+  遠くの明日  +



 身の回りの始末もした。遣り残した事もない。レックナートから言い付かった事は全て果たしたはずだ。後はここを去るだけで終わり。
 割り当てられた部屋からでも、レックナートの元に瞬時に舞い戻る事はできた。けれど、最後だし、とせめてグレッグミンスターの門までは歩いて行こうかと思った。
 グレッグミンスターを落としたその晩。
 仮宿舎となった建物はひっそりと静まり返っていた。
 戦勝と同時にもたらされた、軍師マッシュの死。そしてビクトール、フリック両名の行方不明という事実は共に戦った仲間たちに暗い影を投げかけていた。
 部屋を出て、廊下を真っ直ぐ。足音だけが響く静寂が耳に心地よかった。
 角を二回曲がり、階段に差し掛かった所で、踊り場から下りてくる人影に気付いた。
 ルックよりやや年上の、若い軍主。戦いの時以外は常に付き従う姿は見えず、珍しく一人だった。
「やあ……」
 瞬時に表情を曇らせたルックには気も留めず、アシナは笑いかけた。そのまま踊り場から下り、足を止めていたルックの側に立つ。
 外へ向かおうとしている事は容易に想像できた。すでに戦いは終わったというのに、手に握るは愛用の棍、そして頭の先から爪先まで明らかな旅装。
「……こんな時間にお出かけ?」
「まあね」
「ふ…ん。明日はさぞかし盛り上がりに欠ける祝賀会になるだろうね」
 身に染みついた嫌味がするすると出る。意識しないでも湯水のように湧いてくるのだから、これはもう才能と言っても良いかもしれない。
 そんな自分にうんざりしていると、アシナはくすくすと切り返してきた。
「ルックには関係ないだろ?」
……どうせいないんだし。
 片目を閉じた瞳で暗に言葉を語る。嫌な癖だと思って舌打ちした。
「確かにね。それじゃ、さっさと行けば? それとも、引き止めて欲しいわけ?」
「まさか。誰が何と言おうとここに留まる気はない」
 顔は穏やかだが、その言葉には確固たる意志が含まれている。目を僅かに細めて笑う姿からは柔軟さと強靭さが窺われ、まるで柳のようだと感じられた。
 そんなアシナから、す、と手が差し出された。
「ルックはレックナート様の下に帰るところなんだろう? せっかくだから途中まで、一緒に行こう」
 こういう場面で自分が手を差し出すと思っているのだろうか。
 ぷいと無視して、ルックは一人で歩き出した。
「つれないね」
 苦笑して後ろからアシナがついて来る。
「なに馬鹿なこと言ってるんだよ」
「似た者同士、たまには良いんじゃない? 戦いに勝ったその晩に抜け出そうとする人間なんて、そうそういないだろう」
「僕とあんたじゃ理由が違うよ」
「鋭いね」
「……馬鹿にしてるの?」
 うんざりしながら振り向いた。
「とんでもない」
 追いついたアシナがルックの代わりに扉を開ける。
 夜気が思ったよりも温く湿っていて、まるで水底のようだと思った。身に纏わり付く空気を掻き分けて泳いでいるようだ。
 外の空気を吸って大きく伸びをして、アシナはルックを見た。
「……ああ、でも。誰にも会わずに出て行くつもりだったのに間が悪かったな」
「その言葉、そっくり返してあげるよ。全く、運が悪い」
「クライブは昼間からさっさと姿を消していたっけ。彼を倣えば良かった」
 何の気なしに呟いたであろうアシナの言葉を、ルックは耳聡く聞いていた。
「無茶言うんじゃないよ。あんたが皇帝を倒さないうちに去ってどうするの」
「そう。……だからね、あの時に……城が崩れて混乱している時に、ここを発っていれば良かった」
「………」
「どうせ、この戦いが終わったら、できる限り早く発つつもりだったんだ。せっかく平穏が取り戻された地にいても、僕は災いにしかならないしね。それに……」
 アシナは細く開いた目で夜空を見上げた。けれどその瞳には夜空を飾る星など映っていないだろう。微かに覗く黒目が月をも吸い込むほど深く感じられた。
 僅かな沈黙が耐え難くてルックは言葉を継いだ。
「また近しい者を喰うかもしれないから?」
「ここは僕には居心地が良すぎる。早く抜け出さないと」
「……また、人を喰っているよね」
「やっぱりわかるか」
 苦笑して答える顔が儚く思えて、内心うろたえた。
「なんとなくだけどね。紋章の力が増してるから……」
「そっか。……たぶん、マッシュのだよ」
「マッシュ? 彼だけ? …ビクトールやフリックは?」
 意外さを隠せないルックに、アシナは言い聞かせるように話し始めた。
「わからない。三人ともかもしれないし、マッシュだけかもしれない。場合によっては、ビクトールとフリックのどちらか一方と、マッシュかもしれない」
「じゃあ、どうして」
「リュウカンが看取ったのだから、マッシュが死んだのは紛れもなく事実だけど……誰もビクトールとフリックの最期を見届けたわけじゃない。だから、まだ生きている可能性はある。僅かでも可能性がある限り、望みは捨てるべきじゃないだろう?」
 言葉の終わりと同時に向けられた視線には、絶望すら希望に変えてみせるような強い光が宿っていた。その光こそが、解放軍を勝利へ導いた力。誰もが彼の瞳に宿るその光に引かれ、彼の下へ集ったのだ。
 深く頷いて、珍しく棘のない言葉を語った。
「……そうだね。二人ともあれぐらいの事でくたばるような人間じゃないし、特に、ビクトールに関しては、夜の紋章…星辰剣もついていたしね」
 夜の紋章ならば高々二人の人間を守るくらい、容易い事だろう。
 同じことに思い当たっていたのか、アシナもルックの言葉に頷いた。
「それに、あの二人は生きて帰るって約束してくれたから」
 それこそ曇り一点ない笑みをアシナは浮かべる。
 その様子に、ルックは一気にうんざりした。
「……一番の理由がそれ?」
「これ以上に確かな理由はないよ」
「……幸せだね、そう簡単に信じられるなんて」
 アシナには指導者であった以上、人を信じる事は絶対条件だっただろう。
 けれど、ルックは信じるにたるものは己の身体と能力だけだと思っていた。己の心さえ移ろい易く、信じる事ができずにいるのに。
 まして他人など空恐ろしくて信じる事など出来たものではない。
「………」
 アシナは黙ってルックを見つめた後、良い考えでも浮かんだように、にっと笑った。
「よし、じゃあルックも信じよう?」
「はぁ?」
 精神的な不意打ちを食らってルックは気の抜けた声をあげた。だがアシナはそんな事には構わずに続けた。
「あの二人が生きている事。僕と一緒に信じていて」
「ちょっと、何でそんな事に……」
 勝手に進む話に思わず後退ろうとしたところを、アシナの腕に止められる。
「ルックは人を信じないからね。裏切られる事が怖いのかもしれないけれど、でもそんなことじゃ、いつか一人になる。そうなる前に人を信じる練習しておこう」
「………」
「大丈夫、僕が言うんだから間違いない。だから、一緒に信じて」
 間近で顔を覗き込まれて、ひどく狼狽した。
 捕らわれたようにアシナの瞳から目を逸らせない。
 その瞳が苦手なのに。
 深くて深くて、引きずり込まれそうで。きっと逃げる事さえできない。
 自分が喰われるとしたら、右手の紋章にではなくてこの瞳にだろう。
 けれど、不思議と怖いとは思わなかった。どころか、その深みに自分からはまって行くのも面白いかもしれないと思えた。

 ―――その瞳の色が好きだから。

 騙されたと思って信じてみるのも良いかもしれない。
 氷を溶かすように表情を緩めた。くすくす笑って、一しきり笑った後、軽くアシナの腕を振り払った。
「……そうだね。もし先にあの二人に会ったら、あんたの代わりに嫌味の一つでも言っといてあげるよ」
 身を翻し早足で歩み始めたルックに苦笑を混じえて、頼むよと声を掛ける。
 先を行くルックの足が急に止まった。
「ああ、ほら。保護者が先に来ているよ」
 目の前に見えるグレッグミンスターの門の前に、グレミオの姿があった。
「うぅん、流石にわかっているなぁ」
 感心したように唸る。ふと気付くと、笑みを抑えたルックがロッドを構えていた。
「じゃあ、僕はここまでだね」
「ルック」
 引き留めるように手首を握ったアシナの手を、ルックは引き剥がした。
「必要以上に関わり合いを持つのは嫌いなんだよ」
 別れの挨拶をする時間をも惜しむように、すぐさま姿を消す。
「ルッ……ク……?」
 後に残ったのは地面の近くで小さく渦巻くつむじ風のみ。
「ぼっちゃーーん」
 人の気配に気付いたのか、グレミオが駆け寄ってきた。しかし、そんなグレミオにも構わず、アシナはルックの消えた後を見詰めていた。
「……しても……のかな」
「ぼっちゃん? どうしました?」
 らしくなく、心在らずといったようにも見えるアシナをグレミオが気遣う。
 ――必要以上に関わり合いを持つのは嫌いなんだよ。
 グレミオと顔を合わせる事が「必要以上に係わり合いを持つ」事になるのなら。
 ならば、短い時間でもここまで歩いてきた自分は?
「……深読みしてもいいのかな……」
「何をですか?」
 不思議そうに訊ねるグレミオに、表情を引き締めて首を振った。
「何でもない。行こう、グレミオ」
「はい、ぼっちゃん」
 石畳には戦乱の傷跡が色濃く残り、足を取られ易かった。だが、明日からは徐々に直されていくのだろう。それを見られないのは多少残念な気がした。
 グレッグミンスターの門を通り抜ける。それから後は、もう後ろを振り返らない。目の前に広がる広野に、いずれまた再会するであろう仲間達を浮かべながら最初の一歩を踏み入れた。
 この地で果たすべきことは全て終わったのだ。



end
1999/09/11初出 ・ 2001/10/11改稿

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