目は限界まで開き、全身からは汗が滲み出ている。鼓動が五月蝿いほど耳の奥で鳴り響き、全ての思考がストップした。
胸に、鋭い痛みに似た何かが走り、思わず眉間に皺を寄せる。
自分を見つている相手は、いたって真剣な表情のままで、何も言おうとしない。
「…………」
沈黙の重みに、肺が悲鳴を上げた。
蛍光灯に照らされた、相手=一文字隼人の自室のベットの上で、どうしたら現状を打破できるのか―――本郷猛は真剣に考え込んだ。
* * *
事のはじまりは約一ヶ月前にさかのぼる。
“ある事件”がきっかけで、本郷猛は“ある疑問”を抱くようになった。
本郷はその疑問の答えを出そうと、幾度となく頭を捻ったが、自分を納得させれるほどの解答は思いつかず、人知れず苦悩していた。
そう、本郷はその“疑問”を誰にも相談しなかった。
第三者に相談できる類ではないからだ。
だが、一行に出ない答えに苛立ちを覚えていたのも事実だ。
本郷は決意すると、その日の晩も遅く、一文字隼人の部屋に赴いた。
「何かあったのか?」
突然現れた本郷を不思議そうに見ながら、一文字は椅子に座ったまま振り向いた。壁際に置かれた机の上には、スクラップブックに新聞・ハサミ・ノリ等が置かれいる。
「いや…そうではないが―――邪魔かな?」
と、机の上を顎で示しながら問う。
一文字は微笑を浮かべると、今だ入り口に立ったままの本郷に中に入るよう促した。
「それより何かあるんだろ?可愛い後輩達にも聞かれたくない事が」
一文字に進められるままにベットの淵に腰掛けた本郷に、彼は屈託ない表情で問う。本郷の前まで椅子を移動させ、その上に改めて座った一文字をやや見上げるようにして、本郷は微笑を漏らした。
「ああ、実は、聞きたい事があってきたんだ」
「聞きたい事?」
「ああ」
「ふ〜ん。で?」
本郷はそこで少し躊躇したが、心の中で再度決意すると、真剣な眼差しを一文字に向けた。そんな本郷の視線に、一文字は少なからず戸惑ったようだ。
「ここ数週間考えていたんだが、一行に答えが見つからない。多分、俺ではその答えは見つけられないんだろう。最初から、それは解っていた―――解っていたが、できるならお前に聞かず、自分で答えを見つけたかった。……だが、それはやはり無理だった…」
「おい、本郷?何を言っているのか俺にはサッパリなんだが…。もう少し解りやすく言ってくれないか?」
当然な一文字の申し出に、本郷は静かに頷く事で同意を示した。
まわりに暗い靄を漂わせ、口を開く。
一文字の咽喉が鳴る音を聞きながら―――
「隼人、俺と出会う前に恋人はいたか?」
「はぁ?」
えらく間の抜けた声が一文字の口から漏れる。目を点にし、本郷をただ見ているだけで、答えどころか何も言おうとしない―――と言うか、言えないでいる一文字に、今度は本郷が目を点にした。
「どうかしたのか、隼人?」
「えー、すまん。本郷。もう一度その聞きたい事とやらを言ってくれるか?どうやら耳の調子がおかしいようでな、聞き取れなかった」
落ち着き無く目を泳がせながら、一文字は言った。暑いのか、先程までかいてなかった汗が彼の顔を濡らしている。
本郷は不調らしい一文字の耳にちゃんと届くように、腹式呼吸を利用して、はっきりと適度な大きさの声で先程の質問を繰り返した。
「俺と出会う前に恋人はいたか?」
「……………」
今度は一言も発さず、一文字は黙り込んだ。腕を組み、顎を胸に埋める。何やら必死に考えている様子なので、本郷は邪魔にならないよう、ただ見守っていた。
数分後、一文字は顔を上げた。色々な感情が交じったような―――実際そうなのだろう―――複雑な表情で本郷を見る。本郷はそれに真剣な表情を返した。
何やら重々しくため息をつき、一文字は口を開いた。
「え〜と、つまり学生時代の恋人だな?…まぁ、いたよ。それなりに」
本郷は更に質問を口にする。
「女か?」
「……何故そんな事を聞く?」
半眼で一文字は問う。その目が本郷の心を見透かそうと煌めいたが、本郷がそれに動じる筈も無く、真剣な表情のまま答える。
あっけなく。
「男の恋人もいたんだろう?」
「……………………」
それは長い沈黙だった。
少なくとも本郷はそう感じた。
目を閉じ、眉間に深い皺を作り、何やら固まっているらしい相棒の姿を不思議そうに見上げる。何か声をかけた方が良いのかと思案したが、何故かそれが出来ず、ただ見守るだけとなった。
長い、長い、長〜い沈黙の後。
「隼人?」
「……本郷」
一文字は本郷の肩に両手を乗せた。顔は下を向いているので、本郷からは彼の後頭部しか見えない。顔を覗き込もうと試みたが、一文字の腕が邪魔でできず、仕方なく、本郷は彼の後頭部に視線を戻した。
静かに―――あくまでどこまでも静かに、一文字は口を開いた。
「あのな…」
「うん?」
「何でそんな事聞くんだ?何でそういう風に思うんだ?」
本郷は答える。
あくまでどくまでもあっさりと。
「上手かったし、慣れているようだったからだ」
又、暫らく沈黙があった。
「…え〜、何がだ?」
「だいたい一ヶ月前―――アマゾンと庭で遊んだ後の―――」
そこまで言うと彼にも解ったらしい。下を向いたままゆっくりと頷く。
「ああ、あれか―――で?俺が慣れていたから、男と付き合った事があると思ったのか?」
「そうだ。違うのか?」
「違う」
「だがな―――」
直も言い募ろうとする本郷。だが、その肩を掴んでいる一文字の手に力が込められ、本郷は言葉を切った。何やら激しく動揺しているらしい相棒の後頭部を見る。
「何か、えらく勘違いしているようだが、学生時代男と付き合った経験はない」
「じゃ、それ以降か?」
本郷の問いに、一文字はやっと顔を上げ押し殺したような声で言う。
「違う…!何でそうなるんだ…?」
「慣れていたからだ」
頭痛がするのか、一文字は小さく頭を振った。
細く長いため息をつくと、一文字は本郷の目を見据えた。
「あのな。言っておくが、男と付き合った経験はおろか、今まで同姓とそういう関係になった事もない。頼むからそんな勘違いはしないでくれ」
「……ふむ」
本郷は天井を見上げ考えた。
一文字が嘘をついていない事は明白。こんなにまで否定している相手をこれ以上煩わすのは、本郷としても愉快ではない。それに時間ももう遅い。いい加減、おいとました方が賢明だろう。
だが―――
「解った。が、もう一つだけ質問させてくれ」
本郷の肩から自分の手をどけ椅子に座りなおった一文字は、本郷の真剣な表情に押されてか、仕方ないといった感じで承諾した。
「で?何だ?」
「俺が『その気になるまで待つ』と言ったのは何だったんだ?」
一文字の目は、又、点になった。
「え?何って、そのままの意味だが…」
「そのままとは?」
「だから、俺と一線を越える気になったら…っという意味だ」
「一線を越える…」
本郷はそう呟くとそのまま黙り込んだ。一文字はどうしたら良いの解らないのだろう。声をかけるでもなく、ただ本郷の様子を窺っている。
「つまり…」
暫らくして本郷は呟いた。
顔を上げ、一文字を見る。
一文字は怪訝そうに本郷を見ていた。
そんな一文字に、本郷は言う。
「俺を抱きたいわけか?」
「抱きたい―――まぁ、そうだな。お前が男役をやりたいなら、別に女役でもいいが?」
「どちらでもいいのか?」
「相手がお前ならかまわん」
至極あっさりと言い切る一文字。本当に男役でも女役でもどっちでもいいのだろう。
と、一文字の瞳が不意にキラリと光った。
あまり歓迎したくない微笑をもらし、一文字は言う。
「なんなら今ここで証明してやろうか?」
「?」
言葉の意味を本郷が理解する前に、彼の身体はぐるりと半回転してベットに倒れ掛かった。反射的にベットに両手をついてから、自分に何が起こったのか理解する。
「隼人…?」
一文字は本郷の手を取り、無理矢理体を半回転させるのと同時に、自分と本郷の体を入れ替えた。今は、本郷に押し倒されたような形でベットの上に寝転んでいる。
先程まで見せていた微笑は既になく、いたって真剣な―――それでいて、本郷も初めて見る妖艶な表情で、一文字は本郷を見上げていた。
妙な雰囲気に本郷は限界まで目を見開き、全身から滲み出てくる汗を感じた。鼓動が五月蝿いほど耳の奥で鳴り響き、全ての思考がストップする。
沈黙の重みに、肺が悲鳴を上げた。
「…………」
現状を打破する為に口を開くが、混乱した頭では考えさえまとまらず、結局は何も言えないまま本郷は口を閉じた。
だが勿論、動揺している本郷とは正反対に一文字には余裕がある。顔色を一つも変えず、本郷に両手を伸ばす。それは本郷の頬を過ぎ、耳を過ぎ、首に到達した。本郷の首の後ろで手を組み、腕を曲げ本郷の顔を己に近付けようとする。
「は……隼人…!」
それに何とか抵抗しつつ、本郷は一文字から目を反らした。
このまま彼の目を見続ける事など本郷には出来ない。嫌―――何故出来ない?
混乱した頭のままでは自分の心さえ解らない。一体何が理由で一文字の顔を見る事が出来ないのだろう?
と。
「…ぷ…」
不意に聞こえてきた音があまりにも場にそぐわない気がして、本郷は眉根を寄せた。それが何の音なのか本郷が知る前に、更に場にそぐわない音―――笑い声が体の下から押し寄せてきた。
「くくく…あーはははははははは」
「は…隼人…???」
見ると、一文字は身体を折り曲げ爆笑していた。目に涙までため、笑い過ぎて呼吸が上手く出来ないらしく、時々声が引きつっている。本郷の首に絡まっていた彼の手は既にほどかれ、右手で腹を抱え、左手で呆然としている本郷の肩を叩いた。
何とか笑を静めながら、一文字は言う。
「くくく…そう変な顔をするな…!冗談だよ、冗〜談♪いくらなんでもいきなりお前にこんな事しろって言うわけないだろ?」
「……はぁ…そうなのか…」
いまいち一文字の意図が分らず、本郷は曖昧な答えを返した。それが更に彼の笑のツボを押したらしく、一文字は更に大きな声で笑った。完璧置いてけぼりを食らった本郷は、ただそんな一文字の様子を見ているしかない。
とりあえず、どうしようもなかった状況から逃れられた事は解ったので、ホッと安堵の息を吐き出す。ひたすら笑われているようだが、それは大きな問題ではない。彼が笑っているのなら、それがどういう理由であろうと、別にいい。
そう、問題は先程のように彼が真剣な表情の時で―――。
「はははは…!―――…と、そろそろどいてくれないか?」
やっと笑いがおさまった様子で、一文字は本郷を見上げた。
「あ…ああ、そうだな。悪かった」
元はといえば一文字がこういう状況を作ったのだが、本郷は素直に謝ると身体を起こした。一文字の腕を取り、彼が身体を起こすのを手伝う。
そんな本郷に一文字は微笑を向けた。
怪訝そうに本郷がそんな一文字を見返すと、一文字は、嫌…、と口を開いた。
「いい奴だよな、本郷は…って思ってさ」
「急に何を―――」
本郷は言葉を切った。切らずにいられなかった。本郷の目の前に、真剣な表情をした一文字がいた。先程と又、微妙に違う―――真剣な表情をした一文字が…。
本郷の体が固まる。
静かな声色で、一文字は本郷に呟いた。
「本郷がその気になるまで待つと言ったが、お前がその気にならないのなら、それはそれでいい。どうしてもお前とそういう関係になりたいわけじゃないからな。俺がお前に望んでいる事はそんな事じゃない。もっと他にある…」
「…そ…それは…?」
本郷のぎこちない問いに、一文字は答えた。
満面の笑顔で―――
「いつまでも元気に笑っている事!!それだけだ!」
「…………」
本郷は一文字を見つめたまま動かない。動けるわけがない。
そんな本郷に一文字が肩を竦めて見せた。
「おいおい。何だよその顔は?聞こえなかったのか?もう一回言ってやろうか?」
本郷の事を思ってだろう。ワザとおちゃらけた調子で問う一文字に、本郷は静かに頭を振った。目頭が熱い。視界に映る一文字の姿が揺れる。
「嫌…、もう、充分だ…」
「…泣くなよ。全く…」
一文字は照れくさそうに鼻の頭をかくと、感極まって泣いている本郷の頭をグシャグシャとかき混ぜた。その一文字の掌から、彼の気持ちが本郷の中に流れ込んでくる。温かい―――何よりも力強く温かい一文字の本心が。
そして気付く。何故自分が彼の真剣な表情を見る事が出来なかったのかを…―――見る事に耐えられなかったのかを…。一文字と同じだ。彼が本郷の笑顔を望むように、本郷も彼の笑顔だけを望んでいるから、真剣な彼を出来るだけ見たくはなかった。一文字から幸せを奪ってしまったのが自分だと言う自責の念も、それに少なからず影響を及ぼしているから余計だろう。
暫らくして、一文字は本郷から離れた。部屋のドアを開けながら口を開く。
「さぁ、もう日付が変わるぞ。そろそろ自分の部屋に戻ったらどうだ?明日も早いんだろう?」
「ああ。そうだな。邪魔した」
生真面目に一文字に頭を下げえる本郷。そんな本郷を見て一文字は呆れたように微笑した。空いている方の手を軽く振り、気にするな…と、本郷を気遣う。
「別に良いよ。お前に迷惑をかけられるのには慣れてる」
「…本当か?」
そんなに彼に迷惑をかけていたのだろうか?―――本気で気にする本郷に、一文字は更に呆れた顔をした。本郷に近付くと一文字は彼の手を取った。無理矢理引き立たせると、ドアの所まで連れて行く。
「ウ〜ソ!いいから早く帰って寝ろ」
一文字に背中を押され、本郷は廊下に踏み出たした。慌てて振り向くと、欠伸をかみ殺している彼の姿が目に映った。
「早く寝ろよ」
同じ台詞を繰り返し、ドアを閉めかける。ドアが閉められる前に本郷は口を開いた。
「…俺はそんなに信用ないか?」
ドアを閉めようとしていた手を止め、一文字は答える。静かに。
「お前はすぐ睡眠時間を削るからな。寝ないと死ぬぞ。改造人間でも」
「解ってるよ」
「どうだか」
そう言い終える前に一文字はドアを閉めた。一人廊下に取り残された本郷。しかし、ドアが閉められる前と変わらぬ調子で本郷は言った。
「解ってる―――嫌、解った。隼人が俺をどう思っているのか。だから隼人も俺を信じてほしい」
本郷と同じように、一文字もドアが閉まる前と同じような口調で呟く。それ故、本郷にはくぐもって聞こえたが、たいした事ではなかった。
一文字の声は―――言葉は、真っ直ぐ本郷に届く。
「当たり前だろ。何心配してるんだ?」
本郷は微笑した。
「…そうか。そうだな。……それじゃ、おやすみ…」
「ああ。おやすみ」
本郷はゆっくりと足を動かしその場から離れ、自室へと向かった。穏やかな気持ちに、我知らず心浮かれながら…。
終
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