のピッキング―――つまり鍵開け術だ)、わざわざ今日みたいな日まで屋上に来ることはないだろうと思う。伊織にそれをいうと、「だって、二人きりになれるところはここしかないじゃないの」と冷たく笑われる。断っておくが僕たちは恋人同士とかそんなんじゃない。友達―――だとは思うが、それも少し特殊な友達である。
「そういえば、今日、月宮黎くんが欠席だったわね」
「月宮?―――誰だいそれは」
「あなたって本当に他人に興味がないのね。普通、クラスメイトの名前と顔くらい覚えているものよ?」
「普通って―――普通ってなんだい?」
僕がそう云うと彼女は溜め息をついた。僕がそう言い返すのはいつものことだ。彼女もそれは分っているのだろうけど、ついつい口を滑らせてしまう。伊織は額を人差し指で押えた。僕はそんな彼女の困った時の仕草が好きだった。
「それで、その土宮くんがどうかしたの?」
「月宮くんよ、月宮くん。彼、最近学校に来てないみたいだからどうしたのかな、と思って」
「なんだ、土宮くんに惚れているのか。君も可愛いところがあるじゃないか。うーん、確かに土宮くんはイケメンな感じではあるよね。クールなところは僕に似てるかな?」
「………。とりあえず、私は月宮くんにそういう感情がないということだけは断言しておくわ。私が男の人を嫌いなのは知っているでしょう?知ってて言うのだからあなたも意地悪よね。……ところで、イケメンって何?」
なんだ、つまらないな。というか、一応僕も男なんだけど。
「僕がクールだっていうのは否定しないんだね」
「そうね。冷めている事は確かだわ。あなたはどこまでも凍りついている」
「それはお互い様だろう」僕はシニカルに笑った。伊織は苦笑した。
「えっと、話を戻すわね。その月宮くんなのだけど、とある情報筋によれば、一ヶ月前くらいに付き合っていた彼女に振られているらしいわ」
「なるほど、確かにそれはチャンスだね。傷ついた彼の心を君が癒してあげるわけか。いや、慰めるの方が語弊はないかな?」
「真面目に聞いて。それでその彼女、その数日後に殺されているのよ。名目上は最近流行っている通り魔によるものだということになっているけど―――」
「まさか、土宮くんが殺したって言いたいのか?」
僕は半分冗談で云ったが、伊織の表情はいたって厳格である。
「そもそもこの通り魔事件の最初の被害者は月宮くんの彼女だっていうじゃない。だからもしかすると、月宮くんはこの通り魔事件と何か関わりがあるんじゃないか、と思って」
「それは女の勘?」
「――――――いいえ、音霧伊織の勘よ」
伊織は冷たく笑った。
彼女の勘は確実に当たる。これまで何度も彼女のそれを聞いてきたが、恐ろしいまでに百発百中なのだ。まるでそれが予言であるかのように錯覚してしまうくらいに。
「だから僕にそれを調べろって言いたいんだろ?あわよくば解決に持ち込めって―――いつものパターンだな」
「そうね。でも普遍的ということは素晴らしいことだわ」
「同時に退屈ということだ」僕は溜め息をついた。どうせ議論しても不毛なやり取りが続くだけだろう、それもいつもの通りだ。どうせ結果的に折れるのはこっちなのだから、今回は速めに了承してしまうことにした。
「さてと、それじゃぁ僕はこれから早速調査に入るよ。だから先生には早退したって言っておいてくれ」
「それもいつものことね。了解したわ」
僕は背伸びをした。頭上には雨雲がどよめいている。本当に気が滅入るが、しかし行動に移さなくては何も起きないということは百も承知だ。
だから、僕は屋上の扉を開けた。
「頑張ってね。期待しているわ、神林燕」
「こういう時ばっかりフルネームで呼ばないでくれよ」
僕は手を振って、伊織と別れた。
「破壊衝動」
――――――、1
退屈な時間はどこまでいっても退屈なままだ。それは何かと悩み事の多くなる思春期というヤツの影響ではない。というか現代を生きる少年少女よ、何でもかんでも年齢のせいにするんじゃねぇ。悪いのは全部テメェのせいだ。
毎日が同じ事の繰り返しで、正直そのサイクルに飽きてしまった。だからこんな世界から抜け出してもっと主体的に生きてみたい。……ってそう思ってるならそうすればいいんだ。学校行くのが面倒なら辞めればいいんだし、会社行くのがつまらないならとっとと辞表出した方が会社の為だし、小説のネタが浮かばないなら筆を執らなければいいんだ。
だというのにそうしないのは、多分自分の立場や名誉など、そういうことばかりに気をとられてしまうからだ。保身的になるな、とは言わない。自分の身は自分で護るのが道理だ。だけれど言っていることとやっていることがあまりにも矛盾しすぎている。こんな当たり前なこと口にしないと解からないのだろうか。まあ、解からないよな。僕にも解からないもの。
そうして退屈な時間は、目覚し時計の爆音と共に始まる。僕はいつも通り右手を上げて振り下ろし、目覚ましを黙らせた。
僕はうつ伏せで寝る派なので、目を覚ましてから呼吸するまでに少しのタイムラグが生じる。ゆっくりと体を起こし、そして立ち上がりながら深呼吸。びりびりと肺が痛い。新鮮な空気は、汚れきった僕の身体には少し刺激が強いのだろうか。ベッドから降りて窓を開けた。狭い部屋だ。一、二歩歩けば部屋の中にある全てのものに手が届く。とはいっても、僕の部屋にはたいしたものは置いていない。箪笥と冷蔵庫とゴミ箱とテレビ。そしてありとあらゆる種類の小説が、今の僕の全財産だった。
朝日が差し込み、宙を舞う埃が鮮明に浮び上がってくる。もともと周りが森に囲まれているアパートなので、電気を点けても薄暗い。だから僕は設置されている電灯には一切手を触れず、自前で買った電気スタンドで明かりを得ていた(これを使うのは夜だけだが)。
時計を見た。午前八時十二分。走れば間に合う時間だ。僕は朝に弱いので朝食をとるほどの気力はない。だから毎朝ギリギリの時間まで寝ているのだ。小さな洗面所の前で顔を洗い、歯を磨き、顔色をチャックする。そしてゆっくりとした動作で制服に着替える。薄っぺらな通学鞄を手にすると、時間は八時二十分ジャスト。
いよいよ走らないと間に合わなくなってきた。それなのに僕ときたら、テレビのスイッチを入れてニュースを視聴し始めた。つくづく馬鹿なヤツだと自覚した。
『―――次のニュースです。昨夜未明、市内の学校に通う女子高生が、帰宅途中に何者かに刺されるという事件が起きました。』今大流行中の通り魔というヤツだろうか。それとも出会い系サイトなるものの仕業なのだろうか。『この事件は最近この地域で続出している通り魔事件と深い関連性があると見られ、警察は同一人物の犯行の疑いが強いとし、無差別殺人事件として調査を始めています―――』ブラウン管には赤黒い血のあとがアスファルトに拡がっている映像が映し出された。僕は欠伸をしながらスイッチを切った。
やっぱり、退屈だ。
このニュースを見ている大半の人間が被害者やその家族に同情していることだろう。そして少数派が、俺なら私ならもっと巧く殺せる、などと思っているはずだ。
そして僕はどちらかと言うと―――
腕時計を見た。八時三十分。マヅイ、これでは完璧に遅刻だ。
僕は午前中の授業は諦めて昼休みに学校に何食わぬ顔で侵入することを決定した。
どうせそれを咎めるのは教師だけだ。両親は既に雲の上に住居を構えているのだから。
俺は玄関を開けて外に飛び出した。迎えてくれたのは春の陽気とは思えないほど強い陽射し。ちゃんと鍵を掛けて、いざどこへ向かおうかと考えたら、急に空腹感を感じた。こんなことは滅多にない。昨日の晩に重労働をしたのが原因なのだろう。仕方がないが、はじめの目的地はコンビニエンスストアに決定した。
僕のアパートはそれこそ森の中だが、数分歩けば大通りに出るという結構便利な場所に位置している。大通りは朝から通勤通学の大人やら子供やらで混雑していた。僕は人込みが嫌いだ。なんて言っていたほうがカッコよさそうだろう?けれど、本当に人込みが苦手なヤツも世界にはいるんだよ。ゴミのように。
そうして人込みを避けるように裏路地へと曲がった。実はこの道はコンビニへの近道であったりもするので結構利用することが多い。電線が張り巡らされた空を眺めながらその薄暗い裏路地を行く。陰鬱な雰囲気だ。今にも悲鳴が聞えてきて血の臭いが漂ってきそうな、そんな雰囲気である。吸血鬼とか出てくるなよな。
その路地を抜けると再び太陽の光が僕の視界を貫いた。反射的に目を瞑り、数秒間経ち尽くした。見えるものは何もない。白く光っているような、黒く翳っているような。まるで夢の中のように心地良く、けれど目を開けば現実が待ち構えていた。交差点の向こうに灰色のビルに囲まれたコンビニを確認した。信号は青だったので急いで渡った。コンビニのドアを開けると、同時に店員の「いらしゃいませ」という渇いた声が店内に響く。中は存外涼しかった。僕は品薄になっている弁当類を眺めながら、それらをきっぱりと諦めてシーチキンのおにぎりを手に取る。そしてつぶあん&マーガリンのコッペパンとパックのお茶を次々に手にした。勿論カロリーメイトも忘れない。
「407円になります」僕はカウンターでぴったり407円を払うと、即行でコンビニを出た。急いで交差点を渡り、裏路地に逆戻り。
断っておくが、別に早く食べたくて急いだわけではない。人目につくのが嫌だっただけだ。
裏路地は大通りとは違っていつも静かだ。黴臭いことを我慢すれば、安心して食事ができる。
僕は早速コッペパンの袋を破ろうとして手を伸ばしたとき、「にゃー」と猫の鳴き声がした。見下げると不吉にも黒猫が僕を見つめていた。右目が金色で、左目が緋色という珍しい猫だ(というかこんな猫いるのか?)。そいつはしばらく俺を見つめたあと、素早く反転して路地を駆け出した。僕はパンをビニール袋に戻して慌ててその猫を追う。黒猫は路地の奥へ奥へと走っていく。そのスピードは凄まじいが、しかし毎朝かなりの距離をジョギング(通学)している僕をあまり舐めてもらっては困る。
――――――ふと、どうして僕は猫なんて追いかけているのだろう、という疑問がわいてきた。
考えても答えは出てこなかった。
これは衝動というヤツなのだろうか。その猫を追いかけたくて追いかけたくて仕方がないのだ。それはさっきまで抱えていた空腹という死活問題よりも優先される衝動であり、喩え餓死寸前であっても僕はこの猫を追いかけなければならないと思えるほどだった。
黒猫はまるで陰のように影の中を走っていく。急なカーブを曲がった所で、僕はその影を見失った。静止して辺りを見回すと、そこは一度も通ったことのない通路だった。どうやら深追いしすぎたらしい、影の上に影を塗ったように真っ暗な世界がここにはあった。
――――――ここは闇だ。
今は朝だというのに、ここは夜のように暗い。太陽からは死角になった、絶対的な闇が支配する世界。残念なことに、僕はこの現状を恐怖とは感じず、寧ろ好奇心を刺激されてしまった。そして自分でも意識しないうちに、ゆっくりと、闇の中を進んだ。
「にゃー」
さっきの猫の声がした。その方向へと歩を進めると、袋小路に辿り着いた。
そこには一筋の光が射していた。その光は一直線に床を濡らしている。その光の丁度真ん中に、黒猫はいた。
―――否、死んでいた。
首は元の位置を忘れ地面に転がり、左右の色の違う眼は抉り出され、四肢も綺麗に切断され、さらに腹を裂かれて内臓が飛び出していた。
完全なる虐殺。
完璧なる殺戮。
この手際のよさは尋常ではない。殺しを殺しとは思わない、道徳と倫理を敵に回した、常識から掛け離れた人間の業。これはもう幾つもの動物を解体してきた、手慣れた者の仕業だと、僕の眼は判断した。
だから、そこから逃げようとは思わなかった。
僕の好奇心は、そこで止まらなかった。止まらなかったからこそ、袋小路の先にいる『そいつ』を見つけてしまった。
影のように黒い服を着た、前髪が異常に長い少年。多分、僕と同じくらいの年齢だろう。身長は僕と同じ170センチくらい。手には、猫を解体したと思われる血の付着したナイフが握られていた。
そいつの口元は嗤っていた。
だから、僕も思わず笑ってしまった。
なんてことはない。そこら辺にいる通り魔と何ら変わりはないだろう。
いや、もしかすれば、その通り魔本人かも知れない。
そいつはナイフの血を下でべろりと舐め、腰にあるカヴァーに差し込んだ。
そうして直立して僕を見つめると、再び口を歪めた。
「――――――――ようこそ、闇の中へ」
――――――、2
僕は予定通り昼休みになってから学校に忍び込んだ。いや、正門から堂々と入ったのだから忍び込んだとは言わないだろう。それでもそれを見て咎める教師や不審がる生徒はひとりもいない。
「遅かったわね」
教室の前まで来て僕が自分のクラスで唯一まともに顔と名前を知っている人物に声を掛けられた。
「急がば回れ、ってね。回り道をしてきたのさ。僕はコツコツと努力をする人間なんだ。大器晩成型ってヤツ。だからじっくりことこと煮込んだほうが上手くいく」
僕がそう云うと、彼女は額に人差し指を当てた。
「屁理屈ね」
「屁理屈も理屈のうちさ」
「それより、調査の方はうまくいってるの?」
調査、というのは勿論事件のことだろう。彼女が口にするのはいつだって血の匂いがする事件のことだけだ。
「それなりに進んでるよ。でも核心に触れるような情報は手に入れていない。今はそれを手に入れる前段階、ってところだね」
「それなりにちゃんと仕事をしているのね、偉い偉い」
なんだかそんな風に言われると、僕は彼女の従順な奴隷のような気がしてならない。そうでなければ犬だ。飼主に忠誠を誓った飼い犬。多分僕の首には首輪がついているのだろう。そして首輪の鎖は彼女がしっかりと握っているに違いない。
おっとっと。そんな被虐的な趣味は僕にはないだろう。何を危ない方向へと妄想をしているんだ。それに僕はどちらかというと責めるタイプなんだ。いや、マジで。
果たして予鈴が鳴った。
僕と彼女は挨拶することなく教室に入って自分の席に座る。僕の席は一番後ろの窓際だ。なんと絶好のポジションなのだろう。窓からは体育着を着た女子生徒を俯瞰することができる。濃紺のブルマから伸びる白い生足だって好きなだけ観察できちゃうのだ。
でも今日は身体的にも精神的にもそんな余裕はなかった。僕は古典的にも教科書を立てて置いてから机に突っ伏した。やがて生徒たちのざわめき声が消えた。教師が来たのだろう。そんなことはお構いなしに僕は睡眠を開始した。思い瞼は瞬く間に睡魔を引き連れて、僕を夢の世界へと誘っていく。
――――――、3
「――――――――ようこそ、闇の中へ」
彼は長い前髪を揺らしながら笑っていた。酷く歪んだ唇が僕に吐き気を覚えさせる。
「誰だよ、あんた」
僕はやっとのことで一言だけ言葉を口にした。
「俺のことなんてどうでもいいんだよ。俺はお前に興味はないし、お前だって俺に興味ないだろ?俺たちは他人同士だ。きっと、人生が終わる時まで他人のままなんだよ。だったらそんな疑問を口にしないほうがいい。そんな暇があったら、逃げるとか、殺そうとするとか、俺を視界から消そうと考えた方が懸命だ。俺はそれだけ危険な存在だよ。お前にとっても、世界にとっても」
「―――――世界……?世界だって?」
「そうだ。俺は世界の終末を望む者。終末を嗜好する者だ」
「それなら自殺をオススメするよ。それなら一発で世界が終る」
彼はやれやれと大仰に肩を竦めて見せた。
「そうじゃないんだよ。俺が望んでいるのはあくまで第三者的視点から見た『世界』の終末だ」
「つまり、他人の末路、ってことか?」
「その通りだ。お前、見かけによらず頭がいいな」
なんだ。
結局こいつも同類か。
「だったら、僕も殺すのか?」
「殺してほしいのか?」
「―――――いいや、今はまだ。今はまだ、やらなければいけないことがある」
「そうか。ならその短い命を精々楽しむことだな」
「言ってくれるな」
僕たちは笑いあった。
そして別れた。
◇
――――――そうだ。僕にはやらなくてはいけないことがある。
それを自覚していてなお、今まで実行に移さなかったのは何故なのか。それは僕が臆病だったからだ。弱くて脆い刃では斬ることはできない。けれど、それを磨けば立派な凶器になる。僕はそれを知っている。だからこそ、今まで長い間刃を磨き続けてきた。そして伊織に出逢った。彼女は魅力的だった。一目惚れだった。彼女のミステリアスな雰囲気はまさに自分の嗜好とも合致し、ふたりで殺人事件のことについてなどを語り合ったことも少なくない。だけれど、未だに友達同士の関係だった。それがくやしい。自分が臆病なせいで未だにその先へと進めないでいる。
―――だから。
僕はその一歩を踏み出そうと思った。
いつ死んでしまうかもわからないこの世界だ。ならば好きな人に好きだと伝えることくらい、罪にはならないだろう。そしていつまでも彼女の近くにいたいと思う。
ずっと。
終末がやってくるまで。
ずっと。
ずっと。
「――――――」
僕は目を開けた。
気が付けば既に放課後だった。一体何のために学校に来ているのかわからない。けれど、そんなくだらないことを思考する暇はない。もっと切実な問題がある。
勇気を振り絞って、僕は立ち上がった。
まだ自分の席に座っている伊織に近づいて声を掛けた。
「伊織、このあと時間あるか?」
彼女がこちらを振り向いた。その拍子に目が合ってしまった。
どきり。
なんだ、目が合ったくらいで。僕は中学生か。
けれど伊織の突き刺すような冷たい視線は、僕を掴んで離さない。
澄んでもいなく、濁ってもいない。
ただ、冷たいだけの瞳。
漆黒の髪。
白すぎる肌。
淡い桃色の唇。
何もかもが魅力的で、何もかもが僕を昂奮させた。
「―――えぇ。一応暇だけど。何か用事があるの?」
「うん。事件のことなんだけどさ。ちょっと相談したいことがあって」
「そうなの。別に構わないけど。それじゃあ、屋上に行きましょうか」
屋上………。なんて都合がいい。教師すら近寄らないあそこは、正しく絶好の場所である。
「そうしようか」
僕は笑顔で答えた。彼女は笑わない。
その無表情な顔も、またお気に入りだった。
僕たちは鞄を持って階段を上がった。南京錠はいつもどおり僕が専用の道具で開けて屋上に出た。雲行きもいつも通りで、灰色に歪んでいた。雨が降っていなければ、それでいい。
風が吹いた。春の香りを含んだそれは伊織の髪を靡かせ、スカートをはためかせた。短いスカートが揺れ、白い太腿が余計に露出する。けれど伊織は一向に気にする気配を見せない。
僕は唾を飲み込んだ。
まるで、僕を挑発しているような、魅了しているような、彼女の態度。
今すぐにでも抱きしめてしまいそうな衝動を抑えて、僕はズボンのポケットに手を入れた。
「それで、相談っていうのはなに?」
伊織は僕を見つめてきた。僕も慌てて見つめ返す。
沈黙。
見つめ合う、というよりも、彼女が一方的に僕を睨みつけているような気がしなくもない。
僕は沈黙に耐えかねて、本題を切り出すことにした。
「―――ごめん、嘘ついた」
「え?」
伊織は驚いた。当たり前か。
「実は事件の相談なんてないんだ」
「どうして、そんな嘘を?」
「ただ、君と二人きりになりたかっただけなんだよ」
彼女はまた驚いた。
いつもなら何があっても変わらなかったその表情が―――今は一人の女子高生としての顔になっている。動揺しているのだろう。
「それって、どういう意味?」
「僕が、君を好きだって意味だ」
その言葉は思った以上にすんなり云えた。
実は僕って結構根性があるんじゃないのか、と自分で吃驚した。
それ以上に、伊織が吃驚していた。
そして同時に―――微かではあるが―――頬を赤らめていた。
再び沈黙。
前のとは違い、今度は緊張も混じった静寂だった。
心臓が暴走し始めた。伊織に聞えてしまうのではないかと思えるくらい激しく鼓動している。表情はあくまでいつもの自分を装うとした。成功しているか失敗しているかは別として。
「わ、私は―――」
伊織が口を開いた。
「私は、私も、好き、よ。好きです」
世界が凍りついた。
その口調には冷たさはなかった。どちらかと言えば熱を感じさせるほどの口調だった。
けれど、世界は凍結した。
僕の頭の中は真っ白になった。
今度こそ、僕たちは見つめ合った。
「伊織」
今にも折れてしまいそうな華奢な身体を抱きしめると、柔らかな乳房が僕の肋骨にぶつかってきた。
そしてどちらかということもなく、僕たちは互いの唇を求め合った。
長い、永い、キス。
互いの存在を確かめ合うかのように、夢中で唇を貪り続けた。伊織の両腕もきつく僕を締め付けてくる。
二人は、確かにここにいた。
唇が離れると、僕は優しく彼女を屋上の床に横たえた。
伊織は怯えたような表情になった。
「あ、床、冷たかった?それとも硬くて痛い?」
「ううん、違うわ」彼女は瞳を逸らした。「ちょっと、緊張しただけ」
「あぁ―――。ごめん。思ってみたら、了承を取ってなかったね」
「え、あ、ち、違うわよ。え、えと、その」
「なに?」
「う、あ、その……。して、いいよ」
今度こそ、伊織の顔は真っ赤になった。初々しい女の子の顔である。
僕は彼女の後頭部に左手を回して、もう一度キスをした。同時に右手でセーラー服のリボンを解く。
「ばんざいして」そう言うと彼女はそれに従って両手を挙げた。僕は丁寧にセーラー服を脱がしていった。するとブラジャーに包まれた彼女の胸が露出した。思わず唾を飲み込んだ。続いてスカートを脱がした。靴下は黒のニーソックスだったので脱がすのをやめた。下半身を覆い隠している下着は思ったより子供っぽい白の下着だった。僕は震える手で下着を脱がした。そうして彼女は丸裸になった(靴下を除く)。
伊織はどこを隠してよいのやらといった感じに両手で自分の身体を抱きしめた。白い素肌とは対照的に、首から上は真っ赤だった。
「あ、あの、えーと」見違えるように彼女は静かになっている。ほら見ろ。僕は責めるタイプなのだ。
僕は無言で乳房を手のひらで包んだ。
「やわらかい」
「硬かったらヘンでしょう………あッ」
ゆっくりと、胸を揉んでいく。回すように、ゆっくりと。
「私の胸、小さいでしょう?」
「ごめん、よくわからない。他の胸と比較できるほど僕はデータを持ってないから」
僕は乳房の中央にある突起を口に含んだ。たいした知識がないのでよくわからなかったが、多分こうするので正解のはずだ。そこを舌で責めはじめると、彼女は喘ぎ声を上げはじめた。
乳首を責めながら性器に右手を伸ばした。割れ目はしっとりと濡れている。
「そろそろ、大丈夫かな」
唇を離し、僕は呟いた。
「え―――?えーと、その、するなら、もう少ししてほしい、かな。でないと、痛いと思うから」
彼女は視線を泳がしながら、しどろもどろにそう言った。
「大丈夫だよ」
僕は笑った。
笑いながら僕自身をズボンから取り出す。
「すぐに終わるから」
そして。
伊織の咽喉笛を切り裂いた。
◇
彼女の顔は、目を見開いたままで停止した。「ぐりゅぷぶっ」と奇声を上げて咽喉から血を吐き出した。その鮮血は僕の身体を赤く染めた。白かった彼女の肢体も赤に侵蝕されていく。
僕は僕自身とも言える、血に濡れたコンバットナイフを握ったまま、射精した。
ぞくぞくぞく、と背骨を快感が駆け巡る。
「は、は、ははははははははははははは、は、」
やった。
ついに、やった。
彼女を。
伊織を僕のものにできた。
笑いが止まらなかった。
快感が止まらなかった。
これだ。
僕が求めていたのはこれだ。
見ず知らずの女たちを切り刻むだけでは足りなかった。
僕の枯渇した欲望を治めることは不可能だった。
このせり上がってくる破壊衝動を制御するには、もっと快感を味わえる人間を殺す必要があった。
そして遂に成し遂げた。
やはり、伊織は素晴らしい快感を僕に齎してくれた。
あぁ、彼女を、好きになってよかった。
でもまだだ。
まだ終わらない。
ナイフで彼女の冷たい目を突き刺す。こんにゃくゼリーにフォークを刺したような感触。そのままぐりぐりと瞳を掻き混ぜた。両目を潰してから、今度は黒い前髪を乱雑に切った。それを口に含むと、彼女の香りが口内に拡がった。続いて舌。小さな唇から舌を引き出してナイフで切断。分厚い生の牛肉のような、そこに油を塗ったような手触り。それを先ほど潰した眼の中に詰め込んだ。さっき愛撫した乳房も切り刻んだ。片方は細切れにして、片方はそのまま彼女自身の右手に握らせた。左手が余ってしまったので、指を切断してみた。5本の枝のようなものができたので、それを彼女の性器の中にずぶずぶと差し込んだ。
オナニーしている時、多分両手で胸と性器を弄りまわしていたに違いない。だから、手をその部分に還してあげた。その胸を切ったところから刃先を侵入させて肋骨を抉った。尖った骨が肉を突き破って現れたので、それを引っ張り出してみる。びりびりびりと筋肉の裂ける音がした。一本。また一本と肋骨を引っ張り出す。五本引っ張ったところでやめた。そこからゆっくりと肺と肝臓らしい臓器を取り出した。生まれてはじめてみる人間の内臓。生温かく、血でぬるぬるしていた。胃や食道なんかにも興味があったが、面倒なので取り出さなかった。太腿。白くて柔らかく、思わず頬擦りしたくなるくらい魅力的。ニーソックスを傷つけないように太腿だけを切断した。それを千切りにして先程空洞にした腹の中に入れていく。
そんなことをしているうちに、既に深夜を回っていた。人間を解体するにはかなりの時間が掛かる。僕は彼女の血で濡れた自分の身体を見つめて、再び射精した。
――――――あぁ、なんて、温かい血なんだ。
「伊織――――――君はもう僕だけのものだ。僕だけのものになったんだ」
そして最後に心臓を取り出そうとナイフを振り上げた。
刹那。
「茶番は終わりだ、月宮黎」
冷たい、声がした。
◇
「あ、あんたは――――」
その声の主は、朝、裏路地で出逢った自称・終末嗜好者だった。
黒い服装は完全に闇に溶けていて輪郭を持っていない。ただ獣じみた瞳だけが光を放っているように夜に浮かんでいる。
「無自覚とは罪だな。いや、意識が消滅してしまっている場合、月宮本人は単なる被害者か」
「何の話をしているんだ―――?」
僕の身体はガタガタと震えていた。まるで局部的に地震が起きているかのような錯覚さえ感じる。不安、恐怖、戦慄。足元が、崩れていく感覚。
「破壊衝動の増加。何かを壊さなくては自分の欲望が埋められないという理不尽な感情。君はそのリビドーを膨張させられてしまったんだよ」
「させられてしまった―――だって?」
「あぁ。君の恋人―――九条紫苑によってね」
――――――え?
クジョウシオン?
誰だそれは。
知らない。しらない。シラナイ。
僕はそんな人、知らない。
「ひとつ、いい事を教えてあげよう。彼女、紫苑は生きているよ。お前はお前が彼女を殺したかのように記憶が改竄させられてしまっているようだけど。紫苑は魔術師だ。しかもそれは人間の精神や根源を変改してしまうような魔術を扱う外道だ。だいたいおかしいと思わないのか?一般男子がナイフ一本で人間を解体できるはずがないだろう?それは魔術の力さ」
何を云っているんだ、コイツは。
コイツは、何を。
ナニヲ。
「だから俺はその処理人といったところかな。九条紫苑のような道を外れた魔術師を殺すという目的だけで動く、幇魔機関の一人。勿論、お前みたいな出来損ないの処理も承っている」
僕はナイフをソイツに向けた。
「五月蝿いんだよ―――先刻から―――!」
跳躍。
一気にソイツとの距離を縮めた。
あとは簡単だ。
伊織と同じように首を掻き切って解体してやるだけだ。
その黒を、紅で染めてやる―――。
「低能」
一閃。
煌いたのは僕のナイフではなく、ソイツが持っていた長い闇色をした刀だった。
空気を斬る音とともに、僕のナイフを握っていた手が宙を待った。手首から切断されて、そのままくるくると回りながら地面に着地。先を無くした手首からは夥しい量の血液が噴出した。
「あ、ああああ、ああぁ、ぁああ、あぁ、ぁぁああああああああああ!!!」
喪失感。
絶望感。
痛みより寧ろ、敗北したという実感が、僕の胸を突き抜けた。
「僕は―――ぼぉくぅはぁぁぁああああああああああ!!!」
ソイツは容赦をせず、刀を振り上げた。
「黄泉路を行け、出来損ない」
一筋の黒き閃光が僕の身体を引き裂いた。
目の前は朱く、頭の中は黒く、意識は白く、
死の色に、染まっていった。
――――――、→0
茫洋とした月だけが世界を俯瞰する夜。木の葉から落ちる水滴の音が聞えてきそうな、浩然とした学校の校庭の隅で、ひとり立ち竦む影があった。
墨を流したかのような長い黒髪と鋭利な視線。幼さもあどけなさもない少女には、なぜだか黒のセーラー服が似合っていた。
ふと、彼女は学校から姿を現したもうひとつの影を見つけた。
それはもう正しく影そのものといってもいいくらい暗い姿だった。
「音霧か。なんだ、今回の事後処理に来たのか?」
影が訊ねると少女は溜め息をついた。
「そうなのよ。今回は傍観を決め込むつもりだったんだけどね。鎚山くんと御神楽が九条を取り逃がしたらしくてね。今必至で逃げた痕跡を検索しているみたい。それで処理係は手の空いている私に回ってきたってわけ」
「それはご苦労だな。出来損ないの月宮黎は跡形もなく消えたが、俺がここにくる前にアイツが殺していた死体が残っている。名前は確か―――」
影はズボンのポケットから生徒手帳を取り出した。
「あぁ、そうだ。伊織美樹。俺たちと同じクラスの娘だ」
「そういえば、月宮くんは彼女と結構仲が良かったものね」
「愛情が深ければ深いほど、破壊し甲斐があったのかな。俺にはよくわからないが」
「私だって、化け物の心理なんてわかりたくないわ」
少女は校舎の方に向かって歩き出した。
影も倣って校門のほうに向かって歩き出す。
やがて二人は無言で交差した。
「―――あなたって本当に、学校にいる時と仕事の時だと性格がまったく違うわね」
擦れ違いながら、少女が云った。
「それも仕事のうちだからね。僕は巧く狡賢く生きているのさ」
影の口調が急に変わった。能面のような顔が笑顔で歪む。
「それじゃ、また明日、神林燕」
「こういう時ばっかりフルネームで呼ばないでくれよ、伊織」
そうして今度こそ、二人は自分の進むべき方向へと歩き出した。
The end of "Heartbreaker".
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