春の紋章
「じゃあね、パタモン、母さん、行ってきま〜す!」 僕は勢い良く玄関の扉を開ける。 「あら、タケル! いくらなんでもまだ早すぎるわよ?!」 「いいんだよ、母さん! 早く行きたいんだから。」 昔からそうだけど、母親の言葉なんて聞く耳を持たない僕は、新しい学生靴の爪先を慣らす様にとんとんと地面に叩き付けた。 「行ってらっしゃい、タケユ〜!」 「今日は早く帰ってくるよ!」 「張り切っちゃって。嬉しいのね、中学校……」 ドアを閉める間際に母の言葉が耳に入り、僕はつい、クスリと含み笑いを漏さずにはいられない。 ちょっと違うんだけど……。 でも、親にはそう思ってもらっといた方が都合良い。 いつもの様にエレベーターで下に降り、いつもの様にマンションのエントランスから外に出ると、そこにはいつもの様に……いや、正確には、いつもとまるっきし違う、眩しくって明るい明るいお台場の朝が、僕を晴れやかに出迎えてくれた。 ひとつ大きく深呼吸。慣れない首のネクタイを、窮屈そうにちょっと捻って。 おはよう、お台場! 僕達の新しい生活が始まる土地! 「よしっ。」 小さな声で呟くと、僕は中学校へ向かって駆け出した。 流石に息が切れてきた。中学校までノンストップで走ってきたら。でも今日は入学式だけだから、真新しい鞄だって中味はカラカラ、全然重くなんかない。 「あ……やっぱ? やば。」 校舎が見える所まで来た僕は、駆け足するのを徐々に止めた。まだ閉まっている校門が目に入る。やっぱり来るのが早すぎたらしい。 でも僕は、他に誰もいない門の近くに、小さく佇む人影を見逃しはしなかった。僕の足は真っ直ぐに、その人影へと歩み寄る。 「おはよ!」 「おはよう……高石。」 優しい微笑みが、淡いピンクの桜の如くふんわりと開花した。 すらりと細身の長身.。春休みの間、また少し高くなったのかもしれない。でも幸いな事に、僕自身も丈の伸びは早かったので、まだ追いつかれるには至っていない。 さらさらの髪が良く映えるおかっぱ頭は、昔から変わらない。でも可笑しな事に、白いシャツにグレーのパンツ、緑のブレザーに紺のネクタイと言ういでたちは、僕と全く同じ格好で。それがもの凄くまばゆくて、くすぐったい。 「結構似合ってるんじゃない?」 「高石だって。」 照れたみたいに首のネクタイに手を当てて、軽くひっぱり緩めている。 やっぱりネクタイだよね、ネクタイ。これが僕らを、急に大人になった気にさせる。 僕も胸元のパリっとした感触を確かめる様に指先で触り、照れ笑いを浮かべながら、相手をちらりと一瞥した。そして直ぐに、まだ固く閉ざされた校門に目を移す。 「早すぎちゃったね?」 「誰よりも一番先に登校しようなんて、高石が言うから……」 確かにこれは、僕と言うより大輔君のノリだったかもしれない。でも僕は、誰よりも一番先に君の制服姿を見たかったんだ。君がお台場中学の制服に身を包んだ姿をさ。 「だってさあ……」 だって君は、いつも本当に、人をびっくりさせるから。 知り合った時からそうだったけど、何をしでかすか分からない、って言うかさあ。 頭が良いようで、実はかなりヌケてるし、遠慮がちなようで、時々物凄い事をやってのける。最後の戦いが終わった後は、すっかり自信を取り戻し、明るく優秀な一乗寺賢に戻って一件落着、と思ったら、今度はお台場に引っ越して、お台場中学に入学するって言うじゃない? 今まで通った有名私立を途中で止めて。 本当に驚いたよ。僕達選ばれし子供達仲間がいなくたって、今の一乗寺君には私立の学友も大勢できていたんだから。田町に居ても何も問題なかったのに。お台場に越してきても、大したメリットは無い筈なのに。それでも一乗寺君はお台場に引っ越してきた。何故ってそれは……僕にはちょっと言えないよ。 「学校が開くまで、向こうの公園で待ってようか?」 眩しすぎて直視できない端正な顔を、それでも横目で盗み見ながら、僕は提案してみせた。 「そうだな。」 穏やかな声にホッとしながら、先にくるりと向きを変える。そして相手を促す様に、背中にちょっと手を回してみる。 この位……自然だよね? この位……でもそのさり気ないポーズだけで、僕の心臓はもう張り裂けんばかりに高鳴っている。 歩きながら、隣に並ぶ同級生に全神経が集中して。結局やり場に困った手は引っ込めてしまったが、でも顔を上げたら、真っ白に晴れ渡った空が目に写り、僕の体は軽くなって、天に吸い込まれてしまいそうな感覚に陥った。 いい天気。 今日は暖かくなりそうだ……。 中学校の隣には、いつも閑散とした公園がある。遊んだり休憩したりしたい人は、みんな砂浜の方に行ってしまうのか、その公園はいつも不思議と人気が少なかった。 その朝も案の定、公園はひっそり静まりかえり、人っ子ひとり見当たらない。 僕達は古い木のベンチに歩み寄り、並んでそこに腰を掛けた。横から差して眩しい朝日に、手を翳して目を細める。 「何かさあ、信じられないな。」 「うん……本当だね。」 主語の無い台詞。でも一乗寺君はちゃんと分かっていてくれる。僕の言いたい事。僕の気持ち。 信じられない。 これはきっと仲間の誰もが思うのだろう。 僕と一乗寺君が、急にこんなに大接近するなんて。しかもみんなの知らぬ間に。 「本当に……信じられないよね。」 一乗寺君と二人きり、同じベンチで肩を並べ、春一杯になってる自分が。 ふーっと安堵のため息を付き、額に翳していた手を何気なく下ろしたら、脚の側にあった一乗寺君の手の甲に指先が触れてしまった。思いがけない接触事故に、胸の内が飛び上がる。 企んでた訳じゃないんだ、本当に、全然。 でも…… 僕の手は、固まってしまって動かない。 この位……いいかな? 誰かに見られてやしないか、瞳だけが注意深く周りを見回し、胸中ドギマギしながらも、手をそのままにしていたら、下にあった一乗寺君の掌が、そろりと裏に返された。そして軽く握る様に。 「やっぱり、信じられないかな?」 夢にまで見た人の静かな言葉は、コーヒーに入れたクリームの様に、僕の心にさらりと溶けた。その言いようのない甘さの渦に、身体中が掻き回される。 「いや……」 夢見心地で、ゆっくり首を横に振った。右手の下には、ほの温かい人肌の感触。 「……信じられる。」 この温もりは信じられる。隣り合った肩越しに伝わる、君の存在も信じられる。 ここで同じ空気を吸いながら、同じ景色を眺め、同じ気持ちに浸っていると言う事実を、片手の先というほんの僅かだけでも君の肌に直に触れ、その生命を感じている今、僕は確かに信じられる。 「これからはさあ、毎日学校で顔を合わせちゃうんだねー。」 深刻になるのも恥ずかしい。おどけた調子に勤めながら、僕は声を高くした。 「うん。同じクラスになれるかな?」 お台場中は割と小さい学校だから、同じクラスになれる可能性は高いと思う。 「宿題分かんない時は教えてもらえるしねー。」 僕は大輔君とは違うから、宿題で人に頼ったりはしないけど、でも遊びに行くには良い口実だ。 「僕だって、分からない時は高石に尋ねさせてもらうよ。」 一乗寺君が僕に? かなりヨイショっぽいけど、でも僕だって国語の成績は良いんだよ。 ちっぽけな自尊心がちょこちょこっと擽られた。 「クラブ活動とかどうすんの? やっぱりサッカー部?」 「いや、サッカーはもう……。僕はもう、昔みたいなプレーはできないし、あれだけ騒がれた後だから、何かやり辛いんだ。」 そっか、気の効かない事聞いちゃったな。減点5点。 「あ、でもさ、お台場中には柔道部とかもあるよ。かなり本格的にやってたんでしょ?」 「うーん、そうでもないよ。僕は個人競技じゃなくて、チームプレーができるスポーツをやりたいんだ。だから、例えば……バスケット部とかさ。条件に合えばの話だけどね。」 「条件?」 首を捻って、横にいる友人の顔を伺う。『バスケ』の言葉が出た時から、僕の胸は嬉しい予感で一杯に膨らんでいた。 「うん、だから……高石がバスケット部に入るなら、って条件。」 うわ。 完璧に……きた。 それでも気をしっかりと取り持って。崩れない様に。舞い上がってしまわない様に。 「入るよ、僕は。」 「そうか? じゃあ、僕もそうしよう。」 「でもさ、お台場中のバスケ部って、全然強くないんだ。練習も早々に終わるしね。」 「構わないさ。そしたら高石と一緒に帰れる訳だし。」 僕はもう……死ぬかもしれない。 目眩がしそうな頭をかろうじて持ち上げて、僕は大きな声を上げた。 「あは。じゃあさ、部活の後は僕の家に寄って行きなよ。どうせ母さんはいつも居ないから、ゆっくりしてってもらえるし。」 言った後で、突然胸がドキッとした。 何をいきなり。「母さんは居ない」って、まずかった? 急に焦って、緊張してしまった僕は、相手の顔を見る事ができなくなった。その代わり、触れ合っていた掌を、尋ねる様にもじもじと動かした。 「うん、じゃあ……お邪魔させてもらう。」 一乗寺君は、消え入りそうな返事と同時に、繋がっていた指先を、そっと握る様に力を込めてくれた。 思い切って顔をゆっくり横に向けると、伏し目がちだった一乗寺君が恥ずかしそうに視線を上げ、僕達の目が合った。 とても、とても、気になって、気になって、仕方のない人の顔がそこに。いつも、いつも、一緒に居たくて堪らない人の全部がそこに。 ……。 僕は切れていたかもしれない。2年前の夏の様に。 そこが往来に面した外の公園でなかったら。彼の体を引き寄せて、しっかりと、この腕に抱きしめていたかもしれなかった。 だってそれは、その時二人が、僕も一乗寺君も、両方が望んだ事だから。僕にはそれが分かっていたから。 でも僕の視界の端には、向こうの通学路を流れる様に歩いていく制服の一群が写っていた。 ハッと我を取り戻した僕は、慌てて頭を振り上げた。 「学校、開いたみたいだね。そろそろ行こうか?」 僕の注意を見て取った一乗寺君も、ちらりと後ろを振り返り、大通りを登校して行く学生達に肯いた。 「そうだね。」 ベンチから立ち上がりながら、僕達の掌は離れ離れになる。 お互い無言のまま、それでもやっぱり名残惜しい気持ちだけは、相手にしっかり伝わっていたと思う。 僕達は、軽い鞄を手にぶら下げて、学校に向かって歩き出した。 一乗寺君と肩を並べて進みながら、僕はゆっくり天を仰いだ。雲一つない、高い空。 「でもさ、今日が始まりだもんね。」 「え?」 隣りの相手は首を傾げる。 「今日は始業式。第一日目。今日から全てが始まるんだ。全てはこれからなんだよね。」 「……うん 」 染み入る様に優しい声音の相づちだった。一乗寺君は、きっと嬉しそうに微笑んでいてくれたと思う。 厚ぼったい緑の学生服の背中に、春の朝日がさんさん差して、熱が篭ってぽかぽかする。とても温かくて、良い気持ち。 これからは毎日学校で顔を合わせられる。 部活で共に練習できる。クラブの後は連れ沿って下校して、家に遊びに来てもらえる。 家でジュースでも飲んで、ゲームでもして、それか学校の話でもしながら、のんびりまったり過ごしてもいい。 そしてそれから何よりも、一緒にいる喜びを、二人で確かめ、分かち合いたい。 どうやって? ……って、それは…… ああ、僕は子供のくせに、一体何考えてるんだろ! でも、焦る事はないよね。 だって僕達の生活は今始まったばかりだもの。これから先、二人の時間は一杯あるもの。 あーそう言えば、最近テレビで、アメリカの同性結婚論争ニュースが流れてたっけ? 僕達が大人になる頃には、法律も今と変わっているのかな? そうだったらいいな……なんてちょっと思いながら、僕はちらりと目の端で、奇麗な僕の相棒の顔を捕らえていた。 僕は紋章を持っている。 それは、さっきより僅かに座標を高くしたあの太陽の様に、どこまでも果てしなく広がった空の上で、明るく、眩しく輝いているんだ。 僕は、いまだかつて無い程の幸福感を胸の中に抱きながら、一乗寺君と中学校の門をくぐった。 |