『せ』 後編
「風邪ね」
哀はにべもなくそう言って新一を見遣った。
心を浮遊させたまま新一がベッドに潜り込んだ翌朝、目を開けると彼の世界はメリーゴーランドに早変わりしていた。
グルグルと揺れる視界に耐えられず早々にリタイアした新一は携帯で隣家の小さな科学者に救援要請をした。風邪ひいた、との一報を受けた哀は診察鞄を持って直ぐに新一の部屋に駆けつけ、手早く診察した後に冒頭の一言を下したのだった。
「何やったの工藤くん」
呆れながらの詰問に新一は答える術もなく首をすくめる。
「悪ぃ」
「……別に謝って欲しい訳じゃないわ。それよりも学習して欲しいの」
苦言を呈しつつも半分諦めの混じったそれは哀の経験からくるものだろう。
「とにかく、今日は大人しく寝ていなさいね」
「分かってる」
ケホリとひとつ咳をして大人しく言いつけに肯定を返した新一に向かって頷くと、哀はそれ以上何も言わず部屋を出て行った。
自業自得の発熱の中、まわらない頭でとりとめもなくつらつらと意識は流れる。
新一が怪盗と近しくなったのはまだコナン時代だった。
度重なる邂逅。短いながらも共有される時間。……怪盗の人となりを知るにはそれだけで充分だった。
それは探偵だけではなく怪盗も同じ思いだったようで、いつしか対立するのではなく共闘する方向へと互いの意識が変わって行き。
組織からAPTX4869のデータを盗み出してきた怪盗により元の姿に戻った新一は、彼の助力により組織をも壊滅させたのだった。
初めて身体を繋げたのはいつだったろう。
工藤新一の体に戻り、組織を壊滅させるための方法を模索して。
切欠は分からない。
闇の中微睡んでいたところに顔を寄せられ、逆らうでもなく目を閉じたことだけは覚えている。
クスリと笑う気配に鳥肌が立ったことも。
思えば切欠さえもろくになかったのだ。
大した理由もなく始まった戯れは恋人と共有するような快楽を新一に与えてくれたけれど。
今それは恋心を与える代わり、恋する人を連れ去って行くのだと理解した。
熱に浮かされながら思い出したそれは新一にとって切ないもので。
「一体、何があったのよ工藤くん……」
様子を見にきた哀が眠りながら涙を流している彼に、眉を顰めながらそっと拭ってやったことを新一は知らない。
そうやって新一は心と身体の休養にその日を眠って過ごした。
1日中寝ていると夜には大分熱も下がって、このまま読書はせずに大人しく寝るなら明日は学校に行っても大丈夫だろうと哀からは許可を貰った。
いくら傷心でも学校は待っちゃくれないし、出席日数に余裕はない。
明日は登校しないと、と新一は哀のお達しどおり本を読みたい誘惑を我慢していた。
しかし、1日中寝ていた新一はさすがに睡魔には襲われずしかし起きている訳にもいかないので寝返りを打つ。
起きていても仕方ないし余計なことを考えずに寝てしまいたい、横向きになったせいで正面にある壁を睨んでそう思っていると、不意にふわりと背後のカーテンが踊った。
カーテンが揺れる気配にハッとして身体を固くし、……しかし彼はそれに黙殺を決め込む。
するりと冷たい風を舞い込ませて、夜を翔る怪盗は探偵の部屋に滑り込んだ。
「……よう」
いつもより幾分低い声は振り向かない新一に対してのものだろうか。
けれど新一に返事をする気力はなかった。
……そっとしておいて欲しいのだ、今はまだ。怪盗がすぐに自分のもとにやって来た気持ちは分からないでもないけれど。
それでも今はまだ何もなかったかのようには笑えない、強がりを言って怪盗を追い出すことだって……きっとできやしない。
「名探偵?」
彼にだけ許された呼び方は自分が唯一だという錯覚をもたらして優越感を味わわせてくれたけれど、今となってはそれを喜んでいた自分が馬鹿みたいでやっぱり新一は返事を返せなかった。
「……悪かったよ」
「――ッ」
予測していたこととはいえ頭の中で思い描くのと実際に受け止めるのとでは衝撃は段違いで。
訪れた衝撃を新一は息を詰めてやり過ごした。
―――胸が、痛い。
「名探偵?起きているんだろう。話をしよう」
いつもより低めの声が物語っているのは罪悪感だろうか。
布団に顔を埋めたまま新一はボンヤリと考えた。
「名探偵っ」
苛立ったように名を呼ばれるとやはり怖い。
怪盗のことがではなく、怪盗の不興を買ってしまうことが。
この期に及んでまだ嫌われたくないと女々しいことを考える自分に新一は呆れるしかなかった。
「うわっ」
新一は思わず声を上げてしまった。
いきなり包まっていた布団を剥かれたからだ。
「やっぱり起きてるんじゃねーか」
まったく、と溜息を吐きつつ怪盗は布団を剥いだベッドに腰掛け、背を向けたままの新一の髪をあやすように撫ぜた。
「新一?」
先程の強引さが嘘のように優しい声。
無性に大声を上げて泣きたくなる。
泣いては怪盗の迷惑になるだけだから、それはしないけれど。
笑ってなかったことにしてやるのが、自分が取るべき正しい選択なのだろうから。
新一はそう決心してゆっくりと怪盗へと寝返りを打った。
「よう」
久し振りだな、と怪盗はニッと笑った。
薄暗い部屋の中でもカーテンが引かれていないせいで月明かりが差し込んでいる。
月に愛された存在、新一の愛した存在。……新一を愛してはくれない存在。
そう考えると今でも胸が痛くなる。
のっそり起き上がると手袋を着けたままの手が寝乱れた髪を直してくれた。
彼女にもやってあげるんだろうか、そう思っていたたまれなさに顔を伏せた。
「話なら分かってるから」
叫びださないように抑えた声音で言うと、怒ってるみたいに聞こえて新一は内心慌てる。
「……悪かったな。バレないように気をつけてたんだけど」
「も、いいよ。お前が悪い訳じゃないし」
「でも……」
「いいって!……でも、もうこれで終わりな」
ようよう顔を上げて、新一は怪盗を見据えた。
唇には笑み。少しばかり皮肉気なものになってしまったかもしれないけれど、新一の今できる精一杯の強がりだった。
「え……?」
急な展開に怪盗は驚きを露わにした。
「だから!……お前、彼女いるじゃないか。こんな、不毛なこともうやめろよ。……彼女に、悪い」
言い募ると切ない現実に新一の口元からは笑みが消える。
残ったのは揺れる眼差しと、感情を表さないように引き結ばれた口許。
「―――彼女?」
しかし探偵の予想外に怪盗は意外そうな声を出す。いかにも心外だと言わんばかりのそれは含みを持たせていないようで。
さすが世紀の大怪盗、騙すのはお手のモンなんだなと新一は昏く笑う。
「昨日、交差点で会ったのお前だろ?―――可愛い彼女だな」
大女優の息子のプライドでせいぜい綺麗に笑ってみせた。
けれど怪盗は首を振る。
「彼女じゃない。だって俺が好きなの名探偵だし」
今更のような言い訳。偽りの言葉は余計に新一を惨めにさせるだけなのに、怪盗は分かってくれない。
「嘘ばっかり言うなっ!オレのことなんてただのセックスフレンドとしか思ってないんだろ!?」
辛くて辛くて心が悲鳴を上げて。どうしようもなくてとうとう新一が詰るように言った言葉に怪盗は目を見開いた。
予想もしなかった台詞を慌てて否定する。
「何言ってるんだ名探偵。そんなこと俺言ったことないぜ」
「オメーこそ今更誤魔化すな!前に言ったじゃねーか、『せ』のつく関係だって」
何でこんな言い合いしないといけないんだろうと情けなくなってちょっと涙目の新一に、怪盗はいつもの余裕も忘れてぽかんとした表情。
そして一瞬遅れて得心いったのかそれでも返答した。
「おいおい名探偵。すげぇ間違いしてくれたもんだな」
呆れた風に溜息つく怪盗が憎らしくてギッと睨み上げるけど、潤んだ瞳では効果がないらしく何故か目が合った怪盗にガバチョと抱き締められた。
「お前が告白は受けてくれないからさー、今のところは『センユウ』止まり。……そう言いたかったんだけどね」
耳元にかかる息がくすぐったくて思わず首をすくめたところに入り込んだ説明を、一瞬聞き流してしまう。
「……え?」
「―――だから、『戦友』。ライバルってのも近いけど好『敵』手ってよりは、もう今はやっぱり戦『友』って方がしっくりくるよな。フェア精神旺盛な名探偵とは」
「だってお前好きだとか言っても全然自分のこと話さないし」
「って、名探偵が自分で見つけるって言ったから」
「オレと会ったら失敗したって顔したし」
「答え、知っちゃったら楽しくないんだろ?」
クスクス笑いながらの怪盗の返事は全部が自分にとって都合の良いもので。
だから消え入るような声でも続きを言えた。
「……オレのことは遊びなんだと思ってた」
「……本気で、新一のこと好きだよ」
本音を綴ると耳に零れ落ちてきた音も真剣なそれに変わっていて。
初めて呼ばれた名前と共に、新一はようやく怪盗の告白を信じることができた。
「……オレも、好き」
腕の中でそう囁いた新一の声は本当に小さかったけれど、脅威の聴力を持つ怪盗の耳にはしっかり届いて。
怪盗は喜びのままにできたての恋人をギュッと抱き締め、ありがとうと囁いた。
「―――じゃあ、さ。これ、外してくれるか?」
少しだけ抱き合っていると、ふと怪盗が腕の力を緩めた。
示されたのは昼と夜を分かつモノクル。
「ん」
コクリと頷いた新一の頬は期待で上気していて、そんな様子に怪盗は微かに頬を緩めた。
カチリと小さな音を立ててモノクルが新一の手に渡って。
「―――俺、黒羽快斗っていうんだ。よろしくな」
白い戦闘服を身に纏いつつも、浮かべる笑みは既に怪盗のそれとは違って暖かいもので。
嬉しくなって新一も口を開く。
「オレ、工藤新一。よろしく」
顔を見合わせてクスクス笑いあって。
互いを囲っている腕の輪を段々小さくして。
徐々に体をピタリとくっつけて。
最後に唇を重ねたことで室内に響いていた小さな笑い声は消えた。
私はどうも体からくっつく恋人っていうシチュエーションが好きらしく。
しかしよく考えたらそれってセ○レか?(←をい)と風呂場(爆)でふと思いついたのが始まり(笑)。
因みに知る人ぞ知る、前編は拍手企画で限定公開した代物です。
ネタ自体はずっと前に書いていたので、今回書き上げることができて良かったです〜。
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