手の中でバキボキ…と壊れる音が響いた。様子を窺う為に持って来ていた双眼鏡が無残にも握り潰されている音だったが、彼は一向に気にしなかった。嫌―――気にする事ができなかった。彼にはそんな余裕が無かったのだ。ただ一点を凝視し、蝋人形のように固まっている。掌は汗ばみ、額には血管が浮かんでいる。今まで経験した事の無い精神的ショックでらしくもなく動揺していた。
「……ぐぅっ…」
咽喉の奥から搾り出すようにうめき声をあげ、彼は悔しそうに下唇をかんだ。眉間に深い皺を刻む。
「…………」
彼の後方で待機している彼の部下達は、上司の恐ろしい激情に緊張したいた。彼の神経を逆撫でしないように、息を殺して様子を見守る。とばっちりを受けて死ぬのだけは真っ平だ。
彼は自制を働かせて乱れた気を静めにかかった。ゆっくりと息を吸い込み肺の中に新鮮な空気を入れ、そして同じくゆっくりと息を吐き出す。何度かそれを繰り返すうちに、やっと彼は平静を取り戻す事が出来た。フッ…と皮肉な微笑を浮かべると、部下達に振り返りこれからどうするか考えた。
(…どうするもこうするもない…な)
胸中で一人ごちる。感情のままに動くつもりは無い。〈作戦〉はいつでも組織の為にあるのだから。そして自分は組織の為だけに動く兵器にすぎないのだから…。
「…フン…」
空いている方の手で懐から一枚の紙を取り出す。彼が着ている服同様染みひとつ無い真っ白な紙には、小さな文字が長々と連なっている。ひらがな・漢字・アルファベット・図形文字等々が、無作為に並んでいるように見える。彼が所属している組織独特の暗号だ。組織に所属している者でも、下っ端の戦闘員では解読できないが…。
それをすらすらと―――頭の中に解読表が入っている―――心の中で判読し、彼は改めて〈作戦〉の全容を頭の中に広げた。
「…よし…」
もう一度内容を確認した後、彼は紙を懐に戻し、一列に並んで自分が下す命令を待っている部下達を見た。もう、眉間に深い皺もなければ、額に血管も浮かんでいない。完全に平静を―――いつもの自分を取り戻したのだ。
重々しく口を開く。
「いいな。ヤツ等には気付かれるな。面倒だ」
「…了解」
部下達はそう答えると素早くその場を後にした。部下達が去ると直ぐ、彼は再び視線を先刻まで凝視していた方に―――遠い、街で一番賑やかな大通りの一角に―――向けた。既に目当てのものは存在していなかったが、彼にはそれが見えるような気がした。
「…俺には関係無い事だ…」
そう、自分に言い聞かせるように呟くと、彼は部下達が去って行った方とは逆方向に歩き出した。彼の手の中で、半壊した双眼鏡が更に無残な姿に変貌しつつあるのを、彼自身は気付いていなかった。
* * *
その日は何事も無く始まった。TVのニュースでも朝刊でも、これといった事件は報道されなかった。それが不気味といえば不気味だったが、そんな事にまで神経を尖らせていたら精神は直ぐにまいってしまう。それに彼等が持っている情報網はそれだけではない。不穏な動きがあれば、何かがどれかに引っかかる筈だ。
手の中でトマトを弄びながら、城茂はここ数日の事を思い出していた。ここ一週間、悪組織は表立った動きは見せていない。勿論、それは彼等―――仮面ライダー達の情報網に引っかからない程度の動きの事だが…。
(何も無ぇんならそれでいい…)
心底そう思う。まぁ、悪組織が壊滅しなければ、このまま何も無いと言う事は無いだろう。いつか必ず倒さなければならない相手―――数々の組織。そして……
(ふん。いつか決着をつけてやるぜ……ジェネラルシャドウ)
いつも悠然と目の前に現れるキザったらしい―――そこが少々気に入らないが―――敵を思い浮かべ、茂は不敵な笑みを浮かべた。武者震いが全身を走る。
―――と、
「何トマトを持って笑ってるんだ、お前は…」
呆れたような声と共に、隣に一人の男が立ち止まった。左手に持っている買い物袋に食材が半分ほど入っているのが見える。茂はトマトを元に―――トマトの山の上に―――戻し男を振り返った。
「おいしそうなトマトだと思いましてね」
男―――茂の改造人間としての先輩・神敬介は、軽く嘆息するとそれ以上何も言ってこなかった。何となく、茂は彼を観察した。
黒髪黒眼の平均的な日本人。背も、高くもなければ低くもない。ただ、ストレートの髪を肩の少し上まで伸ばしている為、片目が時々隠れてしまう。彼はそれを特に気にしてはいないようだが、茂は戦闘時に不利になるのではないかと思っている。攻撃的な所はひとつもない、穏やかな雰囲気に甘いマスク…。
(いわゆる“マダムキラー”ってのは、こういう人間の事を言うんじゃねぇかなぁ…)
などと、どうでもいい感想を最後につけると、茂は彼の持っている買い物袋に視線を移した。中には人参と玉葱。それからブロッコリー等の野菜が入っている。
「……カレー?」
何となく思いついた料理名を挙げてみると、袋の中を見る為に前かがみになっている茂の頭上から、敬介の苦笑が降って来た。
「おしいな。シチューだよ。アマゾンからのリクエスト」
「へぇ…」
「これからはシチューが美味くなる時期だからな。丁度良いだろ?」
にっこりと微笑みを向けられ、何となく茂は鼻の頭をかいた。その理由を聞かれても―――そんな事は誰も聞きはしないが―――自分に答える術がない事を不思議に思う。だが、茂はそれをあっさり無視した。
(別にどうでも良い事だ)
「じゃ、帰ろうか」
敬介に促され、茂も歩き出した。スーパーを出て帰路を歩く。
街の中心を走る大通りは、夕食の買い物客や学校帰りの学生でごった返しえいる。騒々しいと思うが別に嫌いではない。まぁ、マナーのなってない輩を見ると、色々教えたくもなるが。だが、自分がそれを行えばある程度の騒ぎになる事は自覚しているので、仕方なく自制する。
(残念無念…ってか?)
胸中で苦笑する。―――と、
「?!」
何かが通った。ほんの一瞬だけだったが、確かに何かが、視界の端を通った。普通の人間ならする筈のない―――する事など不可能な、素早い動きで…。
(改造人間か…?!)
視野を広げ、気を全てに向ける。何も漏らさないよう……何も見逃さないよう…。
そして―――
「そっちか…!」
茂は見当をつけて人ごみの中を全力で走り出した。時々人にぶつかったり、後方から彼の名を呼ぶ敬介の声が聞こえたが無視した。そんな事にかまっている場合ではない。先程視界の端で捕らえた黒い影は間違いなく―――悪組織の大幹部クラスだ!
(大幹部が意味もなく街中にいるもんか!…それに、どうやら俺に用があるみてぇだしな)
わざわざ茂の視界の端で人間らしくない動きをしたのは、多分、彼に自分を見つけさせる為だったのだろう。敬介が気付いてなかったらしい事を考えると、自分1人に用があるらしい。まして、誘導するように前方を走っているのだから、十中八区間違い無い。
(へん!良い度胸じゃねぇか!俺を甘く見るとどうなるか……)
前方を走る大幹部は、体躯的に茂とそう違うようには見えない。中肉中背。髪も黒いし、動きも軽い。少なくとも【ショッカー】の死神博士ではなさそうだ。
(ま。あのじいさんがこんな事したら、逆に心配するかもな……ウチのリーダーは)
そんなどうでもいい事を考えている内に、茂は人気のない草原に辿り着いていた。人気がないばかりか、近くに民家もない。向こうからすれば助けを呼ぼうにも呼べない場所を選んだつもりだろうが、こっちの方が茂は好都合だった。下手に民間人がいれば、彼等の安全を考えて思うように戦えない。
と、前方十m付近を走っていた大幹部が不意に止まる。それにあわせ茂も足を止めた。大幹部はゆっくりと振り向き、茂に厳しい視線を向けた。
「……アポロガイスト…?」
思わず問うように名を呼ぶ。何度か瞬きをして再度確認したが、目の前に立って自分を睨んでいる人物は変わらなかった。
夏だろうが冬だろうが季節を無視して年中同じ真っ白なスーツに、いつ会っても変わらない―――かつらじゃないかと疑った事もあるが―――髪形。能面のように表情を変えない顔は、今は珍しく感情が読み取れた。怒っている。
(…俺、何かしたっけか…?)
何となく考えてみるが思い当たる事はひとつもない。そもそも、何故彼が―――【GOD】秘密警察第一室長であるアポロガイストが自分を誘い出すのだろう?
(誘い出す相手間違ってんじゃねぇのか?)
これは仮面ライダーでもほとんどの者が知っている事だが―――アポロガイストは神敬介を特別視している。アポロガイストがその姿を見せるのは必ず敬介がいる時で、他に誰がいようと―――それが仮面ライダー1号・本郷猛であっても―――必ず敬介以外の存在を無視して話を進める。彼にとって神敬介は敵であり、片思いの相手であり、絶対唯一の存在なのだ。それなのに…?
(…何だ?【GOD】の新しい〈計画〉か?)
ありえな事ではなかった。むしろ、アポロガイストが敬介を無視したのだからそう考えるのが普通だろう。
茂は戦闘態勢をとりながらアポロガイストを観察し始めた。
黙って茂を睨んでいるその眼は、何故か異様にぎらついている。立ち姿もいつもと違うように見える。どこが違うかとなると正確な事は言えないが、少なくとも、いつもなら右手にあんなモノは持っていない―――
(…ん?…)
茂は目を凝らし、アポロガイストが何を持っているのか見ようとした。改造人間故、視力は普通の人間より良い。
アポロガイストが持っているのは黒い塊だった。材質は堅そうだが何やら歪んでいる。新しい武器かと思ったがどうやら違うらしい。そう、武器と言うより…
「……ガラクタ?」
に、見えた。そこらへんのゴミ捨て場から拾ってきたガラクタ。しかも利用用途は全く見つけられない、どうしようもなく壊れたガラクタに。
(って、何でそんなもん持ってんだ???)
アポロガイストの意図が解らず、茂は首をかしげた。仕方ないので、とりあえず相手の出方を待つことにした。様子がおかしすぎて不気味だ…。
「…城茂…」
静かに―――茂がやっと聞き取れるほどの大きさで―――アポロガイストは呟いた。自分の名前を覚えていた事に少々驚きながら、茂はジッ…と彼を見つめた。何が起こっても直ぐに対処できるよう構え治す。
アポロガイストの眼は相変わらずぎらついていた。どうやら彼の怒りは尋常では無いらしい。だが、やっぱり、茂に心当たりは無い。
(…なんか待ってんのも飽きたな…)
元々“待つ”より“攻める”タイプの人間だと自覚している。“待つ”事に飽きたのならする事はただひとつ。
とりあえず、茂は気になっている事を解消する事にした。
「俺に何か用か?」
単刀直入に問う。回りくどい言い方では聞いてもらえない気がする。今日は。
アポロガイストの左眉の端がピクリと動いた。何か、多大な物を我慢しているように見えたが―――気のせいだろう。いつでも皮手袋を取れるように両手を胸の前に持ってくる。
そして―――
「なっ?!」
驚愕する。事の展開について行けず、思わず仰け反るような姿勢になった。瞳はただ一点を追い、背骨は鈍い音を立てた。
視線の先にはあいも変わらずアポロガイストがいた。だが、今は地面の上に立っていない。立っている格好に近いものはあるが、実際ああいう風に地面の上に立たれていたら、茂はとりあえず変人のレッテルを貼っただろう。
「トウッ!」
そう言いながら両手を挙げてジャンプしたアポロガイストは、両手両足を伸ばした姿のまま、城茂の真上に飛んでいた。手に握ったガラクタもそのままで。それを投げつけられるかと警戒したが、それは無駄な心配だった。アポロガイストはそのまま、上空から茂目掛けて落下してくる―――まるでバイクに跨るかのように。
(って、なんで?!)
誰も答えてくれない問いを心の中で叫び、茂は左に飛んだ。今まで感じた事のない恐怖が足の裏から這い上がってきた事に驚きながら、妙に乱れた息を整える。何故か切羽詰ったような気分で、今すぐ何とかしなければ…と、誰かが耳元で叫び回る。
(…な…何だったんだ…?…さっきのは…)
ただジャンプされただけなのに、何故、こんなにも焦っているのだろう?何か攻撃を仕掛けられたわけではない―――仕掛けられそうになったのかもしれないが、まだ具体的な何かを仕掛けられた訳ではない―――のに、何故こうも動悸が激しくなっているんだ?
どうやら茂の直感が何か危ないと、感じ取ったらしい。何が危ないのかまでは解らないが、やはり今日のアポロガイストはいつもと違う。警戒して戦う方が賢明だろう。
地面に着地し、ゆっくりとした動作で、地面にしゃがみ込んでいるような姿勢の茂に目をやるアポロガイスト。茂も彼を見返しながら、ゆっくりと息を吸い込む。いつでも攻撃に移れるよう構えながら、どうするかをほとんど直感で考えて行く…。
「フン!」
先に動いたのはアポロガイストの方だった。ガラクタを握っている方の手を勢いよく前方に突き出す。そこには茂の顔があった。が、それはあっさり空を切った。普通の人間ならありえない跳躍力で、今度は茂が初冬の空に向かって飛んでいた。茂の肩口で太陽が光る。
―――…フッ!…
風を切るような音がして、空中で茂の身体が半回転した。それと同時に茂の足がアポロガイストを襲う。少し細工をした重い靴が、アポロガイストの頭を打った―――かに見えたが、よく見ると、茂の蹴りはギリギリ腕でガードされていた。地面に無事着地すると、茂は上唇を舌でペロリと舐めた。
「…流石大幹部…。こうじゃなきゃなぁ…面白くない」
いつもと様子が違うアポロガイストの不気味さも、いざ戦い出したらどうでも良くなってきた。強い相手と戦う事自体は、実は嫌いではない。心の底から湧きあがってくるワクワク感を、どうして無視などできるのか?
「今度はこっちから行くぞ!」
気合を入れるように大声で怒鳴る。それと同時に前に飛び出し、黒手袋で覆った拳をアポロガイストの顎目掛けて振り出す。向こうもただ攻撃を待っているような事はしなかった。茂が拳を突き出すのと同時に、アポロガイスとはアポロガイストで拳を突き出していた。防御を忘れた攻撃。二人は同時に逆方向へ吹っ飛んだ。
「……っ…」
鉄の味が口中に広がる。口の中か唇を切ったらしい。しかしそっちにかまっている暇は無い。敵との戦いはこれからだ。
(ま、これくらいの傷なら直ぐに治っちまうけどよ)
舌で軽く血を舐め取る。実際傷は直ぐに塞がれてしまったらしい。既にどこに傷を負ったのか茂自身解らない。
体勢をすぐさま立て直し、茂はアポロガイストに詰め寄った。ザッ!…と靴が地面と擦れる音が響く。茂は腰を落とし、脇腹に右腕を引き寄せた。と、それまで吹き飛ばされたまま明後日の方向を向いていたアポロガイストが勢いをつけて振り返った。その勢いを殺さぬままこちらに拳を突き出す。茂の目の前に拳が迫る!
―――ビュ…ン!
「…ぐぅっ!」
アポロガイストの拳が空を切る音と、彼が苦しそうにうめく音が頭上で聞こえた。若干癖のある髪が風のせいでふわり…と揺れる。全身の力を込めて前に突き出した茂の拳が、アポロガイストの腹に深々と突き刺さっていた。流石にこれは堪えたらしく、アポロガイストは身体を二つに折り後退しようとした。しかし―――
「誰が逃がすか!」
素早く半歩下がった茂はそう叫ぶと同時にほんの数十cmジャンプし、それと同時に右足を高く上げ―――重力に引きよせられるままに、右足のかかとをアポロガイストの後頭部に叩きつけた。
派手な音と共に、何やら声を漏らし、アポロガイストはその場に倒れこんだ。
地面に無事着地すると、茂は、白目をむきかけているアポロガイストを見下ろした。これからどうするかを考えてみる。
「……これが打倒だな…」
上がった息を整えながらジャケットの内側に手を突っ込む。一見しただけでは解らないよう工夫してある隠しポケットの中から、一本の線―――細くて長い鉄製の紐を取り出した。まだまともに動けないで入るアポロガイストの背後に回ると、腹部を押さえている両腕を引っ張り出し、後ろで組むように合わせる。そして片一方の親指に紐をグルグル巻き、更にそのままもう片一方の親指にも同じように紐を巻いた。絶対取れないように固い結び目を作ると、これまた隠しポケットから取り出した特性カッターで適当な箇所を切る。これでアポロガイストが目を覚ましても簡単には逃げられない。
今度は両足を拘束しようと、茂は身体の向きを変えた―――その時、
「茂!」
やや遠くから名を呼ばれ、茂は顔を上げた。街の方からこちらに駆けて来るのは、買い物袋を片手に持った神敬介だった。何やらえらく困惑しているようだ。
「…あ、忘れてた」
戦闘に夢中になるあまり、自分が敬介と買い物に来て帰る途中であった事をすっかり忘れてしまっていた事に気付いた茂は、何となくバツが悪いような気がして後頭部を右手でかいた。苦笑いを浮かべて走りよる敬介を待つ。
「いきなり走り出して…、何が―――」
言いかけて、敬介は言葉を失った。大分近くにまで来たので、茂の目の前に倒れている人物も目に入ったのだろう。驚愕の為か、怪訝そうにアポロガイストを見ている。
一応、アポロガイストを遠巻きにしながら茂に近寄る。敵から目を離さないまま、敬介は口を開いた。
「アポロガイストと戦っていたのか…?」
「まぁね」
簡単な答えに怒るだろうかと思ったが、敬介は特に気にしないようだった。かまわず続ける。
「他の怪人や戦闘員は…?」
「嫌、見てないっすよ―――あれ?…何でだ?」
敬介に問われ始めて気付く。大幹部クラスが1人で自分達の前に現れるなどある筈が無い。少なくとも今までそんな事は一度も無かった。
(アポロガイストが先輩を無視した事に意外性が高すぎて、他の事が全く気にならなかったなんて……俺もまだまだだか…!)
思わず舌打ちをする。が、そんな事をしている場合ではない。もしかしたらこれは誘導作戦だったのかもしれないのだ。自分達を街から遠く離れた所に誘き出した隙に、街中でとんでもない〈計画〉を実行に移しているのだろう。
「とにかく先輩達に連絡を取ろう」
敬介の提案に茂も同意する。
「出来るだけ急がねぇと―――嫌、まてよ。その前に…」
「どうかしたのか、茂?!」
町を目指そうと立ち上がった茂が、いきなりアポロガイストの上にしゃがみ込んだので、敬介は怪訝な表情をした。そんな敬介をよそに、茂はアポロガイストの服を調べ始めた。
(もしかしたら何かあるかもしれねぇ)
何を探しているのか茂自身も解らなかったが、何か、その〈計画〉に関係するものがあれば、有利に事を進められるだろう。上着の外ポケットには何もない。そして内ポケットには―――ガサッ…と音を立てて、一枚の紙が茂の手に握られた。それを目の前まで取り出し、広げて見る。
「……なんだこりゃ?…」
思ったままを言ってみるが、だからどうなる訳でもなかった。一枚の―――戦ったせいか、クシャクシャに折れ曲がっている―――白い紙には、ひらがな・漢字・アルファベット等の文字の羅列が延々と書かれていた。一応読んでみてみるが、全く意味不明だった。
「どうやら暗号らしいな…」
茂の肩口から紙を覗き込み、敬介は呟いた。
「暗号なんて―――表がなけりゃお手上げじゃねぇか!」
憤慨してみるが、結局どうしようもない。仕方なく、茂はそれを無造作にズボンのポケットに突っ込んだ。立ち上がり、下唇をかむ。
「余計な時間食っちまった!とにかく俺は街へ―――先輩は皆に知らせに行ってくれ!」
「ああ、解っ―――」
解った…、と敬介が答え終える前に、彼の口は動かなくなった。その理由が、こちらに近づいてくる不穏な気配による物だと理解した茂も、警戒態勢に入る。相手はどうやら五・六人いるらしい…。
そして―――狼狽した声が聞こえてきた。
「ああ?!何で仮面ライダー共がこんなところにぃ…?!」
「それよりあそこで倒れているのは………やっぱり!アポロガイスト様だ!」
「オイオイ、何かやばくねぇか?二人ともこっち見てるぞ…」
「俺達、アポロガイスト様直属部下だからよぉ、他の戦闘員よりは戦闘能力上だけどよぉ、いくらなんでもこの人数で仮面ライダー二人は、無理があるだろぅ」
「っていうか無茶だよな?」
「無謀だ」
「無駄死にに行くようなもんだ」
と、今だ姿を見せない男達の会話がそこで途切れる。
暫しの沈黙が流れ、先程より低い―――絶望したような声色で、会話は再開された。
「…もしかしてよぉ、アポロガイスト様……我慢できなかったんじゃねぇか?」
「う〜ん、かなり怒ってたからな…。あの人、結構独占欲強いから…」
「そのくせプライドは目茶苦茶高いんだよな。だから絶対自分じゃ認めないんだ。嫉妬してるなんて」
「とばっちり食うの俺達下っ端なのにな…」
「まぁ、アポロガイスト様の場合、とばっちりは幹部の方にも向くけどよ」
「今いないけどな」
「………やっぱり俺達かぁぁぁ!」
今までで一番大きい声で何やら叫んでいる。
と、直ぐに、誰かがその男の口を無理矢理塞いだらしく、唐突に叫び声は途切れた。
「しっ!静かにしろ!仮面ライダー共に気付かれるだろう!」
「そうだそうだ」
「…もう気づかれているような気もするけど…」
「気のせいだ!」
「ンな訳ねぇだろ」
思わず半眼で茂は呟いていた。半眼のまま見下ろすと―――会話を聞きながら見当付けて近くまで来ていた―――少し草が元気よく育ちすぎた所に、全身黒ずくめの男達が五名、固まって座り込んでいた。何となく目眩を覚える。
「…ヒッ!」
一番奥にいる戦闘員が咽喉の奥から短い悲鳴を上げた。それに構わず、一番手前にいる戦闘員が勢いよく立ち上がると、そのまま茂に突っ込んできた。
「クッソオォォオォォオォォッ!」
「他に言いようないのかよ」
ある程度想像した通りの反応と台詞に、茂は軽く嘆息をつきつつ、戦闘員の腕を左手ではたき上げた。何やら鈍い音が響き、戦闘員ははたかれた腕を抱え悶絶する。そのままその戦闘員を足で蹴り倒し、踏みつける。
「おのれ…!」
他の四人の戦闘員達は素早く茂を取り囲むように広がった。しかし、
「とりあえず質問に答えてもらおうか」
静かな声色で―――だが戦闘員達を震え上がらせるのに充分な怒声で―――神敬介は茂の後方に陣取った戦闘員の首を後ろから鷲掴みにした。戦闘員の口から短い、悲鳴になりきれない悲鳴が上がる。
圧倒的な戦闘能力の差を見せ付けられ、思わず戦闘員達は立ち尽くした。
茂と敬介の目に、鋭い光が灯る。
「で?お前等はこんな所で何してるんだ?ピクニックか?」
唇の端だけで微笑を作り―――故、壮絶な笑みになっているが―――茂は右隣に立っている戦闘員を見据えた。最初に短い悲鳴を上げた、あの戦闘員だ。どうやらこの中で一番気が小さいらしいその戦闘員は、又、短い悲鳴を上げ、そのまま硬直してしまった。
(…こいつじゃ無理か…?)
さっさと判断を下すと、今度は左隣にいるヤツに視線を転じた。先程と同じ口調で、同じ笑みで、同じ質問を繰り返す。
「で?お前等はこんな所で何してるんだ?」
「うぐっ…」
咽喉の奥から言葉を出そうか出すまいか悩んでいるように、左隣に立っている戦闘員は小さくうめいた。だが、今はそんな事を聞きたい訳じゃない。なかなか話そうとしない戦闘員にゆっくり頷きかけ、茂は足に力を込めた。靴の下で何かが音を立てる。
「ぎ…やぁぁああぁぁぁ…!!」
地面の上に寝転がって悲鳴を上げる戦闘員は無視し、その戦闘員を恐ろしげに見ている左隣の戦闘員に満面の笑みを見せる。相手はこちらの意図を解ってくれたらしい。慌てて首を立てに振る。
「ありがとう。で?何してんのかな?」
保父が保育園児に言うが如く優しげな声色で、茂は戦闘員に再度問い掛けた。恐怖の色をますます濃くした戦闘員は、唾を飲み込み口を開いた。
と、同時に。
―――ブチ!
何かがちぎれる音が響き、辺りは急に静かになった。
先程まで痛みに悲鳴を上げていた茂の足の下にいる戦闘員も、茂の左隣で震えていた戦闘員も、敬介に首を掴まれ暴れていた戦闘員も、茂の目の前で一応戦闘態勢を取っていた戦闘員も、これから何かを話そうとしていた戦闘員も、そして茂と敬介も、その場に立ち尽くし、音が出た方を振り向いていた。
音がしたのは、彼等が今立っている所から数m離れた所だった。何と言う事は無い。先程まで城茂と神敬介が立って話していた所だ。つまり、
「ふふふ…。それ以上はこの私が相手だ…神敬介…」
茂が拘束目的で親指に巻いた鉄線を引き千切り、【GOD】秘密警察第一室長アポロガイストは悠然と立ち上がっていた。
「アポロガイスト…」
茂と敬介の口から同時に言葉が漏れた。
「こんな物で私から自由を奪えると思っていたのか…?」
茂と敬介の咽喉が上下に動く。だが、二人はそれを自覚していなかった。視線は釘付けられたようにアポロガイストで止まっている。戦闘員達も、動かず―――動けずにいるらしい。茂達と同様にアポロガイストを見ている。
アポロガイストは立っていた。ただ、そこに。顔は半分だけこちらを向いている。腕は力無く下がっており、その先からボタボタと流れ出る液体が彼の真っ白なスーツを赤黒く染めていた。
「……親指が…」
遠くで良く解らないが、どうやら鉄線が親指の皮膚を―――肉を切り裂いて食い込んでいるらしい。さもありならん。鉄線は対改造人間用に、茂自身が特別に作ったものなのだ。アポロガイストと言えども、人間型では自力で外すのに無傷という訳にはいかない。だが……。
「普通するかぁ…?」
茂は自嘲気味な笑みを浮かべつつ一人ごちた。腹の底から胃液が上がってくるような不快感に、思わず唾を呑み込む。戦闘員に向けていた身体をアポロガイストに向けながら、神敬介の方を横目でチラリと見る。
「…………」
敬介は既に戦闘員から手を離していた。自由になった戦闘員は、だが、身体が強張っているのか、尻餅をついた格好のまま動こうとしない。敬介もその戦闘員には全く気を向けていなかった。彼は厳しい表情でアポロガイストを凝視している。
アポロガイストも、そんな敬介を凝視していた。見えない火花が飛び散る。
(…アポロガイスト……、もう俺の事忘れてやがる…)
城茂だけでなく、戦闘員の事も忘れているかもしれない。嫌、もしかしたら自分の傷の事さえ、今のアポロガイストの頭の中にはないのだろう。アポロガイストが神敬介に対して持っている感情は、周りが理解する以上に激しい物がある。
(全く、やっかいなヤツばっかりだぜ…悪組織ってのはよ…)
そう、茂が胸中で嘆息した時だった。
「神敬介。今ここで決着をつけようか…?」
重たそうに足を動かしながら、アポロガイストが呟いた。その台詞に敬介の眉が上がる。
「何故だ?今のお前はまともに戦える状態に見えないぞ」
敬介の真正面にたどり着くと、アポロガイストは立ち止まり深々と息を吐き出した。そして、くくく…と、咽喉の奥で静かに笑う。
「ああ、そうだろうな…。だが、だからと言って負け戦をするつもりはない…」
「…何か策でもあるのか?」
敬介の問いに、アポロガイストはまた咽喉の奥で笑い声を上げた。だらりと下げたままだった両腕をあげ、血に染まった掌を敬介の前に突き出す。
「嫌…何も…。だが、今なら貴様を殺せそうな気がするのだ―――」
改造人間ゆえの回復力で、傷は段々治りかけているらしく、今では親指の出血はさほど多くない。それでも血はアポロガイストの腕をつたい、地面にこぼれている。
「―――この手で…」
血臭漂う向こうから、アポロガイストの狂気に歪んだ顔が見えた。茂の背中を戦慄に似た何かが駆け上がり、思わず引きつった笑みが浮かんだ。ビリビリと肌が焼けるような感覚が全身を覆う。
敬介も、茂と同様のモノを知覚したらしい。彼はそれに加え、汗をかいている様だが…。
「さぁ、はじめよう…」
アポロガイストはそう言いながら左足を前に出した。その足が地面に着地すると、今度は右足が前に突き出される―――つまり、敬介に向かって歩き始めたのだ。
それを黙って観察する。どうするべきか、どうすればいいのか、ちょっと判断がつかない。だが、このまま見ているだけという訳にはいかない。
(……っく…)
アポロガイストと敬介の間が2mを切った時、茂は二人の間に飛び出そうと身構えた―――が…!
「今日はダメだ」
アポロガイストに向かって敬介は厳しく言い放った。だが、口調とは裏腹に、彼の表情は穏やかだった―――穏やかな笑顔だった。
アポロガイストは戸惑ったようにその場に立ち止まった。怪訝な視線を敬介に向ける。敬介はそれを真正面から受け止めていた。
「…理由は?」
当然といえば当然なアポロガイストの問い。
敬介は表情を変える事なく、はっきりとした口調で答えた。
「私は万全のお前と戦いたい」
一呼吸置いて、彼は不敵に微笑んだ。
「そうでなければお前と戦う意味もない。違うか?」
反対に問われ、アポロガイストは黙り込んだ。何か深く…深く…考えているように見える。多分、敬介に言われた事を反芻しているのではないかと茂は思ったが、本当の所はアポロガイスト本人にしか解らない。だが、これだけははっきり言える。
(先輩の言葉がアポロガイストの心に変化をもたらした…)
時間が経つにつれ、アポロガイストの表情は徐々にだが確実に平静を取り戻していった。先程まで見せいていた狂気の色は、もう、見えない。
(…アポロガイスト……訳解らん…)
急に脱力感が全身を襲い始める。
呆れるしかない展開に、どう対処していいのか解らない。
(…足の下の連中もどうしたもんか…)
すっかり忘れていた戦闘員達を思い出し、茂は嘆息した。今から問い詰めるのもなんだか間抜けだ。といっても、このまま放ってしまう訳にもいかず…。
茂が戦闘員の始末をどうつけようかと思案してる間に、敬介とアポロガイストの間で話しがついたらしく、何故か和やかに―――そして爽やかに敬介は茂を振り返った。アポロガイストの方も、何が嬉しいのか満面の笑みでこちらを見ている。その笑顔を見た途端、胃に錘が多数放り込まれた気がしてゲンナリした。
そんな茂の心情を知っているのか知らないのか、敬介は茂の方に歩み寄ると、肩にポンッ…と手を置いてきた。
「っと言う事で、帰ろうか、茂」
「嫌、何が『っと言う事で』なんすか?」
そのまま帰ろうと踵を返す敬介に、茂は慌てて質問を投げつけた。敬介は振り返ると、不思議そうに茂の顔を覗き込んだ。
「何だ、聞いてなかったのか?」
「まぁね。それに、『帰ろうか』って、こいつらはどうするんすか?こいつらが何企んでるのかも解んねぇまま―――」
「それなら大丈夫だ」
茂に最後まで言わせずに、敬介は自信満々に言い切った。そのあまりの自信に、思わず肩をこけさす茂。
「な…何を根拠に『大丈夫』なんて―――」
今度も最後まで言わさずに、敬介は茂の後ろに回りこみその背中を押した。押されるがままに前進するが、それでも肩越しに敬介を見ながら茂は声を上げた。
「もしかしたら手遅れかも知れ―――」
「だから大丈夫なんだよ。今回は」
「だぁ〜かぁ〜らぁ〜、あんでンな事言い切れるんすか!」
いい加減腹が立ってきた茂が抗議の声を上げると、流石に敬介も背中を押す手を止めた。眉間に皺を寄せた茂が振り返ると、仕方ないと言った感じで敬介は後頭部をかいた。
「だからな、実は―――」
耳打ちで聞かされた事の内容に、茂は思わず目を見開いた。
* * *
そこは薄暗い部屋だった。地下数百mにある部屋だが、それが理由で薄暗いわけではない。その部屋に一人でいる男は、落ち着いた面持ちで膝をついて座っていた。何度となく、彼はここに来た事があった。最初は緊張し、失態らしき物を演じた事もあったが、今ではそういう事は無い。全く緊張しないという訳でもないが。
男は持て余した時間を埋める為に、部屋全体をサッと見回した。
装飾品は特にないが、質素という訳でもなかった。シンプルだが気品漂う…と言うべきか。男は基本的にそういった事に興味が薄いので、それ以上考える事はやめた。自分にとって意味がない。
彼にとって意味があるのは、正面の―――部屋の最奥にある小さなドアだけだ。縦・20cm。横・10p。どう考えても人が通れない大きさだ。それもその筈、そのドアは人が通るための物ではない。
と。
―――キィ…。
ひっそりと音を立てて、小さなドアが開いた。誰かが手で開けたというより、ボタンひとつで自動的に開くように設定してあるような感じだ。実際そうなのだろう。
ドアが開き、その奥が見えた―――と、言っても真っ暗で何も見えないが。しかし、男は奥を見つめた。そこに何か見出そうとしているのではない。そこから出てくる何かを待っているのだ。
そして、彼が待っている者が、ゆっくりとその姿を見せる―――
『怪我をしているようだな…』
「…は…」
男は答え、両手を重ね合わせた。両方の親指から手首にかけて、真っ白な包帯が巻いてある。それは男にとって珍しい事だった。改造人間である、彼にとって…。
『何か予想外の事でもあったのか?』
「いえ、自分の不注意から招いた事故です」
『…〈作戦〉は?』
「問題ありません。当日にはそちらに届くでしょう」
『なら良し』
「所で、少々お耳に入れておきたい事が―――」
男の言葉に、相手は少々驚いたような息を漏らした。が、すぐに先を話すように促す。男は軽く頷いてから話し始めた。
「この度シュークリームを50個依頼した洋菓子店〔シャルル〕で、新しいシュークリームが発売されました。私はまだ食してませんが、評判は上々のようでして―――」
『ふむ…。一度そのシュークリームを送れ。確かめてみよう…』
「は」
『全く。悪組織も人付合いというモノがあって楽ではない…。定期例会など、無駄だと思うのだが無視するわけにもいかん…。しかも、毎回違う組織に首領クラスが集まり、彼等をもてなすわけだ。組織としてある程度見栄をはらなくてはならんし―――困ったものだ…』
「ご苦労お察しします」
『ま、〔シャルル〕のシュークリームはどの組織の首領にも評判がいいからな。楽でいい』
相手は一呼吸置くと口調を変えた。
『アポロガイスト。ご苦労だった。下がってよい』
「失礼します」
深々と一礼し、男―――【GOD】秘密警察第一室長・アポロガイストは、真っ赤なリボンを首に巻いたテディ・ベアから喋る総司令の前を後にした。
この時になって初めて、アポロガイストが命令された〈作戦〉と言う名の〈おつかい〉は終了したのだった。
終
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