神すら触れぬ柔らかい場所
***2***


その日は雨が降っていた。
初めて進藤の家に遊びに行かせてもらうということで、少なからず緊張していた。
「今度うちにも遊びにきたら?」
そう言ってくれたのは、進藤のほうだった。
僕にとっては進藤に少し近付けさせてもらったような、そんな気分だった。
だから雨が降っていて、靴下が濡れやしないかと、少し気がかりになったりした。
進藤は駅まで僕を迎えにきてくれた。前から疑問に思っていたことだったが、進藤はいつも驚くほど大きな傘を持っている。
「進藤…」
「何?」
「君、いつも随分大きな傘だな」
ちょっと進藤くらいの背格好で持つには大きすぎる。すると進藤は何故か困ったように笑った。それはなぜか照れているようにも見えて。
「あー…うん、えっとな。今日みたいな日に二人並んで入れるだろ?便利だからな」
そういわれると僕は自分の傘を使うわけにもいかず、進藤の傘にいれてもらった。少し僕のほうが背が高いから、僕が傘を持った。
歩き出して少したったとき、進藤は僕が傘を持っている手を眺めているのに気づいた。
「…そうだよな、傘って背が高いヤツが持つほうがしっくり来るんだよな」
少し寂しそうな笑顔で、進藤はそう言った。
また分からない。どうしてこんな表情をするのだろう、君は。それも一体何の傷をもっているというのだろう。
傘が大きい分、傘の中に響く雨音も大きい。心に何かが鳴り響くような、そんな感覚に捕らわれながら、僕は進藤の家に向かった。


優しそうなお母さんが迎え入れてくれて、ジュースを持って上がってきてくれた。事前に進藤は僕が来ることを伝えていたらしく、一緒にケーキもついてきた。
「ありがとうございます」
「いえいえ、どうぞゆっくりしていって頂戴ね」
にっこり笑って部屋を去っていった。
「優しそうなお母さんだね」
思ったとおりのことを言うと、進藤は苦笑いしてみせた。
「あんなのよそいきの顔だよ。一年くらい前まではオレが碁で喰ってくのも反対して大変だったんだぜ。すげえ怒鳴られたりしたしな」
「…へえ」
あのお母さんが声を荒げているところは、ちょっと僕には想像できないな。そう思って相槌だけを打った。
進藤はベッドにどさっと腰をおろして、ふと床に座っている僕を見て、悪いと思ったのか自分も床に座りなおした。
「お前んとこはいいよな。親父が名人だったんだもんな、母さんが反対するわけねえよな」
「…まあ、そうだね」
同じ歳で同じように碁のプロな僕たちだけど、育った環境や碁を学んでいった状況は全然違うんだなってなんとなく実感した気がした。
それにしてもこの部屋。
僕はそろりと部屋を見渡す。碁盤と碁笥以外は、どこにも碁を匂わすものはない。
床だってカーペットだし、冷蔵庫に古そうなテレビ、本棚にはよく見れば詰め碁集とか並んでいるけど、負けないくらい…というよりそれ以上に漫画や雑誌も並んでる。
それなのになぜだろう。
ひどく空気に碁が馴染んでいるような気がする。なんというか…お父さんの研究会で使っている部屋のような、碁で染められたような空気。
進藤は一人っ子だし、そうそう対局相手がこの部屋にやってきたとも思えないのだけど。
「さ、せっかく来てくれたんだし、一局打とうぜ」
進藤は僕がきょろきょろしていることもおかまいなしで、碁盤を二人の間に運んできた。僕の返事など聞きもしないで、もう支度を始めている。…そりゃ、打とうといわれて断るような僕ではないけれど。
「うちで塔矢と打つなんて…なんか嬉しいな」
ニギリながら進藤は本当に嬉しそうで、僕も嬉しくなった。
君は僕の永遠のライバル。僕は君の永遠のライバル。
そうありたいから。
だから打つときは自ずと真剣になる。
「お、お前が黒か」
手早く盤上の石を碁笥に収めて、碁笥を交換する。
今日はどんな碁になるだろう。もうわくわくしてくる。それは進藤も同じみたいだった。
「お願いします」
まずは…そうだな。僕は様々な進行を考えながら黒石を持った。
パチリ。
…あれ?
一瞬、その音に違和感を感じた。
「進藤…この碁盤…?」
響きがいつも打っている碁盤とは違った。別に打てればなんでもいいといえばなんでもいいのだけれど、少し違和感があるのは否めない。
「ん?…ああ、お前はずっといい碁盤使ってっからすぐ分かるんだな。これはカツラらしいぜ」
一瞬不思議そうな顔をした後、意味が分かったのか、からっと笑って進藤は言った。
「そうか…」
「うん、じいちゃんがな、まだオレがプロになる前に買ってくれたんだ」
楽しそうに笑って白石を打ち込む進藤は、随分と無邪気な顔をしていた。
いい笑顔だな。
少しだけ癪に障るくらい。僕はこんな風に自分の力で彼を笑わせることはできない気がする。
進藤、僕の無邪気な想いの全ては君に向かっていると言ってもいいくらいだと思う。好きだと思う気持ちだって、すごくまっすぐだって自分で思っているんだ。碁に対してまっすぐであるのと同じくらいの気持ちで、僕は君に対してひたむきだと言い切れる。
でも君の無邪気な心は…一体どこへと向かっている?
この対局は、そんな疑問に答えてくれはしないだろうか?




窓の外では雨が少し強くなってきていた。
盤上互角に進んでいき、途中で進藤は一度長考した後、思い切りのいい手を打ってきた。
それは、会心の一手だった。
はっとさせられた。そしてそれが僕の敗因となった。
「…負けました」
「ありがとうございました」
めちゃくちゃ嬉しそうな表情で、進藤は軽く頭を下げ返す。そうして自分の部屋なのに、きょろきょろと視線を彷徨わせた。…どこを見るでもなく。
不審な僕の視線に気付いたか、慌てて彼は僕を見て笑顔を見せた。それはさっきの笑顔とは、既に種類の違うもので、僕は正直ちょっと傷付いた。
…つまり、僕のために向けられる笑顔は、一番のものではないのだってことだった。
「やった〜。公式戦じゃねえけど塔矢に勝つと気分いいな〜」
石を片付けながら、しみじみと言うから、さすがにちょっとムッとした。好きな相手でも、悔しいものは悔しいのだ。
「今度公式手合いで当たったらこうはいかないからな」
「なあに、次も勝つぜ」
軽口を叩きあいながらこうしている時間は、なんだか楽しい。
こうして彼の家で碁を打つのも、楽しいものだなと思った。
この子供らしいというと失礼だけど、いかにも進藤らしい部屋で打つっていうのは、なんだか少しずつでも進藤に近付いていくのに、近道な気がした。進藤の顔も、僕の家や碁会所にいるときより柔らかい表情をしているし。
「よし、進藤。今度、僕が碁盤と碁石、プレゼントするよ」
またここに来たいという意思を込めて、僕がそう言った瞬間、進藤の顔色が変わった。




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