+  真夜中は子供の時間  +



 ごつごつした岩肌に腰掛けたその足下で、滴り落ちる雫から波紋が生じていた。その波紋も、すぐに打ち寄せる波に飲み込まれる。
 その様子を興味深そうに見つめる彼の眼差しの先で、それは何度も繰り返されていた。
 すでに本拠地に点る灯も大方落ち、一番の光源であった月にはうっすらと雲がかかっていた。その雲のせいで、闇を見通すには大して期待できない。
 目が慣れていなければ、歩く事さえままならない程に暗かった。
 闇が普段以上に、濃い。
 そのせいか、彼の足下で揺れる水が底なしに深く感じられた。
 だから、そこが浅瀬であるとわかっていたにも関わらず、ルックはアシナをもっと陸へ引き寄せたかった。
 ――そこは嫌だ、早くこっちへ。
 けれど、そんな不安を口にするほど素直にも成りきれなかったから、別な角度で声を掛ける事にした。
「なに、にやにやしているんだよ。ただ座っているだけで、何がそんなに楽しいの?」
 そう言うと、アシナは本当に楽しそうにルックを振り仰いだ。
「水が、気持ち良いんだ」
 ルックもおいでよ。
 ――誘う言葉に、否、と返した。
「……濡れるのは嫌だから、遠慮しておくよ」
 本当の理由を隠すには、あまりにも自分らしい返答だったから、アシナはただ「そう」とだけ答えた。納得したのだと、思う。
 ゆっくりと身を屈めて、アシナは水を掬った。
 手のひらから零れ落ちたデュナン湖の水は、手首を伝い、肘からまたデュナン湖に帰っていく。
 他愛も無い事をし続け、そしてふと思い立ったようにアシナはルックを手招いた。
 やはり、いつまでも水際に近寄らずにいる自分の心中を知って試しているのでは、と眉を顰めたが、それよりは虚栄心が勝って、座っていた巨岩から飛び降りるとアシナのいる水際へ歩み寄った。
 近づいた目線に対して伸ばされた手を、ルックは「濡れているから」とはねつけた。
 苦笑したアシナの傍に、足下を確かめながらもう一歩寄る。
 浅瀬は相変わらず暗闇を反射していて、それがどうしてもルックを物怖じさせる。
 そんなルックの不安感に気付かないように、アシナはにこりと笑った。
「こうしていると……トラン湖を思い出す」
「柄に無く、変な感傷になんて浸らないで欲しいんだけど」
 湖という以外、何の共通点も無い気がする。そう考えながら、意識の片隅に残る不安感を払拭するように、無愛想に答えた。
 が、それを気にしないようにアシナは言葉を続ける。
「ルックはそうは思わない?」
「……そんな昔の事は覚えていないよ」
 トラン湖とデュナン湖を比較して相似点を見出すのが面倒臭かった。まともに返答する気になれなかったので、ついと視線を逸らしてうそぶいた。
「本当に?」
「そうだよ」
 重ねて聞いてくる言葉にも、即答した。
「……そもそも、何をもってトラン湖とデュナン湖が似ていると思った訳?」
「似ているだなんて、言っていないよ。思い出すだけ」
 答えて、アシナは腰掛けていた岩から浅瀬に立った。
 ルックはその様子をひやりとしながら見ていて、しかし表情には全くそれを表さずにやり過ごした。
 膝まで水に浸かる位置へ進んで、アシナはルックを振り返った。
「トラン湖の思い出といえば、せいぜい船の出入りの時くらいしか無いよ。それも、途中からビッキーのテレポートや瞬きの手鏡が手に入ってからは、あまり船着場には寄り付かなかったな」
「近くの島で釣りをしていたじゃない。あれはトラン湖の思い出には入らないの?」
「あれは釣りの思い出。トラン湖の思い出と言うには、少し外れているかな。
 それよりは、シャサラザードを攻略する際に500艘もの氷の船が浮かんでいた時の方が、よりトラン湖の思い出に近いだろう」
 頷いたが、それすらも完全にトラン湖の思い出とは言い難いだろうと思った。
「ねえ」
 浅瀬に入るぎりぎりの線まで寄って、ルックは声を掛けた。屈み込んで湖底を探っていたアシナが振り向く。
「結局あんたは、いったいトラン湖の何を思い出したの?」
 思えばルックにも、トラン湖に思い入れの深い思い出というものは存在しなかった。
 トランの古城はその構造上、水に触れている面積が少なかった為か、人のいない水際というものは存在しなかった。
 一人で過ごす事が出来るのならばともかく、そう出来ない場所へ好んで移動する性格でもない。
 そう考えると、記憶に残るトラン湖と言えば、アシナのそれとほとんど変わりないのかもしれない。
 ――ならば、彼はいったい何を思い出したと言うのだろう。
「何を思い出すの?」
「……その頃叶わなかった事を」
 平淡な調子で答えたアシナを、ルックは訝しげに見た。
「トラン湖を見たのは、あの時が初めてだったんだよ」
「……それで?」
「今となっては、その時の気持ちも風化してしまっているし、今更という気もするんだけど。……遊びたかったな」
 予想外の言葉にルックは呆気に取られたが、ポツリと呟かれた言葉が戯言ではない事は理解できた。
「トランの古城を解放した時にはすでに、小なりと言えども解放軍のリーダーだったし。リーダーが遊んでいる姿をそうそう見せるのはまずいだろ」
「それで我慢していたって訳?」
「我慢……していたのは、たぶん最初だけだったよ。途中からそう思う事も無くなって、……今まで忘れていた」
 それはとても悲しい事に思えた。
 思いはしたが、それを口に出すのは彼に失礼だと思ったので、そのままにした。
「その時の気持ちは思い出せたの?」
 代わりに口にした疑問に、アシナはそっと首を振った。
「もう思い出せないんだ。思い出せるのは、そう思っていた、という記憶だけ」
 ――だから、今は当時出来なかった事をして、記憶の中の感情をなぞっているだけ。
 そう言ってアシナは服が濡れるのも構わず、より深い場所へ進んで行った。
 ……自分と彼の間に横たわる距離が耐えられなかった。
 思わず足を踏み出して、ルックは足が水に浸かった事に気付いた。やや逡巡してブーツを脱ぎ捨てる。
 改めて踏み入れたデュナン湖の水は、アシナの言った通りひんやりとしていて気持ち良かった。
「濡れるのが嫌だったんじゃないの?」
 振り向いてルックに気付いたアシナは、微かに笑うとルックに手を差し伸べた。
「……あんたは要領良い癖に、つまらない所で足踏みする」
 これだけは言っておかねば、と今は少しぼうっとしているアシナの瞳を直視した。
 そして、
「今は誰も――あんたの肩書きを気にするような人間は、いないんだ。子供みたいに遊んだって誰も咎めやしないよ」
 宣言するように言って、片手で思い切り水を撥ね上げた。
「…っ、ルック!」
 容赦なく顔面に直撃した水飛沫を拭いながら、アシナはびっくりしたようにルックを見た。そして再びルックがアシナを狙っているのを見て取ると、負けずと水を掛け返した。
「冷た……」
「不意打ちするからだ」
「……ふん、常套手段だよ」
 短いやり取りの後、お互い外聞をはばからず、水を掛け合った。
 腕の一振りごとに袖に含まれる水は増え、頬を伝う雫は流れ落ち、やがて息が上がり双方ずぶ濡れになると、どちらともなくそれは収束した。
 息の上がった身体を陸に上げ、水を吸った衣服の重さに辟易する。水際の岩に腰を掛けると、裾を絞った。
「……馬鹿な事した……」
「楽しかったけど?」
 くすくす笑うアシナに、自分から仕掛けた事とはいえ、ルックは怨めしげな視線を向けた。
「どうするんだよ、明日はセリオの供で出かけなくちゃいけないって言うのに」
「さあ? そんな先の事はわからないよ」
「嘘つき」
 間髪入れずに返したルックに、アシナは見事なほどに綺麗に笑ってのけた。

「……夜が明けなければ良いのに」
「それはいくら何でも無理な話だよ。――でも、」
 まだ明けぬ東の暗闇を、ルックは目を眇めて見た。
「あんたが望もうと、僕が望まなかろうと、夜は必ず明けるし訪れるんだ……」
 語尾は細波の音色に吸い込まれていった。
 返答の返ってこない沈黙は居心地は悪くなかったが、身をゆだねるにはくすぐったかったので、ルックはその波の音を数え始めた。
 単調な作業に、半ば夢の中に陥りかけた時、短な言葉が聞こえた。
 ――ありがとう
 波音の間に紛れたそれが、実際に隣に座る人物が呟いた言葉だったのか、それとも夢の中で囁かれた言葉だったのか、ルックには区別がつかなかった。
 ただ、口の中で、馬鹿な事だ、と毒づく。
 それが誰に向けられた言葉かは、ルック自身にもわからなかった。

 あと数時間もすれば色を変えるだろう空を見上げていると、アシナもその方角を眺めている事に気付いた。
 明け方に向け低くなる気温が、濡れそぼった身体から体温を奪っていく。涼しすぎる、と思って心なし身を寄せた。
 この時間がいつまでも続けばよいのにと思い、そしてこの時間に身を浸している限り、どんなに近い未来も、自分とは関係の無い遠い時間に感じられた。
 ――そんな先の事はわからないよ。
 ああ、あんたの言った通りだね。
 嘘つき、というのは撤回しておいてあげるよ。
 ルックは薄く笑って目を閉じた。



end
2000/08/29初出 ・ 2001/10/13改稿

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