ケモノの傷跡






向かった先は言うまでもなくのところだ。
すれ違う者皆が「立花殿、が」と当惑した顔で私に告げ、「知っている」と返してその一人に場所はどこだと聞けば、
殿の間だ知らされ、私はそいつの次の言葉を聞く事もなく足早に其処へ向かう。
途中の廊下では女たちがヒソヒソと顔を寄せ合って彼女の噂話をしており、
各所を守る兵たちでさえ何やら落ち着かないように見えた。
殿の間へ続く廊下には両脇に武士が控え、御苦労と声をかけると、お入りくださいと
視線でその奥を促され、それに従って焦る足取りを何とか抑えながら目指す場所に向かった。
失礼する、そう立ちはだかる障壁の前の人間に告げるや否や私は勢いよく襖を引き開けた。
はたして、其処にはいた。
















城の大広間。上座に、殿とその寵臣。壁に沿ってずらりと並び坐す男衆。
私は、それに囲まれ圧迫されるように、部屋の中心に座らされていた。

「今ごろ戻ってきて何だ?処罰を受けようとでも言うのか、ん?」

一週間前までは何とかまともな政治をしていた男だが、今となってはただの下衆だ。
ギリ、と奥歯を噛みながらも、頭を低くして声を絞り出す。

「その通りでございます」

途端、場がざわめき立った。
どういう気だと真意をはかり窺う者、やはりそうだったか女狐めと罵る者、反応はそれぞれであったが
私は兎に角、あえて聞き入れまいと努めた。

「静粛に!」

殿の隣に座っていた男が、もったいぶった調子で声をあげる。
見れば、三十代半ばだろうか、狡猾そうな顔の、かつては殿に賄賂を渡しているなどと
いやな噂もあった男であった。大老の姿はない。
大老…義に厚い、立派な方だった…。
クッと唇を噛み締める。
「続けよ」と、殿が顎をしゃくって次の言葉を促し、私は悔しく思いながらも更に頭を低く下げた。

「元はといえば自分の薬箱から目を離しておりました私の責任でございます。
そのうえ薬のほどを確認せず、若様に服用していただきますまで毒だと気付きませんでした。
この城内の御方々のお命をお助け申し上げるのが私の勤めでありますのに
それが果たせませんでした。詫びの入れようがございません。しいては私の命を…」
「愚かな。お主一人の命で解決すれば問題はないのだ!」

いつの間に謁見の場で野次を飛ばす事が可能になったのか。
しかもそれを誰も咎めやしない。この場を司る者である殿さえもだ。
いや…むしろ私に飛ばされる誹謗中傷を楽しんでいるかのようにも見えた。

「しかし、ほんとうに申し入れたいのはその事ではございません」

飛ばされる野次を遮るように、私は語調を強めた。
全員の視線が私に集中した。

「今、この国は若様の暗殺を企図した東方の国との戦の準備をはじめているとのこと。
…今、この城に捕らえられておりますその国の忍びである男を解放していただき、
そして、相手国との講和を進めていただきたく存じます」

そう告げると、またもや周囲の男たちがどよめいた。

「馬鹿め!女風情が政に口出しする気か!」

そんなヒステリックな声をきっかけに、部屋の中はあっという間に非難と怒号で埋まっていった。
罵倒の言葉が自然私の身を強張らせた。だがここで顔を下ろしてはいけない。
殿の顔を凝視する。
殿は綽々とした様子で私の反応を窺っているようだった。
あらかた罵りたてる台詞が其処をついたかという頃になって、殿は横の男に合図した。

「静粛に!」

その一声で、しんと場が静まり返る。
殿は顎を軽く上げたみだりがわしい顔で口を開いた。

「良かろう、ならば裁きじゃ!判決が変わるとも思えんがなぁ?
皆のもの、裁きの間の用意をせよ!今すぐだ、良いな!」

声高に吠え立てると、殿はずかずかと私の隣を突っ切り、広間を後にした。
残されたもの達も、急な裁きの始まりを告げられればその準備に取り掛かるため、
バタバタと慌しく出て行きはじめた。





そして最後に、だだっ広い部屋に私ひとりが残された。
…気がつくと、膝の上の手がカタカタと震えていた。

「なぜ今更帰ってきた」

突然後ろから声をかけられ、驚愕して膝立ちに振り返る。
ただひとり残されたとばかり思っていたのに、広間の入り口に目を向けると其処にはもうひとり、
立花仙蔵が腕を組んで佇んでいた。

「…立花」

ゆっくりとした足の運びで、彼は私の横に近付いた。

「人助けのつもりならやめておけ。下手な同情は時に人の自尊心を傷つける」
「同情じゃない」

嗜めるような口調の彼に、私ははっきりと言い返した。

「同情じゃない。私があいつを死なせたくないだけ」
「あいつはお前の医者としての人生を滅茶苦茶にした男だ」
「確かにそうよ。けど、私がその男に救われたって言うのも事実なのよ」
「あいつの命を救うのはお前の仕事の範囲じゃない」
「確かに治療はした。けどそれとは別に、私は一人の人間としてあいつの命を救いたいのよ」
「そんな言葉が通るような世界じゃない!」

立花は語気を荒げた。

「我々は忍びなんだ!捕らえられればどんな拷問にも甘んじる。主を守る為にな…!
 そしてその結果であれば、死も覚悟している!それが我々の生き方だ!
 あまり過ぎたまねをすると、忍の人生を冒涜しかねんぞ!」

普段の彼の流麗な語り口からは考えられぬほど、低く荒々しい声。
そのあまりの激しさに、私は思わず居竦んだ。
その眼には、肉食獣のようなぎらついた睨みが宿り、有無を言わせぬような圧力を感じた。
…だが私はふと気付いた。
何人たりとも歯向かわせぬこの男の空気の裏に隠された物があることを。
角立った空気を撫でるかのように、言葉が口を吐いた。

「…あんた。ボロボロじゃない、立花」

漏れ出た声には、哀れみが滲んでいたのかもしれない。立花は一層苛立った声で、

「どこがだ?傷一つ負っちゃいない!」

…これこそ同情だろう。
そんな思いを掛けられる事を、立花も私も最も嫌っていた。
ひょっとしたら、今この場にいない潮江も嫌いかもしれない。
情けを掛けられる事を懼れたからこそ、私たちは独りだった。
同じ傷口を持っていて、それを無意識のうちに悟って、歩み寄ったくせに、
かたくなに舐めあおうとせず、舐めさせようとしなかった。
…そして。
最もかたくなに、孤高に徹していたのは。
今にも崩れそうな脆い自己を保とうとしていたのは。
迷いや苦しみを知らぬ日々の美しさに囚われて身動きが取れなくなっていたのは。
一番、救いを求めていたのは。
ボロボロなのは。

「あんたの心だよ、立花…」

途端、立花の顔色が変わった。
先ほどまでその目に宿っていた眼光は焦燥と迷いに姿を変えた。
纏っていた衣がはがれ、その下の剥き出しの裸の心を覗いた。
どうしていいかわからない様子だった。
私は、小さく息を吸うと、そんな立花を強く見据えて、静かに言った。

「…あんたも、こんなとこで終わる人間じゃない。少なくとも、私はそう思う…」

立花からの返事はない。

「…もう一回やり直してみろや。………あいつが言ってくれた言葉よ。」

私は軽く彼の肩をたたいて広間を後にした。











彼は今迷っている。
心の芯を失って。
だけど、あんたの本当の芯は其処じゃない。
見失っているだけだ。
あんたの芯にはさっきまであんたが縋っていた脆い芯とは比べ物にならないくらい、
しなやかで気丈な、美しく誇り高い、


真の獣が住んでいる。















…孤高のケモノ






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