宵の明星


「ああもう!母さん煩いんだよ!」


ヒカルは母親に捨て台詞を投げつけて、家を飛び出した。
まだ寒さが残る三月の初旬。
勢いよく走るヒカルの吐息はまだ白い。
走って、走って。気付いたら近くの公園まで来てしまっていた。
「ヒカル」
心配そうにヒカルを覗き込む佐為。
「なんだよ佐為、ちょっとほっといてくれよ!」
忌々しげに切り捨てられて、佐為は哀しそうな表情で、それでも一応口をつぐんだ。



今日は年度末の三者懇談というものがあって、ヒカルと母親は進路のことで昨年末からずっと続いていた諍いを一気に爆発させたのだ。
ヒカルが怒るのも無理はないと、佐為は思う。
中学二年生という言葉は、ヒカルの母親にしてみれば「まだほんの子供」ということらしい。現代においては15歳までの修学が義務付けられていて、ほとんどの子は高校という、もうひとつ上の学校に行くのだそうだ。
けれど、ヒカルはもうやりたいことを見つけてしまっている。
しかもそのやりたいことで生きていく権利----プロ試験の合格----を、昨年ヒカルは自分の力でもぎ取ったのだ。
佐為はヒカルと母親の進路についての口論を、始終オロオロしながら見守ってはいたが、正しいのはヒカルのほうだとは、思っていた。
何ゆえこれ以上、やりたいこと以外の勉強をしなければならないのか。そのヒカルの言い分は理にかなっている。佐為の生きた時代で14歳といえば、もう縁談が持ち上がってもおかしくない歳であったし、人生の行く末などはほぼ見えたも同然の歳だった。虎次郎と生きた時代でも、14歳ともなれば、先の身の振り方を決めていて当然だった。だから、ヒカルの言い分には、基本的に賛成ではあった。
しかし。
いつの時代も親は子を思うもの。
ヒカルの母親がヒカルを案じている想いが、佐為には痛いほど分かっていた。



「…さみー…」
突っぱねておいて、いざ佐為が何も言わなければ寂しくなったのか、ヒカルが小さな声で呟いた。
『まだあんたは14歳、中学二年生なのよ!』
そう叫んだヒカルの母親の気持ちもよく分かる。佐為の知る14歳というには、ヒカルは確かに余りにも幼なかった。
「ヒカル、ほらあそこ。あの穴のようなところなら風がしのげるのでは?」
少し声を明るくして、公園の真中にある大きな山をかたちどった遊具のトンネルを佐為が指差してやると、ヒカルは頷いてその穴に潜り込んだ。
「あー、ちょっとマシ。…でもオレ悪くないだろ、佐為?」
小さく丸まって、拗ねた口調でヒカルは佐為を見上げる。
「…さあ、どうでしょう?母上をあんなに怒らせて、悪くないとは私は言いませんよ?」
ヒカルの目線に合わせ、しゃがみ込みながら佐為は微笑んだ。
佐為はいつだってそうだ。どうせ見えないのだし、母親の肩をもったからって褒めてくれる人もいないのに、必ずヒカルを諭す。
ヒカルはぷっと頬を膨らませた。佐為がそうやって大人びた表情をして、囲碁以外のことで自分を諭すのが、基本的にヒカルは嫌いだった。
大きな大きな…佐為との開きを感じるから。自分の知らない時間を過ごしてきた佐為の姿を垣間見せられるから。
でもそんな複雑な気持ちなど、ヒカルに表現できる能力があるわけもなく。
「ヒカル?」
今度は何をそんなに拗ねているのかと、佐為は困ったように声をかけた。
「ヒカル、あのね。母上はヒカルを嫌って言っているわけではないのです。心配なさっているのですよ。…母上とはそういうものです。あなたには…まだ分からないかもしれませんが」
一生懸命優しく諭そうとしている佐為は、言葉を尽くしているつもりで、結局地雷を踏んだ。子供にむかって「まだ」ときたものである。ヒカルは常々佐為に対して平等でありたいという無意識をもっているから、そんな軽い言葉ですらヒカルの神経を逆撫でしてしまう。
「ああ、そうさ、オレはまだ子供だよ!でもなあ佐為、オレはちゃんとプロ試験合格したんだぜ?高校行かないのだってオレの勝手じゃんか!だいたいなあ、お前がとりついたからオレは囲碁やってるんだし、その原因のお前が大きなこと言うなよ!」
一気に言い切って、ヒカルもまた地雷を踏んでしまった。
佐為の顔色が変わる。あきらかに、傷付いた表情をした。
もう二年を共に過ごしてきたのだ、ヒカルにだって佐為の表情の機微はある程度は読み取れる。
「…あ……」
くるりと佐為は背を向けて、数歩歩いた。
強い風が公園を駆け抜ける。その風にも揺らされることのない長い髪。
佐為は変わらない。変われない。
景色に溶け込むことすらできない。佐為がいる景色を見ているのは、ヒカルだけなのだ。
少し離れたところで、夕方の冷たい風に舞う木の葉の最中に佇む後姿。
自分が目を向けなければ誰にも見えることのない、それはきっと永遠の孤独。
その姿を見ていると、ヒカルはもう怒ったこともあんなにひどい言葉を投げつけたことも忘れて、佐為の元へと駆け寄ってしまう。
「佐為…」
おずおずと近寄ると、気配を感じたか、佐為は振り返ってにっこりと微笑んだ。それはもう、してやられたと一瞬で分かる、美しい微笑みで。
「あ、今いじけたふりしたな、お前!」
その笑みに見惚れた自分の照れ隠しも込めて、ヒカルは顔を真っ赤にして思い切り怒鳴った。
そのヒカルの様子に、佐為は今度は心から楽しそうにころころと笑った。
「すみませんヒカル。でもちょっと頭が切り替わったでしょう?」
扇子で口元を隠して笑う仕草も、目尻を下げる表情も。
自分の全部を使って、佐為はヒカルの心の刺を結局は抜いてしまう。
「ああ?…うーん…まあな」
素直にありがとうなんて言えない、反抗期まっさかりのヒカルである。
言葉を濁しているヒカルを、佐為はきちんと分かって微笑む。そんな大人の余裕が、ヒカルには嬉しくもあり悔しくもあり。
「ほらほらヒカル。空を見てください。暗くなってきたし、宵の明星が出ています。家に帰らなければ。それに…寒いのでしょう?」
横目でヒカルを探るように見遣って、佐為はまるでそそのかすかのような口調で言う。
言われてヒカルが見上げると、確かに薄暗い夜闇が空を支配しようとしていた。それでも佐為のいっている言葉の意味が全て分からず、ヒカルは首をかしげた。
「なんだよ、宵の明星って」
佐為が空に向かって扇子の柄を差し出す。ヒカルがその先を追うと、まだ夕暮れの途中であるのにひとつの星が燦然と輝いていた。
「分かりますか、ヒカル?」
「…ああ」
佐為が指し示すその星は、公園に灯り出した灯りも寄せ付けない、真の輝きを放っていた。夕暮れの薄闇でただひとつ光る星。
「いいですか、ヒカル、あの星は夜の始まりを知らせてくれるんです。待っている人が家にいるうちは…あの星が見えたら家に帰らなければなりませんよ」
いつしか扇子を手元に戻して口元に遣りながら、佐為は優しく、けれどはっきりとそう言った。
「なんだそりゃ」
思わず「はい」と返事をしそうになった自分の言葉を飲み込みながら、ヒカルは精一杯強がって言い返してみる。
「おやおや、ヒカルは悪い子ですよ。母上は今ごろこんな寒い中ヒカルがどうしているだろうと、さぞや気をもんでおられますよ。早く帰りましょう」
子供扱いするなよと、言い返したかったけれど、そろそろ厳しくなってきた寒さも限界にきていた。
「…まあ、寒いからな、帰るとするか」
しぶしぶといった口調で佐為をちらっと見て、ヒカルは帰路についた。
「そうそう、早く帰って一局打ちましょ」
楽しそうに言う佐為を見て「…結局それかよ」と、ヒカルが呟いたのは言うまでもなかったが。
この時点で、ヒカルの中では佐為が帰りたがっているから、と不思議な大義名分が出来てしまっている。誰にも見えない遣り取りとはいえ、帰りやすくなっていたのである。



「ねえ、ヒカル」
とはいえ、母親になんと言おうかと、気まずい心を抱えて足が重いヒカルに佐為は並んで歩いて声をかけた。
いつもは後ろをついて歩く佐為が、こうして横に並ぶときは、自分を気遣ってくれるとき。
それをしっているヒカルは、素直に足を止め、顔を斜め上に上げた。
目が合うと、佐為は目尻を下げて笑った。それから少し口元を引き締め、口を開いた。
「ヒカルが間違ってるとは、私は思いません」
その一言を、ヒカルはずっと聞きたかったのだ。
だからヒカルは、あからさまに瞳を輝かせた。…もちろん、その先があることも、十分予想はしていたが。
はたしてヒカルの予想通り、佐為は笑顔のままで話を続ける。
「でも母上というものは心配してくれるのです。虎次郎の母上は碁を嗜まれるかたでしたから、ヒカルの母上のように怒ったりはされませんでしたが、それはそれは虎次郎のことを案じておられました。ね、碁をご存知ないヒカルの母上があなたを案じないわけはないのです。…だからね、ヒカル」
とろりと流れるような口調に押し込まれそうになる。
「あーもう分かった!オレは悪くなくても、ここはひとつ謝っとけってことだろ?」
面倒くさそうにヒカルがそう言うと、佐為は笑ってこくこくと頷いた。
なにはともあれ、ヒカルは佐為が自分が悪くないと言ってくれたことが嬉しかったから。
虎次郎の話を引き合いに出したのは、正直面白くなかったが、自分を心配してくれているのがひしひしと伝わってくるので、黙っておくことにした。
なぜ佐為が常々ヒカルを不機嫌にさせる種である虎次郎の話題を出して、自分の話題は出さなかったのか。
ヒカルがそこまで相手を慮ることができるようになるのは、もっとずっと先のことだろう。




佐為が言うがままに、大きく深呼吸をひとつしてヒカルは玄関のドアを開いた。優しい風が流れてくるのを、佐為だけが体感した。
ふてくされた表情をそのまま声にして、ヒカルは帰宅を告げる。
「…ただいま」

----大丈夫、ヒカルには、帰る家がある。

温かい空気を感じ、転がるようにしてヒカルを迎え入れた母親の顔を見て、佐為はそう思って静かに微笑んだ。
何故に大丈夫という想いが真っ先に生まれたのか。その理由に佐為自身が気付くのは、もう少し先のこと。

冬の風が吹き荒む中、空では宵の明星が輝いていた。










後書き

きらきらひかる初のキリ番ゲッター、ホワイトストーン様のリクエストは「消滅前のコンビだけれども、すっごく微妙なヒカルと佐為」でした。
む〜…難しい!(笑) しかも私、消滅前のヒカルと佐為を書くのは実は初めてでした!(笑)
というわけで悩んだあげく、選んだネタがこれ。
「神すら触れぬ柔らかい場所」の補完話的になりましたが、ちょっと書きたかった部分でもあったので、リクを貰って考えることによって、このネタを広げて書く機会になったので嬉しかったです。
こういうこと、あったんじゃないかなって想像してたんです。
進路のことね。まだプロとしての活動も始まってないこの時期は、ヒカルとヒカルママは一番衝突が多かったんじゃないかなと。

あと、私はなんだかんだ言って、佐為はヒカルに囲碁以外のこともたくさん残していったんじゃないかと思っていて。
なんだろう、自然の機微を感じる力とか、そういう知識とか。
道端の花でも今じゃ学名で呼びますが、昔は違う名前があったわけですよね。そういった柔らかい知識を、知らずに佐為はヒカルに残したのではないかと想像するのです。「宵の明星」というのはそういったところから出てきたんです。いわゆる一番星ですね。

ホワイトストーン様。
ヒカルと佐為のコンビ大好きといいながら、この一ヶ月、一度も二人セットで書いていなかった私にこんな機会を下さってありがとうございましたvv



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