怖い。

彼を見た瞬間、そう思った。





対人関係が不得手だとよく言われる。
でも、不得手なのではなくて単に人と接するのがイヤなだけ。
騒々しいから。
言動や行動は言わずもがな。視線、気配、そして精神が。

誰だって生きているから、色々な個性をもち色々な感情を発する。
騒々しさは、雑多な人たちの雑多な生気がひしめき合っているため。
けど、人の本質を直感的に感じ取れる身としては堪らない。
特に、妬み嫉み憎しみ怒り憎悪に苦痛――負の感情に染まった者ほど煩わしいものはなくて。人と関わりあうことを避けるようになった。

それでも、全く断ち切ることなどできるはずもなく。自分の生活圏から追い払えるわけがない。
生活圏内の人間。つまりは、自分を知る人間。
感情の発露が己自身に向けられる事は多く、大よその場合心の中にまで騒音は入ってくる。
次第に、感覚を鈍らす術を覚えた。

感覚を鈍らすことは、心を動かす実感や経験からは遠ざかること。
本と推理以外に興味を持てるものがなかったから、そんなことはどうでも良かったけど。
"つまらないヤツ"
そう言われたことは一度や二度ではないし、幼馴染ですらよく口にした。
何も感じないから、何を言われても気にしない。
実際、自分はそういうものだと思っていたから。


それなのに。
彼を見た瞬間、錆付いていた心は震えた。


様々な感情から発される雑音は、その人が生きている証ともいうべきもの。
だが、彼は静かだった。
どこまでも静かで、静か過ぎて怖い――――それは、何をもにも動かされなかった心が紡ぎだした感情。



まるで深淵と、その水面。
風が吹いても波状が表面を通り抜けるだけ。
石礫を放り投げても、そのまま飲み込んでいくだけ。
そんなふうに、暴力や殺意が降りかかりその身を傷つけられようと、怒りも恐れもなく。犯した罪や隣り合わせの死から逃れようとせず、有体を受け入れる。
彼を垣間見る度に、わかっていったこと。

闇に蠢く組織を壊滅する目的が生の全て。
自分自身のためには何も求めず、何も望まず。
誰かに縋ることもなければ、助けを請うこともない。
日の当たる世界に見向きもせずに、暗闇の中でひとりっきり。
そうならざるを得なかった理由があるのだろうが、それに対して憤ることも悲観することもなくて。
寂しさや辛さも感じてはいない。

だから彼は静かなのだ。
どこまでも、どこまでも。

だから、彼が怖かった。
その、生に執着していない姿が。
いつ消えてしまうかわからない儚さが。

怖い。
それは、失えないからこその感情。

出逢った瞬間に、彼に恋していたからこその、感情だった。













April Fools' serenade 3 














手を伸ばす。
掴めそうなのに、空をきるだけ。
今までどれだけの人が、こうやって虚しく息を吐いたことだろう。
指の間から白く輝く月を見て思う。


決して触れることができないもの。
不可侵の領域であり、自分とは絶対に相容れない存在。

最初は、そう納得したものだ。
けれど、時間が経つにつれ知らずに手を伸ばすようになった。
触れることなど叶わないのに、触れたくて堪らない衝動。
"怖い"と感じた心。その心が、恐怖刺激を求めるようにもう一度その感覚を味わってみたいだけだと思った。

初めて、彼と逢った場所。

あやふやなものを抱え込んでどうしていいかわからなくて。気が付いたら来ていた。
彼の気配の名残を感じるだけで、急速に満たされていく心。
あたたかいとはこういうものだと理解して。彼を想うことで、何故あたたかさを感じるのか。
答えは明白だった。
そして、怖いという感情の意味を知った。


月に手を伸ばす。彼に一番近い場所で。
少しでも届くようにと願いながら。
今日も、手を伸ばす。彼に一番近い場所で。
初めて、彼と出逢った日。そして、自分のなかの感情が動き出した日に。
手が届きそうな気がするから。
なにより、そこで見る月が一番好きだから。



「あと少しか」

初めて出逢った時刻が迫り、さらに歩みを早める。
今日見る月は、もう今までのとは違うはず。
そんな期待もあって、自然と早足だったけど。
想いを認識してから、絶対的に存在する距離を仕方がないと思うことしかできなかった。
届かない月に、届かないと嘆くだけなんて一体何になるのか。そう気付くまでには案外時間がかかった。

届かないなら、届くようにすればいいだけのこと。
彼の目が自分に向かないのなら、向けるようにするまで。

予期せずに手に入れた機会。
今までの自分と決別するにはもってこいだった。
彼を傷つけた輩を排除するための罠を仕掛けることに何の躊躇もなく。命が危険に晒されようと迷いもなく。
見ているだけで満足していた頃とは違って、彼のために自分にも何かができるという喜びがあった。

遠く遠くにしかなかった月。
だけど、今日の月はちょっとだけ近くなっていて、もう指をくわえて見なくてもいいはず。



「寄りかかっていていいよ」

病院から抜け出すために無理して動かした体は、相応のツケをすぐに払わせた。
熱に意識はぼんやりとして、筋肉は弛緩し怠さが襲う。座っているのもきつくて、体を支えていることも我慢できなくて。
それでもあまり情けない姿を見せたくなくて頑張っていたが、ふっと意識が飛んでしまった。我に返った時、彼の肩にもたれていて、慌てて体を起こそうとするとやさしい声が止めた。
彼が自分を受け入れてくれているのだと、勘違いしてしまいそうなほど嬉しくなった。
車から降りる時も、手を貸してくれて。彼のぬくもりに包まれている錯覚を見た。
そして、偶然にも知ることができた彼の素性。
それら全てが、見ることだけしか叶わなかった月の、カタチを捕らえることができたと思わせた。

何より心を浮き立たせてくれたのは、渡されたハンカチ。
借りたものを返そうと思っただけかもしれないが、それでも良かった。
少なくとも、怪盗であることを自分に隠そうとしてはいないのだから。
もしかしたら探偵としてではなく、一人の人間として見てくれているのではないか。
そんなふうに思えること。


だから、きっと月は近くに見えるはず。
弾む心のまま、彼に一番近い場所への扉を開いた。








「……あ」


期待に満ちた心だったけれど、こんなことは夢にも思い描いていなかった。
月が、降り立っているだなんて。


白ではなく、闇に溶け込む黒を纏っている。
視界いっぱいに広がっているのは、後ろ姿。
それでも、彼なのだと間違いようは無い。
凛とした立ち姿は、胸が締め付けられるほど哀しくて。ひとりで生きているからこその険しさと厳しさがそこにはあって。
背筋を駆け抜ける寒気。


怖い―――――ここしばらく忘れていた、彼に抱いた最初の感情。


ゆっくりと振り向いた彼。
恐ろしいほど、澄み切った瞳。
今にも消えてしまいそうな、微笑み。


何も変わってはいない。それどころか、以前にまして生きている気配がしない。
どこか遠い眼差しは、全てを諦めきっているというよりもずっと性質が悪いものだ。
少しは彼に近づけたのだという期待は、きれいに吹っ飛ぶ。
縮まるどころか、永遠に傍に寄ることなどできない現実。それを改めて思い知らされる。
それなのに。



「オレ、アンタのことが好きだった。ここで、出逢ったときからずっと」



信じられない言葉を、彼は告げた。






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02.04.08

   


  ■first love




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