ユキノカスミソウ



薄らと雪の残る墓場。
 てんてんてんと赤いボールが敷き詰められた砂利の上を転がっていた。
 雪の墓地には不釣合いなぐらい鮮やかな色のそのボールを、すっと女性の白い手が持ち上げた。

「あ、ありがとーございます」
 ボールを追いかけてきた少女が、ボールを手にした女性の前で立ち止まり、溌剌とした様子でそう言った。
 深い紺のスーツに身を包んだ女性は少女の前にしゃがむと、ボールを差し出した。
「はい、これ。ちゃんとお礼が言えるのね。えらいわ」
「えへへ」
 女性に誉められ、少女は嬉しそうにテレ笑いを浮かべる。そうすると大きな目が糸のよう細くなった。その素直な反応につられたのか、女性の方もニッコリと笑った。

「一人で歩いて行っちゃだめだって言ってるでしょ!」
 その時、遠くの方から少女の母親と思しき女性が駆け寄ってきた。母親は少女の前にしゃがんでいる女性に気付くと、軽く頭を下げた。
「すみません。ちょっと目を離したすきにいなくなっちゃって。ご迷惑をお掛けしました」
「いいえ、そんな」
 そういいながら女性が立ち上がる。
 母親はその女性の同性でも惚れ惚れするような美しさに、微かに息を飲んだ。
 年の頃は三十台だろうか、それにしては落ち着いた物腰のその女性は、近しい人の墓を参りにきたのか小さい花束を手にしていた。この季節には珍しい白いカスミソウだけでできた花束だった。脇役に使われることの多いカスミソウだが、それだけで作られた花束は不思議と力強い印象を与えていた。

「可愛いお子さんですね。お行儀もよくて」
 女性がそういうと、自分が誉められている事を直感した少女が、大きく頷く。
「いえ、そんなことないんですよ。もう、やんちゃで……」
 母親のその言葉に、カスミソウを手にした女性は微笑すると、小さく頭を下げた。
「では、これで」
「はい。あの、どうも失礼いたしました」

 会話を終えると、女性はくるりと振り返り、砂利を踏みしめながら遠ざかっていった。母親は女性を何故か知っているような気がして、それがどこか思い出そうとしていた。
「ははぁ? ちちは?」
 少女の問いにふと我に帰った母親は、少女の手を取って歩き始めた。
「父はバケツと柄杓を返してからくるのよ。私達は先に車に行ってましょう」
「ねぇ、どうしてお墓にお水をあげるの?」
「死んだ人たちが喉がかわかないようにするのよ」
「ふーん。寒くないのかなぁ」
 母娘はそんなことを喋りながら、墓地の駐車場に向かって歩き始めた。


****

「ユキさん、時間かかるのかなぁ?」
 茶色いダッフルコートを着た佐川眞貴は、暇つぶしに墓地の水汲み場のバケツを片付けながら言った。
「まぁ、ゆっくり待ってあげてよ。恵美ちゃんの命日はユキにとっては特別なんだから」
 黒いコート姿の冴貴がそう答えた。
「なんで?」
「なんていうかさ、ユキは自分が恵美ちゃんの生まれ変わりみたいに思ってるところがあるんだよね。あたしとの繋がりももともと恵美ちゃんだったしさ。だから、すごく感謝っていうか、なんていうのかな……わかるでしょ? してるわけさ」
 足元の雪を踏みながら冴貴が答えた。

「なるほどね。ユキさん義理堅いからね。だれかさんとちがって」
「なによぉ、あたしが義理堅くないっての? あたしはそこらのやくざが裸足で駆け出すぐらい義理堅いわよ」
「何言ってんだか……。そういえばさぁ、優一さんって言ったっけ? 男の方のユキさんはどうしてるの? あんたが酷い目に遭わせたんでしょう?」
 水汲み場の木の柱に打ち付けられた釘に柄杓の柄を掛け、眞貴が冴貴のほうへ向き直りながら訊いた。

「ああ、それね。あれは苦労したなぁ。記憶を消す事は出来たんだけど、やっぱり体が覚えちゃったモノはどうしても変えられないんだよね。心の奥のほうで本能的な部分と引っ付いちゃってたから、無理矢理引き剥がして勃たなくなっても困るし」
 冴貴の露骨な言葉に眞貴は少し眉をひそめた。
「でも、そこで私は考えたわけさ」
「どうせロクでもないことでしょう?」
 眞貴のまぜっかえしを気にする風もなく、冴貴は続けた。
「その頃の優一には付き合ってる人がいてね。どうせ優一をノーマルに戻せないなら、いっそのこと……」
「相手の女性も巻き込んだわけね」
「その通り! まさに大岡越前も真っ青。この見事な発想の転換!」

 ポカっ!!
 得意そうに胸をはった冴貴の後頭部が小気味のいい音をたてた。
「いたたたたたたた」
「そんなわけないでしょう! このバカ女!!」
 再び柄杓を手にした眞貴が白い息を吐きながら言った。
「あ、あんたねぇ! お墓の柄杓で他人の後頭部につっこみをいれていいと思ってんの!? バチがあたるわよ、ほんっとに……」
「うるさい! あんた、よくもそう悪びれもせずに他人を巻き込んでいくわね!」
「それが、今の奥さんなんだからいいでしょお。言うなれば愛のキューピットな訳よ。キ・ウ・ピ・ット!」
 何も言わずに眞貴は再び柄杓を持ち上げる。
「わわわ、わかってるわよ。他に方法がなかったから仕方なかったんだって。ユキとアイだって賛成したんだからね。暴力はんたーい!」
 眞貴が自分の母親の名前を聞いて、手を降ろした。
「ユキさんがそう言うなら仕方なかったのかな……。なんせ本人なわけだし」
「そうそう。その通りさ。でも……」
 ぺろりと冴貴が思い出したように舌なめずりした。
「優一の奥さん、おいしかっ……」

 ポカッ!!!
 冴貴が言い終わる前に、再び墓地に小気味のいい音が響いた。


****

「あの……」
 畑山優一はそう声に出してから、それに続く言葉にないことに気付く。
 何故、自分がすれ違っただけの女性に声を掛けてしまったのか、自分でも解らなかった。
「はい?」
 振り返った女性を見ても優一の混乱は深まるばかりだった。
 一度でも会ったことがあれば、決して忘れられない程の美しい人だった。微かな目尻の皺から女性は自分と同年代だとわかるが、それも女性の美しさを損なうどころか、女性が重ねた年月の深みを加えている様だった。
 確かに会ったことはない。なのに、奇妙な親近感があった。

 少しの沈黙の後、口を開いたのは女性の方だった。
「恵美菜ちゃん……、可愛いお子さんですね」
 遠くに見える、車の側の母娘に目をやりながら女性が言った。
「ええ。年がいってからできた一人娘なもんで、可愛くて。親馬鹿とはわかってるんですが」
 自分の娘の名前をこの女性が知っていることを、少し不思議に思いながら、優一はそう答えた。

「あなたとわたし……」
「えっ?」
「今、どちらが幸せでしょうか?」
 女性の唐突な質問に優一は驚いた。
 普通なら馬鹿にされているのかと思うような問いだったが、優一の心は妙に揺れていた。それは、女性の余りにも真剣な眼差しのせいだけなのだろうか。
 よくわかりませんが、と優一は前置きした。
「幸せというのは、人それぞれで比べられない物じゃないでしょうか?」
 優一が思ったままを口にすると、その女性の表情はふと和らぎ、穏やかな美しさを取り戻した。
「そうですね」
 女性はそう言うと、スッと頭を下げ歩き始めた。

 なにか声をかけようかと思ったが、何も言う事がないのに気付き、優一も自分に向かって手を振る娘のほうへと踏み出した。

 ふと、カスミソウの残り香が鼻をくすぐり、
 優一はそれが死んだ妹の好きだった花だったのを思い出した。



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