覚悟
月の綺麗な夜。
心地よい風が薄く空にかかる雲を流して、時折月光を遮る。
望月には少々足りない丸みを帯びた十三夜の月が、今日も夜を舞う白き怪盗をひっそりと見つめていた。
いつものようにあっさりと目当ての宝石を手に入れ、KIDは中継地点に降り立った。
微かな物音さえさせずにビルの屋上に降り立ち、ハンググライダーにしていたマントを解く。
「さて、今日こそは女神が私に微笑んでくださるでしょうか」
小さく呟くと忍ばせていたジュエルを懐から取り出し、左手ですぃと月に掲げた。
祈りを捧げるかのような敬虔な1枚の絵のように。
「……これもハズレか」
ふっとため息をついて今夜の獲物を元通りに仕舞ったところで、微かな足音と慣れた気配がKIDの感覚にかかった。
その存在感に心持ち眉を上げ、KIDは屋上の入り口へと向き直った。
彼を、迎えるために。
バンッ、と音がして。
屋上の重い扉が勢いよく開けられる。
そしてそこに立っていたのは、紛れもなくKIDが唯一と認める名探偵・工藤新一その人だった。
「よぅKID、今日の首尾はどうだった?」
軽く手を挙げ何の気負いもなく新一はKIDに近づいていく。
「いつもと変わりませんよ。彼の女性は未だ私の元へはいらして下さらないようです」
こちらも軽く肩をすくめて挨拶代わりとするKID。
そして彼は、――ところで、と続ける。
「その姿では『初めまして』ですね、名探偵」
改めまして、とマントを捌き恭しくお辞儀をするKIDに、新一もそうだなと苦笑する。
そして小さな名探偵と彼を呼んでいた頃には恒例だった、久々のやりとりを交わす。
「すみませんがこれを返しておいていただけますか」
そしていつもしていたように近づいてくる新一へと宝石を軽く放る。
慣れた仕草でそれを受け止めた新一はそれをそのままポケットへとしまった。
「しかし、お久し振りですね。体の方はもうよろしいのですか?」
APTX4869の解毒剤を飲んだ副作用で、元に戻った当初の工藤新一の体は高熱が続いたり筋力が落ちていたりと、致命的というほどではなかったが小さな問題がいくつか生じていた。
そのため新一は強制的に隣の小さな科学者兼主治医から外出禁止令を出されていたのだ。 そう知っているKIDは今夜名探偵が現れたことで復調したのだろうと思いつつも、確認を込めて問い掛けた。
「ああ、ちょっと体調崩してたけどもう平気だ。前と変わりねーよ」
ニッと笑って告げる新一にKIDはホッとしたように肩の力を抜いた。
それが自分を思っての安堵のためと気づいて、新一はこっそりと嬉しく思う。
今日ここに来た理由を告げるための後押しを貰ったようで。
会わない間互いにあったことを旧友にでも話すように取り留めもなく続けた。
新一は哀に監視されて退屈していたことや、久々に登校した高校のこと。
KIDはその間に行った仕事のことや、新一の体調を気に掛けていたこと。
そしてふと2人の間に沈黙がおりて。
「――ところで名探偵。今宵は私に貴方の元気な姿をお見せに来て下さったのですか?」
怪盗が何気ない口調で核心をついた。
それは新一にとっての1番の重要事項。
ずっと悩んで悩んで、昨日までも気がかりで寝不足になりながらもやっぱり決めたこと。 今日そのためにここに来た。
徐々に鼓動が逸りだすのを感じつつも、新一はニヤリと笑みを浮かべて口を開いた。
「あのな、今日ここに来たのは、お前に言いたいことがあったからなんだ」
さあ、戦闘開始だ。
今はもうKIDとは敵対していないけれど、それ以前のゾクゾクするような頭脳戦。
いやそれ以上の緊張を身にまとって、新一は攻撃を仕掛ける。
不意に新一の気配が変わった。
共に戦線を組むようになってからは感じられなくなったKIDに対する緊張感。
こんな風に親しくなるもっとずっと以前に向けられていたそれ。
しかし少しだけ色の違うその雰囲気に、真剣な瞳にKIDは知らず視線を奪われた。
そして告げられる真実。
「オレな、お前が好きだよKID」
言葉と共にふわりと花開くように微笑んだ新一に見惚れ、次いでKIDはハッと我に返る。
「急に、どうなさったんです?」
いきなりの告白の真意を掴めず、KIDは新一へと問い返す。
「ん?…あのさ、お前いつも危険と隣り合わせだよな」
そんなKIDに新一はふ、と表情を改めた。
「―――死を、覚悟したことってあるか?」
真剣な表情で問うてくる新一に、意図が分からないながらも真摯に頷く。
「ええ、…いつも」
怪盗の返答は彼の予想を違えなかったらしく、肩の力を抜いた新一はけれど少しだけ困ったような顔でKIDに笑い掛けた。
「そ、か。そうだよな、やっぱ」
「…それが何か?」
「あ、いや。お前も知っての通り、オレも1度死にそこねた身だろ?
――正直あの時まで、未来ってのはずっと続いてくもんなんだと疑いもなく思ってた」
苦笑して新一はクルリとKIDに背を向ける。
そのまま両腕を上にやり伸びをしたと思ったら再び向き直った。
「だけど、分かった。人ってのはいつ死んでもおかしくないんだ」
まぁ、オレやお前の場合はちょっと特殊だけどな。
そう付け加えて新一はクスリと小さな笑みをこぼした。
「…そうですね。未来は誰にも予測できないものです。だから、覚悟だけはしています。
――尤も、簡単にやられるつもりはこれっぽっちもないですがね」
肩をすくめて賛同するKIDを嬉しげに見つめ、その視線が促すように見つめてくるのに気づき新一は再び口を開く。
「だからさ、ようやく『オレ』が言えるから。言いに来た、お前に。好きだ、って」
その時の新一の瞳は自信に溢れていたようにKIDには見えた。
告白の返事に対する自信というのではなく、自分の想いに対する自信といえばいいのだろうか。
それとも行動に?
とにかく彼はその想いとこの行動に未塵も疑問や懸念を感じていないのだろう。
そう確信したKIDはいろんな感情を込めて小さな溜息をついた。
しかしそれには呆れや嫌悪というファクターは見当たらず、寧ろ感嘆や安堵といった構成物が大半を占めていることをKIDは知っていた。
「現在の私は――」
少しだけ自分の心を反芻して。
おもむろに口を開いたKIDに、新一は真剣な眼差しを向ける。
その瞳の強さに心を引っ張られて、KIDは言いかけていた言葉を無意識に止めてしまった。
「KID?」
そんな常にない様子を訝しく思ったのか、少しだけ眉を寄せて新一は小首をかしげた。
「ああ、いえ。すみません」
その呼びかけに我に返ったKIDは空に在る月を見上げふ、と軽く吐息をつくと気を取り直して新一に視線を戻した。
「現在の私は、貴方にそのような感情を持ち合わせてはいません」
キッパリと言い切るKIDに新一は小さく笑みを浮かべた。
色々な感情がないまぜになったそれはKIDから見ると唇を歪める行為と映ったかもしれない。
好きだという感情を告げて、同等のものは返ってこない。
それはつまり告白は成功しなかったということだ。
けれど、と気を取り直して新一は確認した。
「今までどおりの関係ではいてくれるか?」
告げた新一の言葉にKIDは僅かに目を見開いて、次いで破顔した。
それこそ月の光しか届かないこの場所が、一瞬にしてパッと明るくなったかのような錯覚を抱かせるほどの変貌で。
「名探偵、貴方は何か勘違いしている。今までの関係に戻るなんてもう無理だ」
クスクスと楽しげな様子で軽やかに言いのけた怪盗に、名探偵と呼ばれた新一は諦めてひとつ深く息を吸った。
戻すことができない時間を呪ったりはしない。
拒絶された想いを告げなかったことにはできないし、したくない。
これで訪れるのがこの優しい時間の喪失だったとしても、それでもこの気持ちだけは伝えておきたかったのだ。
「分かった。じゃあ、元気で、な。怪盗KID」
だから最後に浮かべたのは意地でも精一杯の笑み。
新一は予想外の告白という記憶の最後に残るのはせめて1番の笑顔をと思い、ちくちくする心臓を無視して笑みを浮かべた。
そしてそのまま怪盗の返事を待つことなく屋上から階下へ降りるドアへと足を向けた。
「ちょっ!」
慌てたようなKIDに振り向きたかったけれど、もうそれはできない。
仮面が剥がれ落ちる瞬間なんてKIDには見せられないから。
新一は歪みそうになる視界を正面に見えるドアを睨むことで必死に堪え、足早にKIDから逃げようとしていた。
なのに。
グイ、と右腕が引かれて。
強制的に振り向かされた体に慌てて抵抗しようとするのを阻止するように腰を引き寄せられて。
潤んだ瞳ではもう誤魔化せないかもしれないけれど、それでも精一杯のプライドで新一は怪盗を睨んだ。
「待って下さい」
至近距離で怪盗の真摯な眼差しを受け止める。
そこには少しの誤魔化しもなく、だから新一はもがくのを諦めて大人しくKIDの腕に収まった。
「私はまだ決定的な言葉を何も言ってはいないと思いますが、何故名探偵はそうやって勝手に納得して私の前から消えようとしてしまわれるのですか?」
それは消えようと思った新一をなじるもので。
けれどKIDからもたらされた言葉から導き出される結論は、どうやったって覆りはしない。
「お前、オレのこと好きじゃなくて。でも好きだって言ったのはなしにはならなくて。元通りにはなれないんだろ。それってもう今までみたいにこういう風には会いたくないってことじゃないか」
名探偵と言われる自分の推理が間違っているとは思えなくて、それは悲しい結果だけれどだからこそ自分は納得したのだ。
仕方がないと。
「名探偵、貴方らしくもない。真実を見通すこの双眸は、私の中の想いは見つけ出せませんでしたか?」
優しげに微笑む怪盗を至近距離で見てしまって、新一はそんな場合ではないのに思わず頬に血が上る。
そんな新一を視認してますます笑みを浮かべたKIDは、新一の誤解の糸を解きほぐしていった。
「確かに今の私は貴方のことを恋愛感情で見たことはありませんでした。そして今後を貴方の言うように、この夜のことをなかったことにして今まで通りに対峙するというのも無理だといいました」
それはね――。
不意に笑みの種類が変わる。
見慣れたそれは怪盗がいつも浮かべている不敵なものとも違い、でも稀に見たことがある表情。
そう、言うなれば悪戯っぽいそれ。
「貴方の告白を、私はどうも喜んでいるようなのです。未だ貴方を好きだとは言えませんが、少しずつ貴方に近づいてもよろしいですか」
添削された解答へ赤ペンで書き込まれた模範解答に、新一の瞳が大きく見開かれた。
そしてそのままパッと下を向き、表情をKIDから隠すと促すKIDへ小さくコクリと首を縦に動かした。
「ありがとうございます」
そう言ってKIDは新一のことなどお見通しとばかりに下を向いたままの頭を自分の肩口に引き寄せ、そうっと力を込めて腕の中の肢体を抱きしめた。
まだ好きだと言われた訳ではないけれど。
自分にまわされたその腕の温かさに新一は無意識に笑みを浮かべ。
「ぁ…れ?きっ、ど。ごめ…」
緊張の糸が切れたのか今までの寝不足が一気にやってきて眠りへと引きずり込まれた。
「名探偵?どうしたんですか!?」
不意にぐったりと自分に体を預けた新一に驚きその顔を覗き込んで。
そこにあどけない寝顔を見つけたKIDは安堵と呆れからくる溜息をひとつ大きくついて。
それからクスリと笑みを零した。
「仕方ない王子様だ」
そう漏らしてKIDの扮装を解き腕の中の肢体を抱き上げる。
そして予定外の目的地に恋人志願の彼を送り届けるべく、新一を背負って屋内に通じる扉へと歩き出した。
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