空は、痛いほど蒼く澄んでいた。
その空を灰色の煙がどこまでも高く、高く、昇っていく。
たなびく煙を追いながら、一心に祈った。
風邪よ、吹け。
せめてその魂を―――
● ● ●
「本郷?」
名を呼ばれ、本郷猛は深い眠りから目覚めた。
はっきりしない意識で天井を凝視する。それは見慣れた自室の天井だった。本郷は辺りを見渡した。自分の傍らにいたのは見知った男だった。その男が自分の名を呼んだ事を知る。
「嫌な夢でも見たのか?」
その男は本郷の顔を注意深く見ていた。男の隣に月刊誌が無造作に置いてあるのが視界の端に映る。どうやら先程までそれを読んでいたらしい。
何も答えない本郷に心配したのだろう。男は近付き、本郷の目尻に指を這わした。
何をしているのだろう?―――本郷の疑問はすぐに消えた。男の指に水滴がついていた。
「…泣いていたのか…」
起きたて故、掠れた声で本郷は呟いた。
男は頷きながら答えた。
「そうみたいだな。うなされてたし…」
「うなされていた?…」
男は指先についた涙を拭いながら、不思議そうな表情を本郷に向けた。
「だから悪い夢を見たんだろう?違うのか?」
本郷は自分が寝ていた間に見た筈の夢を思い出そうと、瞼を閉じ眉根を寄せた。意識を深い箇所に潜り込ませようと試みたが、何も見えて来ない。
「何か見ていたとは思うが……思い出せん…」
男が笑う気配がし、本郷は目を開けた。思ったとおり、男はいつもの微笑で本郷を見下ろしていた。
「思い出せないのならそれで良いんじゃないか?お前が泣くくらいの夢だ。相当恐い夢だったに違いない」
「……そうだろうか…」
「そうだとも」
戸惑う本郷に、男は自信満々に頷いて見せた。
何故か本郷はその男の仕草に安堵の息を漏らした。
(…?…)
その事に疑問を感じながらも、本郷はその事を深く考えようとはしなかった。
身体をベットから起こすと本郷は伸びをした。背中から強張った骨のポキポキという音が聞えた。それから枕もとに置いてある時計を見る。時計は午後五時を指していた。
「もうこんな時間か…。長い間眠っていたようだ」
「疲れがたまってるんだよ。いつも充分睡眠をとれ。自己管理も大事な使命だ」
本郷の呟きに男は突っかかってきた。それに―――彼らしい反応に、本郷は微笑を漏らした。何故かそんな事を幸せに感じる。
「おっと、もう五時なのか?だったら夕食の用意をしなきゃな。今晩の担当は俺なんだ」
改めて時計を見て男は言った。コロコロと表情を変えながら本郷の部屋のドアを開ける。
その背中に向かって本郷は口を開いた。
「今晩のメニューは何だ、隼人?」
「ふふん。それは出来上がってからのお楽しみだ♪」
悪戯っ子の笑みを浮かべながら、本郷の親友・一文字隼人は言った。
● ● ●
夕食後、本郷はリビングで寛いでいた。
リビングには彼の他に彼の後輩達がいて、本郷と同様思い思いに寛いでいる。毎日油断なく過ごしている彼等にとって、唯一心から安心できる一時。
それは本郷の親友も同じだった。
いつもの椅子に座り、一文字はTVに見入っていた。動物のドキュメンタリー番組で、TV画面にはアフリカの広大な大地が映し出されている。
えらく一文字が熱心に見ているので、本郷も思わずTV画面を見る。色々と映し出されるアフリカの大地。その映像のひとつに本郷の胸がざわついた。
(…何だ?…)
微かな心の反応。
しかし、それは無視しようもない違和感を後味に連れてきた。異様な感覚に本郷は戸惑った。
TVの映像に見入る。
一体何が自分の心に訴えかけてきたのだろうか?
本郷はそれを突き止めたいような突き止めたくないような複雑な気持ちで、アフリカの大地に―――その雰囲気に見入った。
視界の端に一文字が映っている。
彼は本郷とは違い、違和感も何も感じていないようだ。
彼だけではない。TVを見ている数人の後輩達も普通にTVを見ているだけだ。
何故自分だけ…?―――そう思いながら、違和感を気にせず忘れ去ってしまいたいと思いながら、それでも本郷はTVに違和感の原因を探してしまう。そんな自分を訝しる。
(そう言えば、夕方にも同じような事が…)
あれは一文字の仕草に安堵の息を漏らした時―――そして、一文字らしい反応に幸せを感じた時だった…。
本郷はますます混乱した。
TVに映し出されたアフリカの大地と、一文字の仕草・らしい反応にどういう関係があるというのだ?共通点などどこを探してもあるとは思えない。だが、しかし―――
「どうかしたのか、本郷?」
不意に聞えた来た声に、本郷は我に返った。
声のした方を見ると、知らぬ間に近くに一文字が立っていた。本郷が座っているソファーの隣に座ると、本郷の顔を覗き込んでくる。
端正な顔が心配げに歪む。
「まだ疲れがたまってるんじゃないか?」
何故かその表情に本郷の心が騒ぐ。
一文字にそんな顔してほしくなくて、本郷は慌てて否定した。
「嫌、そんなんじゃない。ちょっと眠くなっただけだ」
「やっぱりまだ疲れがたまってるんだよ。今日はもう寝ろ」
どうやら薮蛇だったらしい。
本郷は訂正しようと声を上げた。
「寝ろといわれても…」
「俺が紅茶でも入れてきてやるから、それを飲んだらもうベッドに行け」
「紅茶なら自分で入れる」
本郷の台詞に、一文字は苦笑に似た微笑をもらした。
「自分で入れる?お前、料理下手だろ?まずい紅茶が飲みたいのか?」
突然、本郷の脳裏を走馬灯のように映像が流れ出した。
見た事ない筈の場所。
会った事もない筈の人達。
記憶にない筈の光景。
そして―――
『よう。どうだい、お目覚めの気分は』
この台詞は誰が言った?
「本郷、本郷?どうした?!」
激しく肩を揺さぶられ、本郷はゆっくりと顔を上げた。そこには真剣な表情をした一文字の顔があった。眉根に皺がよっている。
その一文字の顔と、ある人物の顔が重なり、ひとつとなった。
耳の奥から悲痛な叫びが聞える。
『しっかりしろ、本郷猛!』
霞む視界でとらえたのは、自分と同じ仮面を被っている男…。
記憶が混濁し、本郷の意識はあらゆる時を同時に感じていた。
自分を揺さぶり心配する一文字。その声をどこか遠い所で聞く。そして、その一文字と重なった人物の口に合わせて、耳の置くからその人物の声が聞えてくる。
『それはあんたの悪い癖だぜ。真面目すぎる』
呆れた調子の声。
『どれだけ受け入れがたいことでも、すべて現実だ。現実を現実として受け入れ、その上で道を探せ!』
厳しい、突き刺さるような声。
『お前みたいな猛獣、放し飼いにはできないぜ』
からかいを含んだ声。
そして、
『せめて、見たかったな。もう少し先の世の中を』
遠い未来を夢見るような声…。
『未来は、いい世界になってるだろう。……そうだよな』
…最後の声。
本郷の頬を熱いものが流れた。
あの時と同じく、涙だった。
あの時―――ハヤトの手を彼のマフラーと共に握り締め、彼の最期を見取った時と…。
「…思い出した…」
込み上げてくる処理しきれない感情のせいで、本郷の口からは掠れた声しか出てこない。しかし、それを気にせず…気にする余裕もなく、本郷は続けた。
本郷に何が起こっているのか解らず、動揺しているらしい一文字を見つめる。
「…何故夢を見ながら泣いていたのか…何故お前の仕草に安堵したのか…何故お前らしさを見た時幸せな気分になったのか……何故あの大地の雰囲気に心がざわついたのか……」
一文字は本郷の言葉をひとつも聞き逃さないよう、相槌を打つこともなく聞いている。
「…あの大地の雰囲気は、あそこと―――お化けマンションの雰囲気と似ていた…」
本郷は一文字に手を伸ばした。
彼の頬に手が触れると、触れた事に一瞬驚き、そして、確かめるようにそっと指を這わせた。一文字がそこに存在している事を確認する。
「お前が俺にバイクの乗り方を教えてくれた場所だ…。俺がお前を殴った場所だ…」
一文字とハヤトの顔はすっかり重り、少しのブレも無い。
目の前にハヤトがいる。
あの時と寸分違わぬハヤトが…。
嫌、違う!―――本郷は心の中で否定した。
ハヤトと隼人は違う。同じ顔をしているし、同じ声・同じ仕草・同じ性格だが、だが違う。ハヤトはペルーで育ったと言っていた。隼人も外国で育ったと言っていたがペルーではない!それに、隼人は……一文字は……
「俺はいつまでも傍にいるぞ」
力強い声が本郷の意識を現実へと引き戻した。
先程から一言も発せず本郷の言葉を聞いていた一文字隼人が、自分の頬に添えられている本郷の手を、包み込むように握っていた。その手から、声と同じ力強さを本郷は感じた。
「隼人…」
「俺は、いつまでも傍にいるぞ。本郷」
一文字はもう一度繰り返した。
「隼人、お前どうしてそれを…」
テレパシーを通じて一文字に本郷の混濁した記憶が流れ込んだのだろうか?嫌、そんな筈はない。テレパシーは完全な物ではない。危険信号や言葉を送る事はできても、イメージや映像は無理な筈だ。……それなのにどうして?
本郷の問いに、一文字は笑顔で答えた。
「そんな事も解らなくてお前の相棒がやってけるか」
一文字隼人の笑顔だった。
ハヤトが最後に見せた笑顔と似ていたが、あの時の笑顔より生命力に満ち、力強さが溢れている。
本郷の頬を、又、熱い物が流れ出した。
しかしそれは、先程と違う理由で流れている涙だった。
本郷の脳裏に蒼い空が広がった。
痛いほど蒼く澄んだ空。そしてそこに立ち昇る一筋の煙。
あの一連の記憶がなんなのか、本郷にも判らない。
だが、ハヤトは実際に存在していた人物だ。幻でも何でもない。でなければあんなに悲しい気持ちも、こんなに嬉しい気持ちも生まれる筈が無い。
「そうか…隼人」
本郷はそう言うと、そのまま一文字の胸に倒れこんだ。
急速に意識が遠くなり、全てが闇に包まれていく。暖かい闇に身を委ねながら、その暖かさが一文字から来るものである事を知った。
本郷は完全に眠りに付く前に、深く祈った。
もう一人の相棒=ハヤトを思って―――。
● ● ●
風よ、吹け。
せめてその魂を、遠い祖国に運べ…。
終
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