+  境界線上のワルツ  +



「……深春」
 京介が読んでいた本から目だけ上げ、俺を見る。その顔には無表情の上に、ほんのわずかな不快と少しの不可解が浮かんでいた。
 ここ数年で見慣れたその顔に、俺はほっとしたような感想を持つ。
 京介はここにいる。
「深春」
 小さな溜め息をつきながら京介は本を閉じ、顔を上げた。その動きで前髪が、かき上げていた俺の指から逃れて、顔の前面に滑り落ちる。表情が隠れる。
 隠れた素顔を惜しく思い、心の中で残念と、ちらりと思う。
「深春、何か用か?」
「んー?」
「指」
「え……あっ?!」
 宙に浮いたままだった指を軽く摘まれて、それで俺はようやくぼーっとした気持ちから立ち返った。
「いやー、あっはっはっはー」
 答えを求める京介を誤魔化すように、俺は意味の無い笑いを大きく浮かべた。
「何を訳のわからない事しているんだか……」
 京介はそうとだけ言って、特に深い詮索も無く再び読書に戻った。
 おいおい、何の断りもなく突然自分の前髪を摘み上げた相手に対して、そんなんで良いのか?!
 人を空気か何かとでも思っているんじゃないかと思う。京介のそんな様子を、俺は七割の慣れとニ割の諦め、そして一割の安堵感で見つめた。

 まずいな、と思う。
 俺は最近京介の事が気になって仕方が無い。
 それは、京介が何か作業に集中し出すと食事すら忘れて没頭してしまうからとか、他人に冷たいくせにその実、一番冷たく扱うのは自身で自分を大切に扱わないからとか、そういった理由によるものではない。それが原因の、京介曰くの「お節介焼き」だったら、もう随分以前からしているし、似たような事は蒼に対してだってしている。
 ただ構いたいのではない。この感情は単純なのに扱いが難しく、そして即物的なのだ。
 触れたい。その髪に、頬に、唇に。纏う衣服を剥ぎその下の鎖骨に舌を這わせて、きっと冷たい彼の身体を抱きしめたい。そして自分の所有の跡を残しながら下に下り、そして。
 そこまで考えて、俺はいつも自分の頭の中身に赤面して妄想を振り払う。
 そんな事を何度か続けていたせいで、最近京介と顔を合わせているのが辛かったりする。けれど彼から遠ざかるつもりはない。全て自分の内から生じたものだから、外に出さなければ良いだけの話だから。
 今までこのように悶々としていた時、大概の事は京介に相談すれば解決の糸口を与えてもらえた。(糸口までで、決して解決せず、最後を本人に任す辺りが京介らしいと言えば、らしかった。)だが、流石に今回ばかりは京介に話を持ちかける訳にはいかない。何しろ問題の中心にいるのが当の本人なのだから。
 言ったら、どんな表情をするだろう。寝床の中で考えに行き詰まっている時などに、ふと思う。前髪に隠れた奥で、不可解に表情を揺らがせるに違いない。いや、表情を全く変えずに「何を馬鹿な事を考えている」などと言うかもしれない。
 ああ、言ってみたい言ってみたい。いや、言っちゃいけないな。俺は今の、だらだらとどこまでもなだらかに続いていく山道みたいな、そんな関係で満足しているんだ。ああ、でも。
 そんなこんなで、俺は最近京介との距離を測りかねていた。

 再び京介を見てみれば、自分が俺の葛藤の中心に微塵も動かず座しているなんて知らず、変らず本に没頭している。
 俺や蒼が知らない、異国の建築や遠くの国の言葉を知っている京介。でも、手を伸ばせば届く距離にいる俺の胸中を全く知らない――気付いていない京介。
 俺は知らず知らずの内に、顔が笑っていたらしい。じっと見ている俺の気配に気付いた京介が、顔を上げ俺の表情を見て、(前髪に隠れてよく見えなかったが、たぶん)無表情に
「何を無気味に笑っている。まるで運動会を見に来た、子離れできていない親みたいだぞ」
 と評した。俺はお決まりのように「何だとっ?!」と怒声を挙げつつ顔中に笑いを浮かべて立ち上がり。
 京介の首に腕を巻きつけ、頭を拳でぐりぐりして、いつものようにこう思うのだ。
 居心地良いぬるま湯のようなこの空間も、関係も、いつまでも続いてくれるものとは思っていないけれども。

 こいつはここに居る。
 京介はまだ、ここに居る、と。

 それだけで、今の俺は満足なのだ。



end
2003/05/24

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