+  虹  +



 いつも笑っていて欲しい訳じゃない。
 見せかけの笑みなんて、望んではいなかった。
 淡い“穏やかさ”という膜の向こう、飾らない顔が見たかった。
 たったそれだけの事なのに。
 ――最後に笑顔を見たのは、いつだっただろう。
 もう、そのくらい、遠い。


 水滴が、折り重なった枝葉の間から、ぽつりぽつりと漏れ落ちてくる。ひやりとした感触を、片手で払った。完璧な雨宿りとは言い難かったが、それでも街道に戻るよりは、ましだろう。細かい雨の幕で、行く手が霞んで見えた。
 どうする手立ても無く、幹に身を寄せたまま、誰もがその雨足が去る時をぼんやりと待っていた。
 ――冷たい雨が続いている。
 どこの町からも離れていて、雨宿りにと街道近くの大木に身を寄せた。見渡す限りを埋め尽くした雨雲は、目に見える速度で流れて行く。それにしても、雨がやむまで、幾らかかかりそうだった。
 音も無く動く雨雲の代わり、地を叩く雨の細かな音だけが響く。たまに交わされる会話にしても、雨に流され、当事者達だけの密やかなものとなっていた。
 並んだ大木の下に、小分けに陣取る。ある者は諦めたように横になって目を閉じ、ある者は己の武器の手入れを始めた。
 少しずつ開いた個々人の間隔を、雨がさらに広げる。
 目を閉じれば、残るは雨。一人ひとりの空間が、自然と展開される。
 少し離れた大木の下、他の者達とは背を向けた位置で、ルックは足を休めていた。それでいて、例にもれず雨で霞んだ風景を、何をする訳でもなく見つめていた。
「しばらく、無理みたいだ」
 背後から近付いてきた足音に、顔を上げる。雨に濡れた風よけを折りたたみながら、アシナが寄って来た。
 無言で頷き返す。そのまま通り過ぎるものだと予想していたが、アシナは周囲を刺激しないよう、細心の注意を払って隣に腰を下ろした。
 くつろいだ様に見せて、それでも棍から手を離さない。それはおそらく、何時如何なる状況でも危機に対処できる為。
「一度手鏡で戻った方が良いかな」
「もう半分は来ているのに? また同じ距離を歩くのはごめんだよ」
 大体、急ぎの用じゃなかったの。気のなさそうに、それでもそう返すと、そうだった、と曖昧に笑った。

 ゆっくりと、波を持たぬ湖のように、静かに言葉の遣り取りが続く。さして興味の持てる話題でもなかったが、意地の悪い言葉を添えはするくせに、けれど律儀に答えるこの性格は損だろうか、得だろうか。
 そんな事を、単調な会話の裏でぼんやりと考えていた。
「何、それ」
 そんな時に、ふと目に入った。畳んだ風よけの影にちらりと見えた、銀の光。
「ああ、これ」
 アシナは無造作にそれを掴み上げる。
 革の紐で首から下げられた、銀のリングだった。控えめに施された意匠と無骨な革紐がちぐはぐで、おかしな気がした。
「アンテイ…だったかな、そこの人がくれた」
「仮にも一軍の指導者が、そんなに簡単に物をもらっても良い訳?」
「そう。だから僕も最初は貰えませんって、断ったんだ」
「ふ…ん。という事はその後、受け取らざるを得ない事を言ってきたんだ」
 見せて、と言うように、手を出す。首から革紐をはずして、アシナは紐ごとリングをルックに寄越した。
「純銀だね。随分良い物じゃない」
「そうだろうね。元は婚約者にあげるものだって言ってたから」
 慌ててよくよく見ると、内側にイニシャルが彫ってある。
 あっさり言ってのけたアシナの顔とリングを、ルックはまじまじと見比べた。
「……よくそんなもの、貰ってこれるね」
「何でそんな大事なものを。尚更受け取れません。……そう言ったら、もうそれを受け取ってくれる人は、この世にはいませんから。……こうきた」
「仇を討って下さい、って……そういう事だね」
 その時の事を思い出したのか、アシナは困ったように溜息をつく。
「お願いします、って頭を下げた後、僕の手にこれを残してさっさと消えた。それで、残ったのはこのリングだけ」
 ルックから受け取ったリングを指にはめようとする。棍を扱う手には、常に手袋を付けており、リングがはまる訳が無い。
 それを確認したように、ふぅと息をつく。
「仕方が無いから貰ったんだけど、ご覧の通りはめる事はできないから、せめてと思って首から下げてる」
 いささかうんざりしたように、けれど笑いながらリングを元の位置に戻した。
 改めて首から下げたリングを目の前に持ってくる。周囲の細かな雨で、湿気がひどい。僅かに、表面が曇っている。それでも、鈍く光るリングを様々な角度から見遣ると、時折きらりと光る。
 その光に照らされるように、アシナの顔に苦いものが見え隠れする。
 それが嫌で、光を遮るようにルックはリングを握り締めた。
「迷惑に思っているなら、外せば? 下手にそうやって身に付けてやっていると、他の人間も同じ事してくるよ」
「そうだね」
 言いつつもリングを離そうとしないアシナの手から、ルックは乱暴に取り上げた。取った勢いそのまま、薄い雨の膜の向こう、低木の中へ放り投げた。
「無くす事に罪悪感を感じるなら、戦いの最中無くした事にしておけば? 革紐なんて、あっさり切れるんだから」
「乱暴な事するんだな」
 投げ入れられた辺りを見ながら、アシナは苦笑した。その笑みを、ルックは睨め付け、手元にあったロッドでアシナの額を小突いた。
「少しくらいは反省の色、見せてみれば? だいたい、あんた自身の態度も悪いんだからね。人の良さそうな笑顔を振りまいて。
 そのくせ、ちっとも態度が一貫してない」
 リングを捨てはしなかった。けれど、ルックがリングを取り上げた事についてはまるで意に介していない。投げ捨てられたリングを拾いに行く素振りさえ見せず、その場でルックを見上げたに過ぎなかった。
「戦いの最中に無くした事にすれば良いんだろ?」
 くすくす笑うアシナに、ルックは顔を顰めた。
「……貰ったっていう事実は無くならないよ。それを無くす為には、最初から徹底して固辞してなきゃいけなかった。
 さもなくば、追いかけてでも、返して来なきゃならなかった」
「そうできれば良かったんだけど。
 ……今となっては誰が何と言おうと、僕が解放軍のリーダーだ。だからね、表面上だけでも、“できた”指導者の顔をしていなくちゃいけない。婚約者を失った人のためにも、その意志は継いであげなくちゃ」
 言葉が進むにつれ、アシナは顔を歪めて行くのがわかった。それでルックにも、アシナが現在の自分自身に嫌気が差している事に、思い至った。
「嫌気が差すくらい、美談だね」
「うん、そうだね。余計な重荷を感じたくないからと、突っぱねる事も出来ない。激昂する事も、号泣する事も望まれない。
 代わりに、皆の寄る辺となるべく常に泰然と構える事が、僕には求められている」
 組み合わされた手を、祈るように額にあてる。そのまま言葉をなくしたアシナに、ルックは軽く手を重ねてやる。
「馬鹿だね。怒る事も泣く事もできない、微笑むだけの指導者に、誰が付いて行くと思っているの?
 隠していたって、暗部は見えてくるものだよ。それでも、誰一人として離反しないのは、裏も表も合わせてあんたに惹かれているからに決まっているじゃないか」
 ――項垂れているよりは、踏ん反り返っている方が、あんたには似合うよ。
 意地悪く笑うルックにつられて、偏見だ、とアシナも少し笑った。

 棍の先端を、遊ぶように前へ倒す。木の葉の屋根を出て、小さな波紋を浮かべた水溜りの上を、棍はふらふらと泳ぐ。
「大分弱まったみたいだ。もうすぐ止むからそろそろ……」
「急ぐんじゃなかったの?」
 アシナは笑って憎まれ口を受け流し、立ち上がって空を示した。弱まった雨の向こう、雲の合間から日の光が覗いていた。七色の架け橋が空に浮かぶ。
「それじゃ行こう、帰りが遅くなると、皆が心配する」
 行く手を示しながら、ルックを振り返る。そのアシナの向こうで、同行者達が出発する支度を始めていた。
 ルックはゆっくりと立ち上がり、あと半分の道のりを考えて溜息をついた。アシナの背に苦笑をもらす。
 近くの低木に、法衣が濡れる事も気にせず分け入る。探しているものは、程なく見つかった。背を向けているアシナに投げ渡す。
「忘れ物だよ」
「!」
 ルックの放り投げたものを、振り向きざまアシナは反射的に受け取った。開いた手の中に、銀の光。
「ちゃんと返しておきなよ」
 ルックの言葉に、頷き返す。雨の上がりかけた空を背に、瞬間混じり気の無い笑顔が浮かんだ。それが、ルックには嬉しい。

 それはまるで、空に現れた虹のようだと、ルックには感じられた。



end
2000/02/21初出、原題「True Colors」
2001/10/12改稿

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