伸びてきた手を反射的に拒否したのは数週間前。
今、目の前にその時と同じ相手が立って自分を見つめている。
あの時と違うのは、自分の部屋ではなく彼の部屋にいるという事と、自分がある決心をしているという事と、それから―――
「なんて顔してるんだ?」
一文字隼人はベットの前に立っている本郷猛に微笑を向けた。
少々癖のついた黒髪が本郷の瞳を隠しているが、彼の表情は簡単に想像できた。
「そういう顔をするのは俺の方だろ?」
と、言いながら、一文字は本郷に向けて右手を伸ばした。掌を上に向けて、そこへ手を置くように促す。本郷は、少し戸惑ったようだったが、素直に一文字の手に左手を伸ばした。
二人の手が触れあう―――。
一文字は力を込め本郷を引き寄せ、少し上にある彼の瞳を見上げた。
本郷の瞳は珍しく曇っていた。
「雨が降りそうだな」
「……すまん…、俺より…お前の方が―――」
本郷の台詞は途中で止まった。一文字の人差し指が本郷の唇に添えられたからだった。
一文字は微笑していた。
それはいつもの笑顔であっていつもの笑顔でなかった。
「違うだろ?俺に言う言葉はたったひとつだけの筈だ」
一文字の左手が本郷の頬に触れる。掌から本郷の体温が伝わってくる。
(ああ…泣きそうだな)
一文字は心の中で苦笑した。
本郷の体温は思いのほか低かった。きっと緊張しているせいだろう。
一文字は視線をずらし、本郷の背後のベットを視界に入れた。彼がいつも使っているベット。何時何処で購入したのか一文字は知らないが、それはどうでもいい事だ。大切なのは、そのベットで大の大人二人が寝れると言う事だけ。
再び視線を本郷に戻し、一文字はにっこりを笑って見せた。
「さぁ、言ってくれよ。本郷の口から聞きたいんだ。知らないわけじゃないんだろ?」
本郷の瞳が一文字を捉えてから一度ギュッ…と閉じた。それは、自分ではどうしようもなかった現実を受け入れなければならない事に対する、ささやかな抵抗なのだろう。
一文字の手から本郷の手が離れる。美しい曲線を描き、彼の手は一文字の背中に回された。もう片方の手と一緒に…。
「すまない…」
抱きしめた腕に力を込めながら、本郷猛は一文字隼人の耳元で呟いた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
奇妙な雰囲気だという事は、二人とも気付いていた。
少なくとも一文字は痛いほど感じていた。そして、それが仕方ないという事も知っていた。
(…仕方ない…か)
苦笑したくなるのは、その理由が自分にあるからだろう。
一文字は本郷のベットの上で、本郷の下に寝転んでいる。彼はたどたどしい手つきで一文字のシャツのボタンをはずしていた。
(初々しいやつだなぁ)
微笑ましく思う。それと同時に、あの時の事も思い出してしまう。
(…自分で思ってる以上にショックだったんだな…)
あまり思い出したくないが、事ある事に思い出してしまう事件。【ショッカー】大幹部ゾル大佐に捕まり、鎖に繋がれ、そして―――
(…流石に初体験でアレはきついよな…)
改造手術をうける前―――カメラを持って世界中飛び回っていた頃、面白半分に男に迫られた事は何度かあった。だが、それはあくまで冗談だったし、一文字自身もそんな気はさらさらなかったので笑いあってお終いだった。
それがいきなりアレだ。
(そんなにやわじゃないと思ってるけど、仕方ないのかなぁ)
アレ以来、他人の―――特に、男の手が恐くなった自分がいる。手が自分に伸びてくる事が恐ろしくて仕方ない。どうしようもない恐怖心で冷や汗が浮かぶほどだ。これに気付いたのは事件の次の日、後輩達と談笑している時だったが、一文字はそれを何とか誤魔化した。
知られたくなかった―――誰にも。
(それなのに気付くんだから、こいつは…)
本郷はボタンをはずし終わり、一文字の肌に手を滑らせ始めた。
汗が吹き出る。
心臓の音が痛い…。
(大丈夫…大丈夫だ……本郷だから―――アイツじゃないから…)
あの後も色々あったが、本郷にキスされて嫌じゃなかった時、全て終ったと一文字は思った。精神的ショックは大きいかもしれないが、本郷がいれば大丈夫だと思った。
が、しかし、一文字自身が思っている以上に精神的ショックは大きく、又、普段の生活に支障をきたしはじめた。
不意に手が視界に入ると体が強張り持っている物を落とす。誰かが後ろを通ると思わず戦闘態勢をとってしまう。靴の、コツコツという音を聞くと体が震え出す。…夜中、酷い悪夢にうなされて飛び起き、そして―――声を殺して笑う。
本郷に手を握ってもらうと少しは納まるが、だんだん疲れていく自分に一文字は気付いていた。
このままでは駄目だという事にも気付いていた。
(だからこうなる事を望んだ…)
一種のショック療法だ。今まで恐怖の為受け入れられなかった本郷を無理矢理にでも受け入れ、あの日の事を上から塗りつぶそうという―――。
(賭けみたいなもんだが……大丈夫……)
自分に言い聞かす為に、一文字はひたすら祈るように「大丈夫だ」と繰り返す。
本郷が一文字の唇にキスを落とした。
それから遠慮がちに、本郷の唇が一文字の首に触れた。一瞬体が強張る。それに本郷も気付いたようで、彼の動きが止まった。
(大丈夫……大丈夫……大丈夫だから)
本郷の背に腕を回し、一文字は安心するように本郷に笑顔を向けた。
「止まるなよ。恥かしいだろ?」
悪戯っぽく言ってみると、本郷は真面目な顔であわてて頷いた。
「そ…そうだな。すまん」
それから、本郷の唇はもう一度一文字の首筋に触れた。
一文字の首に、ひとつめのキスマークが浮かび上がった。
(ほら…大丈夫だった…)
軽く嘆息する。
一文字が自分を落ち着かせている間も、本郷は行為を進めた。
敏感な部分を愛撫し、一文字の緊張した体をほぐし―――
(…順調だな…)
一文字が計画を打ち明けた当初、本郷は激しく反対していた。
当たり前といえば当たり前。彼の言い分の方が正しい。
(初めてじゃないか?本郷に怒られたのは…)
めったに見せない剣幕で「何を莫迦な事を!」と怒鳴られた。それでも計画の実行を頼む一文字に、本郷は苦悩を明らかに表し、力無く椅子に倒れこんだ。
その姿に心を痛めはしたが、一文字に自分の考えをゆずる気持ちは生まれなかった。
『このままじゃ何もできない。誰も助けてやれない―――お前を助けてやれない!……俺はそんなのは嫌だ』
(これはワガママか…)
本郷の手が自分自身に伸びる。
(ああ、そうだな…。“我が儘”に戻るんだ―――そのための行為だ)
自分でない自分。それが今の自分。誰が何と言おうと、それは苦痛でしかない。そのままの状態で放っておく事など出来ない。
例え賭けに負けても後悔はしない。あのまま何もしない事も、それは自分でない証拠だから。
(本郷にはツライ思いをさせる―――それだけが気がかりだ…)
一文字の体がビクリと震える。本郷の指が一文字の入り口に触れた。
(大丈夫だ…大丈夫)
恐怖心が腹の底から這い上がってくる感触が一文字を襲う。衝動的に本郷を突き放したくなるのを必死にこらえる為、下唇を噛み、本郷に回している腕に力を込めた。
「…大丈夫か?」
気遣わしげな瞳で本郷が一文字の瞳を覗き込む。ここで大丈夫だと言わないと、彼は行為を間違いなく止めるだろう。
(大丈夫だ…アイツじゃないから…本郷だから―――自分で望んだ事だから…)
笑顔を本郷に見せる。冷や汗は浮かびかすかに震えているが、それでも笑顔は作れる。
今まで誰にも泣き顔なんて見せた事はない。
「勿論♪」
そう言った一文字に、本郷は瞳の奥で複雑な色を見せた。
彼は気付いているのだろう。一文字がやせ我慢をしていると言う事に。
一文字は思わず苦笑を表に出していた。
(お前が気にする事じゃない。本郷を信用してないとか、頼りにしていないとかそういう事じゃないから……)
それは自分の性分だから、いちいち気にしないで欲しい。
(…それでも本郷は気にするんだろうけど…)
本郷は体を起こすと、枕もとに置いてある物―――ラブオイルを手に取った。
それを手につける本郷の姿に複雑な物を感じる。
(…バカだなぁ、アレを本郷に渡したのは俺だろ?)
ラブオイルを本郷の目の前に置いたのは、まだ彼が計画に反対している時だった。頑なに拒否する彼に、自分がどれだけ真剣なのかを―――どれだけ腹を括っているのかを知ってもらう為に、彼の目の前に置いて見せた。
結局、それが決定打になったのではないかと、一文字は考えている。
「……っ…」
本郷の指が一文字の中に入ってくる。
再び湧き上がってくる恐怖心。切迫感に思わず叫び声を上げそうになる。逃げ出したい衝動。脳裏に浮かぶあの時の光景。
体が―――心臓が痛い…!
(大丈夫……大丈夫…)
泣きたくなるのを必死で耐えながら、一文字は心の中でそれだけを繰り返し呟いた。
(大丈夫…大丈夫…)
本郷の指は、慣らす為に一文字の中で動きをはじめた。出たり入ったりするその感覚に、全神経が集中される。思わず手で己の目を覆い隠す。
(…大丈夫…)
本郷の指は次第に増え、一文字の身体は本郷を受け入れる準備を完了する。
「…ふっ…」
本郷の体が移動する。
いよいよなのだと、一文字は歯を喰いしばった。
と、
「…隼人」
本郷が一文字の耳元で小さく囁いた。
「……何だ?」
咽喉に唾を通し、何とかそれだけを答える。本郷は頭を上げると、真正面から一文字に微笑みかけた。
そして、口を開き―――
「愛してる」
まるで、一文字を包み込むように―――
「心の底から愛してる」
そして一文字の背中に腕を回した。暖かく抱きしめる。
「な…何を言って―――」
なんとそれを表現したらいいのか一文字は解らない。ただ、その時、押さえていた物が全て溢れ出すのを感じた。本郷の言葉と暖かい抱擁で、それまで心の奥底に封じ込めようとしていた物全てが、堰を切って流れ出した。
「―――う…っ」
気付けば号泣していた。
本郷の背中に腕を回し、彼にしがみ付いて泣いていた。
本郷はただ一文字を抱いたままで、特に何もしなかったが、それが一文字には良かったらしい。涙は止まる気配も見せず、とめどなく流れた。今まで溜めていた分、その量は多かったのかもしれない…。
一文字はひたすら泣いて―――やがて泣き疲れて死んだように眠った。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
ふと意識が浮上し、考える前に本郷猛は隣にいる人物に視線を向けた。
隣からは規則正しい寝息が聞こえ、思わずホッと安堵の息を漏らす。
腕を伸ばし、彼の白い肌に―――涙で濡れた頬に触れる。
(暖かい…)
その事にもう一度安堵の息を漏らす。
「…ん…」
触れた事で起こしてしまったのかもしれない。隣でもぞもぞと動き出した彼に、躊躇しながら呼びかける。
「隼人…?」
聞こえたのか、彼―――一文字隼人はピタリと動きを止めた。そのまま数十秒経過し、思わず心配になり身を乗り出した所で、
「わっ?!」
デコピンをされた。
割と強かに叩かれ涙眼になる。
一文字はそんな本郷を見て心底可笑しそうに笑顔を漏らした。
そして口を開く。
「おはよう」
どこか付き物が落ちたような晴れ晴れとした表情で、一文字は言った。
それが無性に嬉しくて知らない内に笑顔が漏れる。
自分に、「俺を抱いてくれ」と言い出した時の、あの思い詰めた表情とは180度違う。無理して笑顔を見せているのではない、本当の彼の笑顔。
「おはよう」
そう返すと同時に一文字の額にキスを落とす。彼は少し驚いたようだったが、少し照れくさそうに笑うと、
「恥かしいヤツだなぁ」
と、呆れたように呟いた。
(ああ、これが幸せというやつか…)
唐突にそんな言葉が脳裏に浮かぶ。
暖かな布団の中、誰よりも愛しい人が自分の隣で嬉しそうに笑っている。
フツフツと込み上げてくる喜びに、目頭が熱くなった。
それを目ざとく見つけた一文字が本郷の眉間を人差し指で突く。
「何泣いてんだよ」
「ん? ただ―――」
その手を取り、少しだけ力を込めて握った。
(どうして、こうも全てが―――)
「愛しいと思って」
素直に自分の気持ちを告げると、一文字の顔はたちまち真っ赤に染まり下向いた。
しかし、直ぐに顔を上げ、
「そんな嬉しい事、そう簡単に言わないでくれ。幸せすぎてショック死する」
と、本郷を軽く睨み上げた。
「じゃ、行動で表そう」
腕を伸ばしその中に彼を抱きこむ。
暖かい彼の肌。おずおずと背中に伸ばされる彼の手。鼻腔をくすぐる彼の香。頬に触れる髪の感触。見た目から想像するより低い彼の声。
全てが本当に愛しくて、その全てがうこうして触れられる事に幸せを感じる。
(隼人も、そう感じてくれているといいが…)
彼の心の傷は、そう簡単に消え失せはしないだろう。それは最初から解っていた事で覚悟は出来ていた。まさか、あんな計画を持ち出すほど思い詰めていたとは知らなかったが、昨夜思いっきり泣く事で、少しは彼の中で何かが変わったのではないかと思う。
(もう、泣く代わりに笑う事はしないで欲しいが―――)
その笑顔は酷く哀しいから。
見てるこっちが胸を掻き毟りたくなるから。
(だが―――)
きっと、これからも彼はそう簡単に泣かないだろう。
泣きたくても、皆の前では笑顔を見せるだろう。
そういう性格であるという事は、長年の付き合いで充分すぎる程解ってしまった。なおせと言ってなおるものでもないだろう。
(なら…)
「隼人」
「ん?」
一文字の耳に唇を近づけ、低く、それでもしっかりとした口調で、
「泣きたくなったら一緒に泣こう」
そう、呟いた。
暫らくの沈黙の後、クスリと笑い声がし、
「…ああ、了解した」
誓うような響きに乗せて、一文字は答えた。
「…ありがとな、本郷…」
腕の中で、愛しい人が微笑んだ。
外から、スズメの鳴き声が聞こえ出し、カーテン越しに外が段々と明るくなっている事も知る。
長い長い夜が明けた事を―――本郷猛は理解した。
終
|