其の九




あぢきなく 雲居の月に 誘われて 影こそ出づれ 心やはゆく
                                                                          ----  帥宮敦道親王




「もう隠れる必要もありませんから」
佐為が微笑んで障子を開いた。今しばらく貸して下さいと、行洋の羽織を素肌にかけているその姿は、行洋に少しの気恥ずかしさを植え付ける。
「…おや?」
佐為が空を見上げて、小さく声をあげた。その声につられて行洋が見上げた夜空には、幾千幾万の星が煌めいていた。現世の空でないのではないかと行洋はふと思ったけれど、それを口にするのも無粋に思え、無造作に襦袢だけ羽織ると黙って佐為の隣に座った。子供がよくやるように、食い入るように空を見上げている真っ直ぐな瞳を見ると、自然と口元が緩んだ。
「綺麗ですねえ」
「…ああ」
今まで行洋が見たどんな夜よりも、空は近く、星は眩しかった。
ふと視界をぐるり一周させると、遠くのほうに小さくなった青白い月があった。それは、この夢の終焉が近付いてきていることを、如実に語っていた。
あの月が夜明けの空色に透ける頃。
でもどちらも、そのことには触れず、満天の夜空を見上げていた。
空の大きさに気圧されたか、佐為が白い指をそっと行洋の膝に添わせる。夏を感じさせない、そして情事の後を連想させない、ひんやりとした感触が胸を衝いた。その冷たさが行洋に思い出させるは、今はこうして触れ合っている二人の間に流れている、天の河より遥かに永く深い河。
まだその刻ではないと、分かっていながら、その手に自分のそれを重ねずにはいられなかった。
「…何故、君はこの世から消えた?」
うっすらとではあるが、佐為がこの世に霊体として留まっていた経緯に気付いてから、消えない疑問が行洋の唇から零れ落ちる。
君はまだ、神の一手を極めたわけではないはずなのに…と。
刹那、まっすぐ行洋を射抜いたその瞳は、果たして佐為のものか否か。
その強さ。その激しさ。そしてその気高さ。
行洋が息を飲んだ次の一瞬には、もはや目尻が柔らかく下げられていた。
「…私はもう、託したからですよ」
夢か現か幻か。
自分の羽織の袖を口元に当てる艶やかでありながら麗かなその微笑を、行洋は初めて先行く者を見る思いで眺めた。この道の途中、自分の先を行く者として。
「あなたも神の一手を目指すもの。…行洋殿…神の一手を極めたその先…さて、何があるのでしょうね…」
曖昧に笑った後、佐為はふっと遠くに目をやった。
その眼差しを見れば、もうそれ以上は必要もないはずだった。
「…そうか…」
一つ頷いて、行洋は胸に広がって行く感情を不思議なほど静かな想いで眺めた。佐為はもうひとつの障子を、神の目を盗み、開け放って見せてくれたのだ。
まるで新しい道のようにすら思える、それこそが己が歩み行くべき真実の道程。





「そうそう」
ふと思いついたかのように佐為は、小首を傾げた。
「今宵の棋譜…来るべき時がきたと、あなたが思ったら、あの子に見せてやって下さい」
そのあまりに温かい微笑みと言外に拒ませはしないと語る口調に、行洋は思わず軽口を叩く。
「ほう、それはまた心憎いことを」
「そんなことを仰るあなたこそ、心憎いこと」
軽く片方の眉を釣り上げる仕草を笑って受け止める。あの棋譜を永遠に自分だけのものにはしておけないのだと、さらりと言う佐為が一瞬本当に心憎かったのだけれど。
「…佐為」
決して激しくはないけれど、確実に自分の心の奥底で燻っている雄らしい感情に、行洋は負けてみることにする。
「…横笛を一曲、披露願えないか?」
「手慰み程度ですが…それでよろしければ喜んで」
楽しそうな声色は、心を見透かしているかのようだったけれど、佐為はからかうこともなく横笛を手に取った。その横顔に現れた仄かに染めた頬の赤味を読み取れるほどには、行洋も恋心の機微には精通していなかった。心を通い合わせていても、人というのはなんと不器用な生き物だろう。
「…では、あが君の為に」
そう言って、蕩けそうな瞳で斜に見上げてくるから、行洋は言葉の意味を理解して、感情が揺さぶられるまで数秒を要した。
言葉の威力は、あまりにも絶大だった。言霊とは、本当にうまく言ったもの。
開け放った障子の端に背を預けた、佐為の吐息が笛に命を吹き込んでゆく。
涼やかな風を呼び込むように、軽やかな音色は夜に舞う。雨上がりのように甘く匂う闇の中、まるで色が滲んで行くように、音は行洋の心にも染み込んで行く。
傾いだ首の曲線も、息を継ぐ度に揺れる頤も、そして彼から生み出された音たちも。
全てを刻みつけようと、行洋は願うかのように見詰めた。




時間は迫ってきていた。
東の空が僅かにではあるが、色を変え始めたのだ。
別れを告げることを躊躇ってか、佐為は添い寝を乞うた。
そのしどけない姿を、今一度腕の中に入れることは、行洋にとっては苦しみでもあったけれど。
自分が作った腕枕の上にちょこんと頭を乗せた佐為の様子に微笑みながら、行洋は一縷の髪を手に取りそっと鼻孔に近付ける。
嗅覚は一夜で、もはやこの香りを懐かしいとすら感じ始めている。
「…行洋殿」
自分の名を呼ぶその声を。瞳を細めるその仕草を。
「戯れごとを申してもよろしいですか?」
じゃれつくように指先を行洋の襦袢に絡ませて、佐為は茶目っ気たっぷりに見上げてくる。
惹きつけて、惹きつけて、尚離さない。
「…ああ」
「私の時代ではね…夢を見るというのは見た相手に想われているということだったのですよ」
歌うように軽やかに楽しげに、その甘い言葉はふわりと行洋を包んだ。
「…佐為……」
もう呼びかけることすらできなくなる。そう思うと何も言えず、ただ両の腕に力を込めた。これ以上ないほどにきつく抱き締めたところで、この身体は摺り抜けていってしまうのだと、分かっていても、それでもなお。
今、この腕の中で、佐為は呼吸している。鼓動を感じることができる。
これが真実でないというならば、嘘だってこの世にありはしないだろう。
静かながらも強い思いが、行洋の心を落ち着けていった。
「あぢきなく…」
あまりに強く抱かれているせいで、吐息を小さくつきながら、佐為は囁く。
有明月夜の恨み歌は数あれど、ゆくのは影だけとまで歌ったこの歌は自分の心情に近しいように思えた。躯を繋げ、情を交わし、離れて行かねばならない今、恋の切なさを初めて刻んで歌を詠む。
行洋の腕の中から見る白い月は、自分達を哀れんでいるようにも儚んでいるようにも見えた。幾つもの恋人たちの別れを、この月は見守ってきたのであろう。恨まれながら、憎まれながら、ただ黙って人という愛すべき生き物の遣り取りを静かに照らしてきたのだろう。
耳元に届けられる言葉よりも優しい息遣い。
歌の意味が正しく行洋に流れ着くように、佐為は静かに祈りながら目を閉じた。
腕の中、その寝顔にすら見える無防備な顔を愛しく眺め、行洋もゆっくりと意識を手放していった。


そして、夢の際涯は訪れた。













蒼昊がそこにはあった。

----目を覚ましてしまったな。

目覚めてまず障子を開き、その抜けるような空を見て、最初に行洋は思った。
きちんと寝間着を着ている自分に、僅かながらも落胆している感情に苦笑する。

----あれは夢だったのだから。

自分を納得させるように言い聞かす。障子は閉じられていたし、盤上の碁石もきちんと碁笥に収まっていた。
…けれど。
あの棋譜はしっかり頭にある。そして笛の音も消えずに胸の内で鳴っている。
「美しい夢であったことよ」
佐為が座していた障子の端に、ちらりと視線を走らせて行洋は小さく呟いた。
「あ、おはようございます、お父さん」
アキラが少し離れたところから声を掛けてきた。
「ああ、おはよう」
朝の一局を打ちにきたのであろう、きちんと居住まいを正している。
「今日はいつもよりゆっくりお休みだったのですね」
遠慮がちにアキラは近付いてきた。言われて部屋の時計を見ると、確かに普段の起床時間を遥かに過ぎている。
「どうやら寝過ごしてしまったようだな」
苦笑いを返して、部屋にアキラを招きいれる。
「お体の具合でも悪いのではないかと思いました。お母さんは実家でいないし…心配しましたよ」
息子らしい少し拗ねるような表情を見せるアキラを、久しぶりに見たように思って行洋は微笑んだ。
「お前のそんな顔、久しぶりに見たな…あ、そこの羽織を取ってくれないか」
碁盤の前に座ってから、さすがに相手が息子でも寝間着で対局は具合が悪かろうと思い至り、アキラに声をかける。
「はい」
素直に壁に掛けられていた羽織を衣紋竿から外して、アキラはそれを手に取った。
「…あれ?」
不思議そうな声音に振り返ると、アキラが羽織を手に取ったまま首を傾げていた。
「どうかしたか?」
胸中で揺らめく波を気取られないよう注意しながら、行洋は声をかける。
はっとしたように、アキラは行洋に羽織を差し出した。気のせいかもしれないし…と、アキラの心中が言葉にするかしないか迷っているのが伝わってくる。
「いえ、何も…」
結局アキラは何も言わないことにしたらしかった。それほどに微かなものが、そこにはあるらしかった。
逸る心を押さえて、差し出されたそれにゆっくりと袖を通す。
ふわり。
確かに仄かに掠めていったは、伽羅の残り香。
うっかりしていましたね、と、佐為がしたり顔でさらさらと笑ったような気がした。
「アキラ!」
対局の支度を始めようと、碁笥に手を伸ばすアキラについ声をかける。
違う碁盤と碁石を持ってきなさいと…もう少しで口から声が転がり落ちるところだった。
「はい?」
きょとんとした表情のアキラに、我を取り戻す。
なんという執着心かと、思わず笑いすら込み上げて来そうになった。
「いや…始めようか」
一夜の夢とともに佐為が開いて見せてくれた、昨日までと同じでありながらも、新しい道。
決して道は途切れないのだと、佐為は微笑んでいた。あの透き通るような微笑みが示しゆくその鍾美な道程を、自分もまた確かに歩んでいるのだと、そう思うだけで満たされる気すらした。
「はい、お願いします」
「…お願いします」



青く清澄な空の下、澄んだ石音が響き行く。
神の気紛れが見せた夢の欠片は、夏の風に乗り舞い上がる。
秘密の扉は閉ざされた。
胸の深奥、しまいこまれた恋一夜。

















終章(其の十)


<其の九・備考>
麗か…うららか。広辞苑では下記三点の意味があるが、今作内ではBを大意として使用。
          @空が晴れて、日影の明るく穏やかな様
          A声の明るく朗らかな様
          B心の爽やかな様・心の晴れ晴れしい様
あが君…分かりやすくいえば「愛しい君(あなた)」
              現代口語訳しちゃえば「まいすいーとはーと」(爆)
              は!ごめんなさい、こんなとこで笑わすつもりじゃ(汗)
有明月夜…ありあけづくよ。 月がまだありながら夜が明けてくる頃。
際涯…さいがい。 果て、かぎり、などの意。
蒼昊…そうこう。青空。天。
鍾美…しょうび。優れて美しいこと。(美をひとつに集める意)









<後書き>
…もう終わったようなもんだから(笑)
読みたい人だけどうそ。…でもうんざりするくらい長いよ?




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