そこに彼がいる
そう思うだけで、涙が止まらない――
足下の砂を波がさらっていく。
群青の海。空を覆う鉛色の雲。ひきりなしに吹き付けてくる冷たい風。
この場所に立ち尽くして、どれくらい時が経ったのだろう。
いつまでここでこうしていても何の意味もないことはわかっているのに。
目は唯一つの方角だけに向けられ、逸らすことはできない。見えるのはただ、海と空ばかりなのに。
この方角の、海の彼方。絶海の孤島にそびえ立つ牢獄。アズカバン。
そこに、彼がいる。
すべての喜びと慰め、ささやかな幸福といくらかの誇り、この心をあたためてくれたあらゆるもの――それを、根こそぎ奪って行った彼が。
何が起こったのかを知ったときは、すべてが終わってしまっていた。
どうすることもできず、ただ事実として突きつけられたものを受け入れるしかなかった。
こんな最悪な結末を迎えてしまった以上、「なぜ?」という問いも、もう無意味だ。
自分はすべてを失ってしまった。それを取り戻す術はない。
しばらくは後悔に苛まれた。
なぜ自分は、彼から離れてしまったのだろうと。
彼の近くにいたならば、失われた命を一つでも救うことができたかもしれない。
それが適わなくとも、一人遺されてこんなやるせない思いをすることはなかったのに。
何もできなかったとしても、せめて最初に彼の手にかかるのは自分でありたかった。
この場所に来てしまった理由は、自分にもわからない。
地上で最もアズカバンに近付くことができる場所。
しかしながらその影さえも目にすることはできず、身の芯まで凍らせるような荒涼とした光景がその地を彷彿とさせるに過ぎない。
それでも、その方角を見据えて立ち尽くしたまま、動くこともできなくなってしまった。
気が付くと、頬が涙で濡れていた。
そこに、彼がいる。
そう思うだけで、涙は止めどなく流れた。
亡くした者を悼む涙でも、何もできなかった自分を悔やむ涙でも、すべてを奪われたことを恨む涙でもない。
ただ胸を占めるのは――
滑稽だ。
彼と共に在ったときには、一度もこんな思いを感じたことはなかったのに。
彼がくれる言葉と同じものを返すことができない自分に、罪悪感すら抱いていたのに。
裏切りは明白で、彼の言葉はすべて偽りであったのかもしれないとさえ思えるのに。
それなのに、すべてが終わってしまった今になって、どうしてこんなにも彼を愛している自分に気付いてしまうのだろう――
彼に愛していると言ったことは一度もなかった。
好きだという言葉さえ、戯れに紛れるようにして言ったことしかない。
ただ、何も持たない自分を求めてくれる彼を失いたくなくて、流されているだけなのではないかと疑ってさえいた。
だからどうしても、自分が真実だとは思っていない言葉を口に出すことはできなかった。
なのに、今になって。
どうあっても彼にそれを伝えることはできない今になって、どうして自分が彼を愛していることに気付いてしまったのだろう。
否。どんな言葉も彼が聞くことができない今だからこそ、臆病な自分はその想いを認めることができたのかもしれない。
その言葉が、何の意味も持たなくなった今になって。今だからこそ。
彼を愛している。
すべてが終わってしまった今でも。
足から力が抜け、砂の上に膝をつく。
うち寄せる波は容赦なく体を濡らし、また海へと帰っていく。
このまま波にさらわれてしまったら、どんなにか楽になれるだろうと思う。
だが、わかっている。自分が再び立ち上がり、ここから去っていくことを。
ここで楽になってしまえるほど、自分は弱くも強くもない。
それでも今はまだ――
そこに彼がいる。
そう思うだけで、涙が止まらない。
声なき声は、涙となって海に溶けた。
〈END〉
by misae okano
20020526