New world





4






秋の空はひたすら高くて、ボクは精一杯伸びをして、仰ぎ見る。ふと、君の住む部屋の辺りに目を止める。ふいに胸の鼓動が跳ね上がる。ベランダに凭れて、こっちを見ている人影。それは間違いなく一乗寺くんだった。ボクは手を振る。君がそれに気付いて、軽く微笑んでくれた気がした。君の右手が上がるのを、ボクは見た。青く切り取られたこの街の空に、一際映える君の肌の白。愛してるんだ。聞こえないのは承知の上で。ボクは何度も繰り返す。そうしている事が、君に対する思いの深さを体現する唯一の方法だとでも言うように。

「愛してるんだ。君の事を」

どうしてだか、視界がぶれる、気持ちが溢れ出して堪らなく。ボクは突然、何もかも放棄して、この場所で永遠に君を見ていたいという誘惑に駆られる。雨の日も風の日も、日がな一日そうして居られたら、それがボクにとっての幸福。でも次の瞬間には苦笑いと共にそのバカげた考えを道端に放り出した。君がボクを見てる。飽かず同じ姿勢で、ベランダの柵に凭れるボクの愛しい人。立ち去りたくないっていうボクの思い、きっと君にも届いて居るだろう。ボクはもう一度、愛してると口の中つぶやいた。白い手がそれに呼応するように揺れる。





君の手が揺れる度、見慣れた景色が変化していく。林立するビルが軒並み蒼ざめて、鬱蒼とした木々に埋もれて行く。切り取られた空は隙間無く覆われていって、たちまち辺りは暗くなる。通りを歩く人の姿は途絶えて久しく、もはや喧噪は遠く彼方。君の姿さえ、霞んで見えない。ボクは腰まで覆う草を掻き分けて、ここから逃れなければならないという思いに強く突き動かされる。でなければ、深く暗い森に君を見失ってしまう。

「これは幻、これは架空の世界…」

ボクは呪文を唱えるがごとく声を出して。鋭い葉が掌に傷を付ける。切り口がピリピリと痛む。ボクは前だけを見つめて歩いてく。

「ボクは戻りたいんだ」

一歩一歩進む度、足元で草は左右に別れて、消えて行く。木々はまばらに減っていき、足の下にはアスファルトの硬い感触。気が付けばボクは駅前に一人立っていた。後ろを振り向かないで歩いてく。疲れた顔をしたサラリーマンの群に混じって流されながら、ボクは自分の帰る場所へと。ボクを育み、形作ってきた空間。ボクは君を愛しく思う。どこかに連れ去ってしまえるのなら。ともすれば、今にも身を翻して君の所へ。それをしないのは、ボクにも君にも居るべき場所があるから。





朝起きたら雨だった。夜の内から降りだした水滴は街並を濡らし、生き生きとその色を蘇らせる。ボクは学校を終えるとその足で君の所へと向かう。君の構築した小さな王国を知ってしまった今となっては、現実世界の全てが色あせ、生きてる実感が感じられないから。君が居なくちゃまるで空虚。駅に着いて電車を降りたボクは空気を貪ぼった、まるで酸欠の魚みたいに。小さな四角の空が泣いている。ゆっくり視界がぶれる。揺らいだ景色の向こう側、暗くて深い森が見える。昨日とは逆の現象、一歩進むごとに草に阻まれ、ボクは転びそうになりながら歩いてく。茨に刺され、草に阻まれなかなか君にたどり着けない。蔓草はボクに絡まり、足を止めさせる。一歩も進めなくなって、ボクはあきらめて目を閉じた。君の姿を思い浮かべる。憂いに沈んだ君の横顔。ひとたび触れれば、熱に浮かされたような、濡れた瞳を見せる。感じやすく繊細な白い体。

「君に会いたいよ」

囁いてボクは瞼を開けた。果たしてボクの目の前には、焦がれてやまない君の姿。

「遅かったじゃない。早く助けてよ」

お陰でボクは草の蔓の虜。ボクを救い出して、君の中に取り込んで。制服の袖から覗く白い手がボクに触れて、官能の予感にボクは震える。自由にならない体、君に抱きしめられると、蔓草は消えて行く。君はそのまま体重を掛けて来るから、ボクらはその場に倒れ込んだ。柔らかな草がクッションになる。唇が押しつけられて、君の舌が潜り込んでくる。抱きしめあって転がって、濡れた草の冷たさも気にならない、君の体温を感じる。ボクは何もいらない。君とこうして居るだけで、全ての退屈も憂鬱も消え去ってゆく。ああ、だけどこの世界の中じゃ、この高揚感も充足感も仮想現実。だからボクは強く目を瞑って、鬱蒼と茂る木々、絡み付く蔓の一つ一つを意識の外に追い出した。君の住む街、幼い君を育んで、時に無情な現実を突きつけてきたこの街の風景を、ボクは記憶の中から引き出した。ゆっくりと目を開けると、間近に君の顔。頬が上気して少し怒っているようにさえ見える。果たして、辺りにはいつもの街の喧噪が戻ってきていた。

「案外簡単な仕組みなんだね」

君は答えない。鋭くボクを睨んで、ついときびすを返した。ボクは君の肩を掴む。顎を持ち上げて、背けられた顔を覗き込んだら、君が本当には怒ってない事がわかった。赤い頬、潤んだ瞳、ボクの可愛い人。自分の気持ち持て余して、どう振る舞えばいいのかさえ分かりかねている。





街の喧噪、人混みに流されそうになりながら、ボクと君は舗道の真ん中、立ち尽くしている。言葉はあまりにうるさすぎるものだから、ボク等には必要ないでしょ。世界のただなかで小さい空だけが、ボク等を見守っている。誰もが自分の事だけで精一杯の顔してる。だからバーチャルな世界は、ほんとは必要ないんだ。腕を伸ばして君の手に触れて。今この場で、ボクはきっぱり断言した。

「ボクと君は繋っているのさ」

君が呼び寄せる世界、ボクはそれを蹴散らして、君を感じられる、呼び寄せられる。そしてボクは現実の世界を変える事が出来るのだと知る。今ここではボク等には誰も気を留めない、振り向かない。寄りそうボク等を避けるように、人の流れが左右に別れる。大人しく目を伏せてボクの前に立つ君の永遠は、決して手に入らないから、今だけは形振り構わずにボクは言う。

「何があってもボクは逃げないから。だから……」

君の硬い表情が幾分和らいだように見えた。力なくだらりと下げられた君の手を握る。素早く手の甲に口づけると、声にならない君の驚き。ぎゅっと握りしめた手に力を込めて、ボクは歩き出す。君を抱きしめて、キスしても誰にも見咎められない、この街のどこかにある筈のそんな隙間を探して。








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