天使も踏むをおそれるところ





8


これといった事件も起こらないまま、一乗寺くんとの約束の日が来てしまった。どんより曇った、なのに気温は少しも下がる気配のない昼下がり。ボクは帽子を被ろうか、よそうかと考えて結局被る事にして、件の資料室に冷房がある事だけ期待しながら、指定された駅前につっ立っていた。ドタキャンは結構勇気が要るもんなんだ。理由作りのために天使の事色々調べて、当たり前だけどキリスト教関連で、やっぱりピンと来なくて。天使の階級なんかどうでもいいよ、それから太りすぎの赤ん坊にも用はない。結局ボクは一乗寺くんの思わせ振りに盛大に引っ掛かってしまった訳。ゆっくりこっちへ向かってくるモノトーンのほっそりした人影。夏服を見るのは初めてだ、なんてぼんやり思いながら。手を振るべきかな、多分そんな子供っぽい事、彼はしないだろう、ほら、やっぱりね。

こんにちは、って友達同志じゃ使わない挨拶じゃないのかな、でもやっとボクの口から出たのはそれで、一乗寺くんも困ったように口の中でそれらしき言葉をもそもそと。それからきびすを返して、多分「こっち」だとかなんとか。ボクは黙ってついて行く。白いシャツの背中、胸には校章がついていた。きっとこんな天気でなければ太陽の光を反射して眩しく輝くんだろう。蝉の声が大きくなって、公園か何かの横を過ぎる。ボクは一乗寺くんの後を追って知らない街の眠ったみたいに静かな坂道を下っていく。不意に前を行く姿が消えたと思ったら、右側の木の影から白い手が、それから黒い髪の端が見えた。歩み寄ってみると、蔦に覆われた煉瓦塀に隠れるように人ひとり入れるかどうかという感じのペンキの剥げた鉄柵の扉、そこに通じる二段ほどの石の階段に一乗寺くんが立っていて、南京錠をがちゃがちゃさせている。
「ここ?」
「夏休みだから」
てっきり公園だと、ボクの考える学校っていうのはもっとなんていうか、オープンな場所だ。下り坂と高さを揃えるためか、段々高くなる煉瓦塀が遠近法の騙し絵みたいで、そうじゃない、そろそろ限界だよ、どこでもいいから冷房のある所。
「こっち」
耳障りな音を立てて扉が軋む。少し屈んで扉をくぐる一乗寺くんの後にボクも続く。ざりっとした感触、生暖かい鉄錆の匂いがする。手を見ると、ペンキのかけらと赤い錆がついていた。ボクが出てくるのを待って、一乗寺くんが鉄柵の間に手を突っ込んで施錠する。そのガチャガチャという音を背後に感じながら、ボクはぐるりと辺りを見渡す。灰色の石造りの壁は夏枯れした蔦に半ば覆われていて、舗装してない地面から煉瓦塀まで雑草が生い茂っている。蔦の絡まるチャペルで、なんて大昔の歌があったけど、そんなロマンチックなものじゃなく。

「タケルくん?」
名前を呼ばれて慌てて鞄を肩に掛け直す。
「角、気をつけて」
見ると一乗寺くんはもう建物の角を曲がってしまっていて、慌てて後を追ったボクは。
「わ!」
すんでの所で何か四角いものにぶつかりそうになった。

「なに、これ・・」
どうやら何かの台座らしい。
「銅像だよ」
「何の?」
緑青を吹いた裸足の足から上へ視線を上げて、ボクは膝かっくんってなったみたいに崩れちゃって。
「気味悪いだろ。だから、こんな裏庭に移したんだろうね」
一乗寺くんの真面目な声。ボクは笑い声のような引き攣った声をかろうじて。だって、その二宮金次郎らしき銅像は、せっかくの本が読めない状態で。
「これ、夜中に歩いたりするでしょ」
「そうらしいね」
一乗寺くんの口調はあくまで真面目だ。緊張していると言ってもいい。ボクの笑いは始まったのと同じく唐突に終わってしまった。後は気まずい沈黙だけが残る。
「大輔くん、びっくりしたでしょ?彼はあれで結構恐がりだから」
「大輔?さあ、どうだろう」
「怖いのガマンしてがんばって登っちゃったりしてさ、後でうなされたりしそうじゃない?」
・・外しちゃったかな?カマかけたのがばれた?一乗寺くんは何も言わず、その首の無い二宮金次郎を見上げた。
「行こう、少し遅れてる」
「あ、うん」

歩き出すのは雪に覆われた生け垣動物だ。触りたくない程熱くなった古い銅像じゃなく。それでも何度か後を確かめずにはいられなくて、ついでに雑草を被って横倒しになったトーテムポールと目が合ってしまう。暑さのせいだと頭を振って、一乗寺くんに追い付こうと歩みを速める。中途半端な日差しに真っ黒な頭と白いシャツのコントラストが強烈すぎて、ホントにどこでもいいから影に入りたい。短かすぎるひさしのような出っ張りの下に、一乗寺くんが滑り込むように消えて、どうやら目的地に達したみたいで、ボクもその影の中に入る。

「わ!?」

段差があるだろう事は予想していた、ただ座標の向きが違っていただけだ。階段一段分上に突き出されたボクの足は、マイナス二段分空を踏み抜いて、勢いでそのままドタドタと。観音開きの扉に顔がぶつかりそうになって、なんとかブレーキをかける。でこぼこした曇りガラスが板チョコみたいに並んでる、さっきの入り口もそうだったけど、少し背の高い大人だったら屈まないと入れないだろう。六尺(180cmだっけ)が大男だった頃建てられたのかな、この建物は。思い切って扉を押して入ってみると、ありがたい事にブーンって微かな音がしてて、空調はちゃんと効いてるみたい。退色した緑のタイルに扉を開閉した跡が、コンパスで描いたみたいに白く残ってる。田舎の病院の受付けみたいなテカテカした木の枠のはまった小窓に向かって一乗寺くんがなにやら話かけている。ボクは、蒸発する水蒸気のカタマリみたいになって、エアコンの有り難みを最大限に感じながらぼーっと突っ立ってた。










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