風見志郎はそれを見逃さなかった。
「ああいう質問って、いつの時代でもやるものなのかも知れないですね」
陰のある微笑を浮かべそう呟く男の仕草ひとつひとつを見逃さないよう鋭く目を光らせるが、そこからは明確な何かを見出す事は出来なかった。それでも、全神経を集中させ、男を注意深く観察する。
男は、一見しただけならいつもと変っている所などひとつもない。ただちょっと、何か嫌な事でもあったのか気分が沈んでいるように見えるだけだった。
(だが…違う…)
ただ気が沈んでいるだけではない。それは解る。短い付き合いではないし、ただの知り合いと言う訳でもなから。だが、何が違うのか―――どう違うのかとなると、風見にはさっぱり解らない。
「先輩ならどう答えますか?」
「…そうだな…」
手に下げたスーパーの袋を弄びながら、さして気になる訳でもないのか、どこか気の抜けたような態度で男は、先程自分が突然浴びせ掛けられた質問を風見に向けた。
風見は男と同じように、左手で持っているスーパーのナイロン袋を視界に入れた。男の袋の中に入っている品物は今日の夕食になる予定の食材だが、風見が持っている袋の中には、もう直ぐでなくなってしまう日用品の数々が詰め込まれている。
それらを手にして並んで歩いている彼等を、何も知らない人が見ればどう思うのだろうか?
「素直に『はい』と答えておくかな…」
風見志郎は見逃さなかった。
その答えを聞いた瞬間に見せた、男―――神敬介の表情を…。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
風見志郎の部屋はいたって質素で、置物や絵画など、部屋を彩る専門の品物はひとつとして無い。ただ、もう随分前に他界した家族の写真だけは、数枚壁に貼り付けられ、朗らかな微笑を風見に向けていた。それと…、
「………」
机の上の写真立てに飾られた一枚の写真。何てことは無い、ここで―――風見の先輩である本郷猛が亡き両親から相続した洋館・本郷邸で―――仲間達と暮らし始めた第一日目に、カメラマンである一文字隼人の発案で撮った記念の集合写真。皆、どこか緊張気味な表情でカメラを覗き込んでいる。
風見は―――写真立てから抜き取った―――その写真を手にしてベッドに座り、ある一点を穴が開くほどマジマジと見つめた。机に座れば嫌でも目に入る為、普段ならそんな事はしないのだが…。
「……一体何を考えていたんだ…」
風見は、そう、諦めたように呟くと、細く長い嘆息をした。肺の中の空気を全て搾り出し、今度はゆっくりとできるだけ時間をかけて肺一杯に空気を吸い込む。脳に新しい新鮮な空気が送り込まれ、回転数が上昇―――するわけもなく、風見の頭を悩ませている難問は相変わらず出口の見えない迷路のように目の前に横たわっていた。
何か足りない気がする。この疑問の答えを導くのに、何か…重要な何かが足りない…。しかし、それがなんなのかさっぱり解らない。風見はヒントになるようなものは無いのかと、ベットの上に寝転がり、目を瞑った。昼間の出来事を事細かに思い出そうと、自分の記憶を掘り起こす。特に、あの男の―――先程嫌と言うほど写真に映った顔を見つめた、神敬介の表情を…。
「…買い物に行った…」
神敬介が自分を買い物に誘った理由は特になかっただろう。本郷猛と結城丈二は地下にある研究所にこもったっきり出てくる様子は無いし、一文字隼人は朝から仕事で出かけていて、帰って来るのは夜も遅い時間だと、朝、出て行く前に言っていた。アマゾンは近所の子供達と遊んでいたし、城茂は鉄砲玉のようにふらっとどこかに出かけたまま。本郷邸中庭で特訓に励んでいた風見以外捕まる人がいなかっただけなのだから。
そしてそれは別に珍しい事でもない。食事係は一文字隼人と神敬介の交代制なのだが、だからと言って成人男性七人分の食料となると、一人で買い物に行くには膨大すぎて無理だ。それ故最低誰か一人、暇な人間が荷物持ちとしてついて行く。
「…買い物中は何もなかった…」
いつも行くいつものスーパー。カートに乗せたカゴの中に夕食の材料を次々と詰め込んでいく。その他、ちょっと手で摘めそうなお菓子やなくなりそうな日用品も一緒に入れた。会計を済ませ、スーパーの名前が入ったナイロン袋(普段は買い物袋を持参するが、ナイロン袋をゴミ箱用のゴミ袋に使いたい為、今日は持って来ていなかった)に品物を詰め込み外に出た。と、少し変わった光景が二人の目に映った。
『何でしょうね?』
不思議そうに問う神敬介に生返事を返しながら、風見もその光景に少なからず興味を引かれた。
風見達仮面ライダーが住む町の人口は、少なくもなければ多くもない。故、人が密集する事など滅多にない。年末などで大安売りしている店内ぐらいなものだ。それなのに、スーパーの前の道に、数十人の人間が一塊になって何か騒いでいた。嫌でも目を引くその光景に、風見と敬介以外の人達も興味を引かれ、そちらの方へよっていっている。極自然に二人もその集団の正体を確かめに近付いた。
近付いて解った事は、その集団の大半が野次馬だという事だった。ペチャクチャと好き勝手な事を喋っている学校帰りらしい学生の二人。前の人が邪魔で見えないのか、ヒョコヒョコとジャンプしている中年の女性。何をしているのか解った為だろう、興味を無くして去って行く初老の男性。
それらの人々を掻い潜ってみると、この騒ぎの元が見えてきた。見慣れない機材の数々・それを担いでいる数人のスタッフ・太陽の光を反射している大きな鏡。そして、派手に着飾ったナレーターらしい、マイクを持った女性と、その女性に問い掛けられている買い物帰りらしい中年の主婦。
『そうですね…。まぁ、そうだと思いますよ』
照れ笑いをしながら主婦はそう答えた。何に対する答えなのか、風見と敬介にはわからない。二人は少々怪訝な表情になった。主婦を解放したレポーターがそんな二人に視線を止めた。
『あ、すいません。ちょっといいかしら?』
戸惑う二人にかまわず、リポーターは敬介を輪の中心に引っ張り出した。多分、敬介は彼女の好みのタイプだったのだろう、何やらやたら嬉しそうだ。仕方無いので敬介が解放されるまで風見は待つ事にした。思わず嘆息が漏れる。こんなくだらない事ならさっさと帰ればよかった。
リポーターが口を開く。
『あなたは、今、幸せですか?』
一瞬間が―――不自然な間があった。それに違和感を感じ、風見は地面に向けていた視線を敬介に移した。リポーターにマイクを向けられている敬介は考えているように見えた。眉間に少し皺を寄せて、困ったような微笑をもらして、どう答えようかと…。それはそうだろう。いつ何を仕掛けてくるかもしれない悪組織と戦っているのだから、幸せとは言い切れない。だが、それでも心強い仲間がいる今は、まだ幸せだと言えるだろう。風見もそうだと思っているし、それに―――
『…幸せ…かな……』
控えめな笑顔でそう答える敬介に、風見は先程の以上の違和感を感じた。だがそう感じたのは風見だけらしい。リポーターは、後少しだけ敬介に質問をすると、軽く礼を言い彼を解放した。風見の方に帰って来る敬介に、満面の笑顔を向け手を振っているリポーター。そんな彼女とは対照的に敬介の表情は暗かった。その表情が何故か、妙に…
「…なんだったんだ…」
不自然だった。別に満面の笑みで『幸せです』と言わなかったから不自然だと言っているわけではない(どちらかと言うとそっちの方が不自然だと感じたろう)。もっと、何と言うか、こう―――
『先輩ならどう答えますか?』
さして気になる訳でもないのか、どこか気の抜けたような態度で敬介は、先程自分が突然浴びせ掛けられた質問を風見に向け―――嫌、違う!気にならないんじゃない―――気にならないフリをしていたんだ…!本当に気にならないのなら、わざわざ風見にそんな問いを向ける事などしなかっただろう―――…何故だ?何故、敬介は気にならないフリをしなければいけなかったんだ?気になるから聞いてきたくせに、何故…気にならないフリをしたんだ?…嫌、それとも―――
「…………解らん…」
低く呟き、風見は瞼を押し上げた。薄暗さになれていた瞳に、蛍光灯の明るい光がこたえる。眉間に皺を寄せ、開いたばかりの瞼を半分閉じ、写真を持ったままの手で光から目を守る。薄く開いた目の端に、記念写真が映った。
左端で、穏やかな微笑を浮かべている神敬介。同じ微笑の筈なのに、あの時の微笑とは全く違う。この頃の敬介と今の敬介では何が違うのか?
「……何を考えている…?」
解らない。まだ何かが足りない。しかしそれが何か解らない。風見はもどかしさに苛立ちを覚え、写真を持った手をベットに叩きつけた。写真に細い線が走る。
と、
「先パ〜イ、夕食ですよ〜」
何やら気の抜けた声が廊下の方から聞こえてきた。ペタペタとスリッパを履いた足音が聞こえ、風見の自室の前に止まると、軽く戸を叩く音が響く。そして、了承の意も何も聞く間もなく―――そんな事はどうでも良かったのだろう―――ドアは開かれ、音の主が顔を出した。
「…何してんすか?」
慌てて写真立てに写真を戻している風見の―――滑稽な―――後姿を見ながら、どうやら少し前に帰って来てたらしい城茂は、思ったままを口にした。
「嫌、何でもない」
どう見ても何でもないようには映らないと解っておきながら、それでもそうとしか答えられなかった事を少々後悔しつつも、風見は平静を装って茂に振り返った。
「夕食ができたんだな。じゃ、行こうか」
平静を装うとして失敗したのかもしれない―――風見は大量の錘を胃に入れられた気がした。何故なら、茂はズカズカと部屋の中に入り、先程戻したばかりの写真に視線を注ぎ始めたからだ。マジマジと写真を見る茂を見て焦りがうまれる。
「夕食だろう?行くぞ」
半ば強制的に写真から引き離そうと、風見は茂の襟首を掴んで引っ張った。しかし、身体は少し後退したが、茂の視線は写真から微動だにしない。
―――今はその写真を見ないでくれ…!
風見の心の声が聞こえたのか、茂はやっと写真から目を反らした。代わりに今度は風見を射るように見る。何か探るような目つきに嫌な物を感じた。
「…何だ…」
半分脅すような、地を這うような低い声で問う風見に、茂は人を食ったような微笑を返した。
「それはこっちの台詞っすよ。何があったんすか?―――敬介先輩…と?」
思わず動揺が顔に出る風見。
(何故解った?!)
「何を―――」
「嫌、確信はなかったんすけど―――やっぱりね〜」
茂の反応が癪に障る。自然と風見はむっつりとした表情になって茂を睨みつけた。普段ならそこで一応謝ってくる茂なのだが、今日は何故か不敵な笑みを隠そうとはせず、それどころかますます笑みを濃くして、下から見上げるように風見の不機嫌な瞳を覗きこんだ。
恰好のおもちゃ道具を見つけた子供のように、楽しくて仕方ないといった様子で、茂は風見の前で指を一本立てた。それをリズミカルに振りながら口を開く。
「俺、さっきまで夕食の用意を手伝ってたんすけど、敬介先輩の様子がおかしかったんで、ちょっと聞いてみたんすよね〜」
茂のペースに巻き込まれるのは御免だが、その話しの内容は気になった。風見は、グッ…と出かかった言葉を飲み込み、彼の話しを聞く事にした。もしかしたら、解けない難問を解くためのヒントが得られるかもしれない…。
風見の心中を知ってか知らずか、茂は一人話しを続ける。
「一瞬間を開けてから『何でもない』って答えてきたけど、あんな憂いを含んだ微笑でそう言われても信憑性あるわけねぇ。風見先輩もそう思うでしょう?」
「…………」
その通りだ。何でもない筈ない。彼は昔っからそうだった。自分の中に何もかも閉じ込めてそれを周りに隠そうとする。そのくせその重さに耐えかねて暗い顔で下を向き、前を―――周りを見ようとしない。見渡せば解るというのに……決して自分1人で歩いているわけじゃない事が―――いつでも隣に立っている男がいるという事が…。
(それなのにアイツは…!)
だんだん無性に腹が立ってきて、風見は己が手をきつく握り締めた。爪が掌に突き刺さったがそんな事はどうでもいい。耳の奥から雨音のような耳鳴りがしてきたが、それもどうでもいい。怒りで顔や体が熱くなり、目頭も熱くなったが、それだってどうでもいい。
(どうでもいいどうでもいいどうでもいい!―――だが、これだけは我慢ならん!)
一度湧き上がった怒りは急激にふくらみ、最早風見自身ではどうする事もできない状態にまでなっていた。どうやらこちらの異変に気付いて様子を見ているらしい茂の事もすっかり脳外に弾き飛ばし、風見は勢い良くドアに振り返った。
「先輩―――」
何やら呼びかけてくる茂の声を豪快に無視し、風見は勢いがついたままドアを開け、そのまま敬介がいるであろうキッチンに向かって、大きく足音を響かせながら歩き出した。
(もう1人でゴチャゴチャ考えるのはやめだ!何が何なのか問いただしてやる!)
「…やりすぎたかな…?」
ズンズンと、怒りにまかせて階段を下りていく風見の耳には、その為、後方で後頭部をかきながら口にした茂の小さな呟きなど、全く入らなかった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「…一体何がそんなに気に入らないんだ…」
質問をするにはあまりに威圧的な表情で、風見志郎はまだキッチンでエプロンをつけたままの神敬介に真正面から問いを投げつけた。
夕食の用意を一通りすませ、手を洗ってエプロンを脱ごうとしていた敬介はそんな風見の迫力に押されたようで、表情を固まらせて後退した。そのまま彼をキッチンの隅に追い詰めながら、風見は同じ問いをもう一度繰り返した。
「…一体何がそんなに気に入らないんだ…」
「な…何の話しですか…?」
戸惑いながらもそう返してきた敬介に、何故か更なる怒りを覚え、風見のこめかみに血管が浮き出る。向こうもそれ気付いたのだろう。敬介の顔から血の気が引く。
「何の話し…?本気で言っているのか…?」
こちらの様子を窺うような視線を向けている敬介を見ていると、何故か無性に腹が立つ。何故、そんな風に自分を見るのか解らない。何の話しか解らないなら、こちらに見せるのは怪訝な表情か呆れた視線で良いんだ。そんな、まるで怒られる事を恐れているような態度なんて取らなくても良いんだ!それに、何故何の話しか解らないんだ?!
「俺が解らないとでも思っているのか…」
手を強く握りしめ、風見は更に敬介に近寄った。敬介の背中が壁とぶつかり、ドンと言う軽い音がキッチンに響いた。
「…先輩…」
脅えたような声。
窺うような視線。
(何故そんなモノを向けられなければならないんだ!俺はお前の―――)
風見は衝動的に両手を伸ばした。敬介の驚愕の声が聞えたが、それを認識する余裕は最早どこにもない。
無性に腹が立つ。
無性に悔しい。
無性に―――哀しい…。
「……先輩…?」
両手をついているキッチンの壁が冷たい。
「…お前は今幸せか?」
敬介の身体が小さく震えた。
「幸せですよ…勿論」
風見は敬介の逃げようとする瞳を追いかけながら問いを続けた。
「…違うだろう?お前は本当は不幸せなんだろう?」
「…違います」
「じゃ、何故言いよどむ?本当に幸せなら即答すれば良い!」
「そ…それは……」
無性に腹が立つ。
無性に悔しい。
無性に哀しい。
(何か悩みがあるなら俺に相談してくれれば良い!)
「俺はそんなに頼りにならない人間か…」
下を向き小さく風見が呟く。敬介に向けたというより、自分に向けた自嘲の言葉だったが、敬介はそれに直ぐに反応した。
何がしたいのか解らないが、風見の肩辺りに手をやり袖を力任せに握ってきた。
「……違います」
風見は思わず泣き笑いのような微笑を浮かべた。
「何が違うんだ?自分を不幸だと思っているのならそれなりの理由があるんだろ?自分じゃどうしようもない悩みでもあるんだろ?それなのに俺に相談もなし。つまり、それは俺を頼りなく思っている証拠―――」
「違う!!」
耳元で上げられた大声に思わず顔をしかめる。耳が痛かったからではない。
耳は痛くなかった。痛かったのは―――
(…心…か)
不甲斐ない。
情けない。
―――どうしようもない。
「違う…違う…」
敬介は風見の服を引っ張ったまま、壊れたCDのように同じ言葉を繰り返した。風見の耳に、引き千切られる布の音が届く。
固まって動こうとしない首を何とか反らし、風見は視点が定まっていない敬介の瞳を静かに睨みつけた。乾いた唇がかすかに動く。
「何が違う…?言ってみろ。一応、聞いてやるぞ―――」
「あなたは勘違いしている!!」
今度は本当に耳が痛かった。
思わず反論しそうになった風見に畳み掛けるように、敬介は息つく暇もない程言葉を―――想いを外へ吐き出した。
「そうですよ!あなたの言う通りですよ!私は―――俺は、自分が不幸だと―――幸せじゃないと―――そう思ってる!感じてる!けど、あなたにそんな事言われる筋合いはないんだ!だってあなたが俺の不幸の―――苦悩の元凶だから…!―――勘違いしているんですよ、先輩。あなたに相談できるわけないでしょう?…あなたのせいで苦しんでいるのに―――あなたが俺を苦しめているのに!!」
(…何だって…?)
彼の言葉を上手く飲み込む事ができず、風見は眉根を寄せた。
風見が混乱している間にも、敬介は苦しげに息継ぎをしながら言葉を紡ぐ。独り言のように―――まるで、必死に妨害をする何かを押しのけて喋っているかのように―――
「…そりゃ…俺だって最初から解ってましたよ。あなたがあの人を………好きな事は、誰が見たって明らかだ…し、それを知っていた上で…俺は……あなたを受け入れたんだ…。だから…だから―――」
「…ちょっと待て」
風見は自分でも知らぬ間に口を挟んでいた。
大量の疑問が頭の中で渦巻き、それによる混乱で何が言いたいのか―――何を言いたいのか自分でも良く解らない。とにかく、このまま彼に喋らせ続ける事は危険だと言う事しか解らなかった。
風見は鼓動が異常なまでに早鐘を打っているのを耳の奥で聞きながら、悲痛な表情を―――今にも泣き出しそうな表情をしている敬介を見上げた。
緊張により乾いた唇の端が引きつる。
「…今…何て言った…?…俺が誰を好きだって…?」
敬介は自嘲気味な笑みを浮かべた。
「何を言っているんですか?誰って、結城さんに決まってるじゃないですか」
「―――?!」
(何だって?!)
敬介が吐き捨てるように言った台詞に、風見は驚きを隠せなかった。一瞬、その言葉の意味を理解できず、その次には敬介が本当にそう言ったのかどうか疑いを抱いた。だが、風見の願いはあっさり無視され、敬介は同じ台詞を苦々しく繰り返した。
「…結城さんに……決まってるじゃないですか…」
思うより先に身体が動いていた。
「何で結城なんだ!!」
そう叫ぶと同時に敬介の襟首を掴み上げる。それを前後に振りたかったが、壁が邪魔でできなかった。その代わり思いっきり壁に押し付ける。
呻き声を漏らし、敬介は苦しげに眉根を寄せた。血管が浮き出るほど力のこもった風見の手首を、敬介は外そうと手を伸ばした。
「何でっ…て…」
それに構わず風見は叫ぶ。
「俺が好きなのは敬介―――お前だろう!!」
胸の中で何かが壊れるような音が響いた気がした。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
自分の想いを、敬介に直接口にした事は無かった。
普通一般で言われるような付き合い初めではなかったからだ。半ば無理矢理と取れなくもない―――少し自分勝手な申し込み方法だったと、風見も自覚していた。付き合いが長くなってからも、照れくさい気持ちと、直接言わなくても彼なら解ってくれているという思い込みで、事の最中でさえ呟く事は無かった。
(その、俺の思い込みが敬介を追い詰めたと言うのか…?!)
懐疑に満ちた瞳で自分を見る神敬介を息苦しく見返しながら、風見志郎は自分の不甲斐なさを―――自分の鈍感さを呪った。
「嘘を言わなくても良いんです…」
小さくそう呟いたのは、勿論、敬介だった。
複雑な―――風見の言葉を信じたいと思っているが、信じる事によって新たに傷付くのを恐れている―――表情をして、敬介は風見から視線をそらし下を向いた。全てを諦めてしまっているかのように…。
(お前は又そうやって―――!)
風見は敬介の襟首を掴んでいた手を離した。それを解放と受け取ったのだろう。敬介はそのままキッチンから出て行こうと足を踏み出した。
が、しかし―――
「…っ?!」
今度は敬介の両肩を乱暴に掴み、そしてそのまま―――
「………」
自身の腕の中にすっぽりと抱きいれた。
敬介がそこから逃れようと、どんなに暴れても向け出せないよう―――敬介が自分の元から去ってしまわないようしっかりと…。
「は…離してください!!」
風見の予想通り、自分が置かれている状態を知った敬介はそこから脱出しようともがきだした。それを両腕で―――身体全体を使って阻止しつつ、風見は敬介の肩口で呟く。
「離さない」
「離してください!!」
「離さない」
「離してください!!」
「離さない。俺が好きなのはお前なんだからな」
風見の台詞と同時に敬介の動きが止まる。彼の肩口に顔を埋めている以上、風見から敬介の表情は解らない。しかし、これだけは解る。―――敬介は動揺している…。
(お前はいつだってそうだった…。自分の中に何もかも閉じ込めてそれを周りに隠そうとするくせに、その重さに耐えかねて暗い顔で下を向く…。だが、それを知っているのなら、俺が気を回してやればよかったんだ…!)
「ちゃんとお前に言わなかったのは悪かった」
解ってくれていると思っていた。
言わなくてもこの気持ちは通じていると思っていた。
それが単なる自己満足だと、もっと早くに気付いていれば、敬介の苦しみだってもう少し軽くなった筈だろう。
「伝える方法ならいくらでもあったのにな…。それをしなかったのは俺の罪だ。どんなに謝罪の言葉を並べても仕方ないだろう」
だから今伝えよう。
今から伝えていこう。
『幸せですか?』と、問われてた時、素直に即答出来るように。
「そんな…だって…結城さんは…」
「お前がどう勘違いしたのかは知らないが、結城の事は大切だと思っている―――」
「やっぱり…」
「最後までちゃんと聞け。いいか?結城の事は大切だと思っているが、それは仲間として、弟としてだ。好きなのは―――愛しているのはお前だけだ…」
「弟…?」
「そう、弟だ。勉強ができて正義感が強いくせに、一本どこか抜けているから危なっかしくて放って置けない、手間のかかる弟だ。世間知らずだしな」
敬介の身体が小さく震えた。
「そんな、じゃ、俺は…」
「俺が、何とも思ってない奴を抱くと思うか?そんな無責任じゃないつもりだが」
敬介の身体から力が抜けていくのが解る。下手をすれば崩れ落ちそうになる彼の身体を支え、風見は愛しそうに髪に口付けを落とした。
「俺…俺…」
何かを必死に伝えようと口を開く敬介に、風見は微笑を見せた。
彼を安心させるように。
今までできなかった分、これから絶えず与えようと決心しながら、今まで知らなかった彼の傷を、少しづつでも癒していく為に…。
「照れくさいけど、もう一度だけ言う。―――誰よりもお前を愛している…」
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
何があっても忘れないで欲しい。
自分の中に何もかも閉じ込めて、
その重さに耐えきれず暗い顔で下を向いてしまっても、
前を―――周りを見る事を忘れないで欲しい。
見渡せば解るのだから。
決して自分1人で歩いているわけじゃない事が―――
いつでも隣に立っている男がいるという事が…。
その男が誰よりも愛しているのは、
他の誰でもない、君なのだから…。
幸せは、決して遠い所にあるものじゃない―――
終
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