闇の声を聞く




曇天の空、重く垂れ込めた雲が世界を覆う。時折強い風に煽られて不安定な足元、一乗寺くんと繋いだ手。少しだけ怖い。目に見えない何かを恐れているんじゃない。君が、君だけじゃなくボクも含めて―――ほんの数分後には変わってしまうかもしれないという恐怖感。ボク達は何年ぶりかに黒い海を目前に、この世界に降り立っていた。背後には、やはり黒い森がどこまでも続いていて、それはごつごつした岩場を経て緩やかな曲線を描き、砂浜と繋がっていた。

「僕は行くよ」

黒い海を前にして、消え入りそうな声。未だに過去の幻影に怯える一乗寺くんには、ボクの言葉は願うほどには届かない。だから言葉にはせずに、ボクは振り返って君の目を見つめ頷き、そして万感の思いを込めてぎゅうっと強く手を握り締めた。もう心配いらないよって、君に伝えたい。ここはもう安全だという事を、確認するためにボク等は来たのだから。



うっかりすれば見過ごしてしまいそうな岩場の奥の暗い洞窟。繋いだ手に再び力を込めて、二人連れ立って足を踏み入れた。頼りない懐中電灯の明かり、風も無いのに二つの影は大きく揺らぐ。僅かな物音さえも、洞窟内で大きく反響する。ひんやり湿った空気、うっかり手を付いた壁面も冷たく濡れている。しばらくそのまま、ボク達は奥に向かって歩いていた。はっきりと言葉には出来ないけれど、どことなく嫌な空気が纏わりつくような感じ。鬱々する気持ちを振り払おうと、ボクはことさら元気な声を出してみた。

「やっぱり、ここにはもう何も居ないんだよ」

言った途端に、洞窟の奥から冷たい風が吹いて来た。一乗寺くんは驚いて声にならない小さな叫びを上げて、その時にはもうボクの空元気も吹き飛んでいた。一気に周囲の温度が下がったような気がした。禍々しい空気がボク達を取り込もうとするかのように感じられる。彼の恐怖がボクにも移ったのかもしれない。何かの気配がするわけじゃない。それでも、このまま洞窟の探検をする気にはなれなくて、ボクは今日のところはもう帰ろうって言おうとした。一乗寺くんの顔を覗き込んだ瞬間に、その目が大きく見開かれるのを見た。懐中電灯を持ったほうの腕が、ふいに背後から大きく引かれた。腕に感じるぐんにゃりした感触。気持ち悪い!ボクは堪らず大きく腕を振り払い、懐中電灯を取り落としてしまった。洞窟内で大きく響く残響音。落ちた弾みでスイッチが切れたのか、途端に辺りは暗闇に覆われる。長く尾を引いて、一乗寺くんの叫び声。それでもボクは彼の手を掴んでいたから、このまま入り口まで引き摺ってても戻れると思っていた。なのに、突然辺りに強烈な金属臭が充満して、ボク達は洞窟の奥に強い力で引きずり込まれた。濡れた壁面にしがみついて、ボクは引き込もうとするその力に対抗しようとした。足が滑る。爪が軋んだ音を立てる。繋いでいたはずの手が不意に自由になる。伸ばした手が空を切った。

「高石!!」
「駄目だ!駄目だ!!行っちゃ駄目……だ!!」

ずうっとそう叫び続けていたと思っていたのに、洞窟内で声は徐々に膨張して行って、しまいには意味を成しているようには聞こえなくなった。気が付けばボクは一人で、暗闇の中わあわあ叫び続けていた。頭の中に霧でもかかっているみたいに、何もかもがぼんやりとする。夢じゃないだろうかと思った。悪い夢を見ていて、次の瞬間にはベッドから跳ね起きてるんじゃないか。夢と現実の境界が曖昧になったような妙な気がするけれど、さっきまで繋いでいた手の感触がボクを奮い立たせた。ボクはそこでようやく我に返って、震える膝に力を入れて駆け出そうと大きく一歩を踏み出した。すると、足に何か硬いものが当たる。手探りしてみたらそれは、さっきなくしたと思ってた懐中電灯だった。ボクはそれを拾い上げ、スイッチをカチカチと何度も押してみた。果たして明かりはボクの周囲を、じめっとした洞窟の中を照らし出した。嫌な匂いはすっかり消えて、辺りは再び静寂に包まれていた。この先に何があっても、ボクは行かずにはいられない。懐中電灯をしっかりと掲げて、ボクは駆けるように奥へと踏み込んで行った。




一乗寺くんの様子がおかしくなり始めたのは、ここ1,2週間のことだった。もともとあまり感情の起伏をみせない彼だけれど、ここのところ沈んだ様子でぼんやりしている事が多くなっていた。最初は疲れてるのかなって程度の認識だった。たまに大輔くんとサッカーをしていたのを断るようになり、ボクと街を歩き回るのさえ気乗りがしないような様子。それならばと、部屋の中でゲームをしたりDVDを見たり。それでも気が付くと一乗寺くんは部屋の隅でうつらうつらしている。さすがにもう帰らなきゃいけないだろうって時間に揺り起こすと、彼は自分のいま居る場所さえあやふやだった。

「何か悩み事?眠れないの?ボクでよかったら相談に乗るけど」
「うん、実は……最近いつも誰かに呼ばれているような。そんな気がするんだ」

見えない何かを見ているような目をして、一乗寺くんは不思議な事を言った。誰かが呼んでいるような?これに関して言えば、ボクは過去に拭いきれない嫌な思い出がある。いや、ボクだけじゃない。禍々しい気の充満する暗くて黒い海が、今も眼前に広がっているような……そんな奇妙な既視感。

―――あの海にゲートを開く―――

デーモンを封じ込めるために。あの時には、それが最善の方法だと思われた。そして、禍々しい敵は暗黒の世界に封印した。それで終ったはずだった。考えてみればゲートを閉じてそれで完全に封じ込めたと思ってたボク等がおめでたい。もし、何らかの作用によって……例えば、再び位相のズレが起こっていたのだとしたら……。



嫌な考えを振り切るようにずんずんと先へ進んでいくうちに、道幅は狭まって屈んだり身体を捻ったりしなくちゃ通れないくらいの隙間になった。頼りない明かりでも、無いより全然ましだった。暗闇に小さく反射するものが地下水の中の見慣れない魚だったり、頭上すれすれに飛んでいく気味の悪いものの正体が蝙蝠だったり。もし、何の準備もないままここに迷い込んだのだったら、ここまで正気を保って入られなかったかもしれない。いや、万が一準備もなしに突然ここに呼び出されてしまったにしても、ボクは多分進むしかなかったろう。何故なら、こうやって進む道の先、必ず一乗寺くんが居ると確信しているから。


洞窟の奥まったところは一際広く、まるでそこは部屋か何かのようだった。どうやらそこで行き止まり。

「一乗寺!!」

ボクは、声を限りに叫ぶ。声は壁に反射して木霊した。それに反応して、部屋の奥まったところで黒い何かが蠢いた。金属的な臭気を放つその何かは、腕のように見える細長い器官を使って、ボクにおいでおいでをしているようだった。何ともいえない恐怖がボクの全身を貫く。嫌な汗が噴出して、膝が震える。怖くて逃げ出したいのに脚が動かない。懐中電灯の頼りない灯りの輪の中で、それは突起の生えた巨大な頭をこちらに向けている。人の顔に似通ってる部分は皆無で、かろうじて顔面だと判断するのに可能だったのが、目のようなものが前面に付いているからだった。せめて目を逸らせてしまえればいいのに、それすらも敵わない。灯りが充分ではないにもかかわらず、そいつがとてつもなく醜悪な姿形をしていることは明らかで、その怪物がギクシャクと動くたびに、びちゃびちゃと粘着質な音が洞窟内に響く。酷く神経に障る嫌な音。そいつの膝の上には一乗寺くんが横たわっていた。ボクは声を掛けようとして、寸でのところで思いとどまった。ぐったりと投げ出された四肢。赤い筋が白い頬を汚している。怪物が動くたびに、一乗寺くんの薄く開いた唇から微かに声が漏れる。そしてボクは見てしまった。怪物の胴体部分にはたくさんの触手が蠢き、その先端はまるで毛細血管のように広がって、そのうちのいくつかが一乗寺くんの身体を支えながら肌の上を這い進み、ある部分では皮膚の奥に潜り込んでいるのだった。怪物がくぐもった奇妙な声を上げる。触手は更に侵食を深める。その刺激によってなのか一際大きく震えて、一乗寺くんはそれまで閉じていた瞼を開く。その瞳は、真っ直ぐにボクを射抜いた。

『殺しはしない。種を……種の力を我等は必要としているのだ』

突然、ボクの頭の中に直接響く奇妙な音節。あまりの異質な感触に、ボクは吐き気を覚える。声を出そうとしても僅かに息が漏れるだけ。一乗寺くんは、かろうじて意識までは無くしてはいないようだったけれど、全く身体の自由を失っている。ボクは助けるどころかどうする事も出来ず、目の前の光景に衝撃を受けて、ただ立ち尽くしていた。あの時、洞窟を前に引き返していれば……。今更のようにボクは後悔の念に苛まれる。今や彼はボクの前、1メートル程のところに佇んでいる。幾本かの触手によって半ば強引に暗い闇の中でぼんやりと浮かぶ白い身体を、触手を持つ醜く黒い生き物が背後から絡めとるように覆う。肌の上に黒い筋状の模様を描いて。触手の先端は奥へ奥へと潜り込み、それはあたかも怪物の身体の一部が一乗寺くんの身体と溶け合い、融合しているかのような有様だった。まさにこの世のものとも思えない、奇妙で醜悪な光景がボクの眼前で繰り広げられているのだ。ボクはいつしか恐怖も忘れ、吸い寄せられるようにその頬に手を伸ばしていた。



END

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