お願いだから、気付かないで。
あなたのしあわせ わたしのしあわせ
~Act.1 Side.S~
ただ一人、青白い巨大な満月の下を歩く。
大きな大きな月。
…月は『彼』を思い出させる。
この満月は、特に『彼』を象徴するモノで…彼に見られているようで、ひどく、落ち着かない。
いつもの俺なら、気分を弾ませただろう。
…でも、今の俺はどうだ?
今の俺は、全部が全部グチャグチャ。…事件帰りはいつもそう。
たくさんの人の死を見て、たくさんの人の思いがあって、正も、負も、全ての感情があって。
…そんな中、起こる事件を、俺は好奇心を満たすことだけに使っている。
すべては、俺のため。誰かのためではなく、全部、自分のため。
なんて浅ましい心。すぐに消えてしまえばいい。消えて…無くなってしまえばいい。
でも、そんなことをすると、悲しむ人がいる。悲しんでくれる人がいる。
だから、死ねない。俺は、死んじゃいけない。
こんな考えを持っている自分が、嫌い。そんなことは言い訳だって分かっている、自分が嫌い。
でも、『コナン』の時に知ってしまったから、今の自分ではなく、昔の『工藤新一』のことを。
だから、今、こうして生きなければならないんだ。…俺は、俺のために。
「少し、考えすぎたか? ちょっと疲れたな…」
隣には巨大な廃ビル。少し、頭を冷やして帰ろうか。そうして、いつも通りに過ごそう。
…カツン…カツン…カツン…
緩慢な、自分でも苛つくほどの緩やかな動作で階段を上る。足音が大きく木霊し、反響する。
そのせいか、ここのこの階段が、無限に続く螺旋階段に思えた。
―――――眩暈がする。
だったら、すぐに戻ればいいのに、戻れと脳が命令しているのに…戻れない。足が勝手に進んでしまう。
―――――何か、ある。身体が、動く。
戻らなきゃ。体調が悪いのなら、灰原にすぐ帰れって言われてるのに。この扉を開けたらダメなのに。
理性はそう言う。…でも、本能が上回る。本能で、ここを開けなければならないと、理解している。
…何がある? この奥には何がある? 俺が、本能から求めるモノは―――何だ
?
戻らなきゃ、戻らなきゃ、戻らなきゃ、戻らなきゃ。
その言葉が、頭を駆けめぐるのに――――俺は、その扉を開いてしまった。
扉を開いても、そこには何もなかった。ただ、どこにでもあるの廃ビルの屋上の風景が見える。それだけ。
「何も、ない?」
ふぅ…、と軽く安堵のため息をつく。
「でも、おかしい…。何もないなら、俺がココまで来るはずがないのに…」
腕を組んで、思考の渦の中に沈む。いや、沈もうとした、その時、
―――――とくん…。と、一際大きい、鼓動(おと)がした。
「こんばんは、名探偵。事件でもあられたのですか?」
―――――声が、聞こえた。これは、『彼』の、声だ。
そうして、見上げれば、俺の上に――――ただ一つの、何者にも染まらない『彼』の白。
月下の魔術師、怪盗キッドが、そこにいた。
「…キッド? お前こそ、今日は盗みじゃないだろ?」
突然の相手に、呆然とする。でも、心のどこかで何故か納得していた。
―――――ああ、コイツなら。コイツなら、こんな反応をするのも納得だ。
そう、あっさりと俺の中に入り込んできたコイツなら。本当に、ひどく、納得できるんだ。
「私の質問に答えてないですよ、名探偵。まぁ、いいでしょう。私は今宵は下見です。予告状も出してませんし。」
思った通りの答えに苦笑する。どうして、こんなに思い通りの答えが返ってくるんだろう。
「やっぱり。今白馬いないから、予告状が俺の所に回ってくるんだ。お前も手加減しろよ。アレは警察には難しすぎる。」
そう、今白馬はいない。確か…ロンドンにでも行くって言ってたな。俺としてはどうでもいいことだけど。
「おや、名探偵は私の暗号はお嫌いですか?」
意外ですね、とキッドは呟く。何がそんなに意外なんだろう。
「そういうわけじゃないけど…」
「では何故?」
嫌いじゃない。嫌いじゃないけど…、予告状を受け取ったら、なるべくなら現場に行こうと思う。
でも、事件と重なったらどうなるんだろう。…それは、まるで約束を破っている気分で、嫌だ。
でも、この事を言ってどうなるのだろうか。どうにもならないことはわかっている。
ならば、もう無言を貫き通すしかないだろう。
「名探偵? どうかしましたか?」
貯水タンクの上から俺の元に降りてきて、反応のない俺に尋ねてくる。
キッドの問に何も返さず、ふと、じっと彼の瞳を見る。
――――――透明な、嬉しそうな感情(いろ)を宿している『蒼』。
ゾクリ、と背筋が凍った。その色を見て、泣きそうになってしまった。
――――――俺は、何をしている? 今、ここで何をしている?
いつもと同じ空気、同じ会話。普段の、ただの日常的な風景。
どうして…どうして、それでも今の俺には重いんだ? これじゃあ、いつもなんて出来ない。
本当に、本当に重すぎて今にも潰れそうなくらいだ。
「名探偵? 体調でも悪いのですか?」
尋ねてくる声。今の俺にはそれすら答えられない。
シルクの手袋をしたキッドの手が、俺に向かって伸びてくる。
害はないのに、わかっているのに。…怖い。その手が、怖い。
「…何でも、ない。悪い。俺、そろそろ、帰らなきゃ、ダメなんだ。」
自分の声が、途切れ途切れになることを感じた。荒い息が混じるのも。
「そうですか。送って差し上げましょうか?」
伸ばした手を下ろし、俺の荒い息に気付いたのか、そう尋ねてくる。
「いや、いい。今日は頭を冷やして帰るから。」
逃げるように、背を向ける。
…怖くて。この場にいると、何だか、本当に怖くて。気付いてはいけないことに、気付いてしまいそうで。
「名探偵。最後に、ひとつ」
背に投げかけられる声。――――何だ? あのことか?
「何だ? 答えられることなら、ならいい。」
荒い呼吸を響かせないように呼吸を最小限に止め、振り替えず、背を向けたまま答える。
「…何故、私とトモダチになりたいなど?」
ああ、やはり。やっぱり、その事なんだな、キッド。
お前も、分かっているのに分からない振りをしている。いや、お前は本当に分からないだけ、だな。
「…答えは、お前の無意識下の中だ。頑張って探せ。答え、ちゃんと探せよ。」
そう、理解しているのかどうかはわからないけど、確かに、答えはお前の中にある。
今の彼は、その答えに気付いていない。気付かない方が、幸せだから。気付いてしまったら、壊れてしまうから。
本当は、探さなくてもいいかもしれない。これは、ただの俺のエゴ。
――――――眩暈がする。早く、帰りたい。
「またな。」
扉の前へと歩き、一瞬だけキッドの顔を見て微笑み、扉を開けて階段を下りる。
「名探偵」
扉を閉じる瞬間、キッドの声が聞こえた。でも、それは多分、ただの幻聴。
…怖い、逃げたい。どうしてそう思ったのだろう。
彼はただ綺麗で、優しいだけ。そして俺は事件帰りでいつも以上に醜いだけ。
彼と一緒にいて、今はひどく落ち着いている。…でも、怖かった。本当に、恐かった。
――――――眩暈がする。
終わらない螺旋階段、下っているのに先が見えない。
それは、何か、当てはまるモノがあった。
「ああ、そうか」
当てはまったモノに、思わず足を止める。何だ、こんなに身近にあったんだ。
「…あ」
サーッと、全身から血の気が引いたような音がした。倒れないように、歯を噛みしめる。
気を抜けば、今にも倒れてしまいそう。それでも、倒れちゃいけないんだ。
体調が悪いと気付いていたのに、早く帰らなかった罰だな、これは。
…カツン…カツン…カツン…
でも、俺は帰らなきゃいけない。誰にも迷惑かけないために。ただ、普通に。
「絶対に、倒れるわけにはいかない。」
自分で言った、その言葉は、まるで誓いのように聞こえた。自分自身への誓い。
でも―――――体力の方はそろそろ、限界だ。それなら、精神力で持たせるしかないか。
弱気になったら負け、絶対に倒れる確信があった。
…俺は、お前には気付かれたくない。だから、お前の前で倒れたりはしない。
「…あ」
身体が、急速に、死人のように冷たくなっていくのが、自分でもわかった。
徐々に感覚がなくなっていく。体勢が、崩れる。
視界が霞んでくる。まるで機械のモニターを壊れていくみたいだ。
――――――Black out.暗転。
遠い場所で、彼に名前を呼ばれた気がした。そんなに心配しなくても、俺は大丈夫なのに。
そんなことを考えながら、俺は意識を手放した。
お願いだから、気付かないで。
『俺』という存在に。
⇒第二話
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