0.お葬式
大半の人は死ぬまでに親の葬式をしなければならないだろう。
でも、16歳でそれをするのはどちらかというと不幸な人間だと思う。
ましてそれが一人しか居ない母親なら尚更じゃないだろうか。
わたしの学校は私服だから、制服がない。だからわたしは母の喪服を着て、母の数珠を手に持ち、母の葬式をしている。
目の前では祖母が泣いている。祖父も辛そうに見える。
人生に一片の悔いも無いと言い切っていた母も、両親に辛い目を遭わせるのだけは忍びないと病室で語っていた。普段は子供みたいに無邪気な祖母がこんな風に泣いているのをクサバノカゲから見ながら、母もそこいらで胸を痛めているのだろうか?
そろそろ一般会葬者の焼香も終わりに差し掛かっていた。やっと梅雨も終わり、今日はいい天気なんだけど、とても蒸し暑くて、汗で喪服が身体に纏わりつく。家の中にいるわたしでもこうなのだから、外で待っている参列者はさぞかし大変な事だろう。
いわゆるシングルマザーで、女手一つでわたしを育ててきた母が、一昨日、他界した。癌だった。まだ42歳で若かったせいか、気付いた時には手遅れで別れを惜しむ暇は三ヶ月となかった。
娘がいうのもなんだがカッコよくて聡明な人だったんだと思う。
前から老いた母を自分が世話するという様子が想像できなかったのだが、それも永遠の幻になってしまった。母らしいといえばあまりにも母らしい。
病室でもよく『美人薄命だから仕方が無い』と言っていた。わたしが『美人薄命ってのは二十代で死ぬ時にいうのよ』というと、『女は三十からだ』というのがお決まりの会話だった。
厳格な人でもあった。
躾に厳しく、箸をつけたおかずを食べ残して、口に捻じ込まれた事もある。父親がいないことを未練がましく泣きついて張り倒された事なんて数えられない。何度かグレてやろうと思ったが、勝てそうも無いので断念したぐらいだ。
音楽評論家として名をはせた母は、業界紙や音楽雑誌に何本もコラムを持ち、有名な人だった。
友人達はわたしのことを羨ましがり、すごい母親だと誉めてくれた。そういわれるとわたしが偉くなったみたいな気がしてちょっと嬉しかったりした。母がスーツで颯爽と歩くと、小柄な身体がふたまわりは大きく見えたものだ。スカートを履いているのなんて殆ど見たことがなかった。
どうして結婚しなかったのかと訊くと、自分につりあうほどの男がいなかったと豪語していた。そんなときは母の二流の負け惜しみだと笑ったが、案外、本当なのかもしれないと最近になって思い始めた。
「眞貴(マキ)ちゃん、大丈夫?」
急に呼びかけられた。
それはとても小さい声だったけど、前を見ていなかったのでびっくりした。
目の前にとびっきり喪服の似合う美女がいる。世話になった病院の先生で母の生前からの親友の一人でもある人だ。母が入院するまえから何かと面倒を見てもらい、よく夕食なんかにも連れて行ってもらっていた。母よりも3歳年上だということだが、とてもそうは見えなくて、むしろ30代といった方が通用しそうな女性だった。そんな先生も今日ばかりは暗く落ち込んでおり年相応に見えた。
先生の隣の若い女性にも見覚えがあった。
入院中の母をずっと世話してくれた看護婦さんで、背が高いけどかわいい人だ。病院の人気者で、廊下を歩いているだけで患者からひっきりなしに声をかけられていた。しかし、そのかわいい仕草に似合わず、新米なのに驚くほど手馴れていると婦長さんを感心させる一面もあった。
いつもはピンク色の看護婦の制服を着ているだけにワンピースの喪服とのギャップが激しくて、改めて今日が葬式であることを思い知らされた。それにしても、いくら親しかったからといって看護婦さんがお葬式まで来てくれるなんて、ちょっと珍しいんじゃないだろうか?
「はい、だいじょうぶです。前から覚悟はしてましたから……」
「そう……」
それだけ言うと先生達は出棺を見守るための一般参列者の列に戻っていった。一瞬振り返ったとき、その目が何かいいたそうだったがなにも言わなかった。一人しか居ない親を失った娘にかける言葉が見つけられなかったのだろう。随分、母と仲がよかったから、あるいは自分の悲しみで手一杯なのかもしれない。
力ない祖父母に代わって式を取り仕切ってくれているのは母のもう一人の親友だった人だ。その旦那さんも事業を立ち上げたばかりで忙しい筈なのに、通夜からこっちいろいろな手続きをこなしてくれている。祖父母は車を持っていないので、とてもありがたい。
「眞貴」
親友の結城茅子(かやこ)と学級委員長の木下君と副委員長の祐美も来ていた。三人とも見るからに着慣れていなさそうな黒い服を着ている。他の友達は通夜の時に来てもらったので、平日の昼のお葬式にはこの3人だけ担任の許しを得て来たらしい。
「カコ、委員長も祐美も来てくれてありがとう」
「ううん、そんなことより眞貴……私なんて言っていいか……」
そう言いながら茅子の目は既に泣いた痕がある。激情家の茅子の事だから多分、わたしより泣いてるに決まっている。母とも何度か面識があって、喋ったりもしてたし。
「カコ、泣かないでよ。もう大分前から分ってたんだから」
「でも……でも……」
また泣き出そうとするカコを木下君と祐美が引っ張って会葬者の列に連れて行った。
コンコン。
祖父が棺おけの蓋の釘を石で打ちつける音ではっとした。
祭壇にもどってぼーっとしていたら、「釘うち式」とかいうのが始まった。祖母が震える手で石を握り釘を打っていた。
近親者で近いうちからという事なので次はもうわたしだった。
一人っ子で結婚もしていないため、母の血縁者と呼べる人はほとんどいない。祖父の弟夫婦が来ていたが、その人(大叔父といったか?)達ももう何年も会ったことはなかった。
肉親が少ないのであっという間にその儀式が終わると、出棺になった。わたしは母の遺影を渡され、それを胸に抱いて、位牌を持つ祖父に続いた。
今日は葬式には相応しくないほどの快晴で、家を出ると目が眩む。
さほど広くない庭は黒い服を来た大人で埋め尽くされていた。むっとした汗の匂いが鼻をついた。
ああ、と思う。
血縁者こそ少ないけど、この人達が母の生きた証なんだ。
近所のスーパーに了解を取って、駐車場を開放してもらったのだが、今日のスーパーの駐車場の半分はすごい高級車で埋め尽くされていたと、後日友人から聞いた。
そういえば記帳の名前の中にも、わたしでも名前を知っている有名人がちらほらと見えた。音楽評論家とは関係ないだろう国会議員なんかもいてびっくりした。どういう経緯で知り合ったのだろう? そんな話を母から聞いたことは一度も無かった。
祖父がありきたりな出棺の挨拶をしている。
なんでもない言葉なのに酷く心に響いた。
そのくせ後になってから祖父が何を言ったのか思い出そうとしても、ちっとも覚えていなかった。
霊柩車に棺桶が乗せられ、わたし達は別の車で火葬場に向かう事になった。
車の中で運転する小父さんにこれからの今日の予定を聞かされる。
これから火葬場でも焼香して、一時間ほど待った後、遺骨を拾い、再び家に戻り、またお坊さんが読経するらしい。その後、初七日の法要も済ませてしまうということなのでまだまだ先は長い。
私は身体の大きい方ではないが、小柄な母の喪服を着ているためにちょっときつかった。最後まで破れたりしないかと心配だ。
本来なら、その後さらに肉親が集まって「精進落とし」と言う宴会をするそうだが、肉親が少ないのでしないことになった。とはいえ家でジッとしているのは良くないだろうからと、わたしや祖父母とも交友のある母のごく親しい友人を集めて、簡単な料理を振舞う事にしている。
ああ、そうか。急に思いついた。「精進落とし」というのは飲み食いするためにあるんじゃなくて、家族に仕事を作るためにあるんだな。身体を動かしているうちは余計な事を考えなくて済むから。昔の風習はうまくできてる。
祖父母は今日から暫く私の家に(今日から本当に『私の』家だ)泊まっていくことになっている。明日から弁護士さんに会って、遺書の開封や相続税の説明、生命保険の手続きなんかをしなければならない。わたしの身の振り方もまだ詰めてなくて、今は一応、県下有数の進学校に通っているので私は残りたいと言っているのだが、祖父母は自分達の家に来て欲しそうだ。
正直いうと母の思い出のある今の家に残りたいのだが、さすがに女子高生の一人暮らしと言うわけにはいかないかなと、諦めている。母の遺言にわたしの身の振り方も含まれているらしいが、一体なんて書いてあるのだろう?
えぇい、今そんなことに頭を悩ませても仕方が無い。夜の料理でも考えよう。
祖母に仕事が行き渡るように、祖母を立てつつ料理をしないと。これは案外、難題だぞ。先生も急患が出ない限り残ってくれるそうだし、小母さんと小父さんにも残ってもらうつもりなので、6人分の料理という事になる。母子家庭の娘の家事の腕前を如何なく発揮しないと。
ふと信号待ちの車の窓の外で民家の庭に二輪のひまわりが咲いているのが見えた。
目に染み入る黄色い花。
車が動き出してはっとした。再び目の前のことに目を向けた。
今日はまだまだする事がある。
きっと夜、寝る頃にはヘトヘトになってるだろうなぁ。
そうだ、それからまだしなきゃいけないことがある。
布団の中で、一人で勝手に逝ってしまった母に文句をいわないと。
文句を言いながら目一杯泣くんだろうな。
そのころには今は枯れている涙もまた湧いてくるだろうから……。
――佐川 亜衣 享年42歳
佐川 眞貴 17歳
初夏。
1.遺言
ジリリリリ!!!
ダッ! と上半身だけ布団から飛び出して、目覚し時計に飛びつく。
再びベッドにもぐりこみながら、ぼんやりとみなれた天井をみた。
………夢じゃなかった。
次に目が覚めた時、なんだ母さんが死んだのは夢だったのか、と思いたかった。
でも、今、昨日の出来事がまざまざと思い出せる。
そう、葬式はあったのだ。母は死んだのだ。
火葬場で親族がお茶を飲んでいる時に、一人ですこし外に出て火葬場から空に伸びる煙突をみていた。煙は殆ど無色で、それが無性に悲しかった。
母の小さな骨を拾ったとき………。
………やめよう。つらすぎる。
それでも起き上がる気にもなれず、布団の中でジッとしていた。本当は期末テストが終わったばかりで夏休みまで少し時間があるが、担任の先生には無理に来なくていいと言われてるし………。
すると目覚ましの音を聞いたのかトントンと足音が上がってくる音が聞こえた。
昨日から泊まっているおばあちゃんかと思ったんだけど、なんだか足音が軽い。誰だろうと思って扉に目を向けた途端、ドアが開いた。
「眞貴ちゃん、おきた?」
「ミヨ小母さん……」
なんだか起きる気にはなれなかったのだが、さすがに他所の人が来ているのにいつまでも寝ているわけにはいかない。こんな時まで、母の厳しいしつけが行き届いている自分にうんざりしつつ上半身を起こした。
「小母さんはやめてよ。昔みたいに未夜ちゃんでいいわよ」
母と同い年の中年女性がわたしのベッドに淵に腰掛けた。
目じりの皺が年相応のものを感じさせるけど、喋ると驚くほど元気のいいひとで、めまぐるしく変わる表情が周りの人を安心させる。どっちかというとちょっと怖い感じのする母と意外なコンビだっただろう。
深山未夜子。昨日から旦那さんと一緒に母の葬式をなにかと手伝ってくれた人だ。中学生の時から大学卒業までずーっと母と一緒で、姉妹みたいだった。実際、高校生の時は母の両親、つまり祖父母の転勤の都合で一緒に暮らしていたそうだ。
わたしも小さい頃からずっと面倒を見てもらっており、母の真似をしてずっと『未夜ちゃん』と呼んでいたのだが、ここ2,3年、旦那さんの仕事が忙しいらしくて、小母さんも手伝っているそうなので、母が入院するまで疎遠になっていた。
「あれぇ、なつかしい。この縫いぐるみまだあるのね」
枕もとにあった胸にデカデカと『ウエちゃんJr.』と刺繍された名札の付いたパンダの縫いぐるみを、未夜小母さんが、いや、未夜子さんが手にとった。まだ、わたしが幼い頃、母が大事にしているウエちゃんという縫いぐるみ欲しがったので、未夜子さんに買ってもらった人形だった。
わたしがウエちゃんがいいと言い張ると、母がこれはウエちゃんの子供だといって、マジックで勝手に『ウエちゃんJr.』と書いてしまったそうだ。わたしが大泣きしたので、未夜子さんが次の日に今ついている名札を着けてくれたらしい。
なんで熊の子供がパンダなのか、今思っても無茶苦茶な母だ。
未夜子さんも同じことを思い出していたのか、一瞬、悲しそうな目で『ウエちゃんJr』を見ていた。
「お父さんとお母さんが落ち込んでるだろうと思って今日は様子を見に来たの」
聞いても無いのに未夜子さんはそう言うとシャっとカーテンを開けてしまった。
「亜衣のことはお父さんとお母さんが十分思い出してくれてるから、若い子は起きた起きた! ほら、今日は11時から弁護士の先生が来るわよ。朝ご飯作ってあげるから」
さすが母と付き合いが長いだけあってどこか似ている。強引なところ?
「自分で作るからいいよ。すぐに起きるから下で待ってて」
そういって未夜子さんを追い出すと、ノースリーブのピンクのシャツとジーンズに履き替えて階段を下りた。
一階では祖父母と未夜子さんがお茶を飲んでいた。
「康治さんはほっといていいの? 優美奈(ユミナ)ちゃんはどうしてるの?」
顔を洗ってからテーブルについたわたしは未夜子さんに話し掛けた。康治さんは旦那さん。優美奈ちゃんは今年5歳になる娘さんだ。高齢出産で随分悩んだそうだ。
祖母もしきりにそのことを気にしているみたいだった。
「ああ、ご心配なさらずに。康治サンは昨日もお葬式終わった後で会社に戻っちゃって、多分今日の夜まで帰ってこないから。独身がながかったから平気よ。優美奈は実家に預けてありますし」
そういって平気な顔でお茶を啜っている。
未夜子さんと康治さんとの付き合いも随分長いそうで、中学生以来からの知り合いだそうだ。それなのに結婚したのはたった7年前で、結婚前に既に20年も知りあいだったらしいから二人とも実に気楽な感じだった。
ふと、未夜子さんが祖父に向かって話し掛けた。
「ユキさんも遺言公開にくるそうですが?」
「ええ、弁護士さんにそういわれまして」
祖父が答えた。表面上はいつもの穏やかな感じだが、この祖父が実は一番ショックを受けているんじゃないだろうか。いつもより更に10歳は老けて見える。
ユキ先生は昨日の喪服美人だ。お医者さんでずーっと地方の無医村にいっては数年ずつ留まっていたそうだけど、母の入院をきっかけに大学病院に戻ったそうだ。(普通、そんなことできるのかな?)昔から数ヶ月に一回ぐらいの割合で、こちらに来る用事があると必ずこの家に立ちより、いろんなお土産をくれる人でわたしはこの美人で上品な小母さんがとても好きだった。
母の入院中はずっとお世話になりっぱなしだったので、ますます好きになっていた。
これで母が元気になってくれてたらどんなに素敵だっただろう?
一瞬、目の前の光景が滲んだので、慌てて席を立って自分の朝食を作った。
「ユキさんと遺言状は関係あるんでしょうか?」
未夜子さんが祖母に尋ねた。
「わからないのよ。亜衣は何にも言ってなかったし。ただ、『ちゃんとしておいたから』ってだけしか言い残さなかったから」
そんな話を聞きながら、朝食を作っていた。全然、食べる気がしなかったのに、目玉焼きを焼き始めるとおなかが小さくクゥと鳴った。昨夜は自分で作った料理の匂いだけで胸が一杯になり、殆ど食べなかったのを思い出す。よく言うけど、こんな時にでもお腹が減るのはやっぱりちょっと情けなくて、ちょっと寂しい。
その後、数時間ほど何をするでもなく弁護士の到着を待っていた。
これも、本当なら弁護士さんの所に行くべきところなのだが、なんでも母に恩のある人らしく、是非うかがわせて頂くと強行に主張されたので来てもらう事になっている。未夜子さんも知っている人らしくて、『誠実な人だから安心して』と言っている。
4人で待つ間も、みんななんとなくぼんやりしていて、偶に話題が出るとひとしきり話をして、またぼんやりするという変な時間が続いていた。弁護士さんのくる30分前にユキ先生がきた。
「この度は………」
「いろいろお世話に………」
未夜子さんほど祖父母と親しくないユキ先生が、あらたまって挨拶を始めた。
シックな色の薄い茶系統のスーツに紺のスカートで、地味な色合いの服なだけに、その色白の肌と流れるような黒い髪が映えていた。とても40を超えているようには見えない。子供がいないからかもしれないけど、10歳以上はヨユウで若く見える。トレードマークのチョーカーも白っぽい色になっている。
そうそう、一応チョーカーと呼んでいるけど、普通のチョーカーよりはずっと太くて、固い材質で出来ているみたいだった。どちらかといえば首輪って感じなんだけど、それがまたちょっと影があるユキ先生にすごく良く似合っていた。
「眞貴ちゃん、こんにちわ」
おっとっと。見とれてたら何時の間にか挨拶が終わったみたい。
一瞬、ユキ先生の切れ長な目と目が合ってしまった。
「色々とお世話になりました」
慌ててぺこりと頭を下げる。さっき好きだと言ったユキ先生なんだけど、面と向かうとなんとなく緊張してしまうのだった。
「ごめん、力になれなくて………」
ユキ先生がものすごく悲しそうな顔をした。
「先生のせいじゃないよ。先生でだめならだれでもダメだったと思うし……」
わたしは正直な気持ちを言った。
「………ありがとう」
寂しそうに微かに微笑んだユキ先生の表情にドキッとしてしまった。
その後は更に難しい時間が流れた。ユキ先生は喋りだすととっても面白い人で、たまに会うと地方の無医村の方言なんかを披露したりして、病室でも病床の母を笑わせてくれていたのだが、やっぱり黙っているとあまりに整った顔立ちに周りが緊張せずにはいられないのだ。
特に笑うのが憚られる今日みたいな日はみんな黙っているしかなかった。
11時ピッタリに中年の禿げたおじさんが重そうな書類ケースを抱えてやってきた。
「常田さん、ひさしぶり」
「ご無沙汰ですね」
未夜子さんとユキ先生が親しそうに声をかけた。
あれ? ユキ先生も弁護士さんと知り合いなの? 母と未夜子さんの共通の知り合いだって言うからてっきり高校の同級生かなんかだと思ってたけど、違うのかな?
そういえばこの常田さん、病室で母にあったときもなんだか変な感じだったな。なんか萎縮してたような。
「この度はまことに………」
祖母と常田さんが昨日から何度も聞いた挨拶を交わしていた。確か常田さんは昨日のお葬式にも出席していたと思うけど。
遺言状の公開というので、なんとなく推理ドラマのようなオドロオドロシイ雰囲気を想像していたのだが、当然そんなことはなかった。常田さんは出された冷たい麦茶を飲みながら、パッパと書類を出し、手際よく説明していった。
さすが母が信用していただけあって、禿げててもかっこいい。いや、これは失礼だけど。
そして遺言の中身は、わたしと祖父母にとっては驚くべき内容だった。
まず、資産が信じられないほどあった。
銀行預金、家、マンション数件、有価証券を合わせると数億円にもなるという。
ウチは金持ちだったとはじめて聞いた。母は全然そんなそぶりを見せなかったし、大体、お年玉すら大半は取り上げられていたのに………。
しかし、常田さんの説明で相続税というのがこれまためっぽう高いことが分った。
結局、遺言の内容は銀行預金は全て祖父母の老後の費用に、有価証券の売却益を相続税の支払いに当てた上で、マンションは賃貸しその収益をわたしの生活費に当てるということになった。つまり、わたしは17歳で家持ち、月収持ちになってしまったのだ。
そして常田さんはこう締めくくった。
「最後に佐川眞貴が成人するまでの財産管理、身元引き受けを横山由貴に任せる」
はっ?
「眞貴さんのご面倒は由貴さんに見て欲しいというのが故人の希望です」
ええーー!! なんでーーー!!!! なんでユキ先生なんだ????
わたしも祖父母もめちゃくちゃ吃驚したが、ユキ先生がそれ程でもない所をみると知っていたみたいだ。未夜子さんも納得してるみたいだった。
「あの……それはいったい、どういった……」
祖父母は困惑していた。多分、わたしを連れて田舎に帰るつもりだったのだろう。唯、ユキ先生とは入院中ずっと会っていたので、信頼に足る人物だという思いはあるようだ。その複雑な心境が表情に出ていた。
常田さんがおもむろに封筒を差し出した。祖父母あての母の私信だった。
「これをお渡しするように言われています」
長い手紙で便箋に何枚も書かれており、祖父母は長い時間をかけて読んでいた。祖父が途中ですすり泣き始め、二人が読み終わるまで長い間沈黙が続いた。
全てを読み終わった後、祖父母はユキ先生に頭を下げた。
「孫をよろしくおねがいします」
ユキ先生も深深と頭を下げた。
「お嬢さんが成人するまでお預かりいたします」
えっ? ホントに!?
一体、何が書いてあるの?とも訊けず、わたしは成り行きを見守った。
ユキ先生は好きだし、高二も半ばになって学校が変わるのは嫌だったので、依存は無かったけど、ユキ先生はずっと地方にいて親代わりになるほど親しかったって訳ではないのに。どちらかというと未夜子さんの方が相応しいんじゃ。まぁでも、わたしは心配していた転校の必要も、大学の入学費用の心配もなくなり安心して今の生活を続けられる事になった……のかな?
ふと、疑問をぶつけてみた。
「じゃ、わたしはユキ先生と一緒に住むんですか?」
まさかこの家に一人暮らしとはいかないだろう。祖父母が許すはずが無い。
「そのことなんだけど……」
ジジジジジ。
テーブルの上でユキ先生のハンドバッグが振動し始めた。
ユキ先生が話を止めて、ハンドバッグから携帯電話をだす。
「ごめんなさい、急患みたい」そうわたしに言ってから祖父母に向き直った。
「申し訳ありません、すぐにでもお話したいんですけど今、病院のスタッフが足りなくて……。明日は手術があるので明後日になりますけど、ゆっくりと話をさせて頂きたいと思うのですが」
「はい、是非よろしくお願いします」
祖父がそういうと先生はあわただしく挨拶をして駆け出していった。
「相変わらずいそがしそうね。由貴さんは」
未夜子さんがそう言った。
2.看護婦
次の日、祖父母は一旦着替えを取りに田舎に帰った。今夜は未夜子さんと一緒にこの家にいることになったのだが、未夜子さんも夜に来るそうなので日中は一人になった。
期末試験の結果が出ている頃だろうから学校へ行ったほうがいいのだが、さすがにそんな気にはなれなかった。友達達に同情の目で見られるのを想像するだけで辛かった。
祖母の作っていってくれた食事を食べながら新聞を読んで時間を潰していた。
そしてそれは嵐のようにやってきた。
ピンポーン!
インターフォンの音でうつらうつらとしていた自分に気付き、涎を拭きながら(!)立ち上がってインターフォンの玄関の映像をみる。なんだか見覚えのある人が立っている。
誰だったかなぁと思いながら玄関を開けてビックリした。
なんかのロゴが入っている水色のチビTにブラックジーンズを履いた背の高い女性が立っていた。いや、ビックリしたのはそのことでは無い。その人がでかいボストンバックとこれまたでかいスーツケースを持って立っていた事にビックリしたのだ。
「やっほー。眞貴ちゃん!!」
ノウテンキに話し掛けられてわたしは一瞬言葉に詰まってしまった。
「あの……」
「いやねぇ、マイコよ。看護婦の!」
あっ、そうか。白衣きてないから解らなかった。そういや、昨日も喪服着てたわ。
「ああ、マイコさん。おはようございます」
「なによ、他人行儀に。ほら、荷物運ぶの手伝ってよ」
屈託の無い笑みでそう言った。
「あの……旅行でも行くんですか?」
そんな訳ないと思いながらも一応言ってみた。
「なに、とぼけた事言ってるのよ。今日からあたしこの家に住まわせてもらうの! よろしくね。家主さん」
はぁ!?
「いや、もう夜勤明けで疲れちゃってさ。何とかかろうじでタクシー呼んだんだけど荷物重くって……。眞貴ちゃんは水泳選手なんでしょ。えいって運んじゃってよ」
そうそう、わたしは部活で水泳をしている。あんまり速くないんだけど500M背泳ぎではそこそこの記録を持っているのだ。おかげで太ももと背中の筋肉がモリモリでちょっと困ってるんだけど。
いや! そんなことはどうでもいい!
気が付くとマイコさんはズカズカと家の中に入っていた。
「ちょ……ちょっと、何言ってるんですか? そんなの知りませんよ」
「えへへ、ホントはユキ先生がちゃんと話をしてからって言ってたんだけど、どうしても我慢できなくて勝手に引っ越しちゃった。今日はユキ先生も忙しいからこっそりと荷造りしといたのバレずにすんだわ」
そういうとリビングの方へ行ってしまった。
わたしは巨大な荷物を表に出して置くわけにも行かず、玄関に引き入れてから、慌てて後を追った。リビングルームではマイコさんがソファに腰掛けて足を上げてテレビを点けていた。
病院で母の世話を見てもらっていたときから、随分明るくて、屈託の無い人だとおもっていたけど………。
「お茶かなんかいれてくれない? あたしって夜勤明けの後は一服しないと寝れないんだよね。ホットミルクなんて入れてくれるとうれしいんだけど。砂糖なしでいいから」
……ここまでノーテンキな人だとは知らなかった。
わたしはマイコさんの向かいにどっかと座ると、声を大にして問いただす事にした。
「なんでマイコさんが急にこの家に来るんですか!!! ここに住むって何を勝手に!!」
「えっ、ダメなの?」
驚いたように言うマイコさん。
そうだ、思い出した。病院にいた頃からこの人を見てるとなんかイライラするんだよね。
「17歳で一軒家に一人暮らしなんて危ないでしょう? だからあたしが同居してあげる。居候ともいうけどね。いまさぁ、ユキ先生と暮らしてんだけど、あの人年々口うるさくなってくんだよね。もう窮屈でさぁ。でも、あたしの収入でアパートはきついしさ。それに……ねぇ……家付きのオンナの子が一人暮らしなんかして悪い虫がついちゃったら……ねぇ」
といって、ちょっと嫌な笑い方をした。
こいつは患者さんにお尻を撫でられたりしてもへっちゃらな図太い奴なのだ。もっとはっきり言わないと。
「わたしの将来はわたしの問題で、マイコさんには関係ありません!! 勝手に人の家に上がりこまないで下さい!!」
わたしが声を荒げてもこの人はまったく動じない。
「まぁまぁ、そんなに怒らなくても。あっ、そうだ。亜衣にお線香上げないと。仏壇とかはまだないんでしょう」
その態度にカチンときた。
「ウチの母さんを呼び捨てにするな!!」
そこで初めて「えっ」とこちらの方を向いた。
「ああ、ごめんなさい。いつもの癖で……。眞貴ちゃんも若い頃の亜衣にそっくりだから、つい、気安くなっちゃうのよね」
「なにが母さんの若い頃よ!! わたしとそうたいして違わない年のクセに!!」
自分でも顔が真っ赤になっているのがわかる。なんなのよ、この人!
「あぁ、そうか。一眠りしてからゆっくり話そうかと思ったんだけど……」
「なんでもいいから、サッサと帰れ!!」
ソファのクッションを投げつけてやった。
「まぁまぁ、そんなにおこらずに」
「怒らせてるのはマイコさん、あなたでしょう!!!」
「ああ、その事なんだけど、水野マイコってのはあたしの本名じゃないの」
「へ?」
我ながら間抜けな声が出てしまった。それに気を良くしたのかスックと立ち上がった。
「看護婦・水野マイコは世を忍ぶ仮の姿……果たしてその正体は……」
楽しそうに勝手に『間』をおいている。
なんだか、めちゃくちゃ勘に触った。
「ユキ先生、横山由貴の姉こと横山冴貴っ!! そして……」
あぁあ?? 何言ってんだぁ? って思ったら、さらにこうぬかした。
「あなたの父親よっ!!」
だっ……だれかあ!! こいつを病院につれてかえれえ!!
3.焼きそば
「あっ……なっ……ばっ……なっ……」
余りに言ってやりたい事がたくさんあって言葉が喉の辺りで渋滞をおこしたようで、さっぱり、意味のある言葉がでなかった。
「眞貴ちゃん、息しないとしんじゃうよ」
張本人が心配そうにそういう。
わたしは喋る事をいったんあきらめ、胸を押さえて呼吸を整えた。
「ほら、目元がよく似てるでしょう? 子供の頃は眞貴はお父さん子だって言われてたんだから。でも、そうやってショートヘアにするとやっぱり母親似だね。」
相手のたわごとは無視する。
「ちっ……ちっ……父親って、あんた女じゃない!!」
苦心の後にやっと出た言葉は余りにも当たり前なつっこみだった。
「うーん、母親ってのが女の親っていうことなら、あたしも母親なんだけどぉ、でも、どっちのナニをどっちのアソコに入れたかとなると……」
すこし恥ずかしそうに俯きながらそんな事をいいだした。両手の人差し指同士をチョンチョンと突付きあったりしている。
ちょ……こいつなに言い出すのよ!!
「わぁああ!! 何いってんのよ!! 大体、あんたとわたしとじゃ年が殆ど違わないじゃないの!!」
「そう? やっぱり、若く見える? 今年で49歳になるんだけど」
マイコさんはそう言ってポーズをとって見せた。
もう、わたしは混乱しっぱなしだった。
もちろん、この女が父親だから混乱していたのではない。こんな嘘を言って何の得があるのかわからないから混乱していたのだ。
財産目当て?
誰も信じない嘘をついてどうするんだ。
嫌がらせ?
わたしも母さんも世話になったけど、嫌がらせされるほど迷惑かけてないよ。大体、ずっと仲良くやってきたじゃないか。わざわざ、母さんの葬式にまで来た人がなんでそんなことするんだ。
もう一回、マイコさんの方を見てみる。
彼女は屈託の無い笑顔を振り撒いている。
なんだか情けなくなってきた。
なんでこんな時に……なんでわたしが一人のときにこんなわけわかんない人がくるのよ。
もう、わたしは……わたしは……
「お昼ご飯、作る」
立ち上がって、その場から逃げた。
「あたしいらないから」
後ろからそんな声がかかる。
「誰があんたの分なんか作るか!!」
カウンターキッチンなので、その向こうのテーブルと更に向こうのソファまでが見通せるのだが、なるべくマイコさんのことは気にしないようにしながら、残り物で焼きそばを作った。マイコさんは何も言わずにテレビを見ているようだった。
焼きそばができて、テーブルに持ってくると、マイコさんがソファで寝ているのに気付いた。道理で静かだったわけだ。どうやら夜勤明けというのだけは本当だったみたいなので、そのままにもしておけず、お昼寝用の毛布を持ってきて掛けてやる。
寝顔はむしろキリッとした感じで結構な美人だった。
焼きそばを啜りながら、なんでわざわざあんな嘘をつくんだろうと考えていた。何で母親がいなくなってこんなに辛い時に、こんな嫌がらせをしに来るんだろう。母さんがいたら、怒鳴りつけて叩き出すんだろうな、とその場面を想像すると少し胸がスッとした。
胸がスットしたはずなのに、涙がポロポロと流れていた。
拭いても拭いても止まらなかった。
母さんの声、もう一度聞きたいよ……。
涙が止まってから食べ始めた焼きそばは、もう冷たかった。
なぜか、すーすーというこの人の寝息が、少しだけ心細さを紛らわせてくれた気がした。
4.でこぴん
わたしはマイコさんをそのままにして、二階の自分の部屋でベッドに寝転がって、『ガラスの御面』という大昔の少女漫画を一巻から読み返していた。生産的なことを何もする気がしないときに、これほどピッタリ来る行動もないだろう。「二人の皇女」辺りまで来たとき、辺りが暗くなり始めているのに気付いて、電気をつけようとベッドから降りた。その時、外に車の止まる音が聞こえた。
今夜は未夜子さんが来る事になっていたが、未夜子さんは車には乗らないので、近所のバス停からいつも歩いてくる。
お客さんかな、と思って一階に降りていくと、未だにマイコさんがソファで気持ちよさそうに寝ていた。はぁ、と溜息をついたところでピンポーンと音がした。
「はい?」
ドアを開けるとそこに立っていたのはスーツ姿のユキ先生だった。
「あっ、ユキ先生。こんに……」
「マイコが来てる?」
挨拶もせずにユキ先生が切り出した。
「ええ、昼前から……あの……」
「やっぱり! 上がらせてもらっていいかしら」
「どうぞ……」
ユキ先生らしからぬ剣幕にわたしはちょっとびびっていた。
ドスドスドス!
リビングまでの短い廊下をユキ先生が大またで突き進んでいく。わたしが小走りでついていくとユキ先生がこう言った。
「あの子が変な事を言ったと思うけど、気にしなくていいからね。ちょっと分裂症の気があるから私が面倒をみてるの」
分裂症の人ってあんな事をいうのかな? と思ったら昼間散々悩まされた声がした。
「自分の姉を捕まえて、分裂症はないでしょう!! お医者さんがそんな嘘言っていいのかなあぁ」
見ればソファの上で、疫病神が起き上がるところだった。寝起きでぼさぼさの頭をボリボリと掻いている。
「さぁ!! 家に帰りますよ! ちょっと目を離した隙に荷造りまでして! 普段は片付けもしないくせに、こんな時だけやることが早いんだから!」
「いやですぅ。あたし帰りませんー。眞貴と親子水入らずで暮らしますぅ」
「聞き分けのないこと言ってないで! 無理矢理にでも連れて帰りますからね」
「いやだよ。だってユキさ、最近忙しくて全然構ってくれないくせに、説教ばっかりするんだもん」
マイコさんが子供の様に唇をとがらせて、抗議している。
「しかたないでしょう! 亜衣さんの主治医にしてくれって無理を言ってお世話になったんですから、仕事が断れないんです。地方の診療所みたいな訳にはいかないのよ」
「ふーんだ。だったらユキは一人で忙しく暮らしてればいいのよ。この家はあたしの家でもあるんだから、あたしはここに住みますぅ、ユキ先生こそかえってくださいー」
ちょっとまて。誰の家でもあるって? ここは母さんとわたしの家だぞ。
「何をかってな事を……」
わたしがそういって近づいた瞬間、さっと腕をとられ……
「とおっ」
ドスン!
一瞬のちにわたしはソファに寝転んで天井を眺めていた。
「あっはっは。田舎暮らしの暇つぶしに黒川村村民会館でおじさんたちと柔道をしていたのは伊達じゃないのだ」
マイコさんが腰に手をあてて、高らかに笑っているのが逆さまに見えた。
私は見事な払い腰で放物線を描きながら投げ飛ばされていた。
「こら!! なんてことを!!」
ユキ先生が言い終わる前に、マイコさんはダッシュでそのユキ先生にがっと組み付いて、
「マキーー!! どいてどいて!!」
といいながらこっちにつっこんできた。わたしが咄嗟にソファから飛びのいた瞬間。
どおん!
ユキ先生が大腰でソファに投げ飛ばされた。
「マイコ!! なにするの!!」
そう言って起きようとするユキ先生に抱きついたと思いきや、もがくユキ先生をものともせず肩を頭できめて足を絡め、完璧な縦四方固めで押さえ込んだ。
よくこんな狭いソファの上でそんなことできるなとわたしはちょっと感心してしまった。
「マイコなんて他人行儀な呼びかたしなくてもいいでしょう。いつもみたいにサキさんってよびなよ」
そう言いながらギリギリと締めあげている。
「いいか……げんに……しなさい……。……やめ……ないと……」
下になっているユキ先生は随分苦しそうだ。
「ほら、呼んでよ、サキさんって」
「うる……さい……」
ユキ先生の顔は見えないけど、気丈な声がした。
わたしはどうする事も出来ずに成り行きを見守っているしかなかった。
「ちぇっ、ユキは強情だからつまんないや」
そう言ってユキさんを解放すると、マイコさんが立ち上がった。
ユキ先生は顔を赤くしてソファでへたっている。このハチャメチャ女と一緒に住んでるっていってたな。上品な人だと思ってたのに普段からこんな事をされているのかな?
あ、やばっ。暴れん坊と目が合ってしまった。
「どうした、娘よ。あんな足運びでは父に勝てる日は遠いぞ」
……まだ、言ってるし……。
フン!
わたしがそっぽ向いて無言でテーブルの方の椅子に向かおうとしたら、荒っぽく腕をつかまれた。
「ちょっと! 何すん……」
バチッ。
「あうっ」
今度は目から火が出るような衝撃がおでこに来た。
「どう? あたしの『殺人でこぴん』は。娘の分際で父親を無視するなんて十年早いわよ」
わたしはジンジンと痛むおでこを押さえながら思っていた。
なんなんだ。この理不尽さは。
「いでっ! いでででで!」
急にマイコさんが悲鳴をあげた。見るとユキ先生に耳をつままれて引っ張られていた。
「もう、十分です。家に帰ってからお仕置きしてあげるから覚悟しなさい」
余り普段と変わらない静かな口調でユキ先生がそういう。
「ごめん、ユキちゃん。ちょっとやりすぎた。許して……ねぇ……ユキちゃんってば」
マイコさんが謝っているところをみると、冷静に見えていてもユキ先生は今、とっても怒っているのだろう。
理不尽大王もユキ先生には弱いらしく、耳を引っ張られたまま、玄関に続くドアに向かって引っ張られていった。もっともドナドナを口ずさんでいる辺り、まだまだ余裕がありそうだったけど。
がちゃ。
ユキ先生がドアノブに手を触れる前に、ドアの方が勝手に開いた。
「マキちゃん、こんばんわ。玄関に靴があるけど、お客さ……」
入ってきた未夜子さんと、ノーテンキ女を連行しているユキ先生の目が合った。
「あら、ユキさんにサキさん。こんばんわ」
えっ? 未夜子さん、今、なんって言った?
サッとユキ先生の顔に緊張が走ったのをみて、未夜子さんがパッと口に手を当てた。
「……わたし……なんか、まずいこといっちゃいました?」
そんな未夜子さんを尻目に、耳を引っ張られたままのマイコ(?)さんが、わたしに向けてぺロッと舌を出した。
5.同声同名
「未夜子さん! この人の名前はサキっていうんですか!!」
わたしの問いに、未夜子さんがすまなさそうにユキ先生の方に視線を送る。
ユキ先生は手に持っていた、マイコ(?)さんの耳を放して、酷く厳しい顔でこちらを見た。
わたしはその真剣な表情にただならぬ物を感じて、言葉に詰まった。
「そう、この人の名は横山冴貴。20年前に行方不明になったはずの私の姉なの」
この期に及んでユキ先生が冗談を言うとは思えなかったけど、わたしの理性はそれを信じる事を許さなかった。
「いやだ……先生まで……変な冗談を……」
「マキ……冗談じゃないのよ」
未夜子さんの表情も見たこともないぐらい固かった。
「じゃ、その人がユキ先生より年上だっていうの……どうしてそんな……嘘つくの?」
わたしがそう言うと未夜子さんもユキ先生も黙ってしまった。
嫌な予感がした。二人が話しているのは、この看護婦の本名とか年齢とかそういうことではなくて、もっと違う事ではないかと思った。
「まだるっこしい事言ってないで、本当のこといえばいいのよ」
なんて呼べばいいのだろう。マイコさん? それともサキさん? とにかくその人が全員にテーブルにつくように身振りし、ユキ先生と未夜子さんがそれに従った。
「マキちゃんも座りなさいよ。ケーキ買ってきたの」
未夜子さんがわざと明るく振舞って、持ってきた包みを開いたけど、わたしはとても椅子に座ってお茶する気にはなれなかった。
「ねぇ……この人が言ってる事はみんな嘘なんでしょう。まさか、ユキ先生までこの人がわたしの父親だなんて言わないよね?」
でも、ユキ先生は黙っていた。
「あたしは人間じゃないんだよ。だから普通に年をとらないのさ」
そういいながら、その人がキッチンの方へ歩いていく。
「人間じゃない? じゃ、宇宙人かなんかなの? 灰色にはみえないけど」
わたしの皮肉交じりのできの悪い冗談に、相手は平然と答えた。
「いや、ホントのところ悪魔なんだ。尻尾は生えてないけどね」
「へぇーー悪魔なんだぁ」
「そう、悪魔なのぉ。びっくりでしょう」
「蝙蝠の羽はどうしたの?」
「クリーニングに出してるのよ」
「クリーニングね。フフ…」
と、わたしが笑おうとした瞬間、その人はくるりと振り返り……
ドン!
キッチンから持ってきた包丁をテーブルにつき立てた。更に言うなら自分の手の上に。
その人はピピッと跳んだ血が頬にかかっているのに少しだけ顔を歪めただけだった。
未夜子さんが咄嗟に顔を背けた。
「きゃああああ」
悲鳴をあげたのはわたしだった。
何をするのかとか何故そんな事をするのとか、そんな疑問の余地もなく、ただ、手の甲に包丁が突き立っているというその光景がわたしに悲鳴を上げさせていた。
「悪魔だからこんなことしてもへっちゃらなんだ」
その人は平然とそう言って包丁を抜き取り手を顔の前にかざした。流れる血が腕を伝い、肘から床に向かってポタポタと落ちていたが、すぐにそれは止まった。その人がテーブルの上のティッシュを数枚取り、べったりと付いた血を拭うと、その下に傷口はなかった。
コレハ、手品ナンダ。
わたしは何とか自分にそう言い聞かせようとしたが、床の血だまりから上がる咽るような血の匂いに邪魔されていた。
「手品だと思ってるでしょう? ちがうんだな、これが」
さっきまで血だらけだった手をひらひらとさせる。
「なんならもっとやったげようか? ユキとミヤが許可してくれればもっとすごい事してあげるよ。ねぇ、ユキぃ、ミヤぁ、いいでしょう? 久しぶりにパァーーっとやろうよぉ」
その人が未夜子さんの腕にすがりついた。未夜子さんはそんなマイコ(?)さんの頭を撫でている。
「待って下さい、冴貴さん。眞貴ちゃんには一からちゃんと話しましょう」
ユキ先生が依然固い表情のままわたしを見つめた。
「あなたは確かに亜衣さんと冴貴さんの、そしてわたし達の娘なの」
わたしはマイコ(?)さんの異常な行動、ユキ先生の突飛な言動、そしてなによりいつも優しい未夜子さんが今の状況になんの手助けをしてくれない事に不安が募った。いや、不安というより、なにがなんだか解らなくて、ただただ戸惑っているという感じだった。
「その前に血を拭かないとだめだな、こりゃ」
「じゃ、お茶入れますね。きっと長い話になるだろうし」
話の腰がグッキリと音を立てて折れた。
―――5分後
「コホン……じゃ、気を取り直して……」
ユキ先生が再び口を開いたのは、美味しそうな湯気を上げる人数分のコーヒーカップを囲んだ後だった。
わたしは血に染まった雑巾を捨てに行く間、色々な質問を考えていた。
『この人は本当に49歳なんですか?』
『この人は本当にわたしの父親なんですか?』
『この人は本当に悪魔なんですか?』
でも、どの質問もあまりにも奇妙すぎて、今になってもとても口に出す気にはならない。
「信じられないと思うけど、とりあえず聞いてね」
そうユキ先生が前置きして始めた話は、突拍子もないというかなんというか、すごい話だった。要約すれば、元々悪魔のような能力を持った冴貴という人を狙って二人の(二匹の?)悪魔が来て、とある男の記憶を植え付けたユキ先生を創って(!?)この人を悪魔の道に引きずり込んだ。母さんがそいつらを追い払って、で、母さんと冴貴さんの間に生まれたのがわたしだという事だった。
この人は年を取らず、男でも女でもなれるらしい。さっきみたいに自分自身の怪我はすぐに治ってしまうし、他人の思考を読み、感情を思いのままに曲げる事までできるらしい。ただし他人に力を使う時は、ユキ先生、未夜子さん、康治さん、そして今はもういないがウチの母さんの内、二人以上の了解を取らないといけないという約束だそうだ。一人でも反対した場合も使ってはいけないことになっているらしい。この人は約束した事は自分からは破れないという話だった。
時折、マユコさん(?)が口を挟み、未夜子さんが思い出を語っていた。
わたしは聞けば聞くほど開いた口が塞がらなかった。
本当にこの人が父親なのだろうか? 生まれた時からずっといなかったのだから、父親が恋しいと思った事はないけど、人並みに三人家族だったらどんな家族だったのだろうかと子供の頃はいつも想像していた。父親のいる友達が羨ましくて、何度も母さんに泣きついて張り倒されていたのは前にも言ったとおりだ。
でも、まさか父親が女だなんて誰が考える?
しかし、思うところもないわけじゃない。はっきり言ってわたしとこの人は良く似ている。この人みたいに背が高くないけど、顔の造詣なんかが何処となく似てるし、何より声がそっくりだった。病院で喋っているとよく他の患者さんに間違えられた。
それに母さんはいつも言っていた。
『あなたのキの字は父さんから取ったのよ』と。
そのときは貴一とか貴志とかそんな名前を想像していたが、まさかオンナの名前だったなんて……。
百歩譲ってそれらがホントだとして………
「あの、肝心なところが良くわからないんですけど……どうして母さん達とユキ先生達は知り合う事になったんですか? あと、この人が悪魔の道に引き込まれたって、実際何をさせられたんですか?」
その部分だけはなんだか歯切れが悪くイマイチぼやかされている気がするので質問してみた。すると案の定、ユキ先生は言葉に詰まった。未夜子さんも目を伏せた。その人――ええい、もうめんどくさいから『サキ』でいいや――サキはそんな二人を見てニヤニヤしていた。
「そりゃ、やっぱりきかれるよねぇ。どうするの~、由貴センセイっ?」
サキが楽しそうにそういう。二人は完全に沈黙していた。
「もう言っちゃえばいいのに。眞貴だって17歳なんだから、いい大人だよ」
……? どうしてわたしの年が関係あるんだろう?
不審に思っているとユキ先生がポツリと言った。
「サキさん、眞貴ちゃんのこの記憶を消しなさい。やっぱりまだ早いわ」
!!? ちょっと、なにそれ!!
「ちぇっ、ユキの意気地なし。最近、保守的すぎるよ」
そう言いながらもサキがこちらへ手を伸ばしてきた。
わたしは咄嗟に椅子から飛びのいた。
「ちょっと、まってよ! 記憶を消すってどういうこと!?」
「文字通り記憶を消すのよ。ついでにちょっと曲げちゃって、あたしと一緒に住むことも『納得』してもらおうかな。最初はそのつもりだったんだし」
そう言ったサキの目がみるみると真っ暗になっていく。あっという間に、何の光も反射しない暗い穴のようになってしまった。それは手品とかそんなモノじゃ決してなかった。
この人、本当にやるつもりだ!! 本当にできるんだ!!
わたしの心は驚きで張り裂けそうだった。
「そんなの嫌よ!! わたしの頭の中を勝手にいじられるなんて!!」
「眞貴ちゃん、ごめんなさい。貴女には知る権利があると思ったけれど、やっぱり言えないわ。貴女には普通に暮らして欲しいから……」
ユキ先生が優しく言う。サキはユキ先生に逆らう様子を見せずわたしを見据えた。
わたしはその真っ暗な瞳で見据えられ、正直言って恐かった。
でも助けは意外なところから来た。
「わたしは言うべきだと思うわ、由貴さん」
未夜子さんがわたしの側に来て、肩を抱いた。わたしが恐がっているのを察知してくれたんだと思う。
「亜衣もそのつもりだったし、わたしもやっぱり眞貴も知るべきだと思うの。私達は普通とはいえないけど、決して不幸でなかった事は知っていて欲しいわ。私達の娘に」
いつもニコニコ笑って母さんの言う事を聞いていた未夜子さんとは雰囲気が全然違っていた。わたしの肩をぎゅっと抱いて、未夜子さんがこう続けた。
「たとえ長い時間がかかっても……わかってほしいわ……」
「わかりました……いいましょう……」
ユキ先生の様子に、なにかとてつもない事実を告げられると察知してわたしは覚悟をきめた。
そこでわたしのそっくりのノウテンキな声がした。
「そうだろ、やっぱり~♪ 大体さ、17歳って言ったら亜衣なんて毎日あたし達と乱交パーティーしてたじゃん」
………は? ……ら……らん……? なに?
「もうミヤなんて亜衣にメロメロでさ。平気で亜衣のおしっこ飲んでたしぃ」
「!♂!♀?☆◎??!!!」
次の瞬間、未夜子さんとユキ先生の二人の声が見事に唱和した。
「言うにしても言い方があります!!!」
あたしは覚悟もむなしく真っ白になっていた。
6.チカラ
「わかった。わかったよ~~。もう! あたしが悪かったっていってるじゃん。ステレオでぽんぽんぽんぽん説教しないでよぉ~~」
わたしはサキの声で我に帰った。気が付けばユキ先生と未夜子さんに挟まれて責められていた。
「私と亜衣のことをダシにしなくてもいいでしょう!! 自分の方がさんざんいろいろなことしてるのに!!」
「もう! 最近、サキさんはどうしてそういう人の心を無視した言い方するんですか!!」
ユキ先生と未夜子さんがすごい剣幕でサキに迫っている。
わたしの頭の中にも徐々にさっきの言葉が染み込み始めた。
ランコウ……? オシッコ……?
「へ……ヘンタイ……?」
わたしの口からそんな言葉が出た。
その言葉に未夜子さんがハッとこちらを見た。
「ちょっと待って眞貴……話を聞いて!!」
「どうして否定しないの、未夜子さん! その人の言った事、ホントなの!?」
わたしはその時、未夜子さんに戸惑いの表情が浮かんだのを見逃さなかった。
「みんなそうなの!? そうなのね!! ユキ先生も未夜子さんも康治さんもこのサキって人もみんなそうなのね! 母さんも! わたしの母さんも!!!」
言葉を飲み込む二人を尻目にサキが平然と言った。
「そう。あたしはセックスの悪魔だからね。みんなを巻き込んで毎日毎日ドロドロのセックスをしてたのさ。亜衣なんて寝たオトコは軽く三桁にとどいてるしね。オンナもいれりゃその倍はいるんだけど」
「うそ……うそよ」
「うそなもんか。亜衣はSMクラブの女王様だからあんなすごい人脈があるんだよ。おかしいと思わなかった? どうして一介の音楽評論家の葬式に国会議員の秘書が来ているのか。その代議士も、常田って弁護士も、あの葬式でお経を上げてた坊さんも、うちの病院の院長もみんなSMが好きなヘンタイなのさ」
「サキさん、そんな言い方は酷すぎます!!」
ユキ先生が大きな声でそう言った。
『言い方』が酷いだけなの? 内容は否定しないの!?
そして、その事が意味するのは……。
「じゃあ……わたしはそれでデキたの!? あんた達のアソビで出来た子供なのね!! よくもそんなこと!! 母さんはよくもこんなバケモノの子供を!!」
……バケモノの子供……わたしが!?
なんといったらいいんだろう? 恐怖と嫌悪と不審と非難の入り混じった激しい激情がわたしを満たしていた。
こんな酷い事があるのだろうか? わたしはこれまで父親が欲しいと言う事はあっても、母さんが悪いと思った事はなかった。ずっと母さんが好きだったし、母さんを信じてもいた。父親がいなくても、未夜子さんや康治さんが優しくしてくれるからいいと本気で思っていた。
自分自身にそう言い聞かせてきたのに……。
そうでなければ、どうして自分の家庭だけ他の子達と違うのか納得できないから。
なのに、その報いがこれ!? 肉親のように思っていた親しい人たちはみんな異常者で、アソビで作った子供がわたしなの?
悔しくて、そんな人たちを慕っていた自分が悔しくて、そして腹立たしかった。
何時の間にか涙が溢れていた。
「帰って!!! みんな帰ってよ!!!」
「眞貴ちゃん、聞いて!! お願い!!」
ユキ先生の悲鳴のような声が聞こえたけど、それはわたしの憎悪を掻き立てただけだった。
「うるさい!! もう先生なんて信じない!! 未夜子さんもこの人も誰も信じない!!!」
わたしは手当たり次第にモノを投げつけた。母さんの大事にしていた花瓶もお皿も、近くにあるものはみんな投げつけた。母さんの思い出が壊れる音を聞くたびに寒々とした満足感を感じていた。何もかも無性に壊したかった。
未夜子さんとユキ先生は椅子を立ってわたしから離れていたが、サキだけは、わたしが投げる物をヒョイヒョイとよけながら平気で近づいてくる。そのまま、ティーカップを投げようとしているわたしの腕を掴んだ。
わたしは急に意識が遠のくのを感じた。
「百の言葉で飾ってもあたし達の関係の本質は変わらない。でも、それが解らなければマキは永遠に亜衣のことが解らない。自分の運命を受け止める事ができない」
さっと瞼の上を手が通る。閉じた瞼はもう開けられなかった。
「理解するにはまだまだ時間がかかる。だから今日はもう寝なさい」
その人は優しく言った。
「明日になれば今日の事はわすれてるから、必要な時にまた思い出せばいいわ。だから今夜はゆっくりやすみなさい。あたしのかわいいムスメ……」
わたしはそのまま昏倒した。
7.違和感
おかしい……。
わたしは今日何度目かにそう思いながら、食卓についていた。
なにかがおかしい。なのに、何がおかしいかわからない。
「どうかしたの、マキ? 不思議そうな顔して」
ニコニコと機嫌のよさそうなマイコさんに尋ねられたが、わたしは返答に窮した。なんせ何かがおかしいのだが、なにがおかしいのか自分でわからないのだから、説明のしようがない。
「なんでいつも朝はパンなのに今日は野菜サラダしかないの?」
「だって、わたしダイエット中だもん」
「そうだったっけ」
うーむ。違う……。そんなことじゃない。
「あ、そうだ。今日から学校へ行くでしょう? あたしも病院行くから、送ってってあげるね」
「あ、うん」
いつもの会話だ……。でも、やっぱりなんか変だ。
ん? 『いつもの会話』?
でも、母さんが死んだばかりなのに、マイコさんとの会話がいつもの会話ってのはどういうことだろう? わたし、母さんと二人暮しだったよね………???
ふと、手にとったティーカップを見る。あれ? これも確か割っちゃったんじゃ……? でも何時?
「ほら、さっさと食べないと遅刻するよ」
そう言われてわたしは首をかしげながらも、皿に盛られた野菜サラダをぱくついた。
「敬子さんたちは昼過ぎに来るって。あたしがいるからいいっていったのにね」
敬子さん? ああ、おばあちゃんの事か。
でも、なんでマイコさんがおばあちゃんの事、名前で呼ぶんだろう?
「ほらぁ、変な顔してないで学校行く準備しなさいよ。化粧がすんでないわよ」
「わたしは化粧なんてしないよ」
そういいながらも鞄を取りに自分の部屋に戻った。
マイコさんが準備をしているあいだ、わたしは余裕を持って早めに外に出た。そとにはマイコさんの1100ccのホンダCBRが止めてある。なんでも女の人でこういうエンジン剥き出しのネイキッドタイプのに乗る人は珍しいそうだ。よくしらないけど。
皮ジャンを着てバシッと決めたマイコさんが玄関から出てきて鍵を掛けた。
背が高いからこういう格好がよく似合う。髪の毛はアップにしていているのは、バイクに乗るときに髪がヘルメットの外に出てると傷むからだそうだ。
「ほい、メット」
わたしは赤いフルフェイスのヘルメットを渡されて被った。あれ……?? なんだか初めて被る気がする……、よく乗せてってもらってるはずなのに……。
ブロロロロロ!!
ガレージに爆音が響き渡った。
「ほら、乗った乗った」
マイコさんにそう言われて後ろに跨った。
マイコさんが自分の濃紺に白いラインのフルフェイスのヘルメットを被り、バイクが走り出した。カンッ、カンッというシフトチェンジの音が心地いい。
一度、交差点で止まった時に
「いつも言ってるけど、曲がる時に体立てようとしないでよ。運転しづらいから」
そう言われて、やっぱり変な感じがした。
そんな事言われた事あったっけ???
学校の校門に直接バイクを乗りつけるわけには行かないので、学校裏の人気のない道の角で降ろしてもらう。わたしが降りると、マイコさんもヘルメットを脱ぎ、目をつぶって軽く唇を突き出した。
「………なによ?」
「行ってらっしゃいのキス」
マイコさんが目をつぶったまま、益々唇を突き出した。こんな仕草をするととても可愛いのだ、この人は。
「もう、しかたないなぁ」
周りに人がいないのを確認して、バイクに跨ったままのマイコさんにチュッ、と軽く唇を合わせる。
「じゃね。行ってらっしゃい」
マイコさんはそう言うとサッとヘルメットを被ってブロロロとお腹に響く排気音を残して走り去っていった。
………やっぱり、何かおかしい。
首を傾げながらわたしは学校へ向かった。
大体、なんでこんなに顔が火照ってるんだろ???
「マキーーー!!」
下駄箱で上履きに履き替えたところで呼びかけられた。妙な違和感がなんなのか考えていたわたしは声の主が近づいてきた事に気付いていなかった。
「ああ、カコ。おはよう」
彼女は少し顔を曇らせた。
「マキ……その……もう学校来て大丈夫なの?」
いつもらしくない茅子の表情がわたしには辛い。茅子にはいつも笑っていて欲しいのに。
「もう、大丈夫よ。病気したわけじゃないんだから。それに家にいるとなんか変なんだよね」
その言葉に茅子の眉毛が八の字になる。
「ちがうの。ちがうの。母さんのことじゃなくて、なんか生活が変なんだ」
わたしは慌てて茅子の心配を打ち消した。
「そういえばマキは休んでたから忘れてるかもしれないけど、今日からクラスマッチだよ。マキは何のチームに入るの?」
「えっ!? そうなの? すっかり忘れてた」
うちの学校のクラスマッチは各クラスが5~6種類のスポーツに一つずつチームを作り、3学年24クラスで対抗戦をして、その総得点を競うのだ。各学年で負けたクラスの先生がその学年の生徒全員にジュースを奢るという伝統なので、先生の方が生徒にハッパをかける。だから否応なく盛り上がる学期末の一大行事だった。なんせ学年全員となると3万円以上の出費になるんだから先生も必死なのだ。
うちのクラスの担任の別所先生(化学)は生徒達に圧倒的な人気を誇っているので、うちのクラスの士気は高かった。
「やっぱ、マキはソフトだよね~~」
「う~~ん、そうかなぁ。でもメンバー決まってるんでしょう?」
「マキなら誰でも譲ってくれるよ。なんせあの怪力だから」
実はソフトボールにはちょっと自信がある。
父親がいないことに引け目を感じないようにと、小学生の頃、母さんが少年野球団にわたしを入れていたのが妙なところで役に立って、前回のクラスマッチでは、学年一の強打者だった。打率が8割を越し、うちのチームが1年生ながら3位入賞という快挙をはたすのに貢献しまくっていた。
「怪力って……もっと他にいいかたないの」
「そのごっつい肩で他になんと呼べと?」
いつものおどけた調子の茅子にわたしはほっとしながら教室に向かった。
今朝から感じている違和感もその時だけは忘れていた。
すぐ思い出す事になるんだけど……。
8.空
「マキぃー、かっ飛ばせ――!!」
「佐川!! うてぇ!!」
「いけーー!! マキマキぃー!!」
8回の裏、ランナー一類三塁、一打逆転のチャンスでわたしは打席に立っていた。
正式にメンバー登録していなかったわたしは、担任の別所先生の計らいで、代打として参加する事を認められ、既に午前中の二試合で4打数3安打、3打点の活躍をし、午後のこの試合でも満を持して代打に出された。このピッチャーは中学の時にソフトボール部でピッチャーをしていたそうで、恐ろしく早い速球と全く同じフォームで投げるノロノロのチェンジアップを使い分けてくるので、うちのチームはまだ一点も取れていない。
でも今日のわたしはちょっと違うのだ。
「マキマキっていうなーー!!!」
とりあえず、午前中でとっとと負けてしまった不甲斐ない男性陣のドサクサの野次に文句をいいながら、ジッと相手のピッチャーをみた。
『チェンジアップ!!』
耳元で囁かれたようにはっきり聞こえる。
そう。今日のわたしは何故かピッチャーの投げる玉がわかるのだ。だから相手の早い腕の振りからノロイ球が滑り出てきた時も、全然落ち着いていた。
(てぇぇーーいっ!!)
ぱこん!!
ソフトボール特有の鈍い音を立てて、ボールがすっ飛んでいく。
「きゃーー!! マキ――!! すごいすごい!!」
「佐川ぁ、走れ走れ!!」
「マキちゅわぁー―ん、かっこいいーー!!」
最後の声が野太い男子の声なのが気になったが、さすがにそれには文句をいう暇もなく、必死で走る。打球はセンターを越えて飛んでいた。女子の肩ではすぐに返球出来ないとは思ったけど、ランニングホームランを目指して一生懸命走った。
楽々、ホームベースに着いた時は、既に今日の試合を終えたクラスの友達達が迎えにでてくれていた。みんなに揉みくちゃにされながら誉められる。母さんが死んでから、初めて目の前の光景に色がついて見えたような気がした。
「やっぱり、マキはすごいわねー」「冬の間だけでもソフトボール部にはいってよ」
クラスメート達の誉め言葉に気をよくしながら着替えを終えたわたしは、ふと一人になりたくなって他のみんなより先に更衣室を出た。
ぶらぶらと教室へ帰る道を歩きながらなんだか無性に胸が痛くなった。
わたし、なにをしてるんだろう。
母さんが死んですごく辛かったのに、今でも辛いのに、ソフトボールに浮かれたりして……。大声で楽しそうに話しながらすれ違った男の子達の一団を見て、なんだか不条理な気がした。わたしの母さんが死んでも、みんなには何の関係もないんだ。わたしにとってはこんなに大切な事なのに……。
ふと視界が滲んだので慌てて目を瞬かせる。
「すごかったね。さっきのホームラン」
渡り廊下で急に呼びかけられて慌てて振り返ると、そこにはわたしと同じぐらかそれより小さいぐらいの身長の知らない男の子が立っていた。
誰だっただろうかと怪訝な顔をすると相手が続けた。
「さっきの試合見てたんだ。すごかったね」
「え……ええ……あの……あなたは?」
「ああ、そうか。自己紹介ってのをしないとね。僕の名は……そうだな……何にしようかなぁ……?」
冗談だと思ったけど本気で悩んでいるみたいなのでちょっとおかしかった。
「ふふ、なにそれ。自分の名前を今決めるみたいに……」
「変かな? ……そうだ、君が決めてよ。僕の名前」
??? へんなコ。新手のナンパなのかな?
相手をマジマジと見る。その子は色が白くて、体の線も細く、オンナの子みたいな顔をしていた。服装も身体にピッタリとしたTシャツで(前にも言ったとおりうちの学校は制服がない)何処となく女っぽい。左手の細い親指にはご丁寧に銀の指輪までしている。
声が少し太くなければ、本当にオンナの子だと思ったところだ。
「そんなにじろじろと見られると照れちゃうよ」
とびっきりの美少年に頬を赤らめながらそう言われて、わたしは慌てて目を逸らした。
「え……ああ……名前ね。そ……『ソラ』なんてどう?」
気まずさを誤魔化すために、一番最初に目に入ったものを答えた。
「ソラ? ……青空の『空』のこと? ……いいね。『ソラ』にしよう。これで君は僕の名付け親だね」
その美少年がニッコリと微笑むとなんだか透き通って見えた。そんな姿を見ていると、わたしも『ソラ』っていうのがなんだかピッタリなような気がした。
「フフフ、変なの。それでそのソラ君はわたしになんか用?」
「うん、訊きたい事があって」
「なにかしら?」
その時、ソラの可愛らしい目が一瞬妖しく光った。
「他人の心を覗くのは楽しかった?」
9.夏日
「えっ……???」
ソラは爽やかに微笑んでいた。
「まるでピッチャーの投げる球が分ってるみたいだったもんね。さっきの試合」
そう言われて、なぜかわたしは焦っていた。
「なにを……そんなこと……出来る訳ないじゃない……」
「そう?」
ソラは悪戯っぽく笑いながら一歩あとずさった。
この笑い方……マイコさんに似てる……。
「絶対、そうだと思ったんだけどなぁー」
ソラはそう言いながらジロジロとわたしのことを見た。
「訊きたいことそれだけならもう行ってもいい?」
わたしは落ち着かなくて、目を逸らした。
「ねぇ、またあってくれる?」
「エ……? エエ……」
わたしの曖昧な返事にもソラは嬉しそうな笑い顔を見せた。
「じゃね、マキさん」
「えっ……」
(どうしてわたしの名前を……?)
そう聞く間もなくソラはさっと踵を反すといなくなってしまった。
それは本当に不思議な日だった。
****
翌日からはうってかわってなんだか忙しい日が続いた。
ソフトボールでは前年からの念願だった全学年優勝を果たし、わたしは最優秀選手に選ばれた。二日目は相手の投げる球は分らなかったけど、そこは持ち前の運動神経(怪力?)で見事にカバーした。
家に帰ると再び田舎から出てきた祖父母とともに、母の生命保険の受け取りや、新しく貸し出した賃貸マンションの賃貸契約、母名義の口座の名義変更などやるべき事が山ほどあった。祖父母の世話そのものもわたしにとっては労働で(祖母は自分が世話を焼いているつもりだろうが、何事もわたしがした方が早かった。ゆっちゃ悪いんだけど、洗濯物をたたむのに一時間もかけてはいられないのだ)母さんのことをのんびり思い出す暇もないまま数日が過ぎた。
幸い病院の方が忙しいらしくって、マイコさんが殆ど帰ってこなかった。あの人がいたら倍は気疲れしそうだ。
そういえば祖父母とユキ先生たちと正式に話し合いがもたれて、ユキ先生とマイコさんがわたしの高校卒業まで一緒にこの家に住むことになり、その後のことはわたしの進路が決まってからもう一度話し合われることになった。
余談だけど、ユキ先生とマイコさんはちゃんと家賃を入れてくれるそうだ。祖父母は反対したんだけどユキ先生がけじめだからと押し切ってしまった。やっぱりきっちりした人なんだと感心してしまう。もっとも、ユキ先生は暇がなく荷物も多いのそうで、いつこちらに移ってくるかはまだ予定が立っていない。
すべての手続きが終わり祖父母が田舎に引きあげ、やっと一息ついてのは夏休みも目前の日曜日のことだった。
梅雨明けの抜けるような青空で、わたしはのんびり羽を伸ばそうと思っていた。
「こらぁ!! マキぃ!! どこいったのよ! 今日は非番だから一緒に買い物に行くって約束でしょう!!」
この人に見つからないようにっ……と。
家の中から怒鳴り声が聞こえるのを無視してわたしはこっそりと裏から家を出た。
大体、約束とか言って、今朝、一方的に宣告されただけだし。
わたしは競泳用水着の入ったバッグを肩にかけて、意気揚揚と駅に向かって歩いた。
夏休みに入るといくつか大会があるから水泳部は今が忙しい。わたしは母さんがあんな事になって練習不足だから、大会にでることはないんだけど、目一杯カラダを動かしてパー―っとストレス発散をしたい気分だった。母さんが死んでから久しぶりにそんな気分になれた。
学校の最寄駅で電車を降りてぶらぶらと夏の日差しを受けながら学校に向かう。日焼け止めは塗ってあるけど、帽子も被ってこればよかったと思っていた。まぁ、屋外プールだから泳ぎ始めたら関係ないんだけどね。
そんな時、見覚えのある後姿が見えた。
(あっ、ソラだ……)
あの日以来初めて見るソラだった。声をかけるべきかどうか悩んでいるとクルリとソラが振り返った。相変わらずの美少年ぷりにドキッとした。
「おはよう、マキさん」
まるでわたしがそこにいるかを知っていたかのような穏やかな口ぶりだった。
「あ……ああ、ソラ君おはよう」
「ソラでいいよ、マキさんが付けてくれた名前なんだからそのまま呼んでよ」
そういって悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「ふふふ、そうだったね。ねぇ、ところでソラはどこでわたしの名前を?」
「そりゃ、アレだけ盛大な応援団が連呼してたらね……」
そう言ってクスリと笑う。その愛らしさにわたしはクラクラきた。
男の子でこの可愛さは反則だよぉ~~かわいすぎる~~~きゃ~~。
……はっ、いかんいかん。冷静さを失ってしまった。
「えっっと、ソラも学校?」
「うん、ちょっとね」
そう言いながら歩き出す。わたしも少し小走りでソラに追いつき一緒に歩き出した。
「部活かなんか?」
「ううん……描きかけの絵があるんだ」
「へぇ~~。ソラは絵なんか描くんだ。どんな絵を書くの?」
「油絵が好きなんだけど今はポスターカラーかな」
「すっご~~~いい!!」
わたしは音楽評論家の娘でありながら、そっち方面の才能がからっきしない。母さんは中学生の頃はフルートの神童ともてはやされていたそうだから、きっとわたしは芸術方面ではどこの誰だかも知らない父親の血を引いているのだろう。
……ん? 父親の血……? 今、なんか一瞬……???
「別にすごくなんかないよ。下手の横好きだし」
ソラの声で考え事が途切れた。なにを考えてたか思い出そうとしたけど、思い出せなかった。ま、いっか。
「ねぇ、ねぇ、こんどソラの絵、みせてよ」
「マキさんには見せられないよ」
「ええっ、どぉしてよ」
「ナイショ」
そう言って唇に指を当てた。そんな仕草も様になっていた。
「でも休みの日に一人で学校行って描くなんてよっぽど絵を描くのがすきなんだね」
「好き? 好きっていうよりは……未練…かな」
急にソラの声が酷く疲れているように聞こえて、わたしはソラの長いまつげに隠れた目を見た。
「みれん? 未練って?」
「昔はね……画家になりたかったんだ……」
ソラは前を向いたままポツリとそう答えた。
「なにいってんのよ、若いのに! まだまだこれからでしょう!!」
わたしは景気よくバシっとソラの肩を叩いた。
「いった~~!! 痛いってマキさん!!」
「しみったれた声出すからよ!」
「ちぇっ、もう。すごく痛いよ。まぁ、マキさんの……」
そういいながらソラの視線がわたしの肩幅を測っているのを感じる。
「ちょっと、どこみてんのよぉ~~」
ソラは2、3歩先へ進み振り返って、悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「マキさんのバカぢから!!」
「いったな!!」
わたしが駆け寄ろうとするとソラは軽々と走り始めた。
「ちょっと、まちなさいよ!!」
結局、校門まで二人で走る羽目になった。
プールに入る前に汗だくだよ。もう、バカみたい。
****
「マキ。好きな男がいるだろ?」
夏休み初日、今日からなにをしようかと考えていると、目の前のマイコさんが唐突にそう切り出した。この人は何でも唐突なのだけど。
「はぁ?? なにを急に。そんなのいないよ」
「可愛いタイプか? それともかっこいいタイプ?」
人の話を聞いちゃいない。
「いたとしてもマイコさんには関係ないでしょ。居候なんだからちょっとは家主に気を使ったら」
ずずーー。あー、食後のお茶はおいしい。
「なによ、家賃は払ってるじゃない」
「払ってるのはユキ先生でしょう? あんたは払ってないじゃないの!」
「ねぇ、そんな事よりどんなオトコなのさ。マキの処女上げちゃうつもり?」
ぶっ!! なにを言い出すかと思えば……。
「だまれ! このハレンチ女」
わたしがいつものようにソファのクッションを投げつける。
「マキちゃーーん!!」
急にマイコさんが飛びついてきた。
「わっ、お茶こぼれる!! あぶない!! あぶないって!!」
あわててそばの棚に飲みかけの湯飲みを置いた途端、ソファに押し倒された。
「ねぇ……マキィ……あたしさ、オトコなんかに上げちゃうのもったいないと思うの」
なにいってんのよ……おもい……。
わたしは倒される時に咄嗟に相手の足に絡めた自分の足を締めつけながら、相手の顔の前に肘を入れて、なんとか向こうへ押しやろうと力を込めた。しかし相手も一筋縄では行かず、わたしの絡めた足をもう一方の足で外そうとしながら、上半身に力を込めてくる。
だめだ。寝技では勝ち目がない。
「やっぱり一番想ってくれるひとに上げるべきだと思わない?」
わーー。顔が近いって。ひゃー、唾を垂らすな!! 唾を!
「愛してるよ……マキ…」
「オンナのクセに……なにいってるのよ……」
「愛があれば性別の壁なんて越えられるわ。そうでしょう」
なんて色っぽい声なのよ。こんな時だけ。
くっ、もうおこった!!
ドゴっ!! 「はうっ」
わたしの至近距離からの膝蹴りが脇腹付近に入って、相手が悶絶する。
その隙にソファから下りた。
「卑怯モノ……膝なんて反則よ」
「あんたの方が人間として反則なのよ」
我ながら上手いこというなとちょっと思いながら、わたしはやっぱり部活に出る事にした。
「夜勤明けの人はしっかり寝てなさい。わたしは水泳部に出るから」
「や~~ん、なんのかんの言いながら、あたしの体を心配してくれるのね。愛を感じるわ」
「いらんものを感じなくてもいい」
わたしは陰干ししてある水着をバッグに詰めて家を出ようとした。
ふと気付くと、玄関まで送りにきたマイコさんが目をつぶって唇を突き出している。
なぜだかわからないけど、そうされるとどうしても無視できない。いつもどんなに怒っている時でも、目をつぶって唇を突き出されるとキスしたい衝動に逆らえなかった。
「もうっ」
わたしはマイコさんの唇に自分の唇を重ねた。すぐに離そうとしたけどマイコさんの腕に捉まってしまっていた。
たっぷり10秒ほど唇を吸われてしまった。
「あーー、おいしかった。じゃ、行ってらっしゃーーい。晩御飯は外に食べにいこーね」
満面の笑顔を浮かべるマイコさん。
やっぱ、なんかおかしいよなぁ。
わたしは軽いめまいを感じながら、家を出た。
****
「………てな感じでさ、家にいても落ち着かないんだよね」
わたしは屋外プールのフェンス越しにソラと話していた。もちろんキスの部分は除いてだ。
「ホントに賑やかで仕方ないったらありゃしない。母さんも明るい人だったけど、マイコさんにゃ負けるね」
「でも、マキさんはその人のこと好きなんでしょう?」
「冗談でしょう? 確かに看護婦として働いてる時のマイコさんはテキパキと仕事の出来るナースって感じで別人みたいにカッコよかったけど、家にいるときは単なる厄介モノだよ」
「素直じゃないなぁ、マキさんは」
ソラの何でも見通すような目で見られるとわたしはちょっと決まりが悪くなった。
「……ていうかさ、好きとか嫌いとかいってらんないよね。ああ賑やかだと……」
普通ならそこで終わる会話なんだけど、相手がソラだとつい本音が出る。
「……でもね、感謝してるの」
「寂しさを紛らわしてくれるから?」
「ううん。……もちろんそれもあるんだけど、なんていうかもっとね……なんだろう? 上手く言えないけど、なんか暖かいんだよね、あの人」
「暖かい?」
「うん……やること乱暴なんだけど、なんか優しいって言うか……。時折ね、すごく嬉しそうな表情をするの。それを見るとね、なんだか元気が出るんだ」
「きっと自分も辛い目にあったことがある人なんだね」
「ええ~~!? それはないっしょ。あのノウテンキ女に限って」
わたしが大袈裟に驚いてみせると、ソラがニッコリと微笑んだ。
そう、マイコさんもこんな風な笑い方をするんだ。すごく嬉しそうで、それなのに、ちょっと寂しそうな……。
「マキィーー!! 可愛い年下のボーイフレンドが来てるからって、何時までも油売ってないでタイム取るの手伝ってよ!!」
部長の喜理香さんの声がプールサイドに響き渡る。
「ち、ち、ち、違います!! そんなんじゃないですよ」
慌てて立ち上がると、ソラもフェンスから少し離れた。
「マキさん、また来るね」
「あっ、今度はわたしがソラの絵を見にいくよ」
でも、ソラはわたしの声を無視した。
「マイコさんと仲良くね」
それだけ言うとすぐにわたしの視界の外へ出てしまった。
「ぶちょーー! そんなイジワルばあさんみたいなことすると馬にけられますよ」
水泳部員ではないが、わたしに付き合って泳ぎにきた茅子がそんな事を言ってる。
「うるさい! プールサイドでは青春厳禁!! 夏の終わりまでには眞貴もカラダを作り直して大会にでるんだからね!」
「ええ、ぶちょう、そんなの聞いてませんよ!!」
「今言ったからね。ほら、練習練習!! カコちゃんもタイム表作るの手伝って!」
「えーーー。私、水泳部員じゃないのにぃーー」
ぶうたれるカコがストップウォッチを押し付けられている。
さて、わたしもおよごっと。
乾いてしまった体を濡らす前に、少し準備運動をして、ゴーグルをつけた。
ふと今朝のマイコさんのセリフを思い出した。
―――マキ。好きな男がいるだろ?―――
それってきっとソラのことをいってるんだ、と思った。
暑い夏の日差しがジリジリと照りつけていた。
10.鏡
「あっはっは、黒川村じこみの背負いを破ろうなんて十年早いわ」
ノウテンキな声。その声が自分の声に似ているのが余計に腹が立つ。
大体、どこなのよ? 黒川村って!
わたしは和室で押さえ込まれながらそんな事を思っていた。
たまにマイコさんが非番の日はいつもこんな風だ。
でも、本当の事をいうと、最近マイコさんとじゃれ合うのは嫌いじゃない。雨が降ったりして水泳がないときは、わたしの方から有り余った力をぶつけてみたりする。とばっちりを受けて襖にも穴が空いたりしていた。
二日に一回、学校へ行き、泳ぐ毎日がずっと続いている。
それはそれで大変なんだけど、結局マネージャー扱いされている茅子と、いつもフラリと現われるソラと喋るのが楽しくて、それはそれで充実した日を送っている。
水泳部のない日はカコと遊びに行くかマイコさんに捕まってどっかに連れてかれる日が多い。筋肉痛でダウンしている日は最近減ってはきた。
普通の高校2年生の夏休み生活が続いていた。
その日までは………。
「ねぇ~、ソラの絵、もう何枚も完成してるんでしょう? 見せてよ~」
わたしはいつもの話題をソラに向けていた。プールサイドのベンチに座ってソラと話している。ソラがよく来るので、最近はプールサイドに来ても誰も文句を言わなくなってしまった。いつのまにやら、その愛らしい美貌で先輩のお姉さま方のハートをがっちり掴んでしまい、ちやほやされている。美人は得だね。男も女も。
ソラはニコニコしているだけで取り合ってくれない。
でもここに現われる時には絵の具がそこら中についたボロ着を着てるから、実際に絵を描いているのは間違えない。でもソラが絵を描いているであろう時間にこっそり美術室へいったけど、ソラはいなかった。美術室の中にも描いている最中の絵なんてなかった。
「大体、どんな絵を描いてるのよ。いっつも学校にいるってことは風景画じゃないんでしょ? モデルも来てる感じじゃないから人物画でもないだろうし……。やっぱ、静物画?」
「マキさんはどう思う?」
「うーーん、ソラが果物とか石膏像とかを描いてるって気はしないなぁ。やっぱり風景画かなぁ? あるいは心象画とか……って、また、話をそらす」
「心象画っていうのは近いかも」
「えっ、じゃあ、『だり』とかみたいに時計がひん曲がったりしてる奴? あんまりそんなの描くイメージじゃないけど。ねぇ、やっぱりみせてよー」
「ふふふ」
ソラは魅力たっぷりに微笑むとそっとわたしの手を握った。
突然の展開にカーと顔が熱くなった。
「本当にマキさんに見せるような絵じゃないんだ。ごめんなさい」
ソラの綺麗な瞳に見据えられながら少し悲しげにそういわれると、わたしはそれ以上何もいえなかった。
「もう行くね。これ以上ここにいるとみんなの邪魔になりそうだから」
ソラのちょっと笑みを含んだ声ではっとする。パッと顔を上げるとプールサイドにいる十数人の部員達が全員不自然にあさっての方向を向いていた。ひゃーー、みられてたーー。
「じゃあね、マキさん。また、明後日」
そう言うといつものように素早くいなくなってしまった。いなくなる寸前、ちょっと振り返って、ニッコリ笑った。それを見るとちょっとだけ胸が苦しくなった。
部長の溌剌とした声が響き渡った。
「ハぁーーイ、1コース空けて!! マキは一人で3キロ遠泳!!!!」
「ええぇぇ!! なんでですかぁ!?!?」
「文句言わずに、とっとと泳ぐ!!」
「そうだ、泳げ、泳げ」
他の先輩達からもそんな声がアガった。
がーん、お姉さま方の勘に触っちゃったみたい……。
****
やっとプールサイドに上がった時には、カラダがギシギシいっていた。
「ぶちょう、もうダメですぅ」
カコに手足を軽くマッサージしてもらいながら、部長の喜理香さんに泣きついた。
「まぁ、しかたないか。クールダウンに軽く泳いだら帰っていいよ」
「じゃ、帰りにアイスクリーム食べてこ!」
茅子は駅前のアイスクリーム屋の常連客だ。当然、それに連れられてわたしも常連なんだけど。
「アイスよりお昼食べようよ」
「あ、そうだ。カコちゃんには頼みたい事があるんだ。ちょっと顧問の平木先生のところに行って合宿上の申込書を取ってきて、ちゃっちゃと書いてくれない? メンバー表、渡すから。ほら、今、水着着てないのカコちゃんだけでしょう」
「えー。私、マネージャーじゃないんですよぉ」
「ペパーミントチョコチップ!!」
「うっ……」
さすが部長。すでに茅子の弱点を的確に把握している……。
「プラス、ジェラートでどうだ?」
「わかりましたよーー。マキ、着替えたらちょっと待っててね」
「わかった」
最後にもう50メートルゆっくりとクロールで流してから、それでもギシギシいう体でなんとか着替えを済ませ、更衣室の外に出た。
今日も抜けるような青空で天気がいい。
照りつける太陽でアスファルトの上には逃げ水が見えていた。
暫く待ってみたものの茅子が帰ってくる様子はない。よくよく考えると、今、お昼時だし先生もどこかへ食べにいってるのかも。それに部員全員を書いて出すとすると結構時間がかかるのかもしれないし。どうしよう? 炎天下でボーっと待ってるのも暑いし退屈だし……。
ふと、やることを思いついた。
――ソラの絵を見に行こう――
わたしは何処にあるのかも分らないソラのアトリエを捜して校舎内をうろつき始めた。
****
「もう、どこいったのよ!?」
わたしは逆ギレ気味で校舎の中を歩いていた。教室や屋上まで行ってみたけど何処にもいない。夏休みで鍵のかかっている扉も多いんだけど、覗いて見た感じでは人の気配はない。
「どこにもいやしない」
口に出して文句を言う。誰が見ているわけでもないけど、正直言ってソラを一生懸命捜してる自分が照れくさかった。
そろそろ茅子も用事を終える頃かと思って、戻る事にした。
その途中お手洗いに寄った。
わたしは手を洗いながら、鏡に映る汗をかいた自分を見てちょっと溜息をついた。
なんでこんなに一生懸命にさがしちゃったんだろ……。
鏡に映る自分の顔を見ながらソラの顔を思い浮かべようとした。
不思議な事に、あんなにしょっちゅうあっているのにソラの顔が思い浮かばなかい。可愛らしい目とか、女みたいな唇とか、短くてサラサラの髪とか、パーツは思い浮かぶのにそれが合わさった顔が思い出せない。余りにも整いすぎていて印象が薄いのかもしれない。不思議な事に無理に思い出そうとするとマイコさんの面影と重なってしまう。
どうしても思い出せず、思い出せないと益々思い出したくなる。
ううん。思い出したいんじゃない………会いたい……。
「ソラに……会いたいのに……」
そう口にする。その時、信じられない事が起こりはじめた。
まず、目の前の鏡に映る自分が段々色を失い薄っすらと消えていく。程なくそれは鏡ではなくガラスのような透き通った物になった。向こう側は暗くてよく見えない。
「こ……これ……」
鏡……鏡……『鏡の中』……鏡の中の……。
なにか忘れてる。なにか思い出しそう。大切な事。とっても大切な事。とても嫌な事。
わたしは鏡に向かって手を伸ばした。
その手がそれを通り抜けても不思議と驚きはなかった。
なぜかそこがソラのアトリエだと確信していた。
絵の具の金属質な匂いが鼻をつく。
一瞬、目が眩むような感覚があった後、わたしは薄暗くて小さな部屋にいた。
壁には大きな棚があり、びっしりと絵が詰まっていたけど、わたしは目の前の描きかけの一枚の絵だけに気を取られていた。
背景には殆ど色がなく、黒い線で家屋の輪郭だけが軽くデッサンされていて、色は空の濃い青と、ポスターカラーで描かれた目に染みるような黄色だけだった。
真中に鮮やかに描かれていたのは二輪のひまわりだった。
11.ニリンノヒマワリ
わたしはそのひまわりに見覚えがあった。
母さんの葬式の日、火葬場への道すがらに見た民家の軒先のひまわり。
景色ははっきり覚えていなくても、青空に映えた、その鮮やか過ぎる黄色だけはわたしの心にはっきり刻まれていた。
心象画……。
あの時ソラはこう言った。
『心象画っていうのは近いかも』
心象画……心に映った風景……『わたし』の心に映った風景。
慌てて壁に立てかけてある棚の絵を数枚取り出してみる。
どれも背景には殆ど色が塗られておらず、真中にあるものだけが鮮やかに描かれている。ひまわりの絵も描きかけなのではなく、完成していたにちがいない。わたしが背景をはっきりと覚えていないから色がないだけなんだ。
どの絵も見覚えがあった。家の風景。学校の校舎。プールサイド。
そして、その中の一枚に目が止まった。
病室の母さんの絵だった。わたしの記憶にある最後に話したときの母さんの痩せた顔だった。
『他人の心を覗くのは楽しかった?』
ソラの声を思い出す。
あのクラスマッチの日、わたし、相手ピッチャーの心を……。
よく考えれば不自然だった。ピッチャーの投げる球が分るなんてあるはずがない事なのに、あんまりそのことについて深く考えてなかった。
頭の中に自分とよく似た声が聞こえた。
『文字通り記憶を消すのよ。ついでにちょっと曲げちゃって、あたしと一緒に住むことも『納得』してもらおうかな』
今、はっきりと感じる。わたしの心は曲げられていたんだ。あの日のことを思い出せないように。私自身の正体に辿り着けないように。
マイコさんと暮らすのが当たり前のようになっていたのも、あの人――サキ――にそう仕組まれたから。
全部……思い出した……。
あの日、聞いたこと。サキが人間でないこと。母さんも未夜子さんも康治さんもユキ先生も、みんな異常な関係だということ。
そしてわたしがサキの娘だということ。
でも、不思議とあの日みたいな怒りは感じなかった。
サキとソラの共通の少し悲しそうな表情がなんなのかはっきりと分る。
あれは憐れみ……近い将来に普通の人生を失ってしまうわたしへの憐れみだった。
あの日の記憶は確かに思い出せないように妨害されてたけど、消されてたわけじゃなかった。いつもそこにあって、わたしに気付かれる日を待っていた。サキなら消してしまう事も出来たはずなのに、そうしなかったのはわたしにもその力が遺伝していたからだと思う。この記憶は言葉にならない意識下で、わたしの記憶の一部として馴染まされてたのに違いなかった。
わたしがサキみたいな能力に目覚めた時、それが何かをわからせるために。
わたし……人間じゃなかった……。ソラも……。
気が付いたら、何時の間にか『アトリエ』の外にいた。廊下を学校の外へ向かって歩いていた。呆然と歩きながら、何も考えられずにいた。悲しむべきなのか、恨むべきなのか、それすらわからなかった。
ただ一つ、ソラとわたしが普通の高校生同士でなかった事が、とても切なかった。
校舎の二階の窓から、遠くのプールサイドで動く部員達の人影を見ながら、しばらく泣いていた。
12.林檎
「あら、いらっしゃい。どうしたの? こんな昼間に」
未夜子さんが玄関でわたしを出迎えてくれた。
「マキおねえちゃん、こんにちわ」
優美奈ちゃんも未夜子さんについて玄関まできている。
「こんにちは、ユミナちゃん。えらいねー。ちゃんと挨拶できるのね」
腰を落として目線を同じ高さにし、頭を撫でてあげる。
「えへへーー」
嬉しそうに人懐っこい笑顔を浮かべた。そんな仕草が未夜子さんによく似ていた。
「ちょっと近くまで来る用事があったもんだから。お葬式のお礼もちゃんと言ってなかったし。その節は本当にお世話になりました」
わたしがペコリと頭を下げると未夜子さんが慌てていった。
「そんな、お礼だなんて。マキちゃんは私の娘みたいなものでしょう? そんなにあらたまらないで。それに亜衣は私の親友だし……ね……」
母さんを思ってか、未夜子さんの表情が翳る。
「おかあさん、もう、なかないっていったのに」
優美奈ちゃんが未夜子さんを覗き込むようにしていた。
「そうね、もう泣かないんだったね」
未夜子さんが優美奈ちゃんを抱き上げる。その表情は心から明るかった。
母は強し……だ。
「さ、あがって、お茶でも入れるから」
「あがって、あがって。マキお姉ちゃん。あたらしー、おにんぎょ見せてあげる」
優美奈ちゃんの小さな手に引かれてリビングルームに連れて行かれた。
ソファで優美奈ちゃんを抱っこしながら、有名な太り気味の虎じまネズミの人形を撫でさせてもらっていると未夜子さんが紅茶を煎れて持ってきてくれた。
「貰い物のダージリンなんだけど、わたしちゃんとした煎れかたとか知らなくて……。まぁ、美味しいとおもうわ。クッキーは手作りよ」
「ユミナもてつだったのぉ。このねこさんとか。このくまさんとか」
まるまっちくて可愛い指で指差されながら説明されても熊と猫の区別はつかなかったが、わたしは微笑ましくて、ユミナちゃんのサラサラの髪を撫でてあげた。
「お手伝いしたの。えらいわねー」
「えへへぇ」
優美奈ちゃんは得意気に笑いながら、自分に出されたオレンジジュースに口をつけた。
あああ、こぼれてるよ。
口元から一筋こぼれているオレンジジュースを指で掬ってあげる。
本人はそんな事お構いなく100%のオレンジジュースをちょっと酸っぱそうな顔をして、それでもおいしそうに飲んでいた。
「ユミナ。遊びに行くんなら帽子かぶっていきなさいね。外は暑いから」
「ああ、またな」
優美奈ちゃんの口からひどくおじさんっぽい言葉がでたので驚いた。きっと康治さんの口癖なのだろう。
「コラ! 『ああ、またな』じゃないでしょ! お父さんの真似しないの」
「はいはい、またね」
「母さんのマネもダメ!」
「おかあさんの、ケチぃー」
「そんな問題じゃないの」
少し見ない間にすっかり生意気になってしまった優美奈ちゃんがかわいくてわたしは笑っていた。そんなわたしを見て、未夜子さんが溜息をついた。
「もう、すぐに康治さんの口真似をするのよ。康治さんはユミナに甘くて全然、注意しないし」
未夜子さんが苦笑いしながらクッキーを口に放り込んだ。
「うらやましいな。……わたしには父親がいなかったから……」
わたしは優美奈ちゃんの頭を撫でる手に少しだけ力を込めた。
「あ……ごめん……そんなつもりじゃ……」
未夜子さんが口篭もるのをわたしは無視した。
「未夜子さん、今、幸せ?」
「……ええ、これ以上ないくらい……それもこれもみんな亜衣と康治さんのお陰」
未夜子さんが遠い目をした。
「よかった……それだけは未夜子さんの口から聞いておきたかったの」
わたしは意識を失っている優美奈ちゃんをソファにもたれさせながらそう言った。
「え……ユミナ? 何時の間に……?」
未夜子さんの戸惑いが直に見える。
「心配しなくていいよ。ちょっと寝かせただけだから」
自分でも驚くほどの氷のように冷たい口調でわたしはそう言った。
「え……マキ……その目の色……まさか、あなた……」
「今日は本当はみんながわたしから隠してた過去を知りたくて来たの」
ソファから立ち上がり、新しい『感覚』を未夜子さんの心に刺しこむ。
未夜子さんは実際に刃物で刺されたみたいにビクリと体を震わせた。
「マキ……やめて……。そんなことしなくても……みんな…話すから……」
「ううん、いちいち話さなくていいんだよ、未夜子さん。心を直接見せてもらうから。だからなだめる必要も、嘘をつく必要もないんだよ」
そう言いながら心をまさぐる。それにあわせて、未夜子さんの心が痙攣していた。
「母さんが何故わたしを産んだの? 何故わたしに何も言ってくれなかったの? 未夜子さんはしってるんでしょう?」
わたしの問いに未夜子さんの心の一部が強く反応した。
「あ……うあ……」
未夜子さんの口から漏れる苦しそうな声を無視して、『能力』を一気にそこへ刺しこんだ。
見覚えのある病室の風景がみえた。
窓の外にはうっとおしい梅雨の灰色い空が見える。
目の前に母さんが寝ている。大分痩せていて死ぬ2、3週間前の事だと見て取れた。わたしが……未夜子さんが、その痩せた手を取って、布団の中に入れてあげると、母さんが目を開けた。
「寝てて、亜衣」
自分の口から出る未夜子さんの声。
「うぅん、別に眠くないの」
懐かしい母さんの声。それだけで胸が締め付けられるように苦しくなった。
「そう、何か食べたい物ある?」
「気を使わないで、側に座ってて……」
わたしはこんなシオラシイ母さんを見たことがなかった。母さんの表情はわたしには見せたことのない弱々しいものだった。
「ごめんね……いつもきてもらって……ユミナちゃんもいるのに……」
「なにいってるのよ。今日は康治さんがユミナの面倒を見る約束だから、ずっといてあげれるわよ」
「康治、普段は忙しいんでしょう? 折角の休みなのに……」
「変な気をつかわないでよ。昔みたいに『康治、未夜子を貸せ』って言えば、あの人、絶対断れないんだから」
「康治はやさしいから」
「優柔不断なだけよ」
「そんなこと言って、40過ぎてもいい年してラブラブのクセに」
「………まぁね」
「ちぇ、康治じゃなかったらミヤをあげたりしなかったのになぁ」
「なら、私からプロポーズするって言ったとき、止めればよかったのよ」
「やっぱりそうかだったかな?」
「そしたら今でも何でも亜衣の言いなりよ、亜衣サマ」
このセリフとともに自分の中に不可思議な感情が生まれた。いや、自分の中じゃなくて未夜子さんの心の中だ。
なんだろう、この感じ。甘いような、辛いような……なんだかドロドロしてる。
でも……嫌じゃない……?。
「バカにしてるでしょう?」
母さんはそんな未夜子さんの内面に気付いた風もなく微笑みを浮かべながら言った。もっとも痩せた顔には微笑ですら痛々しい。
「まさか。感謝してるのよ。また親友にして貰えて」
「こっちこそ……また親友に戻ってくれてありがとう……あんなにひどいこと言ったり…したりしたのに……」
その一瞬、心の中に様々な情景が流れた。速すぎていちいちどんな情景なのか見えないが、その中心が全て雄々しい母さんの裸なことだけは分った。
「なに、言ってるのよ。私だってずっと亜衣のこと好きだったんだからいいのよ。最初はビックリしたけどね」
「いきなりキスした時のこと?」
「あれもビックリしたけど、やっぱりその次の時のほうがビックリしたな。なんせ、男のがついてたもんね。目が血走ってたし」
母さんがすまなさそうにテレ笑いを浮かべた。
「それで、いきなりひっぱたいて、レイプだよ。女を口説くには最低の手段だわ」
「私だってミヤが泣き叫んで、どうしたらいいのかわかんなかったのよ」
「そりゃねぇ、キスされて、ずっと気まずかったときにさ、『やっぱり友達でいたい』って呼び出されて、ついてったらアレなんだから……」
「やっぱり恨んでるんだ……」
「恨んでたらこんなオバちゃんになるまで一緒にいないわよ……。ねぇ、りんご貰っていい?」
未夜子さんがお見舞い品のりんごに目を向け、ナイフを手にとって、それを洗うために席をたった。でもそれはりんごが欲しいからでなく、胸に込み上げてきたモノを誤魔化すためだった。
「最近よく、みんなで一緒に暮らしてた時の事を思い出すんだ」
「大学、卒業した後のこと? なんだか今日は、昔話の日ね」
指先に冷たい水の流れを感じながら、ナイフの鋭い刃先を洗う。
「みんな荒れてたよね」
ポツリと母さんが言った。
「荒れてたわね」
「セックスばっかりしててさ」
「そうそう、由貴さんが仕事に行くとさ、冴貴さんがメソメソ泣くんだよね。でさ、なだめてるといつの間にかセックスしてるの」
未夜子さんがそう言いながら再び席に着いた。
「冴貴さん完全に子供がえりしちゃってたもんね」
「長い間、家のない放浪生活をしてたから、他人に甘えたくて仕方なかったのよ」
「そのくせ『能力』が強くて、わがままが通っちゃって大変だったなぁ」
「ほんとに。あの頃は『力を使わない』って誓わせればいいって気付いてなかったものね」
「ひどかったよね。私がまだ出版社の新米記者で、仕事を家に持って帰ってきても、出来たためしがなかったもの」
「亜衣なんていいわよ。私なんて意思が強い方じゃないから、いつの間にか気付かないうちに会社に辞表出さされてたし。結局、OL廃業して家事手伝いだもの」
「あの時はミヤが一番きつかったよね。私と由貴が仕事してる間に冴貴さんの相手しながら、家事もして。ミヤが冴貴さんとセックスしてる間に、横で私たちがご飯食べてたりなんてザラだったもの。あのころは貧乏だったから、やりくりも大変だったでしょう」
「まだ由貴さんのお給料が少なくて、亜衣の給料なんてないに等しいのに、大の女を二人も余分に養ってるんだから大変にきまってるわよ。しかも冴貴さんがフラッと家を出ると、なんか変なもの買ってきちゃってさ」
「あれ傑作だったよ。なんか巨大なブタのぬいぐるみ買ってきてさ。わたしが家に帰ったら玄関でブタと冴貴さんが並んで座らされてて、由貴さんに説教されてたの」
「冴貴さんは娼婦で稼ぎすぎちゃってて、金銭感覚が麻痺してたから」
少し目を伏せて手元に注意を払う。
シャクシャクといい音を立てながら、林檎を剥きはじめた。
「康治がこっそりミヤにお金を渡してくれててなかったらみんな餓死してたね」
「……そうね」
「あの時、私は自分の生活に一生懸命で、そんなこと気付く余裕もなかったけど。
新米記者で仕事は忙しいのに、クタクタで帰ってきたら冴貴さんのセックスの相手させられてさ。私なんかまだましだけど、由貴さんは医者でもっと辛い仕事なのに、家で殆ど休めなくて、本当に体を壊すかと心配してた」
「由貴さんも時々、康治さんの家に泊めて貰ってたのよ。一旦家に帰るとなかなか冴貴さんが放してくれないから」
「そうだったの。
……あんな生活、誰もしたくないのに抜け出れなくて、どうしてもセックス漬けの生活がやめられなくて……。泥沼ってああいうのね」
「そんなときにさ、亜衣が急に『冴貴さんの子供を産む』とかいいだしてさ」
「由貴とミヤは大反対だったなぁ。冴貴さんだけは無邪気に喜んでたけど」
「当たり前よ。冴貴さんだけでも面倒見切れないのに、この上、未婚の母と赤ん坊なんてとても無理だと思ったもの」
「あの時も康治に助けてもらったわ」
「康治さんが来て、その話を聞いた途端、『未婚の母が不都合なら俺が認知してもいい』だもの。あの時はなんて無責任なと思ったけど……」
「でも、あいつは悪魔と人生を賭けるって時にも『助けて欲しい』っていっただけで、『何時に何処へ行けばいい?』って言う人だからね。普通、何をどうしなきゃいけないのか先に訊くでしょう?」
母さんが笑いながらそう言う。
痩せた肩が震えているのを見て、未夜子さんの心が悲しんでいた。
しかし、口から出る声にはその片鱗もうかがわせる物がなかった。
「根っからのおひとよしなのよ」
「でも、強いオトコだよ」
「そんなに人の旦那を誉めないでよ……」
「なんでミヤが照れるのよ」
「あら、旦那が誉められたんだから、妻が照れても問題ないでしょ」
「あ、開き直ったね。結局、ノロケなんだから。いい年してさ」
ククっと母さんがまた笑った。
「ちぇ、またからかう。ばばあはお互い様でしょう」
まな板を使わずに、手に持ったまま器用に剥けた林檎を切り分けていく。
そうしながら、未夜子さんは母さんとの一言一句を、心に刻み込んでいた。血が噴き出ろとばかりに深く深く刻み込んでいた。
「ありがとう、ミヤ」
「えっ、なにが? 林檎ほしいの?」
「ちがうよ。康治さんと一緒になってくれてありがとう」
「な……なによ……そんな」
目を上げた未夜子さんの目に映った母さんの瞳は、大きくてキラキラしていた。未夜子さんの中でセーラー服姿の母さんの若い頃とそれが重なっていた。
「もし、康治とミヤが幸せじゃなかったら、私、とてもこんな気持ちで死ねなかった」
『死ぬ』という言葉を聞いた瞬間、未夜子さんの胸がギュウーーッと音を立てて絞まった。その苦しさが未夜子さんの心の痛みだと気付く前にわたしの心が砕けてしまいそうだった。
これほどの悲しみを人間が背負えるものかと、わたしは思った。死にゆく母さんをこれほど思っている人がわたし以外にいたことを、文字通り『身をもって』知った。
「亜衣には眞貴がいて、冴貴さんには由貴さんがいた。……私たちはただ……お互いに一人ぼっちで歳をとるのが恐かっただけよ。一緒に暮らし始めて、初めてお互いのよさが解り始めたって感じだし」
かろうじで平静を努めながら未夜子さんがそう言った。
「女が30過ぎてから結婚するのに、好いた惚れたばっかり言ってたら、その方がおかしいよ。一緒に住んでみて一つずつ相手のいいところを見つけるのも、結婚のいいところでしょう?」
その言葉におどけた口調で未夜子さんが答える。
「よくいうわ、自分は勢いだけで冴貴さんの娘を産んだくせに」
「勢いとは失礼な。冴貴さんに生き甲斐と希望を与え、且つ、カワイイ自分の子供を産むにはあれしかなかったのよ」
「それが勢いだっていうのよ。生活とか人生設計とかを考えなさいって」
「結果オーライでしょう、あんな…いい娘に育ったんだから……」
そこで母さんが不意に黙ってしまった。
その沈黙の意味を未夜子さんは瞬時に察していた。
「……眞貴に……全部話すつもりなのね」
未夜子さんが静かにそういった。
「……ふふ……またか。ミヤにはいっつもばれちゃうんだ。死ぬまでミヤには隠し事できなかったなぁ……」
しかし、言葉とは裏腹に母さんの声の中には大きな安らぎが感じられた。母さんにとって未夜子さんはとてつもなく大事な人だった。
そして、それは未夜子さんにとっても同じだった。
シャク……。
未夜子さんは、小さなフォークを林檎に刺し、口に運ぼうとして、再びお皿に戻した。
「亜衣……眞貴には話さないで欲しいの……」
母さんが未夜子さんの真意を探るように、こちらを覗き込んだ。
「眞貴が理解するには長い時間がかかるでしょう」
「……そんなの分かってる。でも、死ぬ前に私の口から伝えないと……眞貴のためにも……、私自身のけじめのためにも。なんで、そんなこというの?」
未夜子さんが亜衣の手を静かに握って言った。
「亜衣は後どれだけ眞貴と一緒に過ごせるの?」
母さんがぐっと言葉を飲み込んだ。
「眞貴にとって自分の出世の秘密は重大な事だと思う。ショックを受けるだろうし、動揺すると思うわ。亜衣が話しておくことはきっと大切な事だと思う」
「なら……」
「でも、それがどんなに大切な事でも、これから亜衣が眞貴と一緒に過ごせる時間より大切だとは思えない。私たちの過去は誉められた物じゃないし、その責任をとらなきゃいけないのかもしれないけど……でも……でも、そんなことに亜衣の最期の時間を使って欲しくないの。眞貴に、亜衣と過ごせる貴重な時間を怒ったり悩んだりに使って欲しくないの」
母さんが何かを話そうと二度ほど口を開きかけ、そして少し黙ってから溜息をついた。
「私の意見なんか絶対に聞きいれてくれないんでしょう?」
「そうね……亜衣の説得は下手だから……」
「ミヤが頑固なだけよ」
母さんが、私の――未夜子さんの手を取って頬に当てた。
痩せた母さんの頬骨が手の甲に当たる。
「眞貴は私のことを恨むわね……」
「亜衣が17年間で眞貴に注いだ愛情が、世間一般のどんな親にも恥じる物じゃないことは、みんなよくしってるわ。最期ぐらい我侭言ったって、みんな解ってくれるわよ。きっと眞貴だって。あの子は優しくて強い子だから」
「父親似だから、あの子は」
「両親似よ。あんた達は似たもの夫婦じゃない……」
母さんが左手で未夜子さんの手を頬に当てたまま、右手で左手の細い金のブレスレットを弄る。そのブレスレットは、生前に母さんが片時も外さずにいた物で、わたしが形見としてもらった物だ。今は、母さんを思い出すのが辛くて引き出しの奥にしまってある。
「ねぇ、しばらくこうしてていい?」
母さんが力いっぱい未夜子さんの手を握る。その握力は悲しいくらい弱かった。
「うん……」
お皿の上に切り分けられた林檎の角が、少し黒ずみ始める。
外では梅雨の雨がしとしとと降っていた。
この梅雨が明けた日、母さんは死んだのだった。
「……ぇちゃん……マキおねえちゃん……」
Gパンの裾を引っ張られる感覚でハッと我に帰った。
「おねえちゃんどうしたの? おかあさんもお昼寝しちゃったの?」
未夜子さんのほうを見るとがっくりとうなだれている。素早く心を探ってみても、微弱な反応しか返ってこない。どうやらわたしが記憶を見るのに強くしすぎたらしい。
「お母さんね。ちょっと疲れてるんだって。ユミナちゃん、お母さんが起きるまでそっとしておいてあげてくれるかなぁ」
優美奈ちゃんのサラサラの髪を撫でながら言うと、ユミナちゃんは愛嬌のある母親譲りの笑顔を浮かべた。
「うん、ユミナ、おかあさんがおきるまでそっとする」
わたしはニッコリと優美奈ちゃんに笑いかけると、立ち上がろうとし、ちょっとふらついた。どうやら『能力』の後遺症らしい。
「おねえちゃん、かえっちゃうの?」
「ごめんね、今度来る時はもっとちゃんと一緒に遊ぼうね」
「じゃぁ、じゃぁ、『マルオテニス』でタイセンしよ」
「いいわよ。きっとね」
わたしは荷物を手にとって、ふと尋ねた。
「ねぇ……ユミナちゃんはお母さんのこと好き?」
優美奈ちゃんは再び愛嬌たっぷりに可愛らしく微笑むと恥ずかしそうに言った。
「ちょっとだけね」
「おねえちゃんもね、自分のお母さんのこと……大好きだったのよ」
もう一度、優美奈ちゃんの頭を撫でた。
外にでると、夏真っ盛りの抜けるような青空で、同じ空が梅雨の灰色い雲に覆われていたことがあるなんて信じられないくらいだった。
わたしはふらつきながらもバス停に向かって歩きだした。
13.娘
ここ……どこ……?
いつの間にか高台の見晴らしのいい小さな空き地にいる。
木で作った背もたれすらないベンチがあるところをみると、公園なのかもしれない。
それに誘われるように腰掛けた。
未夜子さんの記憶を覗いた後、バスに乗ろうと人通りの多い道に出たが、そこでわたしに異変が起こっているのに気付いた。眩暈は益々ひどくなり、風邪を引いたみたいに体が火照り、五感は異常に鋭くなっていた。
服は体に纏わりつき、耳には何メートルも離れている他人の呼吸音や心臓の音が聞こえる。他人の体臭が鼻をつき、目まぐるしく変わる他人の感情の色が透けて見えていた。これまで感じた事のない生々し過ぎる他人の存在感に、わたしは圧倒された。
嫌悪を催し、人気のないほうへと歩いているうちに、この見晴らしのいい公園と呼ぶには小さすぎる公園に辿り着いた。
とても再び人込みへと入っていく気にはなれなかった。
フフフ、これが未夜子さんの心を覗いた罰なら天罰テキメンだ。
冴貴……あの人もこんな世界を歩いているの?
こんなのとても普通の精神じゃ堪えられない。
「人間しか見えない、人間の欲望と快楽しか感じられない。それが悪魔だよ」
不意に声をかけられた。ずっと聞きたかった声なのに、心は浮き立たなかった。
「あなたにもこんな風に世界が見えてるの?」
わたしが顔を上げると、目の前に見慣れた人影があった。
体にピッタリとした黒いTシャツに細いGパン。印象の少ない端正な顔に涼やかな微笑を浮かべ、両手を軽くズボンのポケットに突っ込んで佇むその姿は、とてもサマになっていた。サマになりすぎていた。
なぜ気付かなかったのだろう? 人間にしてはキレイすぎると。
「隣にすわってもいい? きっと景色が綺麗なんだろうから」
ソラはわたしの質問には答えずに、わたしの答えも聞かないまま、勝手に側に腰掛けた。
町にいるときにわたしを悩ました他人の匂い立つような存在感はソラには全くなかった。代わりに花の匂いに汗のにおいが混ざったような不思議な匂いがした。
それはわたしを少しほっとさせる匂いだった。
「ごめんなさい……勝手にソラの部屋に入っちゃった……」
自然と自分の口から出た言葉は思ったより明るい口調だった。
「謝るのは僕の方だよ。ごめんなさい、マキさんの心、勝手に覗いてて」
ソラもちょっとおどけた感じでそう言った。そういわれて改めてソラに心を写生されていた事を思い出した。でも不思議と嫌な気はしない。あの小さな『部屋』で絵を見たときもそんなに嫌じゃなかった。ソラなら見られてもいいような気がしていた。
「じゃあ、おあいこだね……」
わたしがそう言うとソラは小さく笑みを浮かべた。
「よかった。やっぱりマキさんはマキさんだ」
「ねぇ……訊いていい?」
「何?」
「……どうしてあんな絵を描いてたの?」
ソラの方を見るとソラは高台からの景色を眺めていた。横顔を見ているうちに、その瞳が漆黒である事に改めて気付く。きっと今までもその漆黒の瞳でわたしを見ていたのだ。ただ、それが普通の人間の目ではない事を『忘れさせ』られていたに違いない。
唐突にソラが言った。
「この景色をみて、マキさんは何を感じる?」
「え……何を……って、見晴らしがいいなって……」
「ううん、マキさんはもっとたくさんのことを感じているんだ。言葉になってないから意識としてそれを理解していないだけなんだよ」
「……よくわかんないな、そんな事言われても」
「僕は何も感じないんだ……」
ソラの目はずっと遠くの景色を見つめたままだった。
「ずっと前にいったでしょう? 画家になりたかったって」
そう言って不意にソラは言葉を止めた。わたしは黙って次の言葉を待っていた。
「人間だった時は……もう何世紀も前だけど……絵を描くのが好きだった。貧しくて、絵の具を買うお金がなくて、パンを買うお金を削って絵を描いてたけど、それでも好きだった。下手な我流の絵だったけど、とても習いに行くお金もなくて、それどころか一流の絵なんて見たことすらなくて……」
そう言って、少し苦笑いを浮かべながらソラが足元の小石を蹴った。そんな人間臭い仕草をするのを始めてみたような気がした。
「人間をやめてから……」
ソラがその暗い瞳でわたしの方を見た。
「……永遠の時間と無限の絵の具が手に入るようになったけど、僕の目には、もう描き留めたいと思うような世界は映らなくなってた。美しい景色を見ても何も感じないし、どんなに清廉潔白な人間を見ても精を搾り取る獲物にしか見えない。そもそもキレイな絵を見ても何も感じなくなっちゃったのに、どうやって絵が描けると思う?」
不意にソラがわたしの手をとった。
小さな柔らかい手のひんやりとした感触。
「17年前にマキさんが生まれた時、それが一体何を意味するのか誰にもわからなかった。『覚醒者』が子供を産んだ事はこれまでなかったから。マキさんが悪魔になって僕達の仲間となるのか、それとも由貴さんが年老いた後の冴貴さんの能力の新しい『鞘』となるのか、あるいは普通の人間として一生を終えるのか、誰にもわからなくて、結局、様子を見ることになったんだ。
一匹の悪魔を監視役にしてね」
「それがソラなのね」
ソラが微かな笑みを浮かべた。
「マキさんが赤ん坊の頃からずっと見てた。ずっとマキさんだけを見てきた。年々成長していくマキさんの心を見てたら、また絵を描きたくなった。自分の目には何も映らないけど、マキさんの心に映ったものだけは描けたから。
でも、あの……二輪の向日葵の絵を描いた時、どうしてもマキさんと話したくなったんだ」
「……? あの絵の何が特別なの?」
「それはマキさんの方がよく分かってるんじゃないのかな……?」
そう言ってソラが問い掛けるような悪戯っぽい笑みを浮かべた。
わたしは胸に手を当てて考えてみた。
「……あのヒマワリ……火葬場へ行く時に見たの……。民家の軒先にあった、ただのヒマワリなんだけど……なんだか印象に残ってて忘れられないの」
ソラは黙ったままわたしを見ている。
「あのヒマワリを見たとき胸が締め付けられるみたいな気がして……」
あの時は辛くてとてもそれ以上見ていられなくて……。
「……羨ましかった。
寄り添って咲いて、夏が終わったら一緒に枯れて行くヒマワリがね、羨ましかったんだ。わたしはこれから一人ぼっちで生きていかなくちゃいけないのに……って」
あの二輪のヒマワリは、二人っきりで暮らしてきたわたしと母さんの象徴だった。
「マキさんは一人じゃないでしょう?」
「……サキのこと?」
わたしがそう訊くとソラはにこりと笑った。
「きっとすごく心配してるよ」
「あの人が? そんなに心配するかなぁ」
「マキさんの親じゃない」
「そんなこと言っても……。母さんが死ぬまで会った事もなかったのに?」
「それは……」
ソラが口を開きかけて、言葉を止めた。
「……その理由は僕が言うべき事じゃないね。あの人に直接訊いてみればいいよ」
そういって握っていた手を放すとソラが立ち上がった。
「待って!!!」
わたしは咄嗟にソラのシャツの裾を掴んだ。
「行かないでソラ! おねがい」
「心配しなくていいよ。マキさんはまだ完全に覚醒していないから。今は亜衣さんが死んだ精神的ダメージとか、冴貴さんの能力に触れたことなんかが重なって、一時的に『能力』が発現してるけど、暫らく安静に暮らしていれば今の能力は消えていくから」
「ソラはどうするの? 明日からまた学校に来てくれるの?」
わたしがそう訊くとソラは少し悲しそうな顔をした。
「マキさんとはこれでお別れだよ」
ああ、やっぱりと思った。その話しぶりから、ソラはもう二度とわたしに会わないと覚悟しているのだとうすうす気付いていた。
「マキさんが家に帰ったら冴貴さんに僕の事がばれちゃうでしょう? あの人は僕みたいな悪魔がマキさんの周りにいるのをきっと許さないからね。あの人、悪魔の尺度に合わせても本当に強いんだ。僕じゃ絶対かなわない。僕の持ってる精を全部搾り取られてこの世界から追い出されちゃうよ。
それにマキさんに正体がばれちゃったから監視役の意味もなくなっちゃったし。」
「じゃあ、わたしの記憶を消して!! 今日のこの記憶を消してくれれば、元の生活に戻れるんでしょう!! またプールサイドでわたしの話を聞いてよ! ずっとずっと夏が終わるまで…ううん、夏が終わった後も、ずっと一緒にいようよ!!」
わたしの言葉に少しソラは驚いたみたいだった。
「ふふふ、マキさんにそんなこと言ってもらえるなんて嬉しいな……」
そういいながらもソラはシャツの裾を掴んだわたしの腕を優しくはずした。
「長い間、マキさんに憧れてた。マキさんの心に僕がどんな風に映るか見てみたかった」
「それならずっと見ててよ! ソラだったら心の中を見られたって平気だから!!」
「ダメだよ。
記憶を消そうとしてマキさんの心にこれ以上の圧力をかけたら覚醒しちゃう可能性がある。それにもし忘れさせれたとしても、これ以上僕に心を開けば……僕がマキさんを堕としちゃうからね……。こうしてる間だって……」
そこでソラは口をつぐんで目をそらせた。
一瞬ソラの陰が濃くなったように見えた。
「今日だってホントは会う気じゃなかったんだ。ただ、これだけ言いたくて」
再び目が合う。真っ暗だけど真摯な瞳だった。
「悪魔の感覚で人を見ると人間は貪欲で穢れてて、動物的に見えでしょう。でも、それは人間の汚いところが目に付きやすいからってだけなんだ」
そこでソラが次の言葉を考えるように少し首をかしげた。
「例えて言うなら『点描』みたいな感じかな。
モネの草原の絵とか見たことある? 茶色とか黒とかの点が、青々とした草原の中にあったりするでしょう? でも遠くから見るとそれはとても自然で、むしろそういう色がなければ、あんな深みのある色にはならないと思うんだ。
それと一緒でどんなに潔白な人でもキレイな心も汚い心も同時に持ってる。だから他人の心を見るときは目を凝らして色の一点一点を見ちゃいけないんだよ。少し目を離して心の全体を眺めれば本当のその人の『色』がわかるから。」
それはいかにもソラらしい例え話だと思った。
「そのことに気付かずに人の穢れた部分ばかり見てると、壊してしまいたくなるんだ。快楽を搾り取ったら捨てちゃえばいいやって……。でも、マキさんならきっと人の心のキレイさがわかるようになるよ。僕は気付くのが遅すぎたけどね……」
自嘲気味にそう言った後、一歩後ろに下がった。
「さよなら、マキさん。ホントに会えてよかった。
僕の事は忘れてください。マキさんの人生にはもう関わりないから……」
「嫌よ!!!!! そんなの嫌!!!」
そう言ってしまって、わたしは自分の心が決まってしまっている事に気付いた。
母さんを失った上、これ以上大切な人を失うのはもう堪えられない。
「……マキさん?」
「これでお別れなんて絶対に嫌だ!!! わたしもソラについてく!」
「なに言ってるんだよ! そんなこと出来る訳ないでしょう!」
「そんなのしらない!! でも、このままソラと別れるなんて絶対できないんだから!!」
「無理をいわないでよ……元々僕は人間じゃないんだ。マキさんとは違うんだよ」
「じゃ、わたしも『覚醒』とかしちゃってソラと一緒になる!!!」
「バカなこといっちゃダメだ!!!」
ソラが怒るのを始めてみた。大きな声を出すのすら始めてみた気がする。
「マキさんには心配してくれる人がいる。おじいちゃんもおばあちゃんも、由貴さんも未夜子さんも冴貴さんも皆がマキさんのことを想ってる! 誰もマキさんがセックスだけしか興味を持たないようなバケモノになって欲しいなんて思ってないんだ。冴貴さんは由貴さんや亜衣さんのお陰でかろうじで人の心を保ってるけど、マキさんもそうしたいの? カコちゃんや水泳部の人達の人生を狂わせて……それでも、結局は僕みたいに他人の欲望とセックスの快楽しか感じられない、人間の心をなくしたバケモノになるかもしれないのに!!」
「ソラに心がないなんて嘘よ!!」
「え……?」
ソラが一瞬戸惑いの表情を浮かべた。
「あのソラの絵のヒマワリ、わたしの覚えてるヒマワリはあんなにキレイじゃなかった。ソラに心がないのなら、わたしの記憶どおりの絵になる筈でしょう? ソラがあのヒマワリのことをキレイだと思わなかったらあんな絵にはならないよ!!」
ソラはその言葉に意表を突かれたみたいだった。
「と……とにかく、ダメなものはダメだ!!」
「みんなとは別れない。でも、ソラとも別れない!!」
「それが出来なくなるっていってるのに……」
「ソラが何っていってもわたしはこのままバイバイなんてしないから。ソラが逃げても追いかけるからね。たとえ鏡の中だって」
「だめだよ!! これ以上、能力を使ったら本当に覚醒してしまう!」
「じゃあ、ソラが連れてって」
きっぱりと言い切るとすっきりした。
もともとうだうだ考えるのはわたしのやり方じゃない。
カコやみんなにはここへ帰ってくれば会える。でも、ここでソラと離れてしまえばもう二度と会えない。それならわたしの取る道は一つしかない。
ソラがわたしをなだめる言葉を一生懸命考えている隙をついて、わたしはソラに抱きついた。ソラのほうが背が低いから抱きすくめるような形になる。ちょっと不思議な髪の匂いがわたしの鼻をくすぐった。
不思議な暖かさが体を満たし、ずっと感じていた眩暈や火照りを払拭する。
わたしが『感覚』を伸ばすとソラの『感覚』がそれを受け止めた。わたしがソラの心を探ろうとすると、ソラは抵抗しなかった。一瞬の内に大量の感情がわたしとソラの間を行き来し、ソラがわたしの覚悟を受け止めたのを確かに感じた。
『……マキさん……ダメだよ……』
ソラの声が実際の声なのか、心の声なのかはもう区別がつかなくなっていた。
『17年もわたしのことを盗み見といて自分だけさっさといっちゃうなんて卑怯よ』
『きっと……後悔するよ……』
『このままソラと別れても後悔するよ……』
『ホントに意地っ張りなんだから……子供の頃から……ずっと……』
『知らなかったの? そうじゃなきゃ佐川亜衣の娘なんてやっていけないのよ』
少しだけ『感覚』を弱めて身を離し、今度はちゃんと口で言った。
「もし……万が一、わたしが人の心をなくしてしまうのなら……」
その後は少し声が掠れた。
「それが完全になくなる前に、ソラが全部、絵に描き写してね……。
わたしの心が確かにここにあったことを……あなたが……」
声が詰まると、ソラが黙ってわたしを抱きしめた。
わたしは後悔しない……。
たとえ、帰って来れなくても、後悔なんて絶対にしないんだから……。
……なのに……なんで涙が……。
ソラの細い手がそっとわたしの頬を撫で、わたしは目を閉じた。
大量の悪魔の力がソラの体から噴出し、辺りを異空間に切り抜いていくにつれ、わたしとソラの体は徐々に実体を失い始めた。
母さん……母さんはこんなこときっと望んでなかったでしょう?
でも、母さんがこんな風に育てたんだからね。
わたしを抱しめるソラの腕に力が篭った。
わたしも目一杯ソラに回した腕に力をいれた
みんな……ごめんなさい。
14.細月
「ここだ……」
「何か分かりますか?」
「ここで大量の精が放出された形跡がある……。多分、ここから『向こう側』にいったんだ。鏡なしで移動するなんてかなり強いな」
冴貴がしゃがんで地面を撫でる。
「遅かったですね……」
「いや……マキがその気なら自力で出て来れる筈だ。もし悪魔に襲われても自分で逃げられるようにあたしの精を分けてあったんだし」
「じゃあ……マキちゃんは自分から……?」
「十中八九そうに違いない。未夜子の中に残ってた眞貴の記憶からも、悪魔の記憶が微かに読めた。眞貴が最近気にかけていた男が悪魔だったんだ」
「悪魔……」
その言葉は由貴にとって特別の意味を持っている。
「亜衣が死んで『約束』が効力を失った可能性もあるから、あの二匹が帰ってくるのを警戒してたけど、違う奴なのかもしれないな。まぁ、連中は姿も性格も固定されていないから、区別する事に意味はないけど。でもそうすると、眞貴を一時的に覚醒させたのは失敗だったかもしれないな。かえって悪魔との距離を狭めたのかも」
「……冴貴さんは冷静ですね」
由貴の口調には少し刺があった。
「ん……そうかな……」
かがんだまま地面を撫でながら冴貴が気のない返事をした。
「冴貴さんは眞貴ちゃんが覚醒してもいいと思ってるんですか?」
その言葉に冴貴は下を向いたまま答えた。
「思ってるよ」
こともなげに答える冴貴に、由貴は言葉を飲み込んだ。
「マキがずっと一緒に居てくれたら、こんな嬉しい事はないからね」
手を払いながら立ち上がり、高台からの町の景色を見下ろす。既にあたりは暗くなりかけ、新月間近の細い細い月が薄っすらと夜空に浮かんでいる。
そのシルエットになった後姿の美しさに由貴は目を奪われた。
半袖のシャツに黒い綿パンという若者の特権のラフなスタイルに身を包んだ冴貴。自分達を見て姉妹と思う人間はもういない。何年も前から親子と呼んだ方が自然に見えるようになっていた。
「……ひどい親だよね」
そう言いながら冴貴が振り返る。
明るく見えるその表情が由貴には余計に悲しかった。
永遠の孤独を約束されてしまった人間が、大切な一人娘とずっと一緒に暮らしていけるかもしれないのに、誰がそれを願う事を責められるだろう。むしろ冴貴が自分で直接に手を下さず、眞貴に選択するだけの力を与えるに留まった事がどれほどの覚悟を伴うのか由貴にも想像がつかない。
「いいえ……」
「ふふ、いっつもそうだ。由貴は絶対あたしの事を責めないんだ。あたしがこんな風になったのは自分のせいだと思ってるから」
「そんな……そんなことは……」
ない、とはいえなかった。冴貴に嘘をついても仕方がない。
それどころか眞貴と冴貴が一緒に暮らすのを黙認したのは、あるいは眞貴が覚醒するしないを問わず、冴貴の将来を支えてくれる様になるかもしれないという少し卑怯な期待があったからだ。
「あたしがこうなったのはあたしの選択だよ。由貴が責任を感じる事じゃない。それに悪い事ばっかりじゃないしね。亜衣とかミヤとか康治に良くしてもらったし。普通の人には出来ない事ができるし、見えないものが見えるし、セックスはずっと気持ちいいし……」
それに、と少し照れくさそうに付け加えた。
「由貴がいてくれるし……」
冴貴は28年前、寒い朝の公園で初めて出会った時と同じ優しい微笑みを浮かべていた。
時々、由貴には冴貴が何を考えているのか解らなくなる時がある。
最近の冴貴は恐ろしく心の切り替えが早く、自分勝手で気まぐれに見える。きっとそれは人の心が目の前で目まぐるしく色を変えるのを『見て』いるうちに、他人の感情の変化そのものに鈍感になっているからだろう。そのこと自体は悪い事ではなく、むしろ看護婦としては感情に流されず、常に冷静な判断を下すという大事な資質になっていた。長い経験と相まって、ナースセンターでは既に冴貴の存在はかけがえのないものとなっている。
それでも由貴は時折、冴貴が遠くへ行ってしまったような気がする時がある。冴貴と解りあえることはもうないのではないかと不安になる。そんなとき、冴貴はこちらを見てこんな風に優しく微笑むのだった。28年前と全く変わらない笑みで。
自分はなにも変わっていないというように。
由貴は気を取り直して冴貴に尋ねた。
「その悪魔は眞貴ちゃんを覚醒させるために連れて行ったのでしょうか?」
冴貴は依然、何かを探るような素振りをしながら答えた。
「………わからない。悪魔達はむしろ眞貴が覚醒してあたしと団結するのを警戒してたと思うんだけど……」
「因果律は眞貴ちゃんを守ってくれないんですか?」
「いや、もともと眞貴には因果律が働いていないんだ。眞貴が由貴の代わりになるのを狙ってるのさ。バカにしてるよね」
「こちらから相手の部屋へは入れないんですか?」
「うーん、入ろうにも何処にあるか分からないからね。いずれにせよ眞貴に精を殆どあげちゃったから、今のあたしじゃ力が弱すぎるよ」
「じゃあ、どうするんですか!?」
「眞貴が出てくるのを待つ以外、どうしようもないね」
「そんな無責任な……」
「心配要らないよ。眞貴なら自分の道は自分でちゃんと選べるよ。あのコは亜衣の娘だよ」
「冴貴さんの娘でもあります!」
「あっはっは。うまいこというなぁ」
「笑い事じゃありません!!」
そういって冴貴をにらみつけるが、由貴も五秒もしないうちにくすっと吹き出した。
「なんだ、由貴だって笑ってんじゃん」
「もう! 知りません!」
「あたしは眞貴を信頼してるからね。それに……眞貴はまた戻ってくるよ」
冴貴が少し真面目な顔を取り戻した。
「眞貴にはまだ訊きたい事が残ってるはずだから」
「亜衣さんの事ですか……?」
由貴の質問に冴貴は答えなかった。
「とりあえず、ここは暑いよ。家にかえろ」
日は落ちかけているのに、依然気温は高い。にもかかわらず、セリフと裏腹に冴貴は由貴の腕を取ってべったりとひっついた。
「冴貴さん、引っ付かないで下さい。暑いですよ」
「いいじゃん、由貴は明日非番なんでしょう? 家帰ったら一緒にシャワー浴びて、その後は……ね?」
「もう! こんな時に、不謹慎です!!」
「でもあたしも誰かに精を分けて貰わないと、もし悪魔とやりあう事になったら負けちゃうよ。もしそれで眞貴を取り返せなかったら由貴の所為だからね」
「また……そんなことばかり言って……」
由貴が呆れたように溜息をつく。
「由貴がやってくれないんだったら、患者さんつまみ食いしちゃおっかなぁ。交通事故で両腕骨折のゆりちゃんなんてか~なり溜まってたみたいだし」
「ダメですよ!! また患者さんの治りが遅くなるんですから!!」
「あら……みんなには満足してもらってるよ」
悪びれずにそういう冴貴に由貴は再び溜息をついた。
「はぁ……私も若くないんですから、朝までは無理ですからね……」
「そうこなくっちゃ。心配しなくても由貴の方から腰が立たなくなるまでおねだりするようにしてあげるからねぇん」
好色な笑みを浮かべて由貴を舐めるように見る。
「……それを止めてくださいっていってるんですけど」
組んだ腕を引っ張られ、引きずられるように公園の側に止めたバイクの方へ連れて行かれながら由貴は三度、溜息をついた。
15.窓
退屈だ……。
いかにも高価そうな黒い本皮のソファに座りながら、対面して座るソラを見る。
ソラは少し高い簡素な木の椅子に腰掛け、一心不乱にキャンバスに向かっていた。ちょっと話し掛けづらい感じだから、黙ってソラの端正な顔をずっとみてるしかやる事がない。
ソラに連れてこられたのは20畳もあろうかという、フローリングのおしゃれなスタジオ風の部屋だった。家具はわたしの座ってるソファとサイドテーブル、黒いパイプのテーブルセットと関節照明用のスポットライトぐらいしかない。窓はないんだけど、妙に明るいからただの飾りなんだろう。他にはなにもない。ようするにムチャクチャ殺風景な部屋だった。
あー、退屈退屈。
勢いでついてきたけど、別にソラと二人っきりになってどうしようとかもちろん何も考えてなかった。いつもは水泳部の話とかカコの話とかを(わたしが一方的に)話してるから間が持つんだけど、今はそんなことを話す状況でもない。
たいくつたいくつたいくつたいくつ。
別に今の状況が辛いとか後悔してるとかいうことは全然ない。ソラがキャンバスから目を離しわたしの方をみると、その視線が胸の置くまで突き刺さりわたしをドキッとさせる。ソラは表情を変えずにそのまま絵に向かいなおすんだけど、わたしは胸がドキドキしたままになる。それはちょっと楽しい。
でも最初デッサンを始めた時はしょっちゅうこっちをみてくれたんだけど、絵の具を使い始めてからはどうもこっちを見てくれない。そうなるとわたしは座ってるだけになって退屈なのだ。
で、あんまり退屈なのでソラのイッキョシュイットウソクをつぶさに観察している。
―――マキさんの絵、今から描いていい?
―――うん。もちろん。
っていう会話が最初にあっただけで、別に動いちゃダメとかそう言うことを言ったわけじゃないから、ジッとしてなきゃいけないってことはないんだろうけど(そもそも普通のモデルみたいに見た目の絵を描いてるわけじゃないんだろうし)、動き回るのもなんだか子供っぽいし。
あっ……。またソラがこっちを見た。
ソラと一瞬目が合うと、心をザワッと撫でられる感触がした。ソラの漆黒の瞳がわたしの心を覗いたのだ。心臓がまたドキドキし始めて、顔が熱くなる。
ここに来る前、ソラと抱き合ったことを思い出した。わたしから伸びた心とソラから伸びた心が絡まりあって、そのままソラと抱きあうと、自分とソラの境界がなくなったみたいな気分だった。わたしの感情が即座にソラに伝わり、その気持ちにソラの気持ちが上乗せされて返ってくる一体感は、なんていうか……その……すごく……心地よかった。
実はあれから、何度かわたしからもソラの心に触れようとしてるんだけど、ソラは気付いているのかいないのか、全然のってこない。
あの心が溶け合ったみたいな気分を思い出す。
あれ……また……してほしいな。
その時、背筋をぞくぞくする感覚が抜けた。
目を開けると、ソラがこっちを見ていた。『触覚』がわたしの心を触っている……。
でも、それも一瞬だった。ソラはすぐにキャンバスに目を戻した。
わたしはなんだか物足りなかった。
****
何度も何度もそんなことが繰り返された。
その間にもソラは何枚も絵を仕上げているのに、一枚描き終えると何も言わず、新しい白いキャンパスを立てかける。普通ならわたしから話し掛けそうなもんなんだけど、そうするのがなんだか場違いな気がして黙って座っていた。
わたしは徐々に時間の感覚を失っていく。
ただ、ソラがこちらを見るときを待っていた。
また、そっと心を撫でられる。
ビクっと背筋が震えた。
ああ……ソラ……もっと触って。
もっと奥まで……わたしの心の奥底まで触ってョ……全部見せてあげるから……。
いつの間にか目を閉じて、そんなことを思ってる自分に気付いて、はっとした。
やだ!! わたしなに考えてんのよ!!
顔を上げるとソラは何事もなかったかのようにキャンバスに向きなおっている。
今の心、見られた?! ああ、恥ずかしい。なんだかわかんないけどすごく恥ずかしい。
でもその恥ずかしさが収まると、わたしはまた黙って心を覗いてもらうのを待っている。
なんだか飼い主に撫でられるのを待つ飼い犬になったみたいな気分だ。
ふと、最近こんな気持ちをどこかで体験したような気がした。
なんだか甘ったるいような止めて欲しいような、それなのに嫌じゃない感じ……どこでだっけ? ほん最近のことだよね。確かどこかの病室……。
『そしたら今でも何でも亜衣の言いなりよ、亜衣サマ』
急に自分の口から出た未夜子さんの声が頭に浮かんだ。未夜子さんが母さんに言った、二人の異常な関係を端的に示すセリフ。未夜子さんはあの瞬間、微かにそれを再び望んですらいた。
ちがう!ちがう!
わたしのは違うの!!
急に立ち上がったわたしを、ソラの視線が射た。
同時に心をザワザワと撫で回される感触。その感触に神経を集中した瞬間、急激な脱力感を感じ、お尻がぺたんとソファに落ちた。同時に心拍数が跳ね上がり顔が上気する。瞳孔が開き、目が潤んでいくのが自分で分かった。
パツン、パツンという音がして胸のボタンが弾け飛ぶ。下を見るとその原因は一目で明らかだった。
む、むねがでかくなってる! 余裕で2カップは大きくなってる。(その前が何カップだったかはいいたくない)う……胸がブラに締め付けられて苦しい。
バツン!!
ブラをとろうと背中に手を回した瞬間、金具がはじけ飛んでしまった。
胸元のボタンのはじけたシャツの隙間から自分の胸の谷間が見えるのは(わたしにとっては)異常な光景だった。
「ソラ!! わたしに何したのよ!!」
わたしの非難の声にソラは少し悲しそうに答えた。
「僕の所為じゃない……。本格的に覚醒が始まってるんだ」
「え……覚醒ってわたしが悪魔になっちゃうってこと!? でも、なんで……?」
「なんでって……マキさんは覚醒ってどんな時に起きると思ってるの?」
わたしは答えを考えてから、顔が更に熱くなる。
「え……っとエッチな事したときとか……」
わたしがそう言うとソラが笑いながら、高い椅子をヒョイと降りた。
「違うよ、マキさん。覚醒はね、誰かをすごく好きになった時に起きるんだ」
「でも……わたし、これまでだって……」
わたしは中学生の3年間、とある同級生にずっと片思いをしていた。相手を家まで着けて行ったり、バレンタインデーに告白しようか三日三晩なやんだり、今思うと、実に乙女チックな日々を過ごしていたりした。結局、彼には年下の彼女がいる事が分かり、戦うことなく玉砕。
勢いに任せてその時つけてた日記帳は燃やしてしまったのだが、今思うと実に正しい判断だったと思う。いや、どうでもいい話なんだけど。
「ふふふ……そんなんじゃ、ダメだよ。もっと、自分って存在を捨てちゃうぐらいじゃないと。例えば冴貴さんなんかは、由貴さんを自分のモノにするためなら、普通の恋愛なんていらないって認めちゃったのが覚醒の原因だったんだから」
ソラはまた悲しそうな目でこちらを見た。
「悪魔の力は生まれる時から残酷でしょう?
すごく他人の事を好きになれた瞬間に、自分が人間以外に変わってしまうなんて酷いと思わない? 普通の人は相手が人間以外の存在になっていくのを目の前で見たら、恐くなっちゃうでしょう。覚醒した方はその心が透けて見えちゃう。それで二人は結局一緒にいられなくなるんだ。異常な能力に目覚めた瞬間、大切な人に捨てられてしまう……。殆どの覚醒者がすぐに人間の心を捨ててしまうのはそのせいなんだ」
ソラが淡々とそう言ったけど、わたしはきっとそれはソラも通ってきた道なんだと思った。
「じゃあ、わたしは……」
「相手が僕みたいな悪魔でもいいなんて思うから」
ソラはこっちに近づいて、わたしの手を取った。
「ありがとう……マキさん。すごく嬉しいよ……。自分に嬉しいなんて思う心があったことも忘れてたのに……」
ソラの肩越しの何もなかったはずの壁が突如割れて、ドアのように開いた。
その向こうに学校の廊下が見えた。
「もういいでしょう、マキさん。普通に男の人を好きになって生きてくなら覚醒なんてしなくったっていいんだ。だからもうこの部屋を出て行ってよ」
パチっとソラがウィンクすると突然壁じゅうに絵が現れた。どれも真中にあるものだけに鮮やかにある、わたしには見覚えのある風景の絵だった。
「僕はもうマキさんの大切なものを十分に見せて貰ったから……」
ソラがそう言っている間にも、わたしの体は徐々に変形していく。肌は透き通るように白くなっていき、体の火照りはますます酷くなっていく。その内、自分から不自然な甘い臭気が上がっているのを感じた。
わたしは着実に人間以外のモノになり始めていた。
それは、とても……恐ろしかった。
わたしはその恐怖に後押しされるように、よろよろと立ち上がり、壁に空いた四角い穴に向かって歩き出す。歩いている間にも、服を脱ぎ捨てたい衝動と戦わなければならなかった。油断すると、その場で自分から全裸になってしまいそうだった。
心まで変わっていくのかと驚いてもいた。
扉(?)の前で再び振り返ると、ソラはさっきまでわたしがすわっていた、黒い本皮のソファに浅く腰掛け、その真っ暗な瞳に何の表情も浮かべずこちらを見ていた。
ソラの後ろの壁に病室の窓からの景色の絵があった。
母さんを看病してた時、毎日眺めていたあの景色。わたしの悲しみの象徴……。
このドアをくぐり再び母さんのいないあの家に帰るのか……。また毎日、目の前にある悲しみから一生懸命に目を背けて生きるんだ。ソラのいない世界で……。
唐突に、ソラがどれほど母さんの死の悲しみを和らげていてくれたかに気付く。カコみたいに一緒に泣いてくれるわけでなく、冴貴みたいに自分のペースで無理矢理忘れさせてくれるわけでもない。でも心細くなりそうな時には必ず側に現われ、何気ない言葉をかけてくれる。決して意見を押し付けたりせず、ただ静かな言葉でやんわりとカコや冴貴や未夜子さんや水泳部のみんなの思いやりを思い出させてくれた。
ソラがいなければ、冴貴と一緒に暮らすのがこんなに楽しくなる事はなかっただろう。カコと一緒に買い物にでかける気にもなれなかったかもしれない。
ソラがいなければ、自分が悪魔の娘であることを、こんな風には受け止められなかったと思う。
わたしはここにソラに別れを告げにきたんじゃない。
わたしはここに悪魔の恋人になりにきたんだ。
そうハッキリ思った時、変化が急になった。
これまでに感じた事もなかった感覚が生まれ、視界が広がって四方が同時に見えているような印象をうける。同時に胸の奥と尾テイ骨の辺りに焼けるような熱を帯び始めていた。
わたしは自分からその変化を受け入れた。
変化が完了すると、自分が異質な存在になってしまっているのを感じた。顔や体の存在感が薄くなり、その気になれば自由に変えることができるのが分かる。自分が発散する人間とは違う甘い体臭にまじって、自分の出す甘い快楽の味も感じていた。もし、普通の人間が今のわたしの前に現われたら、その心を簡単に弄べるだろうと思った。
未だに自分に纏わり付いている、サキの力の名残を自ら振り切る。
そのまま、わたしの力で壁に空いた穴を閉めた。
「わたし、行かないよ。ソラのことが好きだから。ずっと一緒にいたいから。だから……」
シャツがハラリと床に落ち、大きくなった胸が露になる。
その言葉はなんの躊躇いもなく自然に滑り出た。
「抱いてよ……ソラ」
16.映画
時間というのはなんなんだろうか?
窓も時計もない部屋、喉が渇く事もなくお腹が減る事もなく、ただ一つの事に熱中していれば、時間なんてないに等しい。
わたしはソラとのセックスにのめり込んでいた。
ソラは黙ったままわたしを何度も抱いた。
いや、ソラにも今のわたしにも明確な性別があるわけじゃないから、わたしもソラを抱いた。
ソラは男の姿の時も女の姿の時も殆ど見た目が変わらないから何の違和感もなかった。
わたしも男になっても胸が平らになって、おちんちんが付くぐらいで、見た目は殆ど変わらない。父親がいないくて、他に男の人のを見たこともないからだと思う。
最初は痛かったりぎこちなかったりしたけど、この体はあっという間にセックスに慣れ親しんでしまった。元々、それをするための能力を親から引き継いだのだから当然かもしれない。
わたしは自分の出す快楽を自分で吸収する。そうするとこの体はますます体は精気に溢れ、心はますますセックスに没頭し、更なる快楽を引き出した。
ソラと二人でそれを貪り食っていた。
この体からは無限に快楽が生まれるのだろうか? もしかしたらもっと本質的なものが自分から失われているんじゃないかとチラッと思ったが、すぐにそんなことはどうでも良くなった。
悪魔とのセックスはそんな些細な危惧を塗りつぶすのに十分なほどの快感をくれた。
ソラと何度も何度も抱き合いながらも、わたしたちは一度も『愛してる』とは言わなかった。悪魔は相手のことが好きだからセックスするわけじゃなく、ただ相手から立ち昇る快楽が欲しくてセックスするんだということを、わたしは抱かれながら理解した。
でも、わたしもわたしで、抱かれている間はソラのことが好きだとかそんなこと関係なく、ただ快楽が欲しくて腰を振る。ソラのこと好きだなんて自分に言い聞かせながら、本当はヤりたかっただけかもしれないと自分自身を疑い始めていた。
この体は狂おしいほどセックスを渇望し、恐いぐらいセックスに満たされた。
チャプ……。
耳元の水音ではっと意識を引き戻されると、目の前は泡だらけだ。気付けば西洋風のバスタブで後ろからソラにそっと抱かれているところだった。
昔の映画でこんなシーンを見たことがある。
一瞬自分が誰なのか考えた。セックスしている間は心ごとソラと癒着しているため、明確な自我を取り戻すのに少し時間がかかった。
わたしの名前はサガワ・マキ。後ろから抱いてくれてるのがソラ。
心の中でそう確認してやっと少しだけ現実感が戻ってきた。
それでもまだ体と心の間に違和感が残っている。
「次は……ど、ど、どうやって抱いてくれるの……それともわ、わ、わたしが抱くの……?」
まだ少し喋り方がたどたどしいけどなんとか喋れた。
ソラはそれに答えず、後ろからそっとわたしの肩に頭を預ける。
「こ、こうやって、し、してるだけなの……。ちょっと、も、ものたりないけど、悪く、な、ないよ……」
その時、少しだけソラの心がわたしに触れた。
何故かわたしの目から急に涙がポロポロと落ちた。
「僕には流す涙がないから、僕のためにマキさんが泣いてよ……」
ソラが小さな声で耳元にそう囁いた。
「ど、どうして泣かないと、い、いけない、の……」
ソラは何も答えず、わたしをぐっと抱き寄せただけだった。
そうやってソラに身を預けながら泣いていると、それはとても自然な事のような気がした。
その映画が、娼婦が富豪に拾われて幸せになる話だったのを思い出した。
確か、とてもハッピーエンドな映画だったのを覚えている。
17.肖像画
ベッドの上でわたしが両手で自分のおちんちんを弄りながら、自分自身から快楽を吸い上げている間、ソラはまた絵を描いていた。
「あぁ……ソラぁ……早くしてよぉ……。一人じゃぁよくないよぉ……」
そう言ってもソラは少しこちらをみて、また絵に目を戻す。
その手に唐突に絵筆が現われると、それをまたキャンバスに押し付けるのだった。
もう見慣れた光景だった。
「うふふ……あたしもぉ……」
おチンチンから手を離して、ちょっと意識を集中させると手に鉛筆が現われた。
出してはみたものの、別に何か書きたかったわけじゃない。
何気なく芯の尖っている方を手のひらに押し当てると痛かった。
ずっと快感しか感じていなかった体には、その痛みはちょっと新鮮だったので、もう少し強く押し付けてみる。鉛筆のせいで黒くなった血の球が浮き上がると、赤黒い筋となって流れ出した。その血を拭うともう傷痕はなくなっていた。
冴貴が自分の手に包丁を突き刺していたのを思い出す。
いつの間にか鉛筆だったものは、ステンレスの包丁になっていた。
ためしに腕から肘にかけて包丁の刃を滑らせて見ると、鋭い痛みとともに生暖かい血が流れ出した。その痛みは一瞬だけわたしの心を蔽っているモヤモヤした物を切り裂き、鋭い感覚をよびおこす。だけどすぐに生暖かい血が流れ出すゾクっとする悪寒と、ぬるぬるした感覚が呼び起こす快感にとって代わられた。
何度も包丁を滑らせて左腕を血だらけにしながらアソンでいると、すぐに痛いのにも慣れてしまった。
だから冴貴みたいに刺してみた。
激しい激痛が体を突き抜けた。
いたいいたいいたいいたいいたい!!!!!!!
快楽に犯されきっていたノーミソが一瞬にして晴れる。
わ……わたしなにやってんだ!!! 痛いに決まってんじゃない!!
いつの間にか側に来ていたソラに、グッっと腕を掴まれた。
ソラから悪魔の力が流れ込み、真新しい傷は熱を発しながら塞がっていった。
その光景を見てわたしの心に何かが引っかかった。
「マキさん……そんなことしないでよ……」
ソラが悲しそうにいうのをうわの空で聞きながら、わたしは血が腕を流れ落ちシーツを真紅に染め上げていくのをぼんやりと見守っていた。なんだろう? この違和感は?
悪魔の力……怪我の治療……。
何が引っかかってるんだろう?
考えながら辺りに視線を泳がせると、ずっと壁に掛かったままになっていた、母さんの病室の窓の絵が目に入った。
その瞬間、電光のように『それ』が閃いた。
治療……!? そうだ! 何故今まで気が付かなかったんだ!!?
『冴貴はどうして母さんを治さなかった?』
病気は怪我と違って治せないの? いや、体全体の遺伝子ごと性転換させられるんだから、一部の臓器の癌にかかった細胞だけを取り出すことぐらい簡単なはずだ。事実、今のわたしなら確実にできると思う。
冴貴が母さんを見捨てた?
でも、なぜ……?
未夜子さんの記憶から見た感じでは母さんたちはとても仲が良かったみたいだし、母さん達が冴貴を大事にしているらしい事もなんとなくわかった。何か治せない理由があったの?
理由……母さんを見殺しにする理由……わたしから母さんを奪う理由。
そんなものある筈がない! あっていい筈がない!!
ソラを見ると、ソラも絵筆を握る手を止めてこちらを見ていた。一言では形容しがたい複雑な表情を浮かべていた。
「ソラは何があったか知ってるのね?」
「うん……」
「教えてくれないの?」
「教えてもいいけど……僕の口から言うべき事じゃないと思う……。僕は覗き見てただけにすぎないから……」
ソラの心に直接聞いてみようかとも思ったけど、やめた。
これは冴貴の問題だ。直接、冴貴に聞こう!
わたしは立ち上がると、床に落ちていた自分の服を取った。
ブラジャーをする為には胸を前のサイズに戻さなければならない。しかし、それは悪魔の本能に反しているらしく、常に変身の能力を使いつづけていないと維持できない事が分かっていたので、ノーブラのままでいく事にした。
目の前に鏡を出しながら服を着た自分の姿を映してみた。
大きく開けたシャツの胸元から深い谷間が見え、乳首が浮き出て見える。腰は前より一回り細く、お尻のあたりがジーンズの中でパンパンになっていた。プールの塩素のせいで少し茶色っぽいストレートだった髪はパーマをかけたみたいに軽くカールしており、唇は異様に血色がよく眼つきが酷く生々しい。
そしてその中心には全く輝きのない漆黒の瞳があった。
急にソラが後ろから抱き付いてきた。肩越しにソラがわたしを見ていた。
「すぐ帰ってくるから待っ……」
そういいかけたわたしの唇をソラの唇が塞いだ。そのまま顔じゅうにキスの雨を降らしてくる。
「うぅん……今は許してよ、ソラぁ……」
「僕のこの顔、人間の時の顔とは違うんだ」
鏡を見ながら急にソラがそんなことを言った。
「でしょうね。人間のクセにそんなキレイな顔してたら犯罪よ」
わたしがそう言うとソラがクスリと笑った。
「どんな顔してたか全然思い出せないんだけど、ごくたまにすごく思い出したくなるときがあるよ」
何故そんなことを話し出したのだろうと思いながらも、わたしは応えた。
「写真とかないの……て、ソラが人間だったのは何世紀も前なんだっけ」
「でも、生前は……生前って言うのかな? とにかく人間だった時に一枚だけ自画像を描いた事はあるよ。どんな絵だったか覚えてないんだけど……」
「へぇ、見てみたいなぁ。今でもあるのかなぁ?」
「……さぁ。多分ないんじゃないかな? あるとしたら僕の故郷にあるんだろうけど……」
そう言うと再びソラがわたしにじゃれかけてきて、耳たぶを噛んだ。
「いやよ、ソラぁ。また、濡れちゃう……」
「マキさん、濡れちゃうっていうか勃っちゃってるよ」
ソラがいやらしい手つきでジーンズの前を撫でた。
「やん、いつの間にか男になっちゃってる。ソラが可愛すぎるからよ」
わたしはソラをまだ血で濡れているベッドに押し倒した。手についた血をソラの胸になすりつけながら、わたしの『力』でソラの乳房を強制的に膨らませる。最初はソラの『力』が抵抗していたが、その内に諦めたのか抵抗がなくなり形のいい女性の胸が出来た。満足したわたしはそこにしゃぶり付いた。
「あぁん……マキさん。あぅん……ん……」
「ソラ、いやらしい声……」
わたしはソラの不思議な体臭を目一杯吸いながら乳首に歯を立てる。
「痛い! 痛いよぉ!! ……あぁ」
ソラの声とは裏腹にソラの乳首は興奮でビンビンに膨張していた。その声にわたしも興奮する。男の股間がレディースのジーンズに押さえつけられて痛い。
何でこんな邪魔なものを着てるんだろうと思ってはいたばかりのズボンのボタンに指をかけた。
ちがう! ちがう! ちがう!
こんな事してる場合じゃない!!!
服を着た当初の目的を思い出し、体を離して立ち上がると、女姿のソラが悲しそうにこちらを見ていた。
「すぐに帰ってくるから待っててね、ソラ」
チュっと軽くキスした後、わたしは再び鏡の前に立った。
****
キュイィィィン。
水野マイコの瞳の色が墨を流したように闇に染まっていく。
、
「ふちょー!! ちょっとこれ持っててくださいっ!!」
「ちょっと!?! み、水野さん!! なんなの、急に!?」
婦長の声を無視してその看護婦は手の中の物を婦長に押し付けた。
「わたし、ちょっと用事が出来たんで帰ります!!」
「何言ってるの!? 仕事中よ!!」
「ごめんなさい、大事な用なんですっ。埋め合わせは絶対しますから」
そう言いながら窓をあけ、一歩下がると勢いをつけて飛び降りた。
「!!? ここ、二階よ!!」
婦長が慌てて窓から見降ろすと、その看護婦はヘルメットを被りながら、太ももも露に大きなバイクに跨るところだった。
「水野さん!!? これは一体なんなんですっ!!」
婦長の怒鳴り声にその看護婦は慌しく応えた。
「娘が帰ってきたんです!! だから迎えに行ってきます!!!」
ブォン! ブォン!! ドドドドドドドォ!!
駐車場に爆音が響くと、水野マイコのバイクはすっ飛んでいった。
「……水野……さ…ん……あなた……子持ちだった……の?」
婦長は押し付けられた満杯の尿瓶を手に呆然とつぶやいた。
病院の中庭から大きな爆音が響くのを聞いて、由貴は書類を整理しながら溜息をついた。
18.理由(わけ)
「さよなら、マキさん」
再びこちらの世界に出た瞬間、小さな声だがハッキリとそう聞こえた。
えっと思ったときは既にソラのアトリエに入るのに使った学校の洗面所にいた。まだ夏休みの最中なのか昼間なのに人の気配がない。
グォン、グォン、グォン……グォロロン。
ソラの声になにか普通でないものを感じて慌てて鏡を振り返ったとき、校門の方から馴染みのある大きなバイクのエンジン音が聞こえた。どうやってここが分かったのかは分からないが、冴貴がわたしかソラが『部屋』から出るのをなんらかの手段で見張っていたんだろう。
いずれにせよあっちから会いに来たんだから話が早い。
わたしはこの校舎の正面玄関に向かった。
正面玄関を出た所で、ピンクのナース姿のあの人が立っていた。
「久しぶりね。全く不良ムスメにも困ったものだ」
冴貴は不適に笑った。
覚醒する前には気付くこともなかったが、その体には溢れるような気力が満ちている。冴貴が髪留めを外すと、きつくアップにされていたセミロングの髪がほどけ、風もないのに悪魔の力を含んで体の周りにゆらいだ。その漆黒の瞳は、わたしのなんて比べ物にならない深い深い闇を湛えていた。
「なに覚醒してるのよ。そんなおいしそーな体しちゃってさ」
サキの目線がわたしの胸元に刺さる。
わたしは咄嗟に胸元を押さえた。
「どうだった? 悪魔とのセックスは?」
はっと気付くといつの間にかすぐそばまで冴貴が来て、わたしの手を取っている。一瞬、瞬間移動でもしたのかと思ったけど、すぐにそうじゃないと思い直した。多分、わたしの心の動きを止めてその間に近づいたんだ。
そのままチュプっとわたしの人差し指に口づけた。それだけで肘の先からジーンと疼く。
「何もかもどうでも良くなっちゃうぐらい良かったでしょう? わたしならもっとすごいところまで連れて行ってあげるわよ」
ゾクゾクするような色っぽい声でそう言った。
「ふざけないで!!」
わたしがなんとか振り払うと、冴貴はいつの間にか少し離れたところにいる。
「ふふ、まだ正気は残ってるみたいね。それでこそ、亜衣のムスメだ。………さて」
冴貴が宙に揺らぐ髪を掻き揚げる。
「あたしに会いたかったんでしょう?」
わたしがギッと睨んでも相手は平然としていた。
「……亜衣のことね」
「よくも母さんを見殺しにしたな! どうして治さなかった! わたしにはたった一人の大切な肉親だったのにっ!!」
「……たった一人の……か……」
冴貴は独り言のようにそう呟くとすうっとわたしに向けて手をかざした。
「!?」
それと同時に強力な意識がわたしの中に割り込んでくる。わたしは咄嗟にそれを押し戻そうとするが、跳ね除けられないぐらいの圧倒的な意志の量だった。
「な……なにを……」
「百聞は一見に如かずだ! 会わせて上げる! 亜衣に!!」
その瞬間、ドンッっと辺りの景色が一変した。
そこはまたも母さんの居た病室だった。
****
側のベッドには母さんが座っていた。母さんはまだ全然、痩せてなくて、入院したての頃だと見当がついた。窓の外をぼんやり眺める母さんの横顔に薄っすらと涙の跡が見えた。
わたしはおかしいなと思った。
未夜子さんの記憶を見たときは、未夜子さんの見た記憶を辿っただけで、視点はあくまで未夜子さんのものだった。なのに、今は誰の視点でもなくまるで自分が病室にいるように見える。もっとも自分には腕も足もなくて、ただ視線だけがあった。
「あ~~~~~~~~い!!!!」
急にドアがバタンと開いて、ドタバタと見覚えのある人影が飛び込んできた。冴貴だ。
「久しぶり。会いたかっ……」
そういいかける母さんに冴貴が抱きついた。そのまま軽く何度もキスをする。
「も~~!! 急に倒れたっちゅうからビックリしたよ。今、由貴がお医者さんに容態を聞きにいってるけどさぁ、癌なんだって? だから体壊さない程度に仕事しなって口を酸っぱくしていってたのにぃ!! 大体さぁ、あれだよ。もう、マキだってでかくなったんだし、十分稼いだんだからさぁ、そんなに仕事しなくったっていいんだよぉ。亜衣一人ぐらいならわたしが死ぬまで食べさせてあげるんだからね! そうそう、マキはいないの? マキにお土産買って来たんだ!」
そこまで一息に喋って、やっと母さんにも挨拶の続きをいう隙が出来た。
「会いたかったわ、冴貴」
「あたしもだよ!! 亜衣ぃ!」
そう言って今度は母さんの唇に熱烈にキスをした。
暫らくクチュクチュいう音だけが病室に響く。母さんも慣れた様子で思いっきり淫靡なキスをしていた。わたしは知っていたとはいえ、母さんが冴貴とキスしているのを見て、やはりちょっとショックだった。
5、6分もの長いキスを終えてやっと二人が唇を離した。
「んふっ、やっぱり亜衣のキス、おいしい。由貴のキスも上手だけど、さすがに毎日してるとちょっとね……。って、そんなことどうでもいいか。ほら、ボーっと寝てないで家に帰ろうよ!! 今ね、由貴がレントゲン写真貰ってくるから、一応、それで治すところみてからチャッチャと治してあげる……」
そこまで言いかけた冴貴の唇を母さんが人差し指でそっと押さえた。
「ねぇ、折角あったんだからもうちょっとゆっくり話しましょう」
「……そう? 亜衣がそう言うんなら……」
冴貴がノロノロとベッドから降りる。
「でも、普段から病院勤めだからさ、消毒の匂いかいでるとどうも職場にいるみたいで落ち着かないんだよね。まぁ、いいや。おっ、このメロン、高そ~~。食べていいっ?!」
「勿論いいわよ。でも、ユミナちゃんにもあげるってミヤと約束してるから、残しておいてね」
「ユミナちゃん!! 大きくなったんだろうなぁ~~。会いたいなぁ~~! あれ、ナイフ、ナイフ……っと。まだ入院したてだから何にもないね。ナースステーションで借りてこっかな」
「後にすれば? それよりどうしてたの? 最近は?」
「どうもこうもまたドサ回りだよ。由貴が地方の無医村に出向いて、あたしがその看護婦。あ、そうそう、今は水野マイコって名前なの。いい名前でしょう? 戸籍を偽造するのももう慣れちゃった。
……で、何の話だっけ? そうだ、田舎は嫌いじゃないんだけど、さすがに飽きたよね。平均年齢高くて夜の相手も見つけにくいしさ。ここだけの話、由貴も最近セックスの後ちょっとしんどそうだし、都会に戻りたいかなぁ」
「戻ってくればいいじゃない」
「そうしたいんだけどね。また、前の時みたいに経歴詐称がばれそうになったら困るし……。あん時は由貴までまきぞいにするところだったからさ。その点、田舎なら人が少ないから万が一、バレちゃっても村ごと意識を変えさせることが出来るからね。そもそも、地方を回る医者とか看護婦とかは殆どいないから、ちょっとぐらい経歴詐称してたってありがたがってもらってるぐらいだよ」
「ここの病院の医院長ならわたしの知り合いだから、無理言ったら入れてもらえるわよ」
「知り合いって、ドレイの間違えでしょう?」
冴貴がニヤリと笑った。
「あの時のエロ医者が今は院長様だから笑っちゃうよねぇ。亜衣に面倒見てもらわなかったら今ごろ絶対女性スキャンダルかなんか起こしてる男のくせにさ」
母さんはその言葉に静かに微笑んだだけだった。
「ねぇ、マキは来ないの? 遠くから見るだけでいいからさぁ、会いたいなぁ」
「そんなこと言わずに直接会ったらどう?」
「いいよ、今更、父親ですなんていえないじゃん。自分の親が人間じゃないっての言うのもかわいそうだしさ。あたしは写真で見るだけで十分なんだから」
「まだ、マキの生まれた時の写真持ってるの?」
「当たり前だよ!! 前に送ってもらった高校の入学式の写真と一緒に肌身はなさず持ってるよ。あたしって案外、健気でしょ?」
うふふふ、と母さんが楽しそうに笑った。
母さんが入院してからこんな嬉しそうに笑ったのをわたしは見たことがなかった。
「ホントに健気な人は自分で健気だっていわないものよ」
「そうかな? ……そうかも。まぁ、いいじゃん。それより、久しぶりに亜衣に抱いて欲しいなぁ。亜衣の病気、さっさと治してあげるから、治すの『許可』してよ。一応、亜衣も患者さんってことになるから、みんなとした『悪魔の力で患者さんを治さない』って約束に触れてるんだ」
そこで、ほんの少しの間を置いて母さんが言った。
「許可は……しないわ……」
「……え」
「許可はしないわ。わたしも普通の患者さんのように治療してもらうから」
「……な…何いってんのよ……。後期癌なんだよ!? できた場所も良くないしリンパ節に転移もしてるみたいで、その歳でそんなのにかかって普通に治る訳ないじゃないか!」
「治る治らないは関係ないわ」
「じょ……冗談きついよ。ビックリするじゃんか……」
それでも母さんは辛抱強く言った。
「冗談じゃないわ。わたしも他の患者さんと同じように治療してもらうのよ」
そこまで言われてやっと冴貴は母さんが本気な事を認めざるえなくなったみたいだった。
「ふ! ふざけないで、亜衣!! あたしが治さないと死ぬんだよ! 死ぬってどういうことかわかってるの? 亜衣がいなくなっちゃうんだよ!!わたしは自分の患者さんが――本当は治そうと思えば治せるはずなのに――死ぬのを何回も見てきて、それがどれだけ辛いと思ってるんだ!! 亜衣が死ぬの黙ってみていられる訳ないだろ!!!」
「それならなおさら冴貴に治してもらうわけにはいかないわ。冴貴にわたしだけ治して他の患者さんをこれまでみたいに見捨てるなんて出来る? 貴方に生かす人間と殺す人間を決められるの?」
母さんが恐ろしく真剣な目で冴貴を見つめた。
「……そ……それは……」
「他人の体を変化させるには『部屋』が必要なんでしょう? 死にそうな患者さんが出るたびに部屋なんか作ってたら、すぐに『精』を使い果たして、またセックスまみれの日々に戻ってしまうわよ」
「じゃあ、じゃあ亜衣が生きててくれるなら、看護婦なんてやめる!! それなら治させてくれるよね? くれるよね?」
冴貴がすがりつくように言った。
そこで母さんが微笑を浮かべ、そんな冴貴の髪を撫でた。
透き通っているみたいな、優しい微笑だった。
「そんなこといわないで、冴貴。看護婦はあなたの天職よ。辞めるなんてとんでもないわ。これからもずっと続けていって。冴貴の優しさがこれから永久に人を助け続けるなら、きっと、そんなあなたを悪魔から救い出した事が私の人生の一番の意味なんだから」
「嫌だ……嫌だよ……。そんなの嫌だよぉ……。亜衣には生きてて欲しいの。ずっと生きてて欲しい。亜衣が生きててくれればなにもいらないから」
冴貴の声は既に涙声だった。
「私の人生に悔いはないわ。ホントよ。そりゃ、大変な事も会ったし、遠回りした事もあったけどすごく楽しかったわ。これもあの日、あなたが私の目の前に現われた日に始まった人生よ」
「マキは……マキはどうなるんだよぉ……。まだ17歳じゃないか…。父親もいないのに母親までいなくなっちゃっていいのかよぉ……?」
「あの子はもう十分に大人よ。それに、親ならもう一人ここにいるじゃない?」
そう言われて、冴貴は意外そうな顔をした。
「……あたしのこと??」
「ええ。あの子を見守るのはこれからは冴貴の仕事だわ」
「そんなの! そんなの無理に決まってるよ!! あたしは人間じゃあないんだよ!!!」
「だからこそよ。私にはなんとなくわかるの。きっとあの子は冴貴の『能力』を引き継いでるわ。それが目覚めた時はあなたが眞貴の側にいてあげなくちゃ」
「……亜衣も知ってたのか」
冴貴が呆然と言った。わたしも同感だった。母さんは知ってたのか。
「あら、母親をなんだと思ってるの? そんなの分かってるに決まってるわ」
「それじゃ、尚更だよ!! 覚醒したら誰かが支えてあげなくちゃ、本物の悪魔になっちゃうよ!!」
「そうね……その時あの子の側に居てあげられないのは残念だわ」
冴貴がグイッと母さんの腕を握った。
「何言ってんだ!? 亜衣が生きてれば良いことじゃないか!!! あたしは絶対に亜衣を治すからね!! 亜衣が何って言っても無理にでも治すからね!!! 亜衣が許可してくれないからあたしが治せないなら、あのマフユとシモツキを呼んでだって!!!」
母さんの腕を握る手は色が白くなるほど力が篭っている。それでも、母さんは顔色一つ変えずに、その手を振り払らうかわりに、そっと優しく撫でた。
「そうやってして、これからずっと私や由貴を生かしていくの? 私達は死にそうになったら治され、死にそうになったら治され……そうやって生かされて、死ぬ時をあなたに決めてもらうの?」
「……そ……それは……」
「もし自分が死ぬようなことになったらこうする事は、もうずっと昔に由貴と決めた事なの。ミヤと康治も賛成してくれてるわ。まぁ、康治には元から力が効かないけどね」
「……」
冴貴は無言のままショックを受けた様子だった。
「…冴貴さん」
と、母さんが冴貴を始めてさん付けで呼ぶ。
「誰だっていずれは別れる時が来るものよ。それは歳をとるとかとらないとかに関係ない。別れる事を恐れていたら、新しい人となんて出会えないでしょう。もし冴貴が別れを恐れて悪魔の力を使いつづければ、いずれは本当に一人ぼっちになって、その孤独に耐えられなくなった時にあなたの人間の心は死ぬんだわ」
母さんは既に力の抜けた冴貴の手を取って、それをぎゅっと両手で包んだ。
「あなたも覚悟を決めて、冴貴。悪魔の能力と人の心を同時に持って生きるってことはそう言うことでしょう。それがあなたと私たちが選んだ道なんでしょう?」
冴貴の漆黒の瞳からからボロボロと大粒の涙が溢れ出した。
「……亜衣は……はどうしてそんなに強いんだよ。死ぬのが恐くないのかよぅ」
「こうする事は冴貴の為だけじゃなくて、眞貴のためでもあるの。覚醒しても立派に人間として生きていける事をあの子に見せてあげてね」
そして、少しだけ明るい声でこう続けた。
「それに誰も、死にたいとは言ってないわよ。由貴にこっちに来てもらえるように院長に言ってあるから、精一杯治療して貰うつもり。冴貴もここの看護婦になって、私の世話してくれるわよね」
「もちろんだよ。もちろんだよ……」
そこで母さんは冴貴の手を放して両手を広げた。
「私に性欲がなくなったら、あなたが私を抱しめる約束だったわね」
母さんがそう言うと、冴貴は弾かれたように母さんに抱きついた。
母さんに背中を撫でられながら、自分よりふたまわりは小さい母さんの体を力いっぱい抱きしめて静かに泣いていた。
この人が悪魔の色をした瞳から透き通った涙を流せるのには、理由があった。
****
長い長い夢みたいだった。
気が付けばわたしは再び学校の出入り口に立っていた。
目の前が曇っているのが、自分が泣いている所為だと気付いて、慌てて涙を拭った。
「そういえばマキが涙ぐむところなんて久しぶりに見たわね。昔は泣き虫でよく泣いてたのにね」
こ……この声……?
それは聞き覚えがないのに、すごく懐かしい声だった。何かがわたしにそれが有り得ない事だと告げていた。
慌てて目を上げると、さっきまで冴貴のいた場所に小柄な人影があった。
15、6歳の可愛らしい女の子だった。
長い黒髪に鬢から下げた一房の細い三つ編み。写真でした見たことがなかったが、その大きな瞳にはその面影があった。
間違いない。
ぶかぶかのピンクのナース服に身を包んだ、若い頃の母さんがそこに立っていた。
19.再会
「ごめんなさい、マキ。ビックリした?」
自分の三つ編みを触りながら若い母さんの姿をした人がそう言った。
「冴貴! 冴貴なんでしょう!? 今すぐ止めなさいよ!!? こんなの悪趣味だぞ!!」
すると目の前のその少女が顎に手を当てて少し首をかしげた。その仕草も母さんそのものだった。
「この体は一応冴貴のモノなんだけど、でも、今しゃべっているのは冴貴じゃないわよ」
「……??? 何いってんのよ…?」
「やっぱり、マキに隠し事をしたまま死ぬのもなんだと思って、生きているうちにわたしの心のホンの一部だけを冴貴の心に記憶してもらったの。外見とか仕草とかは冴貴さんの記憶から再現されているわ。でも冴貴さんが未だに……」
その少女が自分の体を見下ろした。
「私をこんな若い姿でイメージしてたとは知らなかったわね。ちょっとロリコンの気もあるのかしら?」
にやり、とちょっと得意そうに笑うその表情は母さんそのものだった。
他人の心を一部だけ切り取って、自分の中に残しておく……。いくら悪魔の能力でもそんな事できるんだろうか? 今のわたしにそんなことができるとは思えない。でも、冴貴なら……30年近く悪魔の能力を使っている冴貴なら、あるいは……。
「私の隠し事、もうばれちゃったんでしょう?」
わたしの考え事を破って、目の前の少女がそう言った。頷きそうになって、考え直す。本当に母さんなのか? それとも冴貴のまやかしか?
わたしが黙っているのを見て、少女は苦笑いを浮かべた。
「私が本当に私なのか疑ってるのね? でも、そんなに難しく考える事ないわ。伝言みたいなものだと思えばいいのよ。それとも私しか知らないマキの秘密とか言えば信じる? 小学校までおねしょしてた事とか、図工が嫌いで夏休みの宿題の絵を私が描いて危うく入選しそうになったこととか……」
………間違いない……母さんだ。
その記憶そのものより、この場面でわたしの恥ずかしい過去を平気で引っ張り出してくるのが母さんとしか思えない。
まだまだわたしの過去を列挙している母さんを慌てて止めた。
「勝手に死んだと思ったら、勝手に舞い戻ってきたりして、なんのつもりよ!」
あら、と言った感じでやっとわたしの暴露話をやめた。
「やっと信じたのね? でも、『勝手に死んで』ってのはちょっとひどくない?」
「勝手に死んだじゃないの! 自分の娘より冴貴の方が大事だったんでしょ?」
「あらら、妬いてるのね、マキ。でも、自分の父親の事を呼び捨てにするのはよくないわよ」
「あんなの父親って呼びたくないね」
「あらそう? あれでも私の愛したヒトなのよ。私のブレスレットと由貴の首輪と冴貴の指輪はね、私たちの結婚指輪の代わりなの。例え離れていても、生きている限りお互いに助け合い、愛し合う証だったのよ。だから一度もはずした事がなかったでしょう?」
「と……とにかくあんなのが父親だなんて認めないからね!!」
おもむろに母さんがスタスタと近づいて来た。体が触れ合うぐらいまで近づいてから、母さんがわたしを見た。母さんの方が少し背が低いので、見上げるみたいな感じになっている。
若い母さんは何も知らないお嬢さんと言った感じで、そのつんとした唇とくりくりした大きな瞳がすごく可愛らしい。若いオンナの匂いを感じ、わたしの中の悪魔の部分がザワザワと揺らぎ始めた。
むにゅ!
母さんが出し抜けにわたしの大きくなってる胸を鷲掴みにした。
「ンふっ!!」
しまった! 変な声出ちゃった。
「うふふ、眞貴もあんまり変わらないように見えるけど」
母さんがニヤニヤと笑っている。
「う……うるさいな!! 母さん、わたしの前じゃこんなエッチじゃなかったでしょう? よくも猫かぶってたわね! だいたい幽霊のクセに勝手に人に触らないでよ!!」
母さんを押しのけながら一歩下がる。
「ユーレイって……ひどい言い草ね。まぁ、幽霊みたいなものか。もう、死んでいるんだものね。……ねぇ、私、苦しまずに死んだ?」
本人に『苦しまずに死んだか』なんて訊かれるとは思ってもみなかったので、一瞬返事に困ってしまった。でもまぁ、事実を答える事にした。
「最期はユキ先生が限界までモルヒネをうってくれたから、痛みはなかったみたい。母さんが死ぬ時は皆いたんだよ。ユキ先生も未夜子さんも康治さんもおじいちゃんもおばあちゃんも……。そうだ、あの時は急患とかで冴貴はいなかったな。母さんは知らないだろうけど、皆で泣いてたんだからね」
少し恨みがましくそういうと、若い姿の母さんがそっとわたしの頬に手を当てた。
「ごめんね。悲しい思いさせて……」
少女の瞳で見つめられ、そう言われるとちょっとバツが悪い。
「ふ…ふんだ。折角、大きくなったら親孝行してあげようと思ってたのに、とっとと死んじゃって残念だったわね」
母さんが頬から手を放し、少し離れた花壇の淵に座って、自分の側に座るようにという仕草を見せた。わたしはそれに黙って従った。
「マキが親孝行? 必要ないわよ」
その言い方に、ちょっとカチンときた。
「わたしの親孝行が必要ないってどういうことよ」
すると母さんが笑みを浮かべながら言った。
「マキが私の子供として生まれてきてくれたのが一番の親孝行だったってこと。私はそのお礼にマキを育てて来たの。それだって、本当に楽しかったわ。……勝手な事いってるかしら? マキは付き合わされて大変だわね。母子家庭に育った上に、そんな『能力』まで引き継がされちゃって」
「そんなことは……ちょっと、あるかな……」
「でもマキには悪いけど、私はマキを産んだ事、後悔はしてないわよ」
「当たりまえ! 後悔なんてされてたまるか」
「マキらしいわ」
少し笑いながらそういって、並んで座ったままわたしの肩を抱いた。
「冴貴にお礼を言っておいてね。マキにこうやって話が出来てよかったわ」
「ねぇ……また、こうやって話できるんでしょう?」
「ううん。それは無理……。今でも私が喋っているように見えるけど、本当に喋っているのは『冴貴の中の亜衣像』が大半で、私の心はその中心のホンの一部だけなの。それもこうやって冴貴の心の一部として使っているうちに、冴貴の心の中に溶けていってしまうわ」
「じゃあ……もう母さんは消えちゃうの?」
「消えるんじゃないわ。もともとここにいるのは生きていた私の影みたいなものなのよ」
「………」
生きて『いた』……。確かに母さんは死んだ。それはわかってる。それでも、たとえ若返っていても、今ここにいるじゃないか。喋ってるじゃないか。
胸に込み上げてくるものをグッとこらえていると、母さんが優しく言った。
生きていた時はわたしにこんな風に優しくする事なんてなかったくせに。
「ずっと愛してたわ、マキ。マキと離れ離れになるのは、私が死ぬ事そのものよりずっと辛かった。それでも私が冴貴の能力を拒んだ理由、分かってくれるわね?」
「……そんなの分かりたくない」
母さんがニッコリと笑った。
「マキなら分かってくれると思っていたわ」
「分かりたくないって言ってるのに!」
生きている時から強引だった。佐川亜衣と言う人は。
そしてわたしはそんな母さんが大好きだった。死んで欲しくなかった。ずっと生きていて欲しかった。
「14歳の時、私の心は夜の世界に沈んだわ」
そう言いながら母さんがわたしの目元を指でなぞった。涙が頬骨を濡らした。
「アブノーマルなセックスに夢中になって、大勢の人間を巻き込んだわ。悪魔達を追い払った後も変わらなかった。それでいいと思ってたの。自分は生まれつきそういう人間なんだからそれが私の幸せなんだって思ってた」
その言葉に何故かズキンと心が痛んだ。
「あなたが教えてくれたのよ、マキ。人の悦びは暗いところにあるだけじゃないってこと。あなたが私に話し掛けてくれるたび、笑いかけてくれるたびに、わたしは幸せを感じたわ。それは夜の世界で覚えた人を思い通りにする精神的満足とか、性感を刺激される肉体的満足みたいに直接的じゃぁなかったけど、死を待つベッドの中で思い出すのは、マキのくれた日のあたる世界の幸せだったわよ」
母さんが立ち上がり、座ったままのわたしの目を覗き込んだ。
きっと全ての輝きを失っているであろうわたしの目を見ながらも、母さんの表情には批難とか憐れみとかそんなものは何もなかった。
「マキが冴貴の力を引き継いでしまったからには、夜の世界から目を逸らして生きる事はできないと思う。もしマキがセックスの快楽に人生を捧げたとしても仕方ないのかもしれない。悪魔の能力はその為にあるんだし、セックスの快楽だって元々は人間の生殖本能に根ざしたものだし。
それでもね……」
母さんが両手をわたしの肩に置いた。冴貴のナース服に染み付いた消毒液の匂いが鼻をついた。
「それでも、心を夜の世界に沈めると決める前に一度だけ考えて欲しいの。胸を張って他人に言う事の出来る幸せだってあるってこと。昼の世界だって捨てたもんじゃないわよ」
そう言いながらそっと微笑む母さんの顔は、涙で滲んでよく見えなかった。
「今度こそ本当にさよならね、マキ。そろそろ冴貴に体を返さないと、冴貴の精が尽きちゃうから」
「母さん!!!」
わたしが母さんに抱きつくと、母さんは小さな体で精一杯わたしを受け止めてくれた。
「世界で一番あなたを愛してるわ、マキ。あなたの幸せを心から祈ってる」
「いっちゃやだよ!! いかないで!!」
母さんがわたしの髪を撫でた。
「みんなにもよろしくね。私、本当に幸せだった」
そしてぎゅっとわたしの頭を抱しめた。
「さよなら……」
その言葉と同時に、小柄だった母さんの体が徐々に大きくなり始めた。
それとともに消毒液の匂いに混じって特有の甘い体臭がわたしを包む。
ポタポタと顔に落ちてくる涙を感じながら、わたしは母さんのものじゃなくなってしまった大きな胸に顔を埋めて泣いていた。冴貴と二人で抱き合いながら、長い間そうしていた。
今でも消毒液の匂いを嗅ぐと、あの日の事を思い出す。
20.残暑
あの後、ソラの『部屋』には帰れなかった。
理由は分からない。ソラが『部屋』を消してしまったからなのか、それとも母さんの言葉が無意識の内にわたしに影響を与えているのか、鏡の前に立ってもソラの部屋への道を見つける事が出来なくなってしまっていた。
ソラの最期の「さよなら」という言葉はこれを意味していたのだと思う。もしかして、覚醒した後でも、わたしが人間の人生に心を残していたら、わたしと別れると決めていたんじゃないだろうか。今ではもうそれを確かめる術もないけど。
ソラは悪魔にしては優しすぎた。わたしを好きになればなるほど、わたしというものを壊していく事に堪えられなかったんだと思う。ソラの全ての輝きを失ったはずの瞳の中には、それでもなお捨てきれない感情の煌きがあった。冴貴は悪魔はみんな固有の名前も姿もないと言うが、わたしは違うと思っている。わたしの初恋の相手、ソラと言う名の少年は確かに存在した。
少し悲しそうな微笑で、いつもわたしに笑いかけてくれた。
わたしが戻ってきた時には既に学校が始まっていた。
驚くべき事に3週間近くもソラの部屋にいたことになる。まさに浦島太郎の気分だ。
皆、わたしの体形が大きく変わってしまったことにはたいして注意を払っていない。冴貴に能力の使い方を習った成果だった。
水泳部の皆やカコにはわたしは病気で入院していた事になっていた。こんなに胸が大きくなってしまってそれでも水泳部を続けていくべきかどうかは悩んでいる。その気になれば、能力で体の筋肉を強化する事も出来てしまうのだから、スポーツに情熱をかけるのもなんだか難しくなってしまった気がする。
でも、もう少し気持ちの整理がついたら、やりたい事が出来た。
家に帰ってきてから2日後、差出人不明の一枚の風景画が送られてきた。見慣れたタッチなんだけど、わたしには見覚えのない景色だった。日本ではないどこかの丘陵地帯の風景で、遠くの山に大きな洋館が描かれている。サインも外国人の名前だった。
わたしはその絵を自分の机の目の前に掛け、いつも眺めている。
「あら? マキじゃない。面会って言うから誰かと思ったら。なにかよう? 家で話したんじゃダメな用事なの?」
声をかけられてはっと現実に舞い戻った。
わたしは今病院の待合室に座っていて、目の前には背の高い看護婦がいた。
「さ……じゃなくて、マイコさん、こんにちは。ちょっといいでしょ?」
「まぁ、いいけど……。何?」
「実は大事な事を思い出したんだけどさ」
「え、なになに? あたしに関係あること?」
冴貴が喜んでわたしの方に寄って来る。そこで、わたしはグッと冴貴を引き寄せた。
「よくもわたしにブチュブチュと気安くキスしてくれたわね。ファーストキスもまだだったのに」
「えっ、あ、あの……あれはさ……その……なんていうかね……そのさ……何でそんな事、今ごろになって急にいうのよぉ?!」
ふふん。しどろもどろになってる。いつもわたしが遊ばれてるからイイキミだ。
「親が血の繋がった娘のファーストキスを奪うなんて、とんだ鬼畜っぷりよね。もっと酷いことも当然するつもりだったんでしょう」
出来るだけドスを効かせた声でそう言うと、冴貴が酷く情けない顔をした。
「そ……そんなぁ……。キスしたのはちょっとした出来心なのよ。ほんとよ! マキのことヤッちゃおうとかそんなことは(ほんのちょっとだけしか)思ってなかったんだからぁ」
「……信用できない」
「ほ……ほんとなんだからね」
「そう。じゃ、お詫びに一つわたしの言うことを聞いてもらおうかな」
「……い……いいわよぉ!! ヴィトンでもシャネルでもドンとこい!」
でもわたしが欲しいのはモノじゃなかった。
「それじゃ、今日一日悪魔の能力を使わないって約束してもらうわね」
冴貴が訝しげにわたしを見る。
「……なに、企んでるのよぉ。さては力の使えなくなったあたしをとことんヤルつもりね」
「あんたじゃあるまいし、だれがするか!! ほら、約束するの? しないの? 約束しないなら、由貴さんと未夜子さんに冴貴に能力を使って無理矢理キスさせられた事をいいつけるよ! あの二人、怒るだろうなぁ」
「わ……わかったよ! 約束すればいいんでしょう! 『水野マイコこと横山冴貴は今日一日、能力を使いません』 これでいいの?」
「よろしい。ユキ先生!! オッケーだよ~!!」
わたしが冴貴の後ろにいたユキ先生に手を振った。
「なんだ。ユキもグルだっ……」
振り向きかけた冴貴が凍りついた。
ユキ先生が年老いたお爺さんがのっている車椅子を押してくるところだった。ユキ先生の側には同じぐらいの歳のお婆さんがあるいている。
「サキ……」
車椅子に座ったおじいさんがそう呟いた。おばあさんはハンカチで目を押さえている。
「変な感じだけど、わたしのおじいちゃんとおばあちゃんってことになるのかな?」
わたしの声は冴貴には届いてないみたいだった。
「とうさん……かあさん……」
冴貴がこんな顔をするのを初めて見る。見ているこっちが切なくなるような思いつめた表情だった。それにワンテンポ遅れて冴貴の能力がブワッと膨らむ。しかし、したばかりの約束に邪魔されて力の流れが堰き止められた。わたしの目には行き場を失って渦を巻く能力の塊が見えていた。
「力を使わせてよ!! お願い! お願いだから!!」
こちらを振り返って冴貴が必死に懇願してきたが、わたしはそれを突っぱねた。
「だめよ。折角、ユキ先生が辛抱強く説明したんだから。おじいちゃんね、心臓がいよいよ悪くなって今日から入院するの。わたしのおじいちゃんなんだから心を込めてちゃんと世話してよね」
無言の冴貴の背中をドンと強く押すと、冴貴はヨロヨロと車椅子の前に進み出た。
ここからではよく聞こえないけど、ボソボソといくつか言葉を交わした後、冴貴が俯いて肩を振るわせ始めた。わたしはそれを見届けてから、すこしそっとして置いてあげようと思い、中庭の方へ歩き出した。
中庭へ出た所で後ろから小走りでユキ先生が追いついてきた。
「マキちゃん、今日はありがとう」
「ううん、ユキ先生が礼を言うことじゃないよ。冴貴が母さんに会わせてくれたから、そのお返しなの。あと、マキちゃんっていうの止めてよ。ユキ先生と母さんと冴貴が結婚を誓ったんなら、わたしはユキ先生の娘でもあるってことでしょう?」
ユキ先生は美しい微笑を浮かべた。
「そうね、じゃあマキって呼ぶわね。でも親に向かって『ユキ先生』もおかしいと思うけど?」
「じゃあねー、ユキお母さんがいい? それともユキママ?」
うふふふ、とユキ先生が嬉しそうに笑った。
「マキちゃ……じゃ、なかった。マキも大変だったそうね」
「ううん、これまではなるようになっただけ。これからどうするかがわたしの人生だよ」
「そうね。もう、何か決めてるの?」
「とりあえず勉強して大学に入るよ。それでバイトしてお金を貯めて、ヨーロッパに行くの」
「ヨーロッパ?」
「わたしの大切な絵の描かれた場所を捜すんだ」
ユキ先生が少し目を細めた。その絵を描いたのが誰なのか冴貴に聞いているのかもしれない。でもその事については何も言わず、ただこう言った。
「よっぽど大切な絵なのね」
「その絵の作者の描いた自画像を手に入れたいの。この世に存在するのかどうかもわからないけど……」
「心配しなくてもきっと、見つかるわよ」
ユキ先生が珍しく強い口調で断言した。普段は気休めを言うような人じゃないので、わたしは少しビックリだった。でも、ユキ先生にそう言ってもらえると、なんだか本当に見つかるような気がした。
「うん! 絶対見つけるよ!!」
その時、ほんの少しだけ涼しい風が吹いた。
まだまだ残暑は厳しくて、白いコンクリートには陽炎の揺らめきが写る。
それでも、わたしは青いソラを見上げながら、確実に過ぎていく夏を感じていた。
21.終章
明かりのないうす暗い部屋。
何十枚の絵に囲まれ、一人の少年が虚空を見つめていた。
部屋の隅に漆黒の闇が溢れ、影が美しい女性の裸体を模っても、少年は目を上げようともしなかった。
「お仕事は終わったみたいねぇ。長い間ごくろうさま」
オンナの真紅の唇から、口調とは裏腹な妖艶な声が吐き出される。
無言で少年が立ち上がると、絵は一枚残らず虚空へと消え去っていった。
「あの冴貴を出し抜いて、娘だけを覚醒させるなんて、よく出来たわね。ほんとビックリよぉ。それにしてもその姿、かわいいわねぇ。私の好みだわぁ」
男だけでなく女までも魅了されそうな声に、少年は鋭い一瞥を投げかけただけだった。
「でも、本当にこれでよかったのかしら? あの母娘が団結したら堕とすのは難しいわよ」
「………しかたないさ。娘が普通の人生を歩んでいたら、そこに冴貴は人間性を保つ拠り所を得てしまうからね。あの冴貴が年老いた娘を捨てて、快楽に堕ちるとは思えないし。
まったく佐川亜衣は最期までとことん邪魔してくれたよね。彼女が大人しく娘の普通の人生だけを願って、死後に冴貴と娘を引き合わそうなんて思わなければ、こんな事にはならなかったのにさ」
「あら、娘を覚醒させたのは本当にそれだけなのかしらぁ?」
「………何が言いたいの?」
「いやぁん、そんな恐い目で見ないでよぉ。まぁ、いいわよ。二人まとめて本格的に堕とせば、倍の快楽が撒き散らされるんだから。それに相手が強ければ強いほど……」
「ゲームは面白くなるからね」
少年の漆黒の瞳が更に深い闇に染まると、その側に巨大な鏡が現われた。
「さて、それまで僕達も力を蓄えないと。どこへ行く? アメリカはどうだったの?」
「アソコはだめね。オンナの恥じらいってモノが足らないわ。古きよき清教徒の教えはどこいったのかしら、ホントに。今度は……そうね……イスラム圏なんかどぉ? まだ、姦通罪とか残ってるから、命がけの不倫とかさせたら楽しいわよぉ」
「宗教は嫌いだな。それより中国なんてどうかな?」
「いいわねぇ。抑圧された社会と未だ強い道徳観念。私たちの好みかも」
「じゃあ、決まりだね。冴貴の手前ずっとセーブしてきたから、久しぶりにザンコクにやりたいな。恋人の目の前で完全に堕ちるまでレイプしたり、親を子供のドレイにさせたりしてね」
「うふ、それでこそ悪魔だわぁ。わたし、あなたがいなくなっちゃうんじゃないかってちょっと心配してたのよぉ。だって、その姿、何処となく人間の時のあなたに似てるんだものぉ」
「……くだらない。そんなわけないでしょう? 人間の時の姿なんて覚えてもいないのに」
「そう? だといいんだけど?」
「バカらしいね……」
少年はそういうと無造作に鏡の中へ手を突っ込み、そのまま鏡の中へと消えていった。
「………ほんとにバカらしいのかしら?」
残されたオンナの方が一人ごちる。その視線の先の壁には消えたはずの、ヒマワリの絵が再び現われていた。
「だって、誰にも分からないものでしょお?」
オンナが目を細めると、ヒマワリの絵が一瞬の内に炎に包まれ、炎に舐められたところから黒い灰となり虚空へと消え去っていった。
「……アイのユキサキなんてさぁ」