「…………快斗」
新一は、快斗にゆっくりと微笑んだ。濡れ髪の間から覗く目を、柔らかく細めて。
酷く、―――妖艶に。
「―――――――」
(―――どうして、そんな………)
快斗はその場で項垂れた。きっと自分の顔は、首筋まで真っ赤に染まっているに違いない。はあと大きく息を吐いて面を上げ、訴えるように新一を見るのだが。彼は、ただクスリと笑みを返すだけで、何も言わない。
「………知らないからな。どうなっても」
水飛沫を上げて、快斗はプールの中に飛び降りた。そして、月の輝きを一身にまとっている新一の頬を優しく包み込み。
まずはその薔薇の唇に、甘い甘いキスを落とした――――
星空の下でキスを交わそう
「へぇ〜、いいところだね」
「ったり前だろ? 何たって、世界的推理小説家『工藤 優作』の別荘なんだぜ?」
辺りを見回し、新鮮な空気をいっぱいに吸っている快斗に、新一は誇らしそうに言った。
大学1年目の夏季休業期間。彼らは、軽井沢にある工藤家の別荘に来ていた。誘ったのは新一。滞在期間は、今日から1週間ほどの予定だ。
周りを彩る柔らかな緑。香り立つ森の空気。澄み切ってどこまでも見渡せそうな青い空。そして、その下に建つ、白を基調とした洋風の大きな建物。幼稚園のスイミング用くらいの広さのプールまでついている。さすがは、工藤優作所有の別荘である。
楽しそうに鼻歌を歌いながら中に入っていく快斗。その後に付いていきながら、新一はひっそりと怪しい笑みを浮かべた。
「はっ?」
まるで信じられないその話に、哀は一瞬あごが外れたような錯覚がした。
「――――――貴方達。まだ、結ばれてなかったの?」
「は、灰原! そんなハッキリ言葉にして言うんじゃねーよ!!」
真っ赤に顔を染める新一を、哀は呆れ顔で見つめた。まあ、この場合、彼に呆れるのは筋違いではあるだろうが。
探偵と怪盗。常識を考えるなら、決して相容れない仲であるはずなのに、出会ってすぐに惹かれ合ったという2人。自分が組織から抜けてここに来た時は、既に恋人同士と言ってもおかしくはないほどのものであった。
さすがに組織と戦っている最中は、あまり触れ合うこともできなかっただろうが。戦いを終えて元の姿に戻り、さらには怪盗も目的を遂げた今、彼らを遮るものなど何も在りはしない。同じ大学に入り、同居して何ヶ月も経つというのに、なぜ2人の間は全く進展しなかったのか。哀は、不思議で不思議で堪らない。
(…………たぶん、『彼』の根性がないだけなんでしょうけどね)
「―――で、でよ。どうすれば、いいかな?」
急に黙ってしまった哀に不安を覚え、新一は上目遣いに彼女を見つめる。その姿は、普段から『あいつは俺ンだ』と豪語している大胆さとはほど遠く、かなり可愛らしかった。
「『何』を、『どう』すればいいのかしら?」
「だっ、だからさ! か、快斗と―――その………」
「ああ、彼とセッ―――」
「う、うわっ、言葉にすんなってばっ!!」
再び赤面しながら、新一は哀の口を押さえる。
(……………………)
たかだか言葉にしただけでこの様子。穢れを知らぬ少女でもあるまいに。
少しして、ようやく手から開放された哀は、新一に気付かれないように小さくため息を付いた。それから、「どうしようどうしよう」とぶつぶつ呟いている新一を斜めに見やって、ニヤリと笑う。
「ねえ、工藤君。旅行に行くというのはどう?」
「旅行?」
「そう。大学も、そろそろ夏季休業期間に入るのでしょう? たまには、のんびり山にでも行ってみるのもいいかもしれないわよ。鬱陶しい都会から離れ、豊かな自然に触れ合えば、もしかしたら―――ということも、有り得るのではなくて?」
「そ、そうかっ。そうだよな。うん。旅行は、いいかもしれないな」
自分の案に、うんうん頷く新一。
「………もちろん。そこで彼からの接触を待つ、なんてことはしないわよね?」
「―――えっ?」
「彼の場合はね、貴方からどしどし押してやらなければ、きっと『そういうこと』なんて起こり得ないわ」
確かにそうかもしれない。新一は一瞬で顔色を青くした。
「安心なさい、工藤君。私が、いろいろ方法を考えてあげるから」
「ほ、本当か?」
「ええ。それで、黒羽君を『誘惑』するのよ。貴方から溢れ出る『魅力』を、全面的に利用してね」
「――――は?」
「お母様から継いだ絶大な輝きと美しさに、今や警視庁の男全てが貴方の虜。本来なら、大勢の前で断罪され、貴方に恨みを抱くはずの犯罪者だって魅了してしまうのだから、その魅力に間違いはないはずよ」
「あ、いや、灰原?」
「大丈夫よ、工藤君!」
ぐわしっと、新一の肩を掴んで力説する。
「貴方は泣く子も惚れる『工藤 新一』なんですもの。貴方に堕とせないオトコなんて、絶対に存在しないわ!」
「………………………」
とりあえず。
何を言っているのか分からない。ということだけは、理解できた。
(―――遊んでた。あれは、ぜってーに俺をからかって遊んでやがった)
思い出してみると、絶対にそうであった。これはきっと、戻ってからもからかいのネタとして遊ぶに違いない。だが、助かったというのも事実ではある。自分ひとりでは、何をすればいいのか分からないまま、夏を終えていただろうから。
まずは何をすれば良かったか。事前に詰め込んできた内容を思い出し、ふいと外のプールに目を向ける。
「なあ、快斗」
新一は、リビングのソファでひと休みをしていた快斗に声をかけた。
「何、新一?」
「せっかくプールがあるんだからさ、ちょっと泳がねーか?」
「ああ、いいね。気持ちよさそう」
(………よしっ)
―――作戦その1
景気よく服を脱ぎ捨てて、水着姿で楽しそうに
無邪気に笑う―――
やけに具体的ではあるが、さっそく言葉通りに快斗に背を向けて服を脱ぎ始めた。快斗はぎょっとして、「し、新一?」と焦った声をかけるが、新一は完全にそれを無視。
ボタンを外して勢いよく服をはだけ、靴下を脱ぎ、すらりと伸びた足をズボンから引き抜く。そして、全て脱ぎ終わった状態で笑顔で振り返り―――
「ほら、見ろよ快斗っ。俺、こっち来る時水着を着――………」
彼は、自分が脱ぎ捨てた服を集めて丁寧に畳んでいた。
「駄目だよ、新一。楽しみなのは分かるけど、ちょっと行儀が悪いんじゃない?」
「―――あ、ああ。悪ぃ」
素直に謝った新一に、快斗はニッコリ笑う。
「先に泳いでいて? 俺も、着替えたらすぐに向かうからさ」
そう言ってリビングから出て行ってしまった。呆然と、その姿を見送る新一。
――――作戦1、失敗。
その夜。
(まだ1回だけだっ。これくらいでめげてなるもんかっ!)
キュッと蛇口を閉め、新一は浴室から上がった。プールから上がった時にも身体を流したのだが、気持ち悪いからと言ってもう1度シャワーを浴びたのだ。
―――作戦その2
夜にお風呂上りでシャツのみを羽織り、快斗の足に
跨って座る―――
湯船に浸かっていないが、大差はないだろう。乱暴に髪や身体を拭き、パジャマの上――少し大きめのサイズ――だけを着て脱衣所を出た新一は、リビングで待っているはずの快斗を探した。しかし。
(あれ?)
姿が見えない。どこにいるのだろう。キョロキョロしていると、
「新一っ?」
彼は自分の後ろに立っていた。トイレにでも行っていたのかもしれない。座ってはいなかったが、自分の姿に目を見開いている。これはもしや。
「何て格好してるんだっ。風邪でも引いたらどうするんだよ!」
「えっ?」
「夏とはいえ、都会と違って山の夜はとても冷えるんだから。ほら、ちゃんと服を着て。あっ、髪だってまだ乾いてないじゃないか。今、ドライヤーを持ってくるから」
慌てて洗面所に向かう快斗。こうなってしまったからには作戦を続けるわけにもいかず、新一はのろのろと残りの服を着る。すぐに現れた快斗にソファに座らされ、彼は優しく髪を乾かしていく。
快斗は、本気で自分を心配していた。少し気まずくなりつつ、しかし彼の心遣いがくすぐったくて、新一は口元を綻ばせる。そのまま彼に連れられ、同じベッドの中に入る。もちろん、ただ一緒に『眠る』だけ。
――――作戦2、失敗。
―――作戦その3
朝食の準備時に、タンクトップと短パンの上に
エプロンを着て、似非『裸エプロン』姿になって
「食べる?」と囁く―――
新一が朝食の担当をする時は、新一が起きても快斗はまだ眠ったままである。同居当初は快斗も一緒に起きたのだが、新一が文句を言った。「俺が作る時は、ゆっくり寝てろ」と。その時から、快斗は黙ってそれに従っている。その後に続いた、「出来上がったら俺が起こしに行くから」の言葉が効いているのかもしれないが。
新一は、今日だけはゆっくりと朝食を作っていた。快斗には、自分で起きてキッチンに来てもらわなくてはならない。似非とはいえ、『裸エプロン』姿なんて恥ずかしくてならないのだが、我慢する。ここで進展せずに、いつ進展しようというのか。
キッチンに近づく足音が聞こえる。快斗は、自分の前では気配など消さず、ちゃんとその存在を示してくれる。背後の戸が、カチャリと音を立てて開けられた。
「おはよう、新一」
「おはよ、快斗。なぁ―――」
笑みを浮かべて振り返り、さっそく例の言葉を言おうとすると。快斗は一瞬視線を走らせ、新一の傍に寄った。穏やかに顔を覗き込み、
「上達したんじゃない、新一?」
それはもちろん料理の話。
「本当かっ!?」
ずっと気にしていた点だったので、褒められて新一の気分は一気に上昇した。嬉しさが溢れ出し、声をはしゃげて快斗に話しかける。
「だって、お前がずっと教えてくれたもんなっ」
「そんな。新一が、一生懸命頑張ったからだって」
「待ってろ、すぐ作って用意するからな!」
快斗は頷いて、新一の頬にキスを残してからテーブルに向かった。新一はレンジに向き直してフライパンを握り―――
(……………あれ?)
――――作戦3、失敗。
旅行に来てから3日も経ってしまった。作戦は未だ成功なし。新一は表に出さないようにはしていたが、やはり少し落ち込んでいた。そんな新一を見かねて、快斗はサイクリングに誘う。別荘には元々、サイクリング用の自転車が備え付けてあったのだ。
昼食と飲み物を用意して、彼らは出かけた。山の中とは言え、平らな道ももちろんある。危険ではない場所を選びながら木々の間を廻り、小川の横を通り抜け。たまに、ベンチでちょっとひと休みをして。
自転車をすぐ近くの山道に止め、森の中で2人は肩を並べて座って昼食を取っていた。シートも敷かず、直に地に腰を置いて。だが、服が汚れるということはない。朝露はとうに大気に溶け、下草は柔らかな感触だけを自分達に伝えてくれる。
食べ終わってのんびりしていると。ふいに、2人の視線が重なった。
「………新一」
頬に手を添え、ゆっくりと近づいてくる端正な顔。新一は、目元を少し朱に染めながら、瞼を閉じて静かに待つ。
「……………ンゥ」
己の唇を割り、優しく口内に触れる彼が愛しくて堪らない。新一は快斗の首に腕を回し、甘い声を上げて応える。もっと、もっと欲しい。一生懸命その気持ちを伝えようと、腕に力を込める。それなのに。
彼は、すぐに離れてしまった。
不満を訴えてやろうと目を開けると、そこにはふわりと目を細めて自分を見つめる彼の顔。とても幸せそうに微笑む快斗に、新一は何もいえなくなってしまい、ただ物足りなげに上目遣いで見るのだが。髪にキスをひとつして、彼はその場に立ち上がった。
自分に腕を伸ばしてくるので、悔し紛れに力いっぱい引っ張ってみるが、さすが普段鍛えているだけあってビクともしない。立ったままの自分のジーンズを軽くはたいて、背中を向けて自転車の所に行ってしまう。新一は一抹の寂しさを覚え、しかし、うっすら涙の浮かんだ目を擦りつけて快斗をキッと睨みつけた。
(絶対に―――絶対に、堕としてやるからな!)
―――作戦その7
ズボンの裾をまくって川に入り、快斗に向かって
水飛沫を撒き散らす―――
「し、新一っ、危ない!」
「えっ―――ぅわあっ!?」
どっぱーんっ
―――作戦その10
一緒に風呂に入り、少しはにかみながら
「背中、流してあげる」と言う―――
「あ、あのさ、かい―――」
「新一、背中流してあげるよ」
「え? あ、ああ、ありがとう。……次は、俺の番な」
「うん、お願いね?」
ニコっとお願いされて、嬉しくて新一もニコっと笑った。
……………
―――作戦その15。作戦その18。作戦その―――…………
どんなに、新一が快斗を誘惑しようと頑張っても。暖簾に腕押し、糠に釘、豆腐に鎹。全て、綺麗に交わされてしまう。
そんなこんなを繰り返し。
とうとう、帰宅前日の夜を迎えてしまった―――
…………水の音が、聞こえる。
意識が浮上して、新一は身体の位置を入れ替える。隣に寝いている快斗に擦り寄ろうとするのだが、あるべき体温が感じられない。ただ冷たいシーツの感触だけを伝えるその手に、新一はゆっくりと瞼を上げる。やはり、そこに快斗はいなかった。時計を見ると、針は23時ちょうどを指している。
こんな夜更けに、一体どこに行ってしまったのだろう。ベッドからのそりと出ると、少し冷えた外気に身体を震わせ、薄手のカーディガンを羽織って部屋を出る。そのままリビングやキッチンを回ってみるが、どこにも姿が見当たらない。静寂のみが占める空気に新一は不安になり、快斗を探しに外に出た。
「わぁ…………」
澄んだ山の夜空には、数多の宝石が一面に散りばめられていた。
都会では見られない美しい星々の輝きに、新一は感嘆の声を上げて空を仰ぐ。今までは、どうやって快斗を堕とすかに専念していたため、全く気付きもしなかった。川でずぶ濡れになったり崖から落ちそうになったり――作戦失敗によるもの――と、いろいろ散々な目に遭ったのだが、山を選んで本当に良かったと新一は思った。
もしかしたら。空を飛ぶ時、彼はいつもこんな夜空を見ているのかもしれない。そう思った途端、無性に快斗に会いたくなってしまった。カーディガンの前を寄せ合わせて辺りを見回すと、プールの傍で彼はすぐに見つかった。
(―――……………)
まるで、美しい絵画のようなその光景。
背後には、影をまとった森と大きな満月が。長い足を組んで白い木製のベンチに座り、繊細な造りの指は小さな本のページを捲り。プールの水面に月の光が反射して、彼の穏やかな面差しを照し出す。どこまでも深くそして澄んだ瞳は、細められ手の中の本に向けられていて。
「―――」
ただ、彼はプール脇のベンチで本を読んでいるだけだというのに。なぜ自分の心は、ここまで酷く反応してしまうのだろうか。心臓が、たがを外してしまったかのように煩くがなり立てる。自分の全てを奪われてしまった新一は、足元から小さな震えが生じているのを確かに感じた。
「…………新一?」
声をかけられて、ハッとする。柔らかく微笑まれ、頬がさらに熱を増した。
「ごめん、起こしちゃったか。プールの水を抜いてたんだ、明日家に帰るからね。そうしたら目が覚めちゃってさ。眠くなるまで、本でも読もうかと思って」
「―――でも。リビングからは、見えな、かった………」
「眼を悪くしないように、影がかからない場所を探したんだけど。ここはリビングからは死角になってたか。心配かけて、ホントごめんね」
震える声で責める新一に、快斗は、ただ済まなそうに謝罪を述べるだけで。
(どうして………そんな余裕で、いられるんだよ)
自分はこんなにも彼に惹かれているのに。惚れているのに。欲しているというのに。……彼は、全くそんな素振りも見せない。その事実が悔しくて、哀しくて。辛くて、寂しくて。
「―――泳ぐっ!!」
「えっ、ちょ、新一 ――っ!?」
カーディガンを脱ぎ捨て、新一は水が3分の2ほどまでに減ったプールに勢いよく飛び込んだ。
溢れる涙を、抑え切れなかった。
彼にそれを見られるのが、我慢ならなかった。
プールの底でうずくまり、快斗に対する罵詈雑言を頭の中で羅列していく。だが、懸命にそれを並べ立てても、彼に対する想いはなくならない。一層、深く募っていくだけで。
(ずるい。卑怯だよ、お前。何で、俺ばっかりが、こんなにもお前のこと好きになってるんだよ。逆じゃねーかよ、普通)
冷たい水の中にいるはずなのに、眼の奥はやけに熱かった。
「新一っ、新一!」
さすがに息が苦しくなってしまったため、水面に顔を出す新一。快斗は、プールサイドに手をついて自分の名前を叫んでいた。その声に、俯けていた顔を徐に上げ、快斗を見つめる。と―――
(…………?)
彼は、軽く握った手を唇に当てていた。
それは旅行中も、いや、同居当初から見たことのある仕草ではあった。しかし、今はどことなく様子がおかしい。ポーカーフェイスを保とうとしているのだろうが、その目は、動揺している彼の心をしっかりと映し出している。
――― 朱が。
彼の頬には、差されていて。
(――――あ)
そうして、気付いた。何だ、簡単な問題だったんじゃないか。
なぜ、彼は自分に触れようとしなかったのか。どうして、自分はここまで彼に惹かれるのか。なぜ。どうして――………
全ての謎が自分の中で繋ぎ合わされて、ひとつになった。
クスクスと、新一は小さく肩を震わせる。涙が、先程までとは違う意味で滲み出てきた。指で軽くすくい取り、彼の紫紺を覗き込む。色がより深みを増すその様子を、今なら目に捕えることができる。
(―――もう。思い悩むことも、哀しみ恐れることも必要ない)
緩やかに曲げた腕を差し伸べ。唇を開いて、呼んだ。
「…………快斗」
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