「また、酒でも飲みに行こう」
そう言い残し、彼は病室から出て行った。その背中を見つめる瞳から涙がこぼれる。ドアが閉められ、自分しかいない真っ白な部屋に静寂が戻った。
染み一つ無い天井を睨みつけるように見上げる。
「必ず…必ずだ…!」
震える声でそう呟き、藤岡弘は決意を新たにした。
* * *
事は一瞬だった。
気付いた時には自分の身体は空を舞い、地面に叩きつけられていた。
折れ曲がったどころでは無い、異様な曲がり方をした足を何とか元のように自力で戻した後、その足の傷から来る激痛により意識を失った。
夢を見たような気もするが、正確な事は覚えていない。ただ、気付いた時に、医者から絶望的な言葉を聞かされた事は覚えている。
「もしかしたら、元のように歩けないかもしれない…」
それは、イコール、役者としてやっていけないという事だ。まだ始まったばかりの役者人生。やっと掴んだばかりの主役の仕事。何もかもがこれからという時に、自分の自信過剰な思い込みのせいで全てが台無しになるというのか?そんな事があって良いのか?
全身麻酔をかけられ、我が身を医者に託した。とにかく今はそうする他無い。
手術の間に夢を見た。
撮影中の夢だった。
新しいコンセプトの元創られた新ヒーロー番組『仮面ライダー』。その仮面ライダーに変身する青年化学者・本郷猛になり、悪組織【ショッカー】を追う夢を…。
目が覚めた時には病室にいた。ベットの周りには『仮面ライダー』のスタッフが詰め掛けていた。誰もが深刻な表情をしている。さもありならん。まだ放映が開始されてもいないのに、主人公役の自分が大怪我を負ってしまったのだから…。
誰もが、何も言える状況ではなかった。
それでも主役がいない中で番組を最低1クールは進めなければいけない為、彼等は対策を練りに自分の元を後にした。
これからどうなるのか想像さえつかない。
だが、多分。自分は主役から降ろされるだろう。
悔しさと悲しみで涙が止まらない。
涙で揺れる視界で、自分が歌う主題歌を聞き、『仮面ライダー』の第一回目を見た。見れば見るほど悔しさと悲しみでどうしようもない気持ちに突き落とされた。
* * *
「…よう、元気?」
「さ…佐々木君…」
病室のドアが開き、そこから顔を出した人物に驚愕の声を上げた。
彼はおずおずと病室の中に入ると、ベットの脇に置いてある椅子に座った。
白い端整な顔に、憂いに似た表情が見え隠れしている。
佐々木剛。
自分と俳優養成所で同期だった男で、『柔道一直線』の主人公のライバル役・風祭右京役で成功を収め、今現在も複数のドラマに出演中のはずだ。
そして、大怪我をしてしまった自分の代わりに『仮面ライダー』で主役を演じる事になった男だ。
「あ…あのさ」
視線を彷徨わせながら彼は口を開いた。どういう風に自分に接したら良いのか解らないのだろう。そして、それに―――
「僕が、…君が帰って来るまでの、代役をすることになった。もう、聞いてると思うけど…」
「ああ…」
「うん、ま、なんだ。僕も頑張って君の帰りを待ってるから…その…」
下を向き、自身の頬をかく。それから、やっと決心したようにこちらを向くと―――
「また、酒でも飲みに行こう」
はにかんだような初々しい笑顔で、そう呟いた。
* * *
平山プロデューサーの計らいで復帰の道が残された事を聞きたのは、佐々木君が見舞いに来る数日前の事だった。
平山プロデューサーに心から礼を言い、少しでも早く復帰できるよう、死ぬ気で怪我の治療に取り組む事にしたその矢先に、佐々木君がやって来たのだった。
彼が自分の代理として『仮面ライダー』に出てくれる事は、正直嬉しかった。スタッフがはじめ彼に交渉に行った時に、一度断られた話も聞いた。その話を聞いて、余計に彼に出てほしいと思うようになってもいた。彼の演技もアクションもTVで見て知っている。彼なら大丈夫だ。
だが、それは自分の勝手な希望ではないだろうか?本当は彼にとって、この話は良いものでは無いのではないか?第一、一度断っているのだから―――
佐々木君が最初で最後に病室に現れた時の表情を見て、自分はそう心を曇らせた。
何故なら彼の表情が明るい物ではなかったからだ。
しかし、それは当たり前の事であった。
彼からすれば、藤岡弘がやっと手に入れた主役の座を横から取った様な気がするのだろうから…。
ああ、だがそれは無駄な懸念だった。
彼のあの表情を見て知った。
あのはにかむような初々しい笑顔を見て―――。
彼は自分を信じてくれているのだ。
同期とは言え、そう長く一緒にいたわけでも深い付き合いでもないかった自分を―――その自分が必ず怪我を治して帰って来ると信じてくれている。
だから、決意を新たにした。
彼の信頼を裏切りたくないから。
必ず傷を完治させ、皆の前に―――彼の前に姿を現そう。
どんなに辛くても挫けない。
血を吐いても構わない。
必ず。必ずだ。必ず治って見せる。必ず彼の前に戻って見せる。
必ず…、必ずだ…!―――
終
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