雨と傘と君と


六月から七月にかけて、雨の多くなる季節を梅雨と呼び始めたのは、いつの頃からなのだろう。



雨の日が続く。雨は、東京では非日常的なもの。
だから、あまりに続くと、いつも当たり前の風景に違和感が生まれてくる。
「佐為」
ヒカルは傘を広げながら、隣に目を向けた。
「はい?」
そこにはいつもと全く変わらない佐為の笑顔。しとしとと降り続く雨を背景に、その笑顔は随分と鮮やかにヒカルに映った。
「…なんでもない」
少し顔を赤らめめて拗ねたように歩き出す。ぴちゃぴちゃと跳ねる水音が、ヒカルが一歩踏み出すたびに纏わりついてくる。同じように纏わり憑いてきている幽霊は、物音一つ立てないで、少し後ろを涼しい顔をして歩いている。
ふっと、ヒカルは下を向く。
泥水まみれのアスファルトの上を歩く、薄汚れたスニーカー。
その少し後ろにあるのは、ぺたぺたと音でもしそうな歩き方をしている癖に、泥一つついていない真っ白な足。
……傘もささずに、雨にも濡れずに。
佐為はいるのに、ここに確かにいるのに。
理不尽なことを思っているのだと、ヒカルには勿論分かっている。
佐為は霊体なのだから、自分が見ているのは、意識の中の景色に過ぎない。彼に傘は必要ない。それに第一持てない。もっと根本的に、そもそも雨に濡れない。
そういったことは、なんとなく、佐為との生活の中でなんとなく、ヒカルなりに理解しているつもりのことである。だってそれは、ヒカルの毎日の中で、現実として起こっていることで、積み重なってきていることだから。
でもこんなとき…不意に自分が傘をさしている横で、濡れない佐為を意識してしまったとき…ヒカルの中で、何もかもが不自然になってしまうのだ。
「佐為」
ぴたりと足をとめて、ヒカルは呼びかけてみる。
「はい?」
瞬時に返事と自分を覗きこむ笑顔の反応がある。

----佐為は生きてるんだ。生きてるんだ!

まるで駄々ッ子のようなそんな感情が、ヒカルの中に沸き起こった。
「…入れよ」
不意にヒカルは傘を持っていた手を、高々と上げた。
「え?」
きょとんとした佐為の瞳がヒカルを見た。
「だから、傘ん中に入れって」
ヒカルが小さな癇癪を爆発させるように、目を吊り上げて言った。
「ヒカル…気持ちは嬉しいんですけど…」
佐為が困ったように俯いて、ぼそぼそと口を動かす。
「なんだよ!一緒に傘入るの嫌なのかよ?」
今度は完全にムッとした口調で、ヒカルは佐為を睨み上げた。慌てて佐為は頭をぶんぶん左右に振って見せる。
「違います違います!嬉しいんですよ、ほんと、ほんとに嬉しいんです!」
勢い込んで、目を大きく見開いて、佐為は声を張り上げる。
ヒカルが意識にガンガン響くその大声に、身を竦めてしまうほど。
「…でもね…」
ふっと声を小さくして、佐為は寂しそうに微笑んだ。
その表情は薄暗い空の下、雨の中、あまりにも儚くて、ヒカルはただ黙って見上げ続けることしかできない。佐為を入れてやりたくて精一杯手を伸ばして持った傘も、そのままで。
「そうしてくれてる姿…多分人の目には奇異に映ります。それに…私…その…傘も通り抜けちゃうし…」
申しわけなさそうにそう言った佐為の言葉が、ずしんとヒカルの胸に堪える。
優しさを示すつもりで、自分は逆に辛いことを佐為に言わせてしまった。
それが酷くショックだった。
「……」
傘を持つ手を、そっと自分の胸の前へと引っ込めて、ヒカルは俯いた。
小さな自分が持っている、小さな傘に、佐為を入れられる筈もないのに。
入れて遣れると思ったのだ。
自分の傘の中に、佐為を入れて遣れると思ったのだ。
そう思った自分が、ひどく嫌な人間に思えて、ヒカルは唇を噛んだ。
「あのねヒカル」
俯いてしまったヒカルの視線の下に潜り込んで、佐為はにっこり笑いかけた。
水溜りの上にしゃがんでいるのに、白い狩衣も紫の差貫も綺麗なまま。それはちょっと残酷なことではあったけれど。
「ヒカルってば、聞いてくださいよ〜」
頬を膨らませて、佐為はうんと幼い表情を作る。
ヒカルのためのとっておきの顔。
…うんと昔、もっともっと昔、虎次郎が同じことを佐為に言った。その時の佐為は何も考えず、虎次郎の背伸びして作った傘の中に入って、最終的には虎次郎をひどく傷つけてしまったのだ。
『御免…。佐為、本当に御免なさい…』
傘を通り抜けてしまった自分を見て、泣きじゃくって謝った幼い日の虎次郎を思い出すと、今も佐為は切なくなる。霊体である自分を、その時の佐為はまだ、きちんと自覚しきれていなかったから。
虎次郎と佐為は、本当に暗中模索で関係を築き上げていったのだ。埋められないような傷だって、本当は二人の間に…きっとある。
だから、今度は失敗しないように。
佐為はヒカルの少し後ろを歩くことにしている。
できるだけ、ヒカルと同じ高さにいる自分でいようとしている。意識的にも、無意識的にも。
だからヒカルがやっと自分に目を向けたのを見て、目を細めた。
「ねえヒカル、きっとあなたは背が高くなりますよ。そうしたら…そうしたら私を隣に入れてください。何年か経ったらそうなります。私の背なんかすぐ追い越しちゃいますよ」
そう言うと、佐為はもの言いたげに何度か瞬きして、ヒカルの少し上に目線を向けた。これくらい背が伸びたら…と、言うように。
「…佐為…」
ヒカルは複雑な声色で呟いた。
もう一度、今度は満面の笑顔が、ヒカルにも笑顔を強要する。
「佐為がそう言うなら、それでいいや」
最終的に、ヒカルはその笑顔が自分の意識に働きかける優しさに流されることになる。

----あなたのその気持ちだけで嬉しいんですよ

佐為の感謝の気持ちが流れ込んでくるから、ヒカルの意識も暗闇に沈んでばかりもいられない。
ひとつの意識を共有するということはそういうこと。互いに相手を思い遣ったとき、そこに生まれる同じ感情は、温かくてとても強いもの。
「ようし、待ってろよ。いっとくけど、俺のこと見下ろしてられんのも今のうちだぜ?」
口元を一瞬緩ませた後、ヒカルは挑戦的に佐為を睨み上げて笑った。
「楽しみにしてますよ」
ふふーん、と鼻を鳴らす音が聞こえてきそうな口調で、余裕綽々に応戦する佐為。
これじゃあやられっぱなしだ。ヒカルはそう思い、次の瞬間閃いた考えを行動に移す。
「そうと決まったら…」
突然傘を畳んで、ヒカルはそれをぽいっと道端に投げた。
「え?ヒカル?!」
驚いた佐為の表情を楽しむように見た一瞬後、ヒカルは雨に打たれながら駆け出した。
「家まで走るぞー!」
「えええ?!ヒカル?何なにどうして???」
訳のわからないまま、ヒカルのせいで家まで走らされる羽目になる佐為だった。




「おかえり…ヒカル?どうしちゃったの、そんなに濡れて!傘は?」
帰宅したヒカルの濡れ鼠ぶりに、ヒカルの母親は驚いた声を上げた。
「そうですよヒカル〜〜、風邪ひいちゃいますよ〜〜」
もう泣きださん勢いでヒカルを心配している佐為。
ふふっと笑って、ヒカルは母親にしれっと嘘をつく。
「傘さー、盗まれちゃったみたいなんだよ。ありきたりの傘すぎて、盗まれちゃったみたいなんだよねー。で、仕方ないから走って帰ってきたんだ」
「ええ?」
佐為と母親の驚きの声の二重奏に、ヒカルは今度こそ耳を塞いだ。





「あ、これがいい」
明日の天気予報も終日雨…ということで、仕方なく母親はヒカルを連れて近くのデパートへやってきた。きょろきょろとヒカルは視線を彷徨わせ…しばし物色した後、ひとつの大きな傘を手にとった。
「これ?嘘でしょう、ヒカル、あなたには大きいわ」
「ほんとですよー、ヒカル、いくらなんでもこんな大きいの」
母親と佐為は相変わらず、似たようなことを口走っている。
「これがいい。これじゃなきゃいらない」
ヒカルは母親に思い切り我儘を言った。
そう言いながら、心配そうな佐為に向かって「まあ見てなって」と、目配せした。
一人っ子のヒカルは、母親がどうするかきちんと分かっているのだ。
「…どうしてもこれがいいの?」
「うん、これじゃなかったらまた盗まれる気がする」
キッパリと、根拠のないことを自信満々に言い切るヒカルに、母親は折れるしかなかった。





「ほら、この大きさならバッチリだろ?」
帰宅して部屋の中で大きな傘を広げて、ヒカルはひどく上機嫌。
「えー、でも大きすぎて、ヒカルが風に飛ばされちゃいそうですよ」
佐為は大きな傘を用心深く覗き込みながら、まだ心配そうに言った。
「約束だよ、約束」
得意げに言うヒカルを見て、佐為はもう仕方なく微笑むことにした。
「ハイ、分かりました。…でもヒカル、それまでにその傘、なくさないようにしてくださいね」
「おう!」
笑い合って、ためしに二人で傘に入ってみたりして。
佐為はしゃがんで、ヒカルは立って。
「そのうち、両方立ってもこうなるんだ!」
言い張るヒカルにニコニコと笑いながら頷いたりして。
…本当は、佐為は知っていたのだけれど。
その大きな傘が似合うほど背が高くなって、大人になる頃には、ヒカルには隣を歩く人がいるということを。…虎次郎がそうだったように。
でも今は。
ヒカルの気持ちを素直にありがたく受け取っておこう。
叶わない約束もいくつだってしよう。
それがずっとずっと大人である、自分の役割なのだから。
まさか、その約束を自分のほうが破ることになるとは、その時の佐為は露ほどにも思っていなかったから。
後に起きることをもしも知っていたならば、誰がこんな残酷な約束を結ぶだろう。





とびきり楽しくて、明るい、その思い出の欠片。
あのときの佐為の心配とは裏腹に、二年経った今年の梅雨も、それはヒカルの手元にある。
叶えられなかった約束。
でも手放すこともできない約束。
いつか佐為が帰ってきたら、今度こそ傘に入れてやるんだ。
未だにこっそり、ヒカルはそう思っているのかもしれない。







後書き

ええっと。
これもまた、「神すら触れぬ柔らかい場所」補完話なんですけれども。一応、単品でもそれなりには楽しめるかな?
…なんつーか…己を苛めてそんなに楽しいのか、しょこらん、第二弾(苦笑)
ちょっと書いてて切なくなっちゃいました。
佐為とヒカルの関係を深く思い悩むとき、私の中で重要なのが虎次郎の存在で。
彼との積み重ねがあったから、佐為はヒカルにあれだけ優しくなれたんじゃないかなって。
漫画の絵的にも、秀策の人生的にも、ヒカル以上に幼い時に虎次郎は佐為と出会っているはずなので、ほんといろいろあったんじゃないかと思うんです。
というわけで、そういう御話でした。
切なさ、伝わったかしら?

読み返して思ったんですけど…ひ…ヒカ佐為風味…???(滝汗)
違うんですよ?そうじゃないんですよ?(笑)
これはヒカルと佐為の御話なんですよ〜〜(なんか弱いなあ)

追記。
肝心なことを書き忘れていましたが、これは院生になった年の梅雨という設定です。
若獅子戦あたりかな?
前の年の梅雨はまだ、佐為がよこをぺったんぺったん歩いてても平気だった二巻のヒカルの心の成長なるものを書きたかったんです。




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