自分の手で持て得るものには限りがある。
それが小さい手ならば、なおさら。
持つ、という前に届かないことだって間々。
愛読の本を取る時とか。引出の上部からものを出す時とか。
机や椅子で足場を作ろうにも、重いそれらを動かすのだって一苦労。
扉を開けるという簡単な動作でさえ、できないことがあった。
大きなノブは手に余って、うまく回せなくて。少しでも錆付いて固いと、全身の力を必死になってこめなければならなくて。ようやく回せたとしても、扉が重厚であればもう手におえない。
それでも。元に戻るまでのことだからと、心を慰めていられるうちは良かった。
ヤツラを追い詰められる材料が入ったアタッシュケース。
隙を見て奪おうとして、取っ手をもった。けれど、ズシリとした重量によろめいた。
懸命に力をこめても、小さな手は重さを支えることができなくて…。無我夢中になっていたせいで、ヤツラが戻ってきたのにも気づかないという失態。
逃げ場も隠れる所もなく、近づく足音に情けなさが込み上げてきた。
どうしようもない絶望感は、絶体絶命だからではなく。自分自身を取り戻す闘いすら満足にできないためのもの。
たった、ケースを持ち去るという、それだけのことすらできない小さな体。
自分が何もできない無力な存在だと思い知らされた。
そんな存在でしかないのなら、生きていても仕方ない。
生き延びるための全てを諦めた時。
浮遊感とともに得たぬくもり。
白い怪盗に抱き上げられているのだとわかったのは、その場から随分と離れたところまで連れてこられてから。
右手には自分を抱いて、左手にはあのアタッシュケース。
軽々と持っている彼と自分との差を見せ付けられた気がした。闘う資格を持ち得ていない現実も。同じような闘いをしているのに。
でも。
「無茶をやってるな…名探偵」
穏やかな声は、決して何もできなかった自分を嘲笑うものではなく。労わりと安堵が滲んでいた。
そして、続いたのは絶望の淵から救い上げる言葉。
「この手で何もかもやり遂げようと思い込まなくていい。できなくて当たり前なんだから。大切なのは闘おうとする気持ちだろう?それから、状況を正しく見極めること」
何に苦しんでいるか、悔しがっているか。怪盗は何もかも知ったふうで。
だから、小さな体でできる限度を知って、現実をきちんと把握しろと嗜める。
「そ…れじゃあ……いつまでたっても…勝てはしない…元になんか戻れない…!」
誰に言われなくてもわかっていた。本当は、この小さな体で闘おうとすることすら無謀でしかないのだと。
「名探偵は頭脳派だろう?だったら手段なんか選ばずに、利用できるものは何でも利用すればいいんだよ。例えば、オレとかね」
「……え…?」
「オレが名探偵の手となり、足となろう。もちろん、名探偵にオレを使いこなせるだけの力量があればのハナシだけどな」
それも一つの闘い方だよ。
挑発的な言葉とは裏腹に、怪盗の瞳が伝えてくるものはとても優しかった。
思い返してみれば、あの時が怪盗に恋した瞬間。
恋 心 2
「工藤くん、はぐれてしまうわよ」
哀たちが向かっている方向とは逆に行こうとしていた新一に声をかけた。と、我に返って慌てて後を付いて来くる。
「やだあ、新一お兄さんが迷子になっちゃったら困るわ」
「ごめんな」
下から訴えるような視線を送られて、新一は今日の役目を思い出す。
どういうわけか苦手な人ゴミの、特に賑わう休日のデパートに行かざるを得なくなったのはほんの一時間前のことだ。
隣に遊びに来ていた歩と哀がやってきて一緒に出かけて欲しいと頼まれたから。断られるとは思っていない子どもの頼みごとに、新一は頷くしかなく半ば強引に引っ張り出されたとも言える。
それでも、歩だけだし哀もいるからそんなに気苦労がないことが救いではある。
どうしていつもつるんでいる二人がいないのかは、目的の場所についてからわかった。
「灰原……ここ、オレも行かないとダメなのか…?」
「そうよ。じゃないと、保護者のイミないでしょ」
当然のことを聞くなという口調に反論などできるはずもなく、仕方なくフロアに足を踏み入れた。
中にはカップル連れもいるが、ほとんどが女性ばかり。世情に疎い新一でも、いったい何の特売会かは嫌でもわかる。
甘ったるい匂いに顔を顰めて大きなため息をつきつつも大人しく付いてくる新一を、哀はそっと伺い見た。
この数日、ぼんやりとしている時間が前にも増して、家の外にでようともしない。学校や事件以外では出不精ではあるが、閉じこもっているとしか言いようのない現状。
覇気もなく消沈している新一の気分転換にと、哀は歩の買い物に付き合う名目で無理やり連れ出すことにしたのだ。
もちろんそれだけではないけれど。
(このままにしといたら、どこまでも落ち込んでいくのよね)
怪盗に恋しているという自覚がでたのは良いとしても、自分の気持ちを持て余してしまっている。
ろくに恋愛などしたことがないせいだろうが、好きになった自身の心をひどく責めて、怪盗に対して申し訳ないとさえ思っている。
誰かに恋するというとても貴重な体験をしているというのに。諦めと自責に駆られて、些細なときめきや激しい情熱を感じようともしないなんてあまりにももったいない。
誰かを好きになって恋をした――――それは人生の輝くべく宝物だ。
(たとえ叶わないにしても、恋することに無駄なんてないのだから。でも、叶わないはずはないわ。怪盗さんだって工藤くんを好きなはずですもの)
新一から素っ気無い怪盗の態度について聞いたとき、思わず首を傾げた。
新一はお節介焼きの性分のせいだなんて言ったが、哀は怪盗がそんなお人好しだとは思ってはいない。
目的のためならば、何でも切り捨てられる。命を賭してでも果たそうとしている目的の前には、他事に関わることなど絶対にしない。例え、目の前で人が死にかけていようと避けて通る、そういうニンゲン。
なのに、怪盗は新一を助けた。一度なら偶然と片付けられただろうが、二度も三度も……それこそ、数えあげればきりがないほど。
時に励まし、労わり、奮い立たせて。
尋常でない存在に対する興味本位という理由で済ませられないぐらい、怪盗は新一に構い過ぎていた。
「まったく……どっちを見てもまどろっこしいことしてるわよね」
「灰原?何か言ったか?」
品定めに熱中している周囲の喧騒で、聞き取れなかった新一が尋ねてくる。
哀は、自分までまどろっこしいことはしたくなくて、本来の目的を直入に切り出すことにした。
「ねぇ工藤くん。今度の木曜日が何の日かわかる?」
「…ここまで連れてきて、わからないはずないだろう」
「私が聞いているのは意味合いよ」
新一の手を引いて、人溜まりから誰もいない通路の方へと出る。そして、逸らすことを許さない強い視線を向けた。
「恋したことで自分を責めて、相手に迷惑だからと諦めて。そうやって大切な気持ちから逃げてどうするの?」
「な…に言ってるんだよ。逃げるも…なにも……どうしようもないことだから……」
「どうしようもないって、何故?あなたはまだ何もしていないじゃないの」
哀の言わんとすることに、新一は瞠目する。そして、微かに首を横にふる。
「受け入れられるわけがないってことが念頭にあるんでしょうけど。どうしてそんなことがわかるの?あなたはまだ一歩も動いてはいないのよ。なのに、相手が動くわけがないでしょう」
すっと正面へ、哀は手を伸ばした。
「ね、彼女を見て」
指差した先にいるのは歩。いくつかのチョコレートを手にとって、どれにしようかと懸命に考えている。
「一生懸命でしょう?好きだという勇気はないから代わりにチョコをあげる。好きをいっぱい詰め込んで送るから、きっと言葉以上に気持ちは伝わるはずだ…って。そう言ったの。気持ちを伝えた後のことなんか何も考えていない。ただ、自分の気持ちに正直なだけ。後悔しないためにね」
「後…悔?」
「きっとするわよ。どうしてあの時、告白しなかったんだろうって。ずっと心の蟠りになって、今よりも苦しみ続けることになるわ」
予測ではなく、必ずそうなるという断言。新一には否定できなかった。
誰かを恋い慕うなんて、自分には無縁のことだと常に思っていただけに、哀の言うことは正しい。
「そう、自分でもわかっているのね。きっとこれが一度っきりの恋だって。だったら余計に自分の気持ちを伝えるべきよ」
「でも……アイツは…そんなこと聞いてくれそうにない…し……オレだって…」
最近の怪盗の態度は、話し掛けることさえ許す雰囲気ではない。新一自身も、相手にされていない現実を目の当たりにするのは非常に怖い。
苦しげに瞳が揺れるのを見て、哀は軽く言ってのける。
「彼女を見習えばいいじゃない。言葉の代わりに贈り物をするの。話を聞いてくれなんて言わないで、怪盗さんに投げつけてやればいいのよ」
「そんなので、簡単に…」
「伝わるわよ。今度の木曜日は一年に一度、モノを送ることで恋心を伝えられる日ですもの。運良く、その日は予告状が出されているから、間違いなく伝えることができるわ」
ポケットから新聞の切り抜きを出して、新一に渡す。
見出しは大きくKIDの文字が躍っていて、新一は食い入るように記事を読む。こんなちょっとしたことでも、怪盗に関われば高鳴りだす胸を抑えられない。自覚したときから、溢れ出てくる想いを止めようと足掻いていたけれど。もう自分ではどうすることもできないほど、怪盗への恋心は膨れ上がってしまっている。
"動き出さない限り、相手も動かない"
そう言った哀。
(告白もしないで拒絶されることを恐れるなんて愚かなことだよな…)
フロア内の喧騒に、新一は目をやる。
義理とかお返し狙いの者もいるだろうが、どの女性も真剣そのもの。心のなかで大切に育ててきた気持ちを、チョコレートに託そうと頑張っている。
「工藤くん、別にチョコレートでなくてもいいのよ。そうね…怪盗さんならネクタイとかタイピンとか、花一輪だって構わないと思うわ」
何でもいいのよ。自己満足に過ぎなくても、要は自分の心に向き合うってことなんだから。そして、欲っしているものにどれだけ強欲になってもね。それが恋なんだから。
続けられた哀の言葉に、新一は頷いた。
白く輝く月は数日前と同じ。
吐く息を白くしているのも、同じ。
違うのは、あの時は行くことができなかった中継地点にいるということ。
「まだ…時間はあるな…」
腕時計で確認して、強張っている体から力を抜いて緊張を解そうとする。
時間は、怪盗の予告している時刻よりもずっと前を指している。彼のことだから、予告時間から数分後にはここに来るだろう。
それまで、新一はこの場に留まるつもりはなかった。
やはり面と向かって、気持ちを代弁してくれるものを差し出す勇気はなく。見向きをしてもらえない現実には臆病なまま。
でも、怪盗を好きだという気持ちを止めるつもりはもうない。
伝えることでさらに無視されることになっても、怪盗の心を欲していることを隠すつもりもない。
背中を押してくれたのは哀。
強欲になってもいいと彼女が教えてくれたから。
「そろそろ…か」
ビルの屋上からは今夜の現場は見えないけれど、慌しさのピークに達している頃。
コートの中で大事に抱え込んでいたものを、そっと手摺の上に置いた。
「……好き…だ……」
ありったけの想いを贈り物に込めると、新一は静かに踵を返す。そして、振り返ることなく屋上を後にした。
その場に残されたのは、ハートの形をした白いキャンドルと銀色のライター。
≫to be continued
02.02.12
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