天使も踏むをおそれるところ 2 期待していた雪はなかなか降らず、ボクはアル中のうだつの上がらない作家のプライドと生活のせめぎ合いに延々付き合わされるはめになる。けど、彼は主人公じゃないんだ。五歳になるその息子。字はまだ読めないけど、人の心が読めるんだ。彼は父親が時折妻子に抱くどす黒い雲のようなものと、そんな折りに母親が心に浮かべる『リコン』という文字(彼には読めないし、意味もわからないが)に怯えている。 「タケル!目が悪くなるわよ!」 「あ、母さん。早かったね」 さりげなく題名を伏せたつもりだったんだけど。 「ああ、それ。あんたも好きねえ」 目が早いっていうか。ボクが寝転んでたソファにどさっと荷物を投げ出して、母さんがからかうように言う。 「双子の幽霊が怖いでしょ〜」 「やめてよ、まだ読み始めたばっかなんだから」 「あはは」 母さんは一旦キッチンに消えて、ビールのプルトップを上げながら戻って来ると、腰に手をあてて一息に呷った。 「はぁ、この一杯で生き返るっていうか〜」 「母さん、オヤジくさい」 「暑かったんだからしょうがないでしょ」 クーラークーラー、とリモコンを操作して。この年代のひとって、エアコンって言わずにクーラーって言うんだよね。どうでもいいことだけどさ。 「で、どうなの、自由研究の方は」 「全然」 「あんたも変わってるわねえ。ほら、なんてったっけ、あの毎年朝顔だっていうあの子みたいなのもアレだけど」 「あはは、大輔くん?」 「そうそう。元気なの?」 「うん、サッカーで忙しそうだよ。今度一日に会うけどね」 恒例行事ね、とエプロンを巻き付けて。 「お素麺でいい?」 「なんでも」 ボクはまた本に戻る。 「ヤマトも来るの?大丈夫かしら、あの子」 「大丈夫なんじゃないの、お兄ちゃんはともかく、空さんは真面目だから」 「ヤマトには勿体ないお嬢さんだわよねえ」 「うん」 時々話し掛けてくる母さんに生返事を返しながらページを繰る。ボクは四歳だった。ほとんど何も憶えていない。おばあちゃんの所に預けられて、帰ってきたら全部済んでいた。五歳の彼のように、両親の仲を心配し、修復しようなんて。バカげてる、これはお話なんだ。話を盛り上げるためのよくある道具立てのひとつに過ぎない。ボクは母さんの前でこんな内容の本を読むのが後ろめたくなってくる。それこそ暴力描写やエッチな場面なんかよりずっとね。そういうのは当たり前のことなんだからなんて先手を打たれてるのもあるけどさ、さすが職業柄リベラルでいらっしゃるってわけ。とにかく本を置いて女手ひとつで立派に育った息子らしく、何か手伝う事はないかと立ち上がる。 『僕はまた夢中遊行している』 ぬるい水の感触で完全に目が覚める。真っ黒な汚いものに肘まで浸かって何かを探してたんだ。いい加減諦めて、手を洗おうと思って。つけっ放しのエアコンのせいで冷えきった体に生温い水が体温位に感じられる。 何してんだろう、まるで。 「危ない人みたいだ」 鏡の中、ぼんやり浮かび上がる自分の顔。二重映しになるのは、謎めいた忠告をしてくれる十五歳の自分ではなく。そうなんだ、すぐわかったよ。あれは主人公のの未来の姿なんでしょ? 「しつこいよ」 いつでも泣きだす準備は万端、という顔をした八歳の自分。 「もう終わった事じゃないか」 『ああいうのは終わらないんだよ、知ってるくせに』 「大丈夫だよ」 『どうしてキミにわかるのさ、だってまだ・・』 後ろに誰かの気配、振り向いて母さんの部屋から洩れる灯りにぞっとする。急いで顔を洗って、ベッドに戻ろうとして、体に巻き付いているタオルケットを退けようと。 「あれ?」 タオル地のシーツを探って何か堅いものに触れる。 「あ、そうか」 枕許のスタンドも付けっ放し。本を読みながら寝てしまっていたんだ。起き上がってエアコンを切る。急に部屋の中が生暖かく感じる。 「ボクものりやすいなあ」 もう眠れそうにない、開いたままの本を引き寄せる。 闇は無くならない、あの世界だけの事ではなく。本を開いてはいるものの文字は言葉になってくれず、白と黒の配列をただぼんやり眺める。それがどんなものか知っておきたいんだ、もちろんこんなのはお話だ、ホントの事じゃないのは承知してる。でも、強い想いが何かを生み出し、枝分かれして成長していく事もボクは知っている。それがデジタルなデータを介して現実となった時にどんな力を持つのかも。タオルケットを蹴り飛ばして大の字に寝転がる。もう終わった事なのに。今度何かあったってボクはもう選ばれたりなんかしないだろう。アクセス過多で閉じてしまった脆弱なゲート。 『あるいは』 冷静な声と顎の下に手をやる姿。 『仕方なかったとはいえ、余りに露出が多かったですからね、一旦解放すると見せ掛けて』 世界じゅうの子供が落胆し、嘆き悲しんで、そして。世界中でブームになったネット上の電子ペット。アクセス過多でパンクして、サーバーは雲隠れ。 『少なくとも僕達は憶えてますからね』 だから希望はあると、光子郎さんは言った。何の希望だろう?ボク達はもうやっていけないのかな、あの世界なしには。八月一日。ボク達は集まって何をするっていうんだろう。眠れそうにない、無理に字面を追い掛ける。 『どうして?』 『どうして?』 『どうしてボクなの?ボクはたったの五つだよ?』 どうして?連中は欲しいんだよ、君のその。輝きが。白くて綺麗な肌が?さらさらしたキレイな髪が?彼の存在が燻っていた悪霊達を目覚めさせる。ちょっと怖がらせるだけの害の無い映像が物質化して、力を得る。想いを具現化する能力?最初に選ばれたのは誰だった?彼女は四つだった。最初にデジタマを孵したって聞いた時は正直、後から来てなんだよ、って。想いの力なんて関係ないんじゃないの?彼も四つだったって。彼等は、ヒカリちゃんとウォレスは独力でゲートを開けた訳じゃないけど。たったひとりでゲートを開けた子だっているんだ。雪で封鎖されたホテルの中で父親は悪霊に取り憑かれてしまう。悪霊と言えるのかな、妻子が自分の足を引っ張っているなんていう妄想って。俺にはもっと能力があるのに、って訳。この人物には全く共感できない。司書のお姉さんが言ったのはこういう事かな、寝ながら読むには重い本の角がおでこに落ちる。 |