それは。暗く果ての無い深淵へと、墜落していく感覚。
墜ちていく、墜ちていく。どこまでも、とめどなくどこまでも。
月の眠り.
2
「じゃあね!いってきます!」
快斗がトランクにスーツケースを押し込むのと同時に、母を乗せたタクシーはすぐさま出発した。
いつもながらに母の旅立ちは忙しいもので、慣れているとはいえ朝起きたときから調子が今一つな身では、どっと疲れてしまう。
まるで子供の遠足のよう―――なんて実の親に対して持つ感想ではないが、正直なところよく当てはまっていると思う。
「飛行機の時間はあるっていうのに、はしゃぎすぎだよな」
あんなに慌ただしく出かける必要もないのに、父のいる街へ疾うに心を飛ばしてしまっている母には、言ったところで無駄だとわかっている。
もういない人なのに、それでもあんなに一途に想い続けていられるなんて。しかもまだまだ熱愛中で、想いは年々深く増してさえいる。
『これが誕生日の奇跡だよ』
母の誕生日に結婚式をあげたふたりだからこそ、そんなふうに空の上から父が評しているような気さえして、つい快斗は苦笑してしまう。
「奇跡、か…」
口にしてみればとても重い言葉だ。
まるでそれに縋るしか道がない立場におかれた気すらしてきて、息苦しさにため息を付きそうになる。
「…?」
そのとき、ふと誰かの視線を感じた。見られることは案外よくあるけれど、今までのどの場合とも違うそれ。
咄嗟に振り返った快斗が見たものは、ちょうど路地に身を翻した人の、細い影だけだった。
学校に行かなければいけない――そう思いつつも快斗の足は学校ではなく、大きな時計塔に見守られている公園へ向かった。
今更行っても教師に大目玉を食うだけだったし、朝から飲酒をした身で登校するには些か短慮だという考えが働いたからだ。
躑躅の垣根の間にあるベンチに座ると、視線は自然と空へと合わさる。
初夏の清々しいまでの真っ青さ。
心がすっと溶け込んで、どこまでもどこまでも飛んでいけそうな気すらなる爽快な青。
「…違うな…」
この青とは。
ふと意識せずに漏れた呟き、そして頭を過ぎったことに。快斗は自分があの蒼に囚われていることに気付く。
あの夢で見た"蒼"。
途轍もない強烈さを感じながらも、実際は抽象的にしか捉えることができないそれ。
何を示しているのかはあやふやで、まるで判断というものがつかない。ここ数日夢でみて、起きてしまえば残存としてしか存在しないもの。
快斗は自分のことを合理的な人間だと思っている。
ムダを省いて、能率的に物事を判断してきた。考えても仕方がないこと理解できなくて割り切れないことなどは、すっぱりと思考から切り離す。
それなのに、たかが夢でみた蒼の閃光にこうまで心が占められるなんて、かつてなかったことだ。
「どうしたんだろうな…」
自分のことなのにまるで他人のことにように思ってしまう。
頭を振って追い出そうとするけれど、もやもやとしたものが余計に心の中に広がって行く気さえする。
快斗は一つため息をつき、意識を空へと切り替えた。
見上げた先は、どこまでも限りなく続く青。
ぼんやりと見つめていると、自身が空に溶け込んでいく感じがする。錯覚だとわかっていても、このまま溶けてしまえればとても楽になれるようで―――。
「黒羽くん」
「!」
拡散した意識を唐突に元に戻した声。
はっとして何時の間にか閉じていた瞳を開くと、風になびく艶やかな黒髪が映る。
「…紅子」
見つめてくる漆黒の眼差しに、快斗は彼女に呼ばれる直前の感覚を思い出す。
足下に大きく口を開けている深淵へ、飲み込まれていく墜落感。
じっとりと汗の滲んだ額を拭うと、その手にひんやりとした手が重ねられた。途端に、伝わってきた冷気が厭な感覚を追い払っていく。
細く白い指先を辿って、再び快斗は紅子と視線を合わせる。
「なんでもない。大丈夫だ」
快斗の口からはすんなりと言葉が出てきた。それは紅子を安心させたいからではなく、素直な気持ちからだ。
「本当に?」
「ああ」
しっかりと頷く快斗に、紅子は朱色の唇に微笑みをのせた。
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05.06.21
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