+ たとえば。 +
たとえば。
誰も足を踏み入れていない新雪を守りたいと思う気持ちと、
何処が違うのだろうか。
窓から差し込む月光だけが頼りだった。
触れた身体は冷やりとしていて。
それは、
たとえば、霧雨の中駆け抜けた身体のようだった。
どういった経緯で彼に触れたのかなんて、覚えてはいない。
強いて言えば、
荒れ狂う嵐の中、深海へ沈んでいくような――そんな気持ち。
霞掛かった記憶に残るものは、
たとえば、春風に揺れる若木のような肢体に、
たとえば、積み上げた硝子細工を壊さぬように触れた事。
得られたそれは、
たとえば、その森で一番の古木にもたれ掛かった時の安堵感。
遠くで聞こえていた喧騒が遠のいていった。
人里離れた地で静けさに耳が痛くなるくらい、何も聞こえなかった。
けれど、お互いの息遣いだけはよく聞こえた。
きっといつまでも覚えているだろう。
たとえば、小さい頃に口ずさんだ童歌のように。
どこかで何かが歪んでしまったようだ。
もう何一つ見分けがつかない。
それは、
たとえば、石英を通して見た夜空のように。
満月などではない筈なのにどうしてこんなに明るいのだろう。
彼の顔がよく見えるのは嬉しい事だったけれど。
大丈夫? と声を掛けると、
不治の病で止まらぬ喀血をいとおしむように彼が笑う。
そして彼は名前を呼んではくれない。
それは、
たとえば、捨て猫に名前を付けない理由と同じなのか。
死に行く人を看取るような、
えも言われぬ虚無感を感じた。
彼に与える事ができるものは何も無いのだろうか。
くやしくて、その肌に朱の跡を付けていった。
たとえば、白紙の地図を一つ一つ埋めるように。
たとえば、たとえば、たとえば。
たとえばばかりが頭を支配する。どうしてこうも現実感が無いのだろう。
目を閉じて眠る彼の髪を手に取ると、するりと滑り落ちた。
たとえば、掬い上げた灰が指の合い間から抜け落ちるように。
彼の存在そのものが薄れていく気がして、必死に彼を掻き抱いた。
たとえば、夢が醒めないように。
たとえば、現実が醒めないように。
たとえば。
誰も足を踏み入れていない新雪を守りたいと思う気持ちと、
処女雪を踏み荒らしたいと思う気持ちは、いったい何処が違うのだろうか。
彼を抱いた本心の理由は何?
彼がおとなしく抱かれた理由は何?
傷の舐め合いだとか、相身互いだとか、そうでない事を祈った。
朝日がまぶしくて目が醒めた。傍らを見るとすでに彼の姿は無かった。
シーツに残った僅かな温もりだけが、現実だったと教えてくれた。
たとえばの必要ない、それが現実。
end
1999/09/29初出 ・ 2001/10/11改稿
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