突き刺すような熱気が、日の入りとともに和らぎ始める。
薄闇に包まれる空を見て、玄関へと向かった。
外に出ると、噎せ返るほど暑い空気が肺のなかに入り込む。
あまりにもあり過ぎる温度差のせいか、感覚が付いて行けずに視界が眩んでしまう。


上がり口のところに持ってきた木片をおいて、ライターで火をつける。
乾いた空気は勢いよく炎をあげさせた。


「……来る…かな……」


ゆっくりと天へとのぼっていく煙を追っていきながら、呟く。



ほのかな灯りは、帰ってくる場所を示すもの。
遠い遠い彼岸から、此岸へと戻ってくるために。



盂蘭盆の、ほんのわずかな間だけ。











幻影奇譚












コンコン。


寝覚めを促された、窓を叩く音。
うっすらと開いた瞳は、ベランダのガラス扉に映る影を捉えた。
見覚えのあるそれに、意識は瞬時に覚醒する。
ベッドから飛び降りると、カーテンを引いた。

月の光を全身に浴びて立っていたのは、真っ白い怪盗。

視線が合うと、眼差しがやわらかく変化する。
誘われるように、鍵を外して扉を開いた。
熱気に満ちた外気は、白い怪盗の涼やかな気配に消されて。冷えた室内にそのまま溶け込んでくる。


「夜分遅くに申し訳ありません」


ひっそりと告げるだけで、普段に見せる大げさとも云える挨拶はない。
常にポーカーフェイスで覆われた顔も、見知らぬ感情を曝している。


「……今日は…予告日じゃ、なかったよな……?」


なんと言っていいかわからず、自分と怪盗の接点を引き合いに出す。
怪盗と、探偵。それだけの関係だから。
偶然の出会いを積み重ねて、意図した出逢いに助けられて。それでも、礼を言わせることも馴れ合うこともさせなかったのは、怪盗の方。
何の憂いもなくなってからは、一方的に送られてくる暗号だけが自分達を繋ぐものだった。
いつも逢うのは、暗号に示された怪盗の逃走経路。
暗号の答え合わせと引き替えに渡される、怪盗の獲物だった石。
『ごきげんよう、名探偵』
『それでは、また。名探偵』
交わされる会話なんて、型どおりのものだった。
元の姿に戻ってからは、現場以外で逢ったことなんてなかった。
それなのに。
今日は一体どうしたというのか。


「これを見てください」


差し出された怪盗の手には、大きな石。
形、色、ともに見覚えがあった。


「それ…この前の…」
「ええ。私が盗って、あなたに返していただいたものです」
「また…盗んだのか…?どうして…」


ハッとする。
そう、返したのは敵に対するカモフラージュ。探し物ではなかったと、そう知らせるために。まだ見つかってはいないのだと、誤魔化すために。
そして、もう一度人目に付かずに手に入れたのだ。


「そ…か。見つかったのか」
「ええ」


高く掲げて月の光を当てると、赤い光が瞬いた。
刹那、光は細やかな粒子へと変化して、開け放たれた扉から外へと流れていく。


「これで、私の目的の一つが達せられました。後は、組織を潰すだけです」


静かな口調のなかに秘められた、固い意思。
怪盗の決意を伺うには充分で。
どうして、ここを訪れたのか、訊かずともわかってしまった。

別れを、言いに来たのだ。


「行く…のか…?」
「はい」


訊いたところで変わるわけではないのに。それでも、否というのを期待した。
自分に引き止める力はないから、思いとどまってもらいたかった。
たった一人で、闘うにはあまりにも巨大過ぎる敵。
行かせてしまえば、もう二度と逢えなくなるかもしれないから。

怪盗は、そんなことは全て承知で闘いに挑むのだ。
だから、ライバルだった探偵に最後の敬意を払いにきてくれた。


「一つだけ、私の願いを聞いていただけますか?」


感情を押し込めているとわかる、抑揚のない声。それでも、真摯さを潜ませて如実に訴えてくる。
自分は助けてもらうばかりで、何も返せなかった。怪盗のためにできることなら、何でもしてやりたい。
頷くと、少しだけ逡巡して言葉を続けた。


「……私の…帰るところに、なっていただけますか?あなたが待っていてくれるのなら、私は必ず帰ってきます」













残照が消えて、全てが闇に覆われていくのを見つめる。
ベランダへの扉の、すぐ脇の窓辺に置いた椅子に身を預けて何をするでもなく。
開けっ放しのカーテンは熱気を直接伝えてくるけれど、それにももう慣れてしまった。

「工藤くん、夕飯よ」

時間がくれば、こうやって食事を運んでくれることも日課になっている。
食欲がないのも毎度のことだが、せっかく用意してくれたのだからムリにでも口には入れる。

「ねぇ」

彼女が問いかけてきたのは、最初の頃だけだった。
何を聞かれても答えようがなく黙り込むしかなくて。そうこうしているうちに、そっとしてくれるようになったのだが。

「玄関で迎え火を焚いたのは、あなた?」
「…ああ」
「どうして…?」

彼岸にいる誰を迎えようとしているのか。
周囲で死んだものなんて思い当たらないから、当然の質問かもしれない。

「さあ…オレも、よくわからない…」
「工藤くん?」

怪訝そうにされても、どうしようもない。
だって、怪盗がどうなったかなんて知らないのだから。
3日後には帰ってくると、そう言ったのに。
あれから一月、経ってしまった。

ただ、もう一度、逢いたくて。
帰ってくると言ったから、必ず叶えてくれるはず。




夜が更けていく。
窓から見えていた、家々の明かりはもうない。
静寂と沈黙に支配された中、時計の音だけが空間に響いている。

窓枠に頬杖をついて、ガラス越しに闇が深くなっていくのを見る。
月は分厚い雲に隠れ、一条の光も射さない世界はまるで自分の心のよう。

時間はただ過ぎていくだけ。
この一月がそうだったように、今夜もまた。


そうなると、思っていた。






ゆらり。

闇が歪ぐ。
見つめていた先に、仄かな白が現れる。


ガタン。

立ち上がった拍子に、椅子が倒れた。
あの時のように扉をひらこうとするが、手が震えて動かない。


次第に白は大きくなって、闇を侵食してゆく。
記憶のままの形へと、変化してゆく。


ゆらり。

白い塊が揺れる。
伸ばされた腕は、ガラスを透過してきた。







もう一度、逢いたかった。
例えこの世にいなくても、必ずオレのところに戻ってきてくれるから。
だから、迎え火を焚いた。

彼岸から、此岸へと舞い戻らせるために。


だけど、現れないことも切に願った。
だってそれは、彼がこの世に生きていることの証しに他ならないから。



「…キ……ッド…」



呼ぶと、彼はあの時と変わらぬ微笑を見せてくれた。





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02.08.14 


  
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