玄関のドアを開けたら、眼前に花畑が広がっていた―――気がした…。
それがただ単なる気のせいだと解ったのはそのすぐ後で、一度瞬きをして改めてよく見てみると、そこには一人の女性が文字通り、周りに花を撒き散らしながら立っていた(俗に言う少女漫画効果だ)。
地毛なのか軽くカールしたやや色素の薄い髪に、パッチリとした大きな瞳を縁取る長い睫毛。ピンク色の唇は愛嬌もたっぷりで、比較的背は高くスタイルが良い。
肩から小さな赤いポシェットを提げたどこぞのモデルのような彼女は、咲き誇る大輪の花のような満面の笑顔をこちらに向けた。
「はじめましぃて。こちらに一文字隼人さんって方いらっしゃるって聞いてきたんですけどおられますぅ?」
独特のアクセントをつけて話し出した彼女は、どうやら一文字隼人の知り合いらしい。彼は確か女性モデルは撮らない主義だったから、この女性、外見はモデルのようだが実は写真家なのかもしれない。
「いますが―――あなたは…?」
そう問い返すと、彼女は舌を少し出して非礼を詫びてから、ひまわりを背に(少女漫画効果)答えてきた。
「私、マリって言うぅんです♪」
それが憂鬱な半日の始まりだった―――。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
(…何故だ?…)
こめかみを人差し指で押さえながら、本郷猛はかすかに唸った。
(…落ち着かない…)
リビングに置いてあるソファーの上で何度目かの座りなおしをし、目の前に広げている愛読書に視線を落とす。更にゆっくり息を全て吐き出し深く吸いなおす。それなのに、本郷は妙にそわそわしていて、普段なら難しくない本を読むという作業が全く進まない。
「ふぅ…」
本を開いて三時間。
いい加減諦め、本郷は本を閉じてテーブルの上に置いた。
本郷邸のリビングには、今現在本郷を含めて二人しかいない。本郷の向かいに座って読書に夢中になっている結城丈二と、TVニュースをチェックしている城茂だ。音といえばTVから流れてくるニュースキャスターの声くらいの、いたって静かな休日の午後。
なのだが―――
「かわいぃい♪ね、ね、隼人さぁん!このお花もらってもいい〜?」
やたら響く高い声が突如としてそんな静寂を切り裂いて本郷の耳に届いた。勿論それは結城と茂の耳にも届いたらしく、二人とも声がした方―――中庭の方へ視線を向けた。
「……にぎやかっすねぇ…」
どこか呆れたような表情で茂が呟いた。結城もそれに頷き返す。
「そうだね。女の子だもん」
「…名前なんつってたっけ?……え〜…」
人の名前を覚えるのが苦手な訳では無いだろうが、茂は高い声の主の名前を思い出すのに苦労しているようだった。
すかさず結城が声の主の名前を言う。
「マリちゃんだよ」
「ああ、そうそう。……一文字さんの知り合い?」
「初期ライダーガールズの一人だって言ってたよね。立花レーシングクラブの会員なんだけどバイクが乗れないっていう…」
「なんすかそれ?」
眉間に皺を寄せながら半眼になり茂。
「乗れないから教えて欲しくて入ったらしいよ。けど【ショッカー】との戦いが忙しくて結局乗れないままなんだって」
「【ショッカー】との戦いが忙しくてって、別に初期のライダーガールズって特に何かしてた訳じゃないんじゃなかったんすか?」
「そういえばそうだね」
あっけらかんと頷いた結城に、茂は額を押さえて下を向いた。どうやら頭痛がするらし。
しかし、そんな事はどうでも良い。問題は―――
(…何なんだ…)
本郷は苦悩に顔をゆがめた。
ただでさえ落ち着かない気持ちが更に落ち着かなくなっている。今だってソファーに座っている事が苦痛で仕方ない。しかし、何故落ち着かないのか、その理由が解らない。
(…せめて理由が解ったら何とかしようもあるんだが…)
本郷はため息をついて前髪を書き上げた。
知らない間に、額に少し汗をかいていた事を知る。
(…冷や汗???)
「…どうかしたんですか?」
「――――っ?!」
不意に声をかけられ、本郷は声もなく驚いた。
普段ならいきなり声をかけられたくらいで驚いたりなどはしないが、今は心に余裕が全くないらしい。声をかけた結城本人もそんな本郷の反応に驚いていた。
「……大丈夫ですか?」
「………ああ、大丈夫だ…」
何とかそう答えるも、心臓は早鐘のようにうるさい。まだ驚愕した面持ちでこちらの様子を窺っている結城と、興味津々で見てくる茂に気付かれないよう、こっそり深呼吸などしてみるが、なかなか元に戻らない。
(…今日の俺はおかしい―――嫌、正確に言えば午後から…か…)
「何かあったんですか…?」
恐る恐るといった感じで、結城は本郷に問い掛けた。
それに本郷は微笑を向けて、
「何でもな―――」
「ここがリビングゥ? わぉ!すっごぉーい☆」
ドアが開けられると同時に超音波に似た黄色い声がリビングに飛び込み本郷の耳を攻撃した。思わずソファーから転げ落ちる本郷猛。突然の事に、結城と茂は唖然と目を見開いた。
それに気付かぬ様子で、黄色い声の持ち主・マリは軽い足取りでリビングの中央まで一気に足を踏み入れた。すらりと伸びた長い足が優雅に回る。
「うぅ〜ん、このカーテンの柄素敵ねぇ♪」
「変なもの触って壊すなよ」
開け放たれたドアから、一文字隼人が嘆息まじりに現れた。
マリは振り向くと、両頬を膨らませて講義する。
「そんな事しないわよぉ!隼人さぁんの意地悪ぅ!」
「気を付けてくれよ。結構高い物とか平気でそこら辺に置いてあるから―――て、本郷。そんな所で寝転がって一体何やってんだ?」
一文字に問いかけられ、今だソファーから転げ落ちたまま床に這いつくばっていた本郷は、妙な気恥ずかしさと脱力感を感じながら、何とか返答を返す。
「…嫌、何でもない……」
「そうか?何でもないようには見えないけど―――起きれるか?」
「ああ、大丈夫だ…」
一文字の手に捕まり体勢を立て直す。
と―――、
(……ん…?)
一文字の手を掴んだまま、本郷は繋いでいる自分の手と一文字の手を凝視した。
その事に気付いた一文字が首をかしげる。
「どうかしたのか?」
「嫌……」
(…あれ?…)
一文字と同じように、本郷も訳が解らず首をかしげた。
いくら見ていても、一文字の手も本郷の手も変わることは無い。が、しかし―――
(…汗が…ひいた?)
それだけではない。
マリの黄色い声で更に激しくなっていた動悸も静まっているし、上手く言葉では表せないが、先程までのイライラに似た焦燥感もなくなっている。
(…これは……)
握っている手に自然と力がこもる―――
と、
「きゃぁっん!!」
耳をつんざくような悲鳴と共に何かが割れる音が響いた。その場にいた全員が音の発生源に振り向き―――ある意味―――予想通りの状況に大きく口を開いた。
「…えへへぇ、やっちゃったぁ…」
窓際に飾ってあった花瓶を床に盛大に撒き散らしたマリは、可愛い仕草で舌を出して一応謝罪していた。
その様子に一文字は、腰に両手を当てて盛大なため息をつく。
「言わんこっちゃない。あ―――危ないからどいて。悪いけど結城、雑巾とちりとりを持って来てくれ。茂は掃除機を頼む」
「はい」
「へ〜い」
一文字に頼まれ、結城と茂はリビングを後にした。マリは一歩後退させられたまま、壊れた花瓶と花をわけている一文字の後ろへと回った。
一文字の肩にマリの手が置かれる。
(……何だ…?…)
本郷は思わず胸の前の服を握り締めていた。
俺は病気なのか?―――そう疑うくらい、胸に鋭い痛みが走る。いてもたってもいられない。できる事なら今すぐ一文字とマリの間に入って二人を引き離したい。
(……引き離したい???)
何故自分がそう願うのか解らず、本郷は反射的に考え込んだ。
引き離すという事は、二人が触れ合っている事が不快だという事なんだろう。では、何故自分は二人が触れ合っていると不快だと感じるんだろう?別に彼女に悪い感情はない―――筈だ。今日初めて会ったのだし、礼儀だってそう悪くはなかった。どちらかというと、明るく可愛い女の人らしい娘なので好感が持てるくらいだ。
(…だが…)
一文字がマリに何か言っている。眉間に皺を寄せて注意をしているようだが、本当に怒っている訳ではない。マリもそれを解っている様で、何だか嬉しそうに頷いている。
微笑ましい光景だ。いつ戦いの中に身を投じるのか解らない自分達にとって、そういう微笑ましい光景は嬉しい物であって迷惑になる筈がない。そういう光景を守る為に自分達は命をかけて戦っているのだから。
だが、一文字を尋ねて本郷邸にやってきた彼女を一文字に引き合わせた時、本郷は何故か嫌なモノを感じた。マリの表情を見て……そして何より一文字の表情を見て―――
(……俺は何を考えているんだろう…)
本郷はふと思いついた嫌な願いを振り払うようにかぶりを勢いよく振った。
しかし、嫌な願いはそう簡単に消えてくれはせず…。
「…早く……」
片手で顔を覆い、本郷は搾り出すように呟いた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「嵐は過ぎ去り、後には静寂が残された―――って感じっすかね」
マリを見送った玄関先で、城茂は疲れた表情でポツリと呟いた。それに結城丈二が苦笑に似た微笑を向ける。
そんな二人の後方に回ると、一文字隼人は二人の背中を軽く叩いた。
「まぁまぁ、今日はありがとな。疲れただろ?ゆっくり休んでくれよ。コーヒーでもいれようか?」
一文字の提案を結城と茂は丁重に断り、二人はそれぞれ自室に戻った。
そんなやりとりを目の端で見ながら、本郷猛は深いため息をついた。
窓から外を見ると、沈みかけた太陽が空を橙色に染めている。もう暫らくすれば一番星が輝きだすのだろう。
(…今日はもう寝よう…)
物悲しい雰囲気をかもち出している夕暮れの空を見ていると、ただでさえ落ち込んでいる気持ちが更に降下する。もう、立っている事にさえ苦痛を感じてしまう。
望んだとおり、彼女は帰っていったというのに―――
思わず、本郷はかぶりを振った。
と、
「本郷、俺に何か言う事はないか?」
ふいに問い掛けられ、本郷は一文字を振り返った。
一文字は真っ直ぐな瞳でこちらを見上げ、腕を組んで立っている。
(…一文字に言う事…)
本郷は内心の動揺を悟られないよう努めながら、微笑を向けて答えた。
「…何もないが―――」
だが、
「あるだろ?」
本郷の台詞を遮り、一文字は言い含めるような口調で呟いた。
真っ直ぐな瞳。
その瞳の奥を見て知る。
(…ああ、隼人はもう解っているんだな…)
本郷の中にある、本郷自身でも理解できない靄のような気持ちを。それが、本郷を苦しめている事を。そして、きっと、その気持ちが生まれた理由さえも―――
本郷は両肩を落として嘆息した。笑顔とはよべない、眉間に皺がよった苦悩に満ちた微笑を浮かべる。
なるべく解りやすいように言葉を選びながら、本郷は口を開いた。
「彼女が隼人の傍にずっといる事が苦痛だった…」
言った後で、解りにくかったかもしれない―――と思ったが、一文字は真っ直ぐ瞳を向けたまま「それで?」と続きを促したので、本郷はそれに従う事にした。
咽喉が渇いてきたので唾を呑み込む。
「何故だろうと、理由を考えてみたんだが…、結局答えは見つからなかった…」
解らなかった。
一文字と彼女が楽しそうに笑いあっている姿を見る事に苦痛を感じる理由も、知らぬ間に冷や汗をかいている程落ち着きをなくしていた理由も、苛立たしげな焦燥感を一文字の手に触れている時だけは感じなかった理由も…。
一文字は目を一瞬見開いた後、カックリと首を垂れた。
心底呆れた様子で盛大に嘆息して見せた。
「全くお前って奴は…」
「…すまん…」
どうも悪い事をした気がして、本郷は思わず謝罪した。
一文字は顔を上げると慈愛に満ちた微笑を浮かべた。
思わずその微笑見とれる…。
「謝らなくてもいいよ、別に責めてる訳じゃないからな」
「だが―――」
「本郷らしいっていう意味で言ったんだよ。だから謝らなくていい。な?」
一文字はそう言いながら本郷の腕を軽く叩いた。
そこが異様に熱くなる。胸も熱くなる。視線と意識は一文字から外せない。嫌、他のどの神経も全て彼に集中していて―――
何故だろう? 落ち込んでいた気持ちが上昇していく。
何故だろう? 言葉に表せない何かに心が一杯で目頭が熱くなる。
「…理由は解らないが、どうも隼人に関係しているようだな……」
全て一文字が関係している。彼の事に自分と言う存在全てが反応する。
「そうだよ」
一文字はそう答えると、本郷の胸を軽く拳で叩いた。
そこを視線を固定させたまま一文字は口を開く。
「今日、初体験をしたんだよ、お前は」
「初体験…?」
思わず問い返す本郷。
一文字の頭部が上下にゆれた。どうやら頷いたらしい。
「ああ。ここにな、新しい感情が生まれたんだ。解るか?」
「新しい感情……」
「お前だって聞いた事はある筈だぞ―――“嫉妬”っていう感情なんだがな」
一文字は顔を上げて本郷の瞳を覗きこんだ。
意志の強い光が煌めく澄んだ瞳。絹のような滑らかな髪が、その瞳を隠しそうになる。
(……“嫉妬”…)
その単語は、すんなりと本郷の中に溶け込んでいった。
(ああ、そうか…)
午後からの―――彼女が本郷邸に一文字を尋ねてきてからの、自分さえ解らなかった気持ちの原因は、全てそれで説明がつく。
彼女を一文字に引き合わせた時に感じた嫌なモノ。
イライラに似た焦燥感。
胸に走った鋭い痛み。
そして、一文字の手に触れた時の安堵感。
「成る程…」
理由は目の前にあった。
「俺は彼女に“嫉妬”してたんだな」
「正解♪」
誰よりも独占したい人が暖かく微笑む。
無性に愛しさが込み上げ、本郷は思わず両腕の中に彼を抱きこんだ―――。
終
|