+  現状維持  +



 春の日差しが気持ち良いと思った。夏ほどは刺激が強くなく、特に今日のように気持ちの良い風が吹いているとなれば、なおさらだ。
 中庭の広葉樹の下、人通りから少し奥まった場所でクラウスは読書をしていた。最近働き詰めの頭を休めたかったのだが、シュウから本を借りたのは間違いだったかもしれない。仕事の内容が頭から離れない。
 それでも責任という二文字から、束の間とは言え解放されている事を考えれば十分だった。
 定時を知らせる鐘の音に、クラウスはページを捲る手を止めた。
 ――一つ、二つ……
 鐘の数を数えながら、誰かの声がその音に混じっている事に気付いた。身体を伸ばして、もたれかかっていた幹から身を起こした。
 トウタと共に中庭に下りていたホウアンが、傷の手当てをしている。あちこちに包帯を巻いている、あれはシーナだ。大げさに悲鳴をあげるシーナを、周りの女たちがからかっていた。
 ――シーナらしいと言うか。
 口の端を心もち上げて笑い、書物の残りページを確かめた。熱中し過ぎていたようだ。昼に表紙を開いた本が、すでに終わりのページが近い。
 どうせなら、と集中して読み進め、日が完全に傾く前に、どうにか読みきった。
 ――少し時間を取り過ぎたかもしれない。
 本を片手に立ち上がって、世間話に花を咲かせ始めた女たちの横を通り過ぎた。すでにシーナの姿は見えなかった。

 日の入りが近いせいか、人の出入りが激しい。表の陽気と違い、少しひやりとする城内に入ってすぐ、違和感を感じた。
「……?」
 クラウスは首を傾げた。一呼吸置いて、すぐに気付く。
 ルックが居ないのだ。
 今日はこの城に居たのではなかっただろうか。
 見慣れた姿が見えないと、どことなく収まりが悪くて落ち着かない。この城に居ついてから、そのように考えるほど時間が過ぎている訳ではない筈なのに、すでにそう感じるようになっている自分に苦笑した。
 改めて石板に刻まれた自分の名前を見る。
 ――地魁星・クラウス
 普段は石板の側の不機嫌な顔が気になって心安く見る事はできない。だからと言う訳でもないが、クラウスはじっと刻まれた名前を見上げた。
 敵国に軍籍を置きながら、一〇八星に選ばれた。初めて約束の石板に自分の名前を見出した時は、戸惑いと不安を感じたものだ。しかしそれも今では薄れ、ほとんど感じなくなっていた。
 この軍の、今の自分の在りように満足しているのだろう。……きっと。
 そう結論付けて離れようとした矢先、ふと後方に人の気配を感じた。
 見ると遠征から帰ってきたセリオ達が、何かを話しているようだった。
「……良いじゃないですか。偶にはって事で、グレミオさんも怒りませんよ」
「いや、まだ間に合うし……ビッキー、バナーの村まで頼む」
「駄目! ビッキー、軍主命令! マクドールさんを送っちゃ、絶対、駄目!」
 元気よく響く軍主の声と、それをなだめる様にも聞こえる声。
 しばらく押し問答があった末、声の主たちが石板の方にやって来た。
「ふっふっふ〜、ルックは今ちょうどいないんだ。頼ろうって言ったって、そうはいきませんよ」
「………」
 自慢気に言うセリオに、傍らの人物は苦笑とも諦めともつかない表情を浮かべた。
 見せたい所がいっぱいあるんです、という言葉と共に彼の手を握って、セリオはそれから石板のすぐ側に佇むクラウスに気付いた。
「あ、クラウスさん。どこかに部屋を用意するよう手配してもらえる?」
「わかりました。……お久しぶりです、マクドール殿」
 クラウスは頭を下げた。対するアシナは、おかまいなく、と困ったように挨拶した。
「マクドールさんってば、すぐに帰っちゃうんだから。今日はたくさん案内させて下さいね」
 セリオに引き摺られるようにして去って行くアシナを、ご苦労様、と心の中で呟く。
 滅多に城で見掛けないが、きっと遠征の時も似たような事をしているのだろうと、微笑ましく思った。
 半日を休憩にとってしまったので、仕事が溜まっているだろうか。その場を立ち去りながら、手の中の書物に目をやった。
 一段落ついたら、シュウに返しに行かねばなるまい。
 表紙を見つつ、これからの予定を頭の中で思い浮かべた。


「クラウスです」
 いつものようにノックをして、一拍おいてからシュウの部屋の扉を開く。手に幾つかの書類と借りていた書物を携えていた。
 部屋に足を踏み入れた瞬間に先客が居た事に気付いた。
 夕方にも見た人物だ。よく軍主の手から逃げられたものだと瞬間的に思ったが、表情には出さない。
「失礼しました。また後でお伺いします」
「いえ、僕はこれで」
「マクドール殿、お付き合い頂き感謝致します。……ああ、それではこれを」
 シュウは側の引き出しから鍵の束を取り出すと、それをアシナに渡した。
「……今日は随分と珍しい事が続きますね」
 軽く挨拶をし扉の向こうへ消えるアシナを見送ってから、クラウスは呟いた。
「マクドール殿の事か」
 クラウスの渡す書類にざっと目を通して、シュウは署名していく。
「何の話をしていたのか、お聞きしても良いですか」
「我が師の成した事だ」
「……マッシュ・シルバーバーグ?」
「人伝に聞いたよりも、正確で詳しかったな。直接聞いているだけに、その意図もわかりやすく説明して下さった」
 手にした書類を、考え込むように睨み付けた。
「流石、我が師が選んだ人物だ」
 手放しで人を誉めるシュウが珍しくて、クラウスはまじまじとシュウを見つめた。セリオにさえ、そのような態度は取っていないのだ。
 その視線を感じたのか、シュウはちらりとクラウスに目線を投げかけた。
「だが、我が師やマクドール殿の活躍は、過去の領域の事だ。今の我々には関係のない事さ……と、これで終わりか」
「ご苦労様です。それから、」
「何だまだあるのか」
 眉を顰めたシュウに、本を差し出した。
「いえ。読み終わりましたので」
 シュウは、ふん、と意地悪く笑うと、本を差し出したその腕を取った。
「どうだ? 今夜はもう用事はないだろう? 良いワインが手に入ったのだが、少し飲んでいかないか?」
「それだけでは済ませないつもりでしょう? 遠慮しておきます」
 斜に見下ろすような視線を投げかけ、クラウスは自分の腕を取る手を離した。
「現状に満足しているんです。過去の束縛も未来の可能性も必要ありません」
 余裕すら感じさせる艶然とした表情を浮かべると、クラウスはシュウの部屋を退出した。

 ……シュウの視線から逃れるように隙間なく扉を閉めると、クラウスは大きく息を吐いて、それに寄りかかった。
 捕まれた腕に手をやり、そっと触れてみる。
 シュウの視線に含まれるものの意味を、知らないわけではなかった。
 だが。
 ――今は、これで良い。この温かみだけで。
 前に進むでも、後ろに退くでもない自分の態度を、シュウはどのように思っているだろうか。もう長い間決心はつかず、ずっと変わらぬ状態が続いていた。
 それでも、いつかは変わるのだろうか。
 そう自問して、それを密かに望んでいる自分に気付きクラウスは苦笑した。

 しばらく扉に寄りかかったままの体勢でいると、階下から誰かが昇ってくる気配がした。慌しく足音が入り乱れている。クラウスは、何事かと姿勢を正した。
 足音が近付いてきたかと思うと、アシナとルックが同時に飛び出した。
 二人の顔にはいつもの、実年齢以上にも感じられる落ち着いた表情がない。隠し立てしない、まっさらな少年の顔を浮かべていた。
 階段を駆け上ってきたのか、息が荒い。
 すぐに目の前で自分達を見ているクラウスに気付くと、無意識だろう、すっと表情を消した。そしてそのまま、足も止めずに階上へ向かった。
 初めて見た。
 あのような顔もできるのだなと感心し、それが二人の距離を表すものなのだと気付いた。そしてそれが、他人に割り込む事の出来ないものなのだ、とも。
 二人が消えると同時に、再び階下から騒々しい足音が聞こえてきた。ほどなく階段と隔てる扉が勢いよく開いた。
「クラウスさん?! マクドールさんとルック、通りませんでしたか?!」
 先程の二人と同様、階段を駆け上ってきたのだろう、息を切らしながら必死の形相でセリオが問いかける。
「え? あの……」
 碌な答えを返せぬまま上を指し示すと、セリオは「ありがとっ」と短く返し、背を翻して消えた。
 その様子に呆気に取られていると、しばらくして遠くからセリオの声が聞こえた。何か悔しげに叫んでいるようだった。
「……本当に、珍しい事ばかりが続く……」
 ――どうしてか、笑いが込み上げてきた。
 くすくすと、小さな笑いを抑える事が出来ず、そういえばシュウの部屋を出てから、まだ一歩も動いていないな、と気付いた。
 ……舌の根も乾かないうちに、自分は何をしようとしているのだろう?
 クラウスは後ろを振り向くと、つい先程自分で閉じた扉を開けた。室内には、書物から目を離すシュウがいる。クラウスに目を留めると怪訝そうな顔をした。
「忘れ物か?」
「……ええ、ワインでもご馳走になろうかと思いまして」
 にっこりと笑うと、クラウスは後ろ手に扉を閉めた。



end
2000/04/13初出 ・ 2001/10/13改稿

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