+ 鍵の掛かった部屋 +
もう、随分と長い時間この部屋に閉じ込められている。何時から閉じ込められているのか、なんて、既に忘れた。
扉からも窓からも抜け出す事が出来ず、ただ時間だけが流れる。窓は大きく開け放たれているが、そこからこの部屋を抜け出そうなどと思い当たらなかった。
出る事の叶わない部屋でルックは、窓から外を眺めていた。
大気の流れは何時だって退屈させずにいてくれる。伝える音が、匂いが、感情が心を休めてくれる事もあったし、心をささくれ立たせる事もあった。
けれど最近は悲哀の声ばかりが響いて堪らない。だから風を読んでいてもすぐに目を逸らす。今まで幾度となく繰り返した動作を今日もまた繰り返していた。
部屋の主は今、本棚から取り出した一冊の本を読んでいる。マッシュから借りた戦術指南の本だと言う。
そんなの読んで何の役に立つの、実際に戦の指揮を取るのはマッシュの役目じゃないか。
皮肉っぽく言ってやったら、ただ一人にしか頼れない軍なんていつか負ける日が来るよ、そう言って表紙を捲った。くすりと笑いながら言われたのが面白くなくて、ルックはぽふと寝台に仰向けに倒れ込んだ。
初めこそこの部屋に囚われた事が悔しくて抜け出そうと足掻いたものだった。落ち着き無く部屋の中を歩き回ったり立ち止まったりして、どうやって脱出してやろうか思案に暮れた。けれど抜け出す事も出来ずに何日も過ごしているうち、きっとここに囚われる事は不可避の出来事だったのだろうと思えてきた。
それでも、ふとした弾みに考える。
どうすればここから抜け出せるか、どうしたら扉を開く事ができるか、そもそも、どうしてこの部屋に閉じ込められたのか――。
そうしてからどれくらい経っただろう。
アシナの手にした本はすでに半ば以上が読み進められていた。ルックの見守る中、一枚、また一枚と頁を捲る。全てを理解しながら読んでいるとしたならば、たいした速読だと思った。
この部屋に置いてある魔法書は全て読んだ事のあるものだったが、読み返すのも偶には良いかなと本棚を見上げる。
何気なく向けた視線の先に、ルックは背表紙に何も書かれていない本を見つけた。整理された本棚の上から二段目、左端。保護紙で覆っている訳でもないのに、その本には題名が記されていなかった。
ルックは身を起こし本棚からそれを取り出した。裏表を確かめても何も書かれていない。縁近くに単純な模様の画かれた簡素な本だった。表紙を開こうとしたところで、いつの間に側に寄ったのか、アシナに止められた。
「何? この本」
片手で示しつつ、その本は片手で持つには少し重くて、腕が震え出すのを意識して抑えた。そんなルックの内心を知ってか、アシナは片手で容易く本を取り上げた。本を身体で隠すように後に回す。そして目元を困ったように笑わせた。
「ルックは興味無いんじゃないかな」
「読む前から決めつけられるのは気に食わないね」
後ろに回りこんで、奪い返すようにアシナの手から本を取り上げた。改めて表紙を観察しても、内容を表すような文字は見つからない。しげしげと眺めながらルックは訊ねた。
「……何で題名が無いの?」
アシナはますます困ったように苦笑いした。
「題名なんて……必要ないものだし、付けるような代物じゃないよ」
「もしかして……あんたが書いたものなの?」
はたと思い当たってルックは顔を上げた。じ、と見上げる視線にアシナは口篭もった。
「う…ん……、そういう事になるのかな」
「歯切れ悪いね。……読んでもいい?」
「構わないけど……機嫌悪くなるだけじゃないかな」
「はっきりしないな、どういう事?」
とりあえず、といった感じで適当に開いてみる。開いて、ルックは眉を顰めた。
開いた頁は真っ白で何一つ書かれていなかった。その前後の頁を捲って見てもただ空白の頁が続く。
「何だ、何も書いてないじゃない」
「まあね」
「確かにこれじゃ題名も付けられないね」
溜息をついて、空白を前へ前へと辿っていく。
「でもこれは題名をつける以前の問題だね。何も書いていないんじゃ、あんたが書いているも書いていないも関係無いんじゃないの?」
「そうかもね、でもこれはまだ未完成なんだよ」
「未完成?」
「そう。ただ……いつまで経っても完成されない類の本だろうね」
そう言ったアシナの顔に悲愴さを垣間見てルックは一瞬手を止めた。
「……結局、何を書くつもりだったの?」
アシナの顔から目を背けて、ルックは再び捲る手を忙しなく動かしだした。アシナは少し考える素振りを見せてから答えた。
「未来の自分に宛てた手紙……みたいなものかな。これからきっと色々な事があって僕は変わって行くだろうけれど、今の自分を無くしたくないから、それを思い出させるために書き留めておこうと思って」
「ふぅん………でもその割にはまだ何も書いていないみたい……あ……」
最初の頁に辿り着いた手を止めた。否、それは最初の頁ではなく……
「何で……破ってあるの」
一番最初の頁だけ、綴じ代近くを残して破り取られていた。指でそっと破られた縁を辿ってみる。そうすれば、どうして破かれたのかが理解るかのように。
「自分宛てに書いた手紙を自分以外の誰かに見せると思った?」
アシナの声にルックは弾かれたように顔を上げた。アシナはおどけた表情を浮かべていて、そしてその手には破かれた頁の欠片が握られている。ちらと見えた紙片には、自筆の文字で片面が埋まっていた。
「……っ、反則だっ」
ルックは顔を上気させて紙片に手を伸ばしたが、アシナは笑いながら軽く躱して反対にルックの手から本を奪い取った。
「悪いね、流石にこれだけはルックにも見せられないよ」
「他人に、見せられないだ、なんてっ、何やましい事書いているんだよっ」
軽い運動にも関わらず息が上がってしまったルックを、アシナはくすくす笑った。その様子に、ルックはキッと睨み付ける。
「ごめんごめん。うん、でもこれはルックだからこそ見せられないって言う言い方もできるんだよ」
「今更煽てても遅いよ」
横目で睨み付けてやった。それにも動じずアシナは表紙を開き、新しい最初の頁をルックに示した。
「最初の頁、最初の行、最初の一文字。ルックに書いてもらいたいんだけど、良い…?」
何の隔たりも無く彼と間近に見つめ合って断る事のできる人間がいたら、お目に掛かりたい。淡く微笑みながら差し出された本とペンを、まだまだ甘いなと考えながらルックは息をついて受け取った。
「何書けばいいの」
「何でもいいよ。ルックの思うままに僕宛てに何か一言」
「………」
ペンの端を顎に当てて少し考えた。その後一気に書き上げる。
“一度人間カタチができるとそうそう変わるもんじゃないよ。あんたは変わるのかもしれないけれど、少なくとも僕は変わらない”
「はい、これで満足?」
「………ありがとう」
本の表紙を閉じて、ペンと共にずいとアシナに押し付けた。そのまま寝台に倒れこむ。
「何でこんな事に労力使わなくちゃいけないんだ……」
力無く天井を見つめながら呟いた。
そうだ。
そもそも、どうしてここにいるのだろう。
どうしてこの部屋に縛られ続けているのだろう。
「何でこんな部屋にいるんだろ……」
嬉しそうに本を開いて見ていたアシナが応えた。
「そんな事言わないで、いつでもおいでよ。ルックがいると部屋の空気が気持ち良くなるんだ」
カチャリ、と音がした気がした。もちろんそれは気のせいだったけれど。
……ああ、扉が開いた。
どんなにもがいても足掻いても開かなかった扉が、アシナの言葉でいとも簡単に開いた。どうしてこの部屋にいたのか、どうして抜け出せなかったのか、そういった理由が一遍にわかった。
ルックは寝台から立ち上がり、扉へ向かった。
「帰るの?」
「………」
ルックは無言で扉に手をかける。扉は、何の抵抗も無く開いた。
この扉に鍵など掛かってはいない。そう、最初からそうだった。その事を知っていたし、忘れてもいなかった。
ただ、心の中で鍵を掛けたのは自分。
「また明日もおいでよ」
自分を縛っていたのはこの部屋ではない。この部屋の主だ。その言葉だ。
きっとまた明日もこの部屋を訪れる事になるだろう。そしてまた閉じ込められるのだ。今ここで気付いて考えた事など全て忘れて。
何かに縛られるとか、何かに囚われるとか、そういう事は嫌いだったはずなのに。
けれど、もう手遅れだ。
人のいない部屋の寒さを忘れてしまった。
そうして再びルックは扉を叩く。
end
1999/09/26初出 ・ 2001/10/11改稿
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