+  夢うつつ  +



 重力が一定の方向に働いていないのを感じて、ルックは、自分が夢を見ているのだと気付いた。
 風の魔法を使って似たような状態を作り出す事は可能だったが、力を抜けば落ちる方向に落ちる。けれど今はそれが無い。
 だから夢だ。

 きっとこれは目が覚める直前に違いない。
 妙に冷めた意識の中でそう考える。
 けれど、そう思った事自体を、夢から覚めれば忘れているに違いない。覚えていたとしても、印象だけという可能性もある。
 もっとも、今感じている世界からして、ルックには印象としてしか掴めずにいた。 
 前後左右上下、全ての方向に刺激的ではない光が見える。ゆらゆらと揺らめいて、その揺らぎ様はルックに水面に映った月を思い出させた。
 寄せては返す波のように、濃淡を行き来する。
 深い青、だ。
 青。
 そう思った一瞬後に、微かに変化し出す。
 ぼうっと一点を眺めている中で、あやふやだった世界が形を持ち始めた。
 目線と水平の方向に線が走り、青が二つに分かれる。
 それが何を表しているのか、ルックはすぐに気が付いた。
 空と、海――いや、あれは湖だ。
 湖、と認識した途端に、青以外の色が生まれる。
 空に浮かんだ白は雲。湖を囲う緑は森の一部だ。緑にまぎれて見える、あれは幹と地肌だろうか。遠く湖の岸に見えるのは……カクの町。
 ああ、ここは。
「トラン湖だ……」
 口に出して呟いてみた。
 そうして初めて自分の身体を意識した。それまでは、まるで身体が空気だったかのように感覚が無かったのだ。
 ひときわ強い風が吹いた。
 肩まで伸びた髪が頬にかかる。追い風だ。
 頬を掠めるように髪は何度も揺さぶられる。
 うっとおしくて、ルックはいつものように手で髪を抑えた。
 ――この感覚。
 そうだ、トラン湖を眺めながら、よくこうして髪に手をやった。身体が覚えている。
 足元を見た。砂利を少し乗せた岩肌に見覚えがある。
 再び顔を上げた。そこには、見慣れた古城が座していた。
 三年――いや、もう三年以上訪ねた事などないのに。
 同じ湖にしても、デュナン湖ではなくトラン湖を夢に見るなんて。
 懐かしい思いと共に、過去を思い起こしてそう思える自分が興味深く思えた。
 今ごろあの城はどうなっているのだろう。
 解放軍の大半が国を出るか、故郷に帰るかした。そうではなくとも、グレッグミンスターに出て国の中枢を担う者も多い。
 あの古城も、かつて霧に包まれていた頃のように人影が疎らになっているのではないだろうか。
 この先、トランの古城に一〇八星が集う事はあるまい。あの城は既に役目を果たした。国の中心はグレッグミンスターを動かず、古城は静寂と共に廃れるばかりだろう。
 けれど、いつの日にか、「彼」が訪れる事はあるかもしれない。
 一〇八星を率いた、天魁星。
 思い出すのは、何故か後ろ姿ばかりだ。
 それは彼が解放軍を率いていたという、それが起因しているのかもしれない。
 ルック自身が天間星として彼の後ろに付き従っていたから。だから、先頭に立っていた彼の後ろ姿が印象に残っているのかもしれない。
 三年経った今でも、その印象は変わらず残っていた。
 グレッグミンスターの王宮が崩壊したあの日から、彼とはもうずっと会っていない。今でもこの世界のどこかを、グレミオと共に旅をしているのだろう。
 後ろ姿の、先導者とも放浪者ともつかない印象を残しながら。
 印象に強い分、思い起こすのは簡単だった。
 トラン湖の古城から目をそらせば、そこに彼の後ろ姿がある。
 夢の中の事とは言え、何て簡単なのだろう。「そこに在れ」と、そう思うだけですぐに現れる。
 背丈も肩幅も、全てが当時のままだ。
 ルックは苦く笑った。
 久しぶりに会ったビクトールやフリックのように、彼はその面立ちを変える事は無い。三年分の余白を修正する必要は無いのだ。
 だから、ほら。
 振り返った彼の見せる顔も全て当時のままで、そして振り返った視線が自分と合って、無表情のまま視線を返す事しか出来ない自分の名前を呼び、笑いかけるその仕草もそのままで。
 ただ違うのは、その笑みに引かれて一歩を踏み出した自分の足。彼のすぐ隣に立って、少しの身長差分見上げて、泣き出したい程の笑みを添えて。
 そして一言。
「……会いたかった」
 馬鹿みたいだ、夢の中だからといって。
 笑みが自嘲に変わる。
 驚きに目を開いた表情が見える。どうしたの、と顔を近づけてくる。
 知らない、そう言おうとして、面倒になって止めた。
 どうせ夢の中の事だ、わざわざ説明しても無意味なだけだ。
 目を閉じる。
 彼の姿が、声が消える。
 頬を掠めていた風が消える。
 踏みしめていた大地が消える。
 ああ、また眠りに落ちていくのか。
 このまま目が覚めるかと思ったのに。そうなれば良かったのに。
 起きた時に覚えているのは、最後に見た夢だけだと言う。だから、きっと忘れてしまう。
 せっかく……久しぶりに会えたのに。
 ぼんやりとしてきた意識の中でルックはそう考えて、そして眠りに落ちた。


 アシナは目の前で眠っているルックの顔をしげしげと眺めていた。
「……ルック……ルック」
 声をかけても反応が無い。どうやら完全に眠ってしまったらしい。
 一度は起きたかと思ったのに。
 溜息と共にルックの前に座り、ちょうど持ち出してきた本に手をかけた。

 ルックは図書館の片隅にいた。
 傍らには厚い魔法書が何冊か積み上げてある。小休止なのだろう、机に伏すルックの一番近くに置いてある本には、栞が挟まっていた。
 起こすのも悪いかと思い、アシナは側の本棚を物色していた。背後の身動きする気配に振り返ると、ルックが薄目を開けていた。
「ルック、おはよう」
 そう言って、ちょうど手をかけていた本を引き出し、ルックの傍に歩み寄った。
 その様子をルックはじっと見ていて、そして聞こえるか聞こえないかの声で、けれど確かに、囁いた……。

「まいったな……」
 開いた本は既に読んだ事のあるものだったので、アシナは斜めに読んでいた。それにしても内容が頭を素通りしていく。
 たとえ今すぐ起きても、きっと本人は何も覚えていないに違いない。後で問い質すだけ無駄だろう。尋ねたとして、その方法如何によっては切り裂きを食らうかもしれない。
 結局この事については、自分の胸にしまうしかないようだと判断した。
 ちらりと、眠っているルックを観察する。
 ここに眠っている彼がいても、先ほどの出来事がそれこそ白昼夢だったのではないかと思える。
 三年ぶりの再会だった。それがこんな形になるなんて。
 あと一時間弱、軍議を終えたセリオが迎えに来るまで。その間に目を覚ましてくれないものか。そうしたら、改めて再会を祝えるのに。
 本から目を上げれば、ルックは変わらず背中を上下して安らかに眠り続けている。
 アシナは諦めて本を閉じると頬杖をついた。
「夢うつつだったからって、反則だ……」
 溜め息を吐きながら、アシナは羊を数え始めた。



end
2001/06/14初出 ・ 2001/10/13改稿

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