雨が降り出したのは昼を大分過ぎた辺りだったのを、聖Vヤマトは覚えていた。別に気にかけていたわけではない。ただ、日課のパトロール中にいきなり降られ、ビシャ濡れになって迷惑したので覚えていただけに過ぎない。雨は真夜中近い今になっても相変わらずの量で、やむ気配は全くなかった。
与えられた自室にヤマトが返ってきたのは、夕食も済み、今日中にしなければいけない仕事を全て終えてからだった。仲間達に寝る前のあいさつをした後部屋に戻り、堅っ苦しい鎧や飾を脱ぎ捨て、一日の疲れを癒そうとベットに潜り込む寸前、ドアをノックする音が雨音を破ってヤマトまで届いた。
誰からだろうと疑問に思いながらもドアを開けてみると、廊下にはよく見知った男が立っていた。
「…アリババ?」
意外と言えば意外な、共に長い間戦ってきた親友の瞳を戸惑い気味に覗きながら、ヤマトは彼の名を呼んだ。だが、彼―――ヤマトと同じく鎧や飾を身に着けていない気軽な格好の聖Iアリババから返答は返ってこなかった。ただ真剣な表情でヤマトの顔を見つめている。
とりあえず部屋の中に彼をいれ、後ろ手にドアを閉める。寝る寸前だった為照明が落ちた部屋で、雨が降っている為外からの明かりも無いが、暗闇になれたヤマトの目にはアリババの姿ははっきりと映っていた。
後姿からでも解る。今のアリババが、いつもの彼では無い事が…。
「アリババ…?どうしたの?何かあったの?…様子がおかしいよ…?」
アリババは下を向き、消え去りそうなほど小さく呟いた。
「………ヤマト…」
その声の暗いさにヤマトは少なからず驚いた。眉間に皺をつくり、怪訝そうに、それでいて心配そうにアリババに近付いた。前に回り込み、肩に手を置き覗き込む。青い線がアリババの顔を覆っていた。思わず息を呑む。
「ね、なんか悩みがあるなら、僕で良かったら言ってみて?何かできるかもしれないし、僕にできる事なら何でもするから…」
「……本当か…」
「うん。本当だよ。だから何で悩んでるのか言ってみて?ね?」
今まで一度も見た事がない悲痛な表情をしているアリババを見るに耐えなく、ヤマトは熱心に言った。誰かが苦しんでいるままで……仲間が苦しんでいるままで、放っておく事などできない。
アリババは下げていた顔を上げ、ヤマトを見た。真っ直ぐな視線がヤマトを射る。
「アリバ―――」
ヤマトは最後まで彼の名を呼ぶ事ができなかった。それどころか自分の身がどうなったのかさえ、一緒理解できなかった。腕に力が加えられたのを感じた時には視界が反転していて、背中に鈍い衝撃を感じた時には上から圧迫感が押し寄せてきていた。息ができなくなって始めて口で口を塞がれている事を知った。
「…◎■☆△っ???」
経験した事のない震えが背中を駆け上がり、ヤマトはとにかく現状から逃れる為にもがいた。長い間の戦いで数回増力(パワーアップ)した聖Vヤマトの力は、ヤマト王子の頃とは比べるまでもなく強い物になっている。だが、それはヤマトの上に乗っかっているアリババも同じ。そうなると、状況をよく理解しているアリババの方がよく理解していないヤマトより有利だった。
「…ぷはっ―――アリババ何するん―――んんっ??!」
やっと息ができたと思ったのもつかの間、またもやあっさり口を塞がれ、ヤマトの混乱はちっとも収まらない。それどころか増すばかりだった。足はアリババが座っているので先の方しか動かせず、腕はアリババに床に押さえつけられていて思うように力が入らない。口が塞がれているので必要最低限ほどの息しかできず、頭は混乱の為上手く作動してくれない。
ヤマトは絶体絶命のピンチに立って―――嫌、寝転んでいた。
色んな感情がヤマトの中を縦横無尽に駆け巡り、そのうちヤマトの手を離れ外へ向かって暴れ出した。その一滴が、ヤマトの頬を伝った…。
「―――…」
その滴を見たアリババの動きが変わった。ゆっくりと顔を上げ、よりはっきりとそれを視界に入れようとする。アリババが離れた事により、やっとまともに息ができるようになったヤマトは、咳き込むように胸いっぱいに新鮮な空気を取り入れた。
「ゲホ…!…ゲホゲホ……!…はぁ…はぁ…はぁ…はぁ…」
涙は一滴だけではなく、その後から後から流れてヤマトの顔を濡らした。両腕をまだアリババにより封じられたままなので、拭う事ができない。
しばし呆然と天井を見上げていたヤマトだが、ゆっくりと視線を―――今だヤマトが流す涙に気を奪われている―――アリババに移した。
「…ア…リババ…?」
揺れる視界に、どこか痛々しい友人の姿をとらえ、ヤマトは彼のした事を責める事ができなかった。胸に鋭い光が走る。
一体何があったの?どうしてそんな顔してるの?どうして今にも泣き出しそうなの?
幾つもの疑問が心をかすめ通り過ぎていくが、どれ一つとして口から出てくるものはなかった。何故だか聞いてはいけない様な気がして、ヤマトはただ暗闇に映るアリババを見つめた。
ヤマトの瞳から最後の一滴が流れ落ちると、アリババは視線をヤマト自身に向けた。
そして―――
「…っ?!…」
ヤマトの咽喉元に噛み付いた。少なくともヤマトは一瞬そう感じた。実際には噛み付かれたのではなく、アリババの舌が咽喉元を舐め上げただけであったが、気持ち的には噛み付かれた事と変わらなかった。
戦慄に似た何かがヤマトの背を急速に駆け上った。快感にも似た不快感。とっさにヤマトはアリババから逃げようと身をよじった。しかし、何も変わらない。
再び瞳にたまり始めた涙で視界が歪む。とにかくアリババから逃れたくて、ヤマトは大声を出そうと口を開いて空気を肺一杯に吸い込んだ。
が。
「…………」
何も言えなかった。誰かに助けを呼ぶ事も、アリババに止めろと叫ぶ事も…。その代わり脳裏に張り付いたのは、忘れたくても忘れられない―――もう遥か昔の出来事のようで、つい昨日の事のように覚えている―――神帝の時の暗い映像…。深く重い穴に、自分の手を離れて吸い込まれていく親友の姿…。
あの時の悔しさに…自分の不甲斐なさに…無力さに…身を切られたような悲しみに……そして、彼にしてしまった事の罪悪感に、ヤマトは今だどこかで縛られていた。普段は思い出さない―――ワザとそうしているのかもしれないが―――そんな全てのものがヤマトの心と頭を…身体全体を支配した。一瞬にして思い出したそれらのものが、ここで叫んではいけないと……アリババの好きなようにやらせろと訴えかけてきた。
身体から力が抜けた。抵抗しようと思っていた気力が全て消えた。胸にはどうしようもない感情だけが残り、頭ではアリババがこんな事をする理由だけを考え始めた。それだけが今重要な事であるのだと、誰かが耳元で囁いたかのように…。
アリババは、ヤマトの変化に少なからず驚いたようではあったが、それで手を止める事はしなかった。ヤマトの表情に気を付けながら、優しく頬にキスを落とす。ヤマトの目が死んでいるわけではない事を知ると、少しホッとしたようだった。
アリババの左手はヤマトの手首から離れ、ゆっくりと彼の身に纏う白い布に忍び寄った。音もたてずその中に入り込み、愛しそうに肌に触れた。右手は少しづつ邪魔な白い布を剥ぎ取りにかかった。アリババの唇が、ヤマトの咽喉元から鎖骨に…胸に移行する。
それを感じながら、ヤマトはアリババがこうする理由を延々考えていた。思い当たる事がないとは言えない。短い付き合いの友人ではない。まだ、自分が幼く無謀で無知だった頃からの付き合いだ。共に長く苦しい次界を目指す旅をし、一緒に色んな事を経験した。時には励ましあい、時には意見を対立させた事もあった。彼の全てを知っているわけではないが、何も知らないわけでもない。
知ってる。気付いたのはほんの少し前だけど…。
「…アリババは…僕の事が…」
好きなんだよ…ね?
何となくそうなんじゃないだろうかと気付いた時、ヤマトは聖O男ジャックに相談をした。もしかしたら自分の勘違いなんじゃないだろうかと思ったからだった。男ジャックに相談した理由は、彼が神帝隊の中でも一番付き合いが長かったからだ。それに…彼なら知っているような気がしたから…。
男ジャックが言うには、神帝に増力する前―――若神子の頃から、アリババはヤマトを好きだったらしい。アリババの気持ちに今でも気付いてないのは、次界への旅の仲間ではロココ・アローエンジェル・聖B一本釣りぐらいらしい。
『まったく、しょーがねぇよな。お前等も。…でもな―――』
男ジャックの声が耳の中で木霊する。
『アリババは本気だ。……もしかしたら、何するか…』
珍しく歯切れの悪い言葉で…、珍しく真剣な表情で…。その先は何を言おうとしたんだ?もしかしてこうなるって解ってた?だから、
『嫌な事があったらよ、嫌だってちゃんと自己主張しろよ』
なんて最期に言ったんだろう?こうなる事―――抵抗できなくなるって―――解ってて…。でも、ごめん。嫌だなんて言えないよ。アリババ、凄い思い詰めたような…苦しいような顔してた…。それに、アリババには酷い事をした…から、これ以上傷付けたくないんだ…。忠告してくれたのにごめん、男ジャック…。
「……っん…」
ヤマトの口から鼻にかかった甘い声が漏れた。アリババの指が、ヤマトの敏感な部分を刺激したからだった。ヤマトは既に上半身は一糸も纏ってない姿で、アリババはそこに顔を埋めているような姿勢だった。
「…ア…アリババ…」
ヤマトの息が上がる。頬は紅潮し、身体はかすかに震えていた。アリババはヤマトにキスをすると、更に下方に手を伸ばし―――
「アリババァァァアァァアァァアッ!!」
大音響と共に、派手な音を響かせヤマトの自室のドアが…飛んだ。アリババとヤマトの直ぐ脇を通り、吹っ飛ばされたドアは壁に激突し、めり込んだ。パラパラと、壁の破片が薄紫色の絨毯の上に落ちる。
「………何か用?……」
突然の事にどう反応して良いやら解らず混乱しているヤマトを他所に、アリババはドアを吹き飛ばして入ってきた無作法者に問いを投げた。
「『何か用?』じゃねぇだろうが!」
ノックも何もなしにドアを吹き飛ばした男―――聖O男ジャックは、部屋の主の許可も聞かずズンズンと部屋の中に入ると、押し倒されているヤマトと、その上に乗かっているアリババの隣に立ち止まった。アリババを見下ろす男ジャックの目は怒りに燃えていた。
「オイラ、何回も言ったよな?!こいつが困る事はすんなって!なのに何やってんだよ!!」
アリババがそれに答える前に、男ジャックの怒りの矛先はヤマトに変わった。
「お前もお前だ、ヤマト!ちゃんと自己主張しろって言っただろ!お前が本気で抵抗したら、いくらなんでもそこまでやらねぇって!」
「え…ああ、うん…。そうだけど―――」
「そうだけどじゃねぇっ!」
男ジャックの一括に、ヤマトは思わず口を閉ざした。いつもなら反撃くらいするのだが、今の男ジャックの気迫はいつもと全く違う。こんなに怒っている男ジャックを見るのはいつ以来だろうか?
男ジャックはある程度怒鳴って少し気がまぎれたのか、一度大袈裟にため息を付いて見せると、アリババの下から強引にヤマトを引き抜き、脱がされかけている服をちゃんと着させた。それが終ると満足そうに頷き、座ったままのアリババに視線を移した。
「ヤマトはオイラの部屋に連れてく。ドア壊しちゃったしな。アリババも、もう、自分の部屋に帰れ」
言い終わると、またもやアリババの返答を聞かずに―――最初から聞くつもりは無いのかもしれない―――ヤマトの腕を引っ張って部屋を後にした。出て行く最後、ヤマトが振り向いて見たのは、呆然と座っているアリババの姿だった。
「…………」
胸が痛い…。
「気にすんなよな」
まるでヤマトの心の声が聞こえたかのように、絶妙なタイミングで廊下を歩きながら男ジャックは呟いた。かすかに、ヤマトの腕を握る手に力がこもる。
「気にしてないよ…」
「嘘つくんじゃねぇよ。お前の事なんか、顔見なくても解るんだよ、オイラは」
ヤマトは前を行く男ジャックの後頭部を見て微笑した。
「凄いね、男ジャックは。何でも知ってるんだ…」
「何でもって訳でもないけど―――ま、お前とは付き合い長いしな」
「そうだね」
男ジャックほどではないが、アリババとの付き合いだって長い。それなのに気付かなかった。それなのにどうする事もできない。彼の気持ちを受け入れる事も、拒絶する事も…。こういうのが一番残酷なのかもしれない。拒絶する方が、はっきりと立場が明確になって、逆にこれからどうすれば良いか、気持ちにけじめがつくのだろう。
「……でも…」
ごめん…できないよ…。
「何か言ったか?」
男ジャックが振り返り、ヤマトの顔を覗き込んだ。ヤマトは笑顔を作ると、何でもない…と顔を左右に振った。男ジャックはいまいち納得してない様子だったがそれ以上突っ込んでくる事はせず、短く返答した後、また自分の部屋を目指して歩き出した。その足音に雨音が重なる。
雨は大分小降りになっているようで、アリババを部屋に入れた時に比べると、その音はやっと聞き取れるほどの小さいものになっていた。だが何故か、今のヤマトには降り出した時より大きく聞こえていた。延々と。
五月蝿いほどの雨音が耳鳴りのように鼓膜に張り付く。終わる事のない雨は、ヤマトの胸に、小さな……けれど深い水溜りを作り出した。決して干上がる事のない水溜りを…。
終
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