手負いの雉に幸福な死を 3







陽があるうちは、書物に埋もれる日々。柔かな日溜りのなか、ぼーっと上の空で いたら、酷く叱られた。夜な夜な僕を苦しめる張本人は、隣に座ってそんな僕の 様子にくすくすと笑い声。僕は熱くなった頬を隠そうと、本を読む振りをして俯 いた。そんな風に一日は暮れる。



夜は嫌い。夜が来るのが怖い。時々堪らなくなる。この屋敷の中は密やかで、人 の気配を微塵も感じないのに、夕食の時につくテーブルには、はるか彼方まで人 が座っている。いったいここには、どれほどの人間が居るのか。長いテーブルに は蝋燭の火が灯されているのに、どこか薄暗くて、僕はいつもぼうっとなってし まう。
初めのうちは、近くに座る人の顔を覚えようと努力もしたけど、今は諦めた。隣 の人の顔を見ると、ぼんやりと紗がかかったようで、もっと良く見ようと目を凝 らすと、その人はもはやそこには居ない。僕に向かって何かを話し掛けてくる人 がたまに居るけれど、僕には言葉が分らない。だから、いつも曖昧な微笑を浮かべて首を振る。すると彼らは一言二言何かを言って、それで、その場は収まる。 聞いた事のない言葉、見かけない髪の色、僕は居たたまれずに急いで食事をとる 。



長い夜はまだ始まったばかりで、味気ない食事でお腹を満たした僕は、俯いたま まそっと部屋に戻る。部屋で蹲って、呼ばれるのを待つだけ。呼ばれたら、それから、なにも感じないように心を閉ざす。僕が生きて行くために真っ先に覚えた 事。痛みなんてほんの少しの間だけ。すぐに消え去る嵐のようなもの。いつのまにか麻痺して、何も感じなくなるまで。

「待たせたね。ボクと一緒においで」

ドアを開けて、やさしく僕を誘う。僕は頷いて、彼の元へ。唯一無二の僕の王様。
丸くて広い浴槽の白く濁ったお湯のなか、僕は彼に抱かれる。心地良いお湯のなかでともすれば眠ってしまいそうになるのに。やさしく僕を撫でる彼の腕。時折首筋にキスが落とされて。膝の上に抱えられて、濁ったお湯のなか、僕は緩く握られて、深く貪られた唇、微かに息が漏れる。何度も何度もキス。いつからかキスはキライじゃなくなって、キスだけで僕は昂ぶる。彼の首に縋りつく。僕のほうから舌を絡める。
そのまま、自然に立ちあがったそこを彼の手が刺激して。あっけなく僕は放ってしまう。こんなところでこんな風に。それに興奮して僕は、彼を欲しがってしまう。見えない水の中で彼の指、導いて。

「いやらしいね、ボクの可愛い子」

嬉しそうに言って彼は僕を抱きしめて、僕等はお湯のなか、激しくお互いを求め合う。すっかりぼうっとなった僕は抱えられて。気が付けば寝室の広いベッドの上で、何度目かの絶頂。そして、揺さぶられて突き上げられて、僕が気を失うまで。
そうして日々は過ぎていって、こんな生活にもいつか僕は順応していく。僕は過去を思い出さない、未来を夢見ない。心の大半を占める思いに蓋をして、それでもこうして毎日生きて行ける。





月の丸いある晩のこと、僕は真新しい服を着せつけられて、長い長い廊下を歩いている。壁の両側に明りが灯されているのに、相変わらず屋敷のなかは暗くて静かで、足音さえも暗い色の絨毯に吸い込まれて行く。前を行く女の人は黒い服、一言も喋らないから、僕はあの日の出来事を思い出す、重ね合わせてしまう。寒い日曜日、時折泣き崩れる母親に手を引かれて、僕は黒い服の波に呑みこまれていた。固く固く閉ざされた小さな棺の中の、蝋のように白い塊、決して戻っては来ない、僕のたった一人の。
そんな思いに取り込まれた僕は、危うく前の女性の背中にぶつかりそうになる。いつのまにか一つの部屋の前で立ち止まっていた事すら、僕は気付いてなくて。背中を押されて、僕はたった一人、部屋の中に押し込まれる。初めて入る部屋のなか、正面には天蓋つきの大きなベッド。そこに横たわるのは。

僕の王様が死にかけている。血の気の失せた顔、僕は驚いて、側に駆け寄る。

「どうしてこんな……?夕方見た時にはいつもと変わらないように見えたのに」

落ち窪んだ眼窩、うっすらと瞼が開く。変わらぬ青い瞳が僕を捉える。

「ボクは今夜、結婚の儀を執り行ったから」

「今夜?それが何故こんな事に?」

それには答えず、腕が伸ばされる。僕の首の後ろに回されて、思いのほか強い力で引っ張られる。僕は、彼を押し潰さないように気を付けながら、ベッドの上に圧し掛かるような恰好になる。いつのまにか部屋の扉は閉ざされて、僕と彼とは二人きり。弱ってるのにも関わらず、いつもみたいに彼は僕に口付けてくる。慌てて押しのけようと伸ばした指先にぬめる感触。見れば彼の首から血が出ていたのだった。

「なんでこんな怪我を!?」

「今夜結婚したからだよ」

事も無げにそう言って、彼は僕の首筋に顔を埋める。途端に感じる鋭い痛みに、僕は声にならない悲鳴を上げた。逃れようとしても、弱った体のどこにこんな力があるのかと思えるくらい強く押さえ込まれ、それもままならない。首筋を強く 吸われる感覚。そうしてるうちに痛みを上回る快感に目が眩む。シーツに沈み込む体から力が抜けて、僕は彼に全てを委ねる。薄れて行く意識の中で、僕は彼の声を聞く。

「ボク達の一族は、その昔から一族の血を絶やさないよう、子を為す為だけに婚姻関係を結ぶ。血を分け与えるのは代々伝わるしきたり。でもね、与えるだけじゃ僕は死んでしまう」

脳裏に浮かぶのは、兄の姿。僕の兄も血を採られて死んでしまったのかな。このまま僕も死んでしまうのだろうか?酷く重く感じる瞼を必死で開こうとすれば、彼の手がやさしくそれを阻む。僕は死にたくない、死ぬのが怖いんじゃない。だってこのまま眠るように死ねるのなら、痛みも苦しみもない。死の誘惑は恐ろしいぐらいに甘く優しく僕をいざない、気を抜けば僕はそれに屈服してしまいそうになる。彼の手が体を弄る感触だけが僕の意識を繋ぎ止める。時折はっきり覚醒する混濁した意識の中で、僕は喘いで彼を求めていた。生暖かい血のベッドに埋もれて、僕は体をくねらせる。脚を絡めて、よりいっそうの深い結合を。彼の血と僕の血が混ざり合い、僕等はその匂いに酔いしれる。ぼんやりと霞む頭の中は、いつのまにかクリアに冴え渡り、僕は全てを理解したつもりになる。最後まで足を踏み入れてみないと、わからないもの。ただの傍観者で居たら、終生理解など出来ない。その境界を飛び越えられるか、そうでなければ、絶望のうちに死を選ぶしかない。突然激しく昇り詰めて、僕は考える事を止めて行為に没頭した。
すぐに終わりはやってきて、今だかつてないほどの絶頂感、喉の奥から搾り出すように声を上げて、僕は果てた。がくがくと震えは止まらず、思わず両腕で自分を抱きしめた。見れば僕の王様は、美しさを取り戻していて艶然と微笑んでいた。震える僕の顎を持ち上げて、軽く口付けてから彼は言う。

「君は僕の命綱なんだ。でもそれだけじゃない。ずっと大事にするからね」

息を止めて彼を見つめた。僕には彼の姿以外は目に入らない。今や僕の王様は、僕に命を委ねている。柔かな金色の髪に指を差し入れて、僕は黙って彼の頭を抱き寄せた。彼の腕が僕を強く抱きすくめ、僕はそっと息を吐く。赤いシーツは、彼にとても良く映える。ひんやり冷たい彼の額に口付けて、新しい未来の予感に僕は静かに目を閉じた。







                                     

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