いま、ひとり /scene.9
「名探偵」
そう呼ばれるのは好き。
彼だけが呼ぶ名前だから。
呼ばれるたびに、心にぬくもりが生まれるから。
自分は、生きる価値のある人間だと。
たとえどんなに人々の期待を裏切っても、見向きをされなくなっても。
彼がそう呼んでくれる限り存在を許されている。
彼が認める"探偵"であり続ける。
それが、一番大切なこと。
夢を語る彼は眩しかった。
強固な意志で自分の信念を貫き通したひとだから、この先だってどれだけ華々しい功績を上げられるか、簡単に予想はついた。
どれだけのものに耐えて、どれだけのものに苦しんできたか。どれだけの危険を掻い潜り、どれだけの死地を乗り越えたか。
やさしい眼差し、心底安心できる笑顔。
本当なら容易ではないことだろうに、そうやって彼は真っ直ぐと前だけを見つめていた。
希望を捨てず、未来を諦めず。
そして、全てが終わると自らの手で夢を掴み取るために世界へと踏み出そうとしている。
嬉しかった。
それと同時に感じてしまった寂しさ。
「一緒に行かないか?」
差し伸ばされた手。
即座に首を振った。
少しでも離れているのは嫌だったけど、拒否以外は思いつかなかった。
ガタガタの躯がどれだけ彼に迷惑をかけるかなんて、そんなことよりも。
これからどんどん輝きを増していく彼に、ふさわしい自分でいなければならないことだけが頭を占めていた。
彼の未来が可能性に溢れているように、自分の未来もそうでなければならない。
高校の復学だって決まり、大学進学も夢見ていたから。
小さな姿をしていたことで大目に見られたり、できなくても許されるなんて、そんなことはご免だった。
「学校だってあるんだから!オレはオマエと違って、やめる気はない!」
探偵の仕事から、ほんの一時だって離れはしない!
口にはしなかったけれど。
『名探偵』でいることは、とても切実な問題。
彼が認める"探偵"であり続ける。
何より、大切なことだから。
RRRRRR…
突如響き渡る音に、ビクリと身を竦める。
もう今では電話の着信音に、望みをもったりはしていない。
床に放っている麻のジャケットからだが、ソファーから起き上がって出るのは億劫だった。
そのまま両手で耳を塞いで、目を閉じる。
もし、彼からのものだったら。
どうしただろうか。
きっと、胸がどきどきしてまともに返事なんてできないだろう。
そして、"あともう少し"が我慢できなくなる。
「ふふ…ばかだ、な…」
あまりにも馬鹿馬鹿しい考えに笑ってしまう。
電話を彼が寄越さないのは、かけてくるなと言ったから。電話を待ちつづける生活なんてしたくなかったから。
側にいなくて寂しいだなんて、そんな感情を電話越しにだって悟られたくはない。
彼に恋しがる自分なんて駄目なのだ。彼の前だけは、何があっても毅然とした探偵でなければ。
ちゃんと「名探偵」と呼んでもらえるように。
だから、連絡を寄越すなと言った。
律儀にかけてこない相手をちょっとだけ恨めしく思ったりもしたけど。
もし――なんてことを考えて、耳元で囁く彼の声を想像して。
そんな馬鹿馬鹿しいことでも、心は少しだけ軽くなった。
久しぶりに声をあげて笑えたし。
すぐ傍らでぬくもりを与えてくれなくたって、想うだけで力をくれる彼。
棘のささった心も、彼のぬくもりに染み付いたソファーに身を横たえていれば、癒えるだろう。
「少しだけ…休ませてくれ。そしたら、ちゃんと探偵に戻るから…」
さっきの電話は、警部からの呼び出しだ。
今まで断るにしてもきちんと応対はしていたが、どうしても今は探偵であることは忘れていたかった。
耳にこびりついて離れない、友人の怒声も。
こんな自分を見れば、やはり自堕落だと言うのだろう。
「ねぇ、名探偵。ニンゲンは休むことだって必要なんだよ。46時中働き続けることなんてできっこないんだから。気分が滅入ったり落ち込んだりするのは、疲れている証拠。休めって警告されてるんだ。ほら、こうやって横たわってね、眠くなくてもとにかく目を瞑る。そして呪文を唱えるんだ」
無理やりベッドに押し付けられて、目をふさがれて。
眠くなる呪文なら羊でも数えるのか?
なんて訊いたら。
「元気がでる呪文だよ。そして心がすっごく落ち着くから自然と眠くもなる。オレの場合はね、"名探偵が好き、名探偵が好き、名探偵が好き”!!ってヤツ」
にっこり笑った彼に、赤面したことを思い出す。
今だって、ほんのり頬が赤くなっている気がする。あんなに恥ずかしくて照れくさくて嬉しいことがごちゃまぜになったことはなかった。
すっと息を吸い込んで、目を閉じる。そして。
「快斗が好き」
言葉にすると、どうしてこんなに愛しさで心がいっぱいになるのか。
じんわりと、しびれるような甘い感覚に体中が支配されていく。
「…快斗が、好き……快斗が…」
三度目を口にしようとしたときには、まっしろい闇のなかに意識はのまれていった。
その狭間で。
「自堕落なんかじゃない。今まで頑張ってきた疲れがでているだけだから。ゆっくりおやすみ」
そんな優しい彼の声が聞こえてきた。
「ん……」
眩い光に、覚醒を促される。
ぼんやりとした視界がカタチをとっていくにしたがって、ここがどこだか思い出す。
いつもの部屋なら、光は差さないから。意識はすんなりと現状を把握した。
「…よく、寝たな……」
この数日は他人の気配に落ち着けないせいで寝付けなくて、寝れても浅い眠りはだるさばかりを残した。
そうでなくても、爽快な目覚めなんてずい分と久しぶりだ。
スッキリとした体。
ぐん、と背伸びをすると、頑張ろうという気力が体の奥から湧き上がってくる。
RRRRRRRR…
携帯の着信音。
ソファーから起き上がって、ジャケットに手を伸ばそうとするが。引っ込める。
しばらく鳴りつづけた後、切れた。
かけてくるのは警部だけ。昨夜の事件の続きか、別件か。
体は安らいでいても、心はまだ休息を欲している。もう少しだけ、探偵を休んでいたい。
『休むことだって、必要なんだよ』
耳元で木霊する彼の声。
「…うん、そうだよな…休んで、いいよな…」
許しを得たような気になると、ずっと楽になる。
2、3日はここにいたい。ここでゆっくりと休んで。
そうして、元の生活に戻る。きっと家主が不在なら、客人だって頭が冷えて提示したマンションへと移ってくれているだろうから。
また、あの部屋でゆっくりと流れる時間を過ごす。
「しわくちゃだ…」
3日前に事件へと出かけたままの格好。しかも、昨日はこのまま寝たのだから、ひどいナリだ。
「ここにいるなら、着替えと食料…用意しないとな」
思い当たって、おかしくなる。
着替えにしても食料調達にしても、生きるためなら欠かせないこと。だが、そんなことを考えたのなんてどれだけ振りだろうか。
『休む』ことがどんなに大事か、わかったような気がした。
「しっかりしないと、笑われるな」
彼が帰ってくるまであと少し。
その時に、平気な顔で逢えるように。名探偵としていられるように。
「頑張ろう」
大きく息を吸い込むと、取り合えず顔を洗おうと洗面所へ向かった。
「あ、れ?」
顔を洗って、ハンカチで拭こうとポケットに手を突っ込んだ時。ふと目に入って来た作り付けの棚にあるもの。
折りたたまれ重ねてあるタオル。
真新しいコップ。
封の切っていない歯磨き粉に歯ブラシ。
「こんなものは…なかったはずだよな…?」
洗面所なんて用はなかったから、前がどうだったかなんて記憶は定かでない。
ソファーと同じ理由で、用意したのだろうか。
首を捻りながら、戻る。
と。
部屋に入るときは丸見えのオープンキッチンに、思わず足を止める。
「な…んで……」
この部屋の家具は、真っ白いソファーベッドひとつだけ。
そのはずだった。
怪盗の隠れ家として元々使っていたところだから、家具なんてものは必要なくて。
だけど、キッチンには冷蔵庫、電子レンジ、食器棚がある。
恐る恐る、足を踏み入れる。
棚には、平皿とスープ皿、マグカップ。スプーンにフォークと2セットずつおいてある。
容量の小さな冷蔵庫をあけると、中には保存のきくレトルトポウチや冷凍食品がぎっしりと詰まっている。
「…なん…で…」
彼はとっても器用で、料理だってお手の物だ。まるで料理するのが面倒かまったくできない者が簡単に用意できるものなんて――――。
「まさか…オレの、ため…?」
『ここ、そのままにしとくからさ。好きなときに使っていいよ』
もし、自分がここにくるとしたら、それがどんな時か。
彼はわかっていたのだろう。
頬を伝うぬくもりに、ノドから込み上げてくる嗚咽。
食器棚に背を預けて、ずるずると床に座り込む。
「…だ…い…丈夫……オレは、まだ…大丈夫……」
彼が戻ってくるまで、ちゃんと前を向いて歩いていける。
苦しくて辛くて痛くなったら逃げだすことだって、彼は認めてくれている。
そして、癒すことのできる場所をちゃんと用意してくれていた。
込み上げてくるおかしさ。
どうして自分が弱くなったのか、今ようやく気付く。
どんな苦痛もひとりで乗り切ってきたのに、守られ癒されることを覚えたからだ。
冷え切った心は痛みにも疲労にも鈍感だったけど、ぬくもりを与えてもらった心は痛みを痛みとして、疲れを疲れとして感じられるようになったせい。
それはちゃんと生きているという実感に他ならなくて。
以前、シャワーを浴びていたときに、溺れる自分に差し伸ばされる手を思ったことがあった。
誰かの手を求めたことに、ひどく愕然としたけれど、悪いことではないと思える。
自分の命を預けられる程に信頼できるヒトが、共に生きていけるヒトがいるということだから。
レンジで温めるだけの食事をすませると、室内のクローゼットを覗いてみた。案の定、サイズがピッタリの服が何着も収められていた。
着替えを片手に、シャワーを浴びに行くと、家で使っているのと同じメーカーのシャンプーとボディーソープが用意してあって、さすがだなぁなんて感心する。
バスルームからでると、ちょうど目に付くところにドライヤーが置いてあって、全くぬかりないことに微笑む。
風呂から上がったら、ドライヤーをかけるようにといつも口をすっぱくして言っていた彼。
どうせすぐ乾くから、言い返すと椅子に座らせられて、後ろから丁寧に適度な温度の風をかけてくれた。
どうして、彼との思い出はやさしくて、あたたかいものばかりなのだろう。
主のいない部屋にさみしく思いながら、ソファーに座って髪を乾かす。
ここのもの足りなさを解消するために、何かないかと考える。
「写真……なんてないし」
彼の代わりになるようなもの。
一つ、思いついてポンと手を叩く。
「薔薇…紅じゃなくて、やっぱり白だよな」
紅い薔薇は、彼がよくくれたけれど、イメージではない。
高貴で何にも染まらない純白こそが、彼には相応しい。
「うん…そうしよう」
この部屋を真っ白い薔薇で飾れば、彼に包まれているような気がするだろうから。
太陽が真上にいる時間。
日差しが強烈なのに外へ出ようだなんて、自分にしてみれば酔狂なことだ。
でも、思い立ったが吉日というか、すぐに実行したくなってマンションから出てきた。
花屋はないかと、大きな道沿いを歩く。
「…アツ…」
顔の前に手を翳して、無理せずゆっくりとした歩調になる。いつのまにか街中に出てきていて、案外マンションからは遠ざかっている。
「参ったな…ここ、どこだろ」
体温調整のうまくいかない体は、熱を溜め込んでしまう。水分を補給して温度を下げないと、後が辛くなる。
帰りはタクシーにしようかな…なんて暢気なことを考えながら、手近な自販機に向かおうとした時。
視界の片隅で、赤い光がちらついた。
チカチカとした点滅に、嫌な予感がする。
警部からの、電話。
思い出して息がくるしくなる。
今は、なにもしたくない。ただ、彼のことだけを考えて、休むのだ。
早く、この場から立ち去ろう。
そう決めて、踵を返そうとして。
「工藤…!」
心臓の鼓動が早くなる。
どうして今、こんなところで会わなければならないのか。
目の前に立ちはだかる男に、眩暈がする。
あの時と同じく。危惧の念は、もしかしたら今のほうが強いかもしれない。
「どこ行ってたんや!心配してたんやで!」
駆け寄ってきて、頭上からかまわず怒声を浴びせる。
まだ、この男の相手なんてできない。忘れていた棘の痛みを思い出す。
「一体なにやっとんねん!警部はんが呼び出しかけても、応答もせえへんてやないか!」
なにか恐ろしいことを言われそうで、どうにもここにはいられなくなる。
何と思われたって構わない。それを口にだしさえしなければ。自分にむかって吐き出されさえしなければ。
心にぶつけてさえこなければ。
まだ、間に合ううちに去ろうとして、逃出そうとして。くるりと背を向けたが。
「待てやっ!また逃げるんかっ!」
しっかりと手を捕まれて、振り払おうにもビクともしない。
「は、はなせ…っ」
「離してほしかったら振りほどいてみいや!できへんやろっ!こんな不健康な体やからなっ!」
睨んでも、より強い力で睨み返される。
余計に相手の怒気を煽ってしまう。
「なあ工藤、お前は探偵やなかったんか?!」
「ああ…探偵だよ。それが、なんだよ…」
破れかぶれでも、取り繕うしかない。
平気な顔をして、平気な声で。それで鎧うしか術はない。
衝撃に耐えられるかどうか、わからないけど。
「だったら、なんで今現場におらへんのやっ!探偵やったら何をおいても駆けつけるちゅうもんやろっ!警部はんからの呼び出しも応じんで、事件から逃出すなんてそんなん探偵やあらへんっ!!体が資本なのに、こんな痩せてみっともないのも探偵やあらへんでっ!!」
息が、つまる。
苦しくなる。
少しだけ休んで。そして探偵として頑張ろうと、していたのに。
その自信がひび割れていく。
「学校やめて無気力な生活して家に閉じこもって!!挙句に探偵の仕事をないがしろにして!!なに現実から逃げとんのやっ!!お前は探偵なんやで!!どんな真実からも目を逸らさず立ち向かう探偵なんや!!それがなんやねんっ!現実から、真実から、そして探偵から逃げてっ!!なにが名探偵や!!工藤なんか探偵やあらへんわっ!!」
「探偵やない工藤なんて、工藤やあらへんでっ!それわかっとんのかっ?!名探偵いわれるんが工藤やろうがっ!!自分で自分を殺してどないすんねんっ!!探偵やのうなったら、死ぬようなもんやろうがっ!!これ以上、俺に幻滅させといてや…っ!!」
幻滅…。
それは、彼も思うことだろうか。
探偵でないのなら、彼の愛する対象にはなり得ない。
もう、探偵として認められないのなら……それなら、自分はどうすればいいのだろうか…。
「とにかく来いや!!警部はんに詫びいれて、それからもう一度探偵として基礎からやり直すんやっ!」
今さら、なにをしろと?
探偵ではないと断言したのはお前じゃないか。
混乱する。
粉々に、壊れていくカンジがする…。
足元が覚束なくなって…。
眩暈がひどくなって…。
息が、できなくなって…。
気持ち悪い…。
伝わってくる熱が。弱さを認めようとしない視線が。休むことも許してくれない腕の力が。
「早よ来るんやっ!工藤っ!!」
ぐいっと引っ張られて、軋みをあげた腕。
苦しさが頂点に達しようとした時。
不意に穏やかな空気に包まれて、引き戻された。
あたたかくて、やわらかな、腕に―――?
「ヒトのモンに、気安く触んじゃねぇよ」
それは、彼の声だった。
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