+ 近くて遠い幸せ論 +
トラン湖から直接吹き込む夜風に、ルックは髪を揺らした。屋外で過ごすには少し寒い季節だったが、ひやりとした法衣の感触が体内から発せられる熱を奪って、それが気持ち良い。
たった一枚の壁を隔てて、こちら側の静寂とは正反対の喧騒が流れている。普段ならばその喧騒に巻き込まれるのを厭って、目もくれずに自室に戻るところだったけれど。
ささやかな気流に乗ったトラン湖のさざめきが耳に心地良く、ついその場に居着いてしまった。
目を閉じて、眠るようにその心地良さに全身を任せたかった。普段ならばそうしている。が、そうできない理由がある。不本意な事に、同じ場を共有する者がすぐ側にいるのだ。
「酔い覚まし……って、言っていなかったっけ?」
何となく、傍らにいるその男に声をかけてみる。
「おう、そうだぜ」
持ち前の陽気さを満面に表してその男――ビクトールは豪快に笑った。片手に、酒のなみなみと入った杯を掲げて。
「それと、月見だな。月見に一杯。どうだ、お前さんも」
「……酔い覚ましと酒盛りは両立しないと思うんだけど」
「何言ってやがる。あんな見事な月を目の前にして酒を飲まねえんじゃ、月に悪いだろ? 酔い覚ましは月が沈んでからでも出来る」
ビクトールに指されて、軽く身を捩る。仰げば、中天に浮かぶ月が見える。言われるまでもなく、この冷たい空気に似つかわしい冴え冴えとした見事な月だ。周囲の幾千もの星は引き立て役にしか見えなかった。
「本当に月を愛でるつもりなら、飲まなくても良いじゃない。そうすれば、最低でも酔い覚ましと月見は両立するよ」
「満月を肴に気持ち良く酒を飲む。今時これ以上の幸せがあるか。せっかくの機会、無にしたくはねえな」
新たに杯を満たして一気に乾すビクトールを、溜息混じりに眺めやる。
「随分と安易な幸せだね」
「はん、幸せなんてどこにでも転がっているもんさ。それを幸せと思うかどうかは個人の勝手だがな。
ま、世の中、斜に眺めて何もかもがくだらねえと思って生きている奴にゃ、そうそう幸せが訪れるとは思えねえか」
「……嫌味にしか聞こえないんだけど」
――そう思うのはお前さん自身の問題さ、ルック。
そう笑うビクトールに、ルックは見せつけるように思い切り顔を顰めてみせた。
酔っ払いは元々嫌いで、この男――ビクトール自身も、ルックはそうそう好きではなかった。悪意的な表現をすれば、どうでも良い存在。だから嫌われようが、どう思われようが知った事ではない。
そう、どうせ、星の役目を果たせば記憶の彼方へ消え失せる存在なのだから。
「そこらに転がってるシアワセで満足するなんて、ビクトールも案外欲が無いね」
「そうかな……?」
コトリ、と杯を地面に置き、立てていた膝に腕をかける。目を心なし細めてビクトールはルックを見上げた。
真っ直ぐ見つめてくるその目線が何もかもを見透かすように感じられて、ルックは覚られない範囲で身動ぎした。心の中で舌打ちする。
気圧されている……。
そんな自分が許せなくて真っ向からビクトールを見返す。
底の浅そうな顔をして、どうしてどうして気の置けない面をこの男は持つ。完全に酔っていると思っていたのに、実際顔は誤魔化しようの無いほど赤く染めているというのに。
瞬きする間に、今までの行動は演じていたのではないか、そう疑わせるほどに表情が変わる。
まるで、猫だと思っていたものが獅子の子供だと気付いた、そんな気分だとルックは思った。
「……俺は幸せに生きていたいんでな、どんな小さなモンでも見逃さねえぜ」
剣呑になりかけていた雰囲気を破ったのはビクトールだった。不意に目元を緩ませ、つい先程までの空気を追い払うように片手を振った。
呼応するように、ふぅと息を吐いてルックは近くの石壁に寄り掛かる。
その様子をビクトールは横目に見る。固く握り締めた両手に顎を当て、自身にも言い聞かせるように、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「本当に幸せだと思える時っていうのは、無くして初めて気付くんだ」
静かで平淡な声だったが、それ故に周囲の冷たい空気に重く響く。
ルックはただ黙って腕を組んだ。
「何でもない日常、繰り返しの日々。それはあまりに身近すぎて気付かない、そういったもんだ。だが、つまらない、くだらないと思っていた当たり前の時間が壊された時、それが如何に自分にとって大切なものだったかがわかる」
苦い記憶がそのまま顔に表れた、そんな表情でビクトールは宙を見据える。その視線の先は、ルックの姿を通り抜け、現在ではなく遠い過去にあるのかもしれない。
「……だからたとえどんなに不本意な状態でも、くだらないと感じても、価値の無いものだと思うな。迂闊に手放すな。いつか、その時がお前さんの宝になる」
一度閉じた目は、今度はしっかりとルックをとらえた。ルックはその視線を僅かにそらして石壁から身を離す。
「……年寄り染みた意見だね」
ビクトールの方へ歩み寄りながら、一刀両断に答える。
あくまで素直に答えないルックに、ビクトールは口の端で微笑った。
ルックはそれを、表情を消しながら見遣って、小さく息をついた。
「……けど、ま、たまには年寄りの忠告にも有益な意見があるって事ぐらいは、認めてあげるよ」
視線を合わせぬままそう言って、ビクトールの傍に腰を下ろした。転がっていた杯を拾い上げ、酒を注ぐ。舌の先で舐めると眉根を寄せた。
「……不味い」
「………」
無言のまま、呆気に取られているビクトールを睨みつける。
「何見てんのさ」
「……カナカン産の取っときだったんだがなぁ」
空いた手を顔に当て、漏れ出す笑いを抑えようと努力したが無駄だった。笑ってれば? と愛想を尽かしたように、ルックは再び杯に向かう。
「はは……ま、お前さんもいつかはその美味さがわかるさ」
夜空に杯を掲げ、機嫌良く笑い始めたビクトールを余所目に、月を眺めながらルックは一息に杯を飲み乾した。
end
2000/02/03初出 ・ 2001/10/12改稿
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