+ 鑑と鏡 +
「釣れてるの?」
前触れすら感じさせず、けれど確かにその少年魔法使いはそこに立っていた。
声で誰だかわかるから、振り向く事もしない。アシナはそのまま、釣り糸を垂れたまま答えた。
「……まあまあかな」
「一匹もいないじゃない」
「釣り上げても、放してるからね」
アシナの、独白しているような調子に、ルックは幾分苛立ちを感じた。よく言えばいるのが当たり前のように、悪く言えばいてもいなくても構わないように振舞う彼の様子が癇に触る。だから、幾分意地悪そうに用件を切り出した。
「今は均衡状態が続いてるから三匹釣り上げるまで。それきりだからって、」
「………」
「そうマッシュに言ったんじゃない」
くすくす笑いながら、それで漸くルックの方を向く。年齢に相応しくない落ち着き具合に、何となく尻込みさせられる。
「そうだったね」
無邪気、と形容してもよい笑みを浮かべている彼に、ルックは溜息をついた。
「約束、守るつもりが無いならするんじゃないよ」
「そう言われると返す言葉が無いな」
そしてまた笑い、釣り糸のほうに集中してしまった。こうなると、しばらくは梃子でも動かない。そうわかっていたから、諦めたようにルックは近くの岩に腰掛けた。
ぴくりと反応した糸を手際よくたどる。ルックの見守る中、アシナはいとも容易く釣り上げる。
「なんだ、ちゃんと釣れるじゃない」
「……信じてなかったのか」
口をへの字に曲げながら、丁寧に釣り針をはずす。
アシナはルックの目の前でサカナを水に戻した。
「あ、本当に放すの?」
放した魚はゆうゆうと二人の前で泳ぎまわり、そのまま深くへ潜っていった。アシナの方を見ると彼は薄く笑んでいて、そして己を見ているルックに気付いた。
「釣る事を楽しんでいる訳じゃ、無いから。釣りをしている時間を楽しんでるんだよ」
「そんなんじゃ、いつまで経っても帰れないじゃないか」
再び溜息をついたルックに、それでも少し悪気があったのか、ごめん、と言った。
「帰りたいんならいいよ、先に帰っても」
「そうはいかないよ。何のために僕がここにいるか、わかってる?」
「……そうだったね」
けれどアシナはそのまま釣り針にエサをつけると、水面へと投げ入れた。
これは長くなりそうだ、とルックは本腰を入れて待つ事にした。どうせ待つ事には慣れている。
ルックが来た頃はほぼ中天にあった太陽が、次第に色を変え湖の端にかかりだした。マッシュら、解放軍の幹部は今ごろ気を揉んでいる事だろう。軍主たるアシナと星見レックナートから預かった一番弟子である自分がいつまでたっても帰らないのだから。
一匹釣っては放し、一匹釣っては放しを繰り返すアシナに、ルックは三度目の溜息をついた。
「帰りたくないんなら、そう言えばいいのに」
「そうはいかないよ。僕はリーダーだからね、そんな事、口にできない」
静かに返すアシナは、相変わらずこちらを振り向かない。
「リーダーにだって、一人になる権利はあると思うけど。辛いんだったらやめてもいいんじゃない?」
「……ルック」
雰囲気に飲まれているのかもしれない。
魔術師の島よりイゼルローン城に移ってからというもの、絶えずまわりに人がいた。こんなに人の少ない状況は久しぶりだ。
だから自分を傷つける者などいないと、錯覚してしまう。他人に対して心を鎧う必要などないのだと、安心してしまう。
ひどく素直になっている自分を、どこか遠くで見ているような気がした。
「リーダーだから、ってそんな理由だけで完全無欠の聖者になる必要は無いんだよ? 誰だって弱いところはあるんだから。」
“星に選ばれたから”といって望みもしない運命を押し付けられるのはごめんだ。何にも縛られず、自分の選んだ路を生きたい。
自分で行き先を決められない未来など、いったい何の意味がある? 今まで必死に切り開いてきた路は、自分だけのもの。己の意志で選び取り、歩んできたのだ。それを否定させるつもりはないし、これからだってさせない。
ゆっくり首を振りながら、アシナはルックを止めた。
「ルック、それ以上は言うな」
「何? せっかくの決心が鈍る?」
「そうじゃないけど……逃げ道を示されると逃げたくなる。
そんな事できないし、する気もないけどね」
「……そう。たいへんだね、縛られてるってのは」
同情ではなく、感心した。彼は、それが目に見えない手に導かれる路だと知りながら、それでも彼自身で決める事を諦めていない。その強情さを見て取り、これが彼足らしめているものなのかなと思った。
ふと、思い立って、アシナのすぐ隣に座り釣り竿を取り上げる。一度針を引き寄せてから、再び投げ入れた。
すぐ傍で珍しいものでも見るように、アシナがこちらを見ているのがわかる。意識して視界から外し、釣り糸と水面の接点を見る。
ルックが釣りに集中しだした為、手持ち無沙汰になってしまったらしい。アシナは大きく息を吐きながら上半身を倒した。
空模様が目に鮮やかだった。雲と雲の合間から微かに星明りが見て取れる。陽はまだ見えるものの遠からず姿を消すことが窺われた。
「別に、リーダーである事は苦にならないんだよ。そういう星の下に生まれついたせいかな。相手の期待しているリーダーでいる事は、僕にとって自然体なんだ」
「その仮面の下で、痛いくらいに手を握り締めているのに?」
当たりがついてもすぐに落としてしまい、アシナのようにうまくはいかない。じれったさのせいでつい声が刺刺してしまうのを止められない。
「それも含めて、リーダーなんだと思うよ。ルックも言ったけど、完全無欠の聖者になる必要は無いんだ。ただ、相手を信じさせておけばいい」
「嘘つき」
諦めたように釣り竿を渡す。アシナは手馴れた様子でエサを付け替え、薄暗くなった水の中へと落とした。
「気付かせなければいいんだよ」
「僕があんたのそういうところ、言いふらしてあげようか? そうしたら、リーダーの重圧から逃れられるかもしれないよ」
「言わないよ。ルックは言わない」
釣り竿を持つと性格が変わるんじゃないのか?
思わずそう思った。釣り竿を手に持ち、水面を眺める横顔は疑いようのない指導者の顔。人が自分を裏切らない事を確信している言い方だ。
「ずるいね、そういうの」
そういう言い方をされては、もう何も言えないではないか。ルックは降参の合図に両手を上げた。
竿を手にしてからそう経たぬうちに、一匹釣り上げる。針をはずし、水の中へ放そうとするのを、釈然としない様子のルックが止める。アシナは苦笑しながら、用意してきた入れ物に入れる。
再び針を投げ入れながら呟いた。
「リーダーでいるのなんて、簡単なんだ。でも……その先に見えるものが怖い。だから、いつまで経っても進めないだけだよ」
付き人の犠牲。父殺しの罪。
もう失うものなどないだろうに。
けれど考えてしまう。
――今度は誰だ?
詰まらなさそうにアシナの手元を見ていたルックが、意地悪く返す。
「そうやって、いつまで足踏みしてるつもり? 後ろから誰かに押されなきゃ進めないくらい、あんたは弱いの? ねぇ、リーダー?」
「いいじゃないか。長い人生なんだ、ゆっくりしていても」
お互いに、ね。
音としては発せられなかったものの、口の動きで容易に読み取れる。
「性悪……」
顔を歪めて言い放つ。そんな様子をおかしげに見ながらくすくす笑った。
「ルックに言われたくはなかったなぁ」
陽が完全に沈み、地平線にかかる赤味も目で追えるように薄れていく。
ルックはゆったりとした法衣の裾をはたきながら立ち上がった。
「さっさと終わらせなよ。僕は早く帰りたいんだ」
「ああ、終わらせるよ。今までどうせ、引き延ばしてただけなんだから」
三匹目を釣るため、何度目かわからない針を投げ入れる。
「すぐに終わるよ」
完全無欠のリーダーにとっては、全てが簡単な事なんだから。
end
1999/08/31初出、原題「水泡のように」
2001/10/11改稿
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