ブリア・サヴァランかく語りき 2 「どうしたの?」 気配に気付かなかったなんて。飛び上がりそうになるのを押さえて振り返る。夜目にも明るい、さっきまで思い浮べていた顔がそこにある事に、運命めいたものを感じた自分に赤面する。 「高石君・・」 「あれ?今日、練習の日だっけ。大輔くんは?」 そうだった、僕は彼の友人でも何でもなく。 「あ。ちょっと」 「あはは。ケンカでもした?」 言いにくい事をさらりと言ってのける彼一流の。 「珍しいよね、君たちがさ」 探るような目線、というのは勘繰り過ぎだろうか。 「そんなんじゃ・・」 彼の前では歯切れが悪い。まるで女の子だ、いや、女の子だってこんなんじゃないだろう。 「いいじゃない、それが友情ってもんなんでしょ」 「高石君、からかって・・」 「まさか。羨ましいくらいだよ」 訪れる沈黙に耐えられなくなったのは僕が先。 「ちょっと、言い争いになってしまって。僕が悪いんだ。謝らなくては。」 僕の緊張した様子に気付かない彼ではない。軽く竦めた肩でこの会話が終わった事を知る。 「お泊り会なんでしょ。がんばってね」 何故、と言いたげな顔をしていたんだろう。 「あは、ごめん、大輔くんがあんまり自慢するから」 屈託ない笑い声。それから不意に差し出される手。 「行こう!」 反射的に握り返して、いつだったかこうして手を握られた事があったなあ、と思いながら僕は高石君の後を追って走りだした。 「高石君、一体どこへ・・」 「大輔くんち!」 まだ調子が戻らない僕は足がもつれそうになりながら握った手を離してくれない彼について行く。藍色の夜風が車のライトの赤と街灯のオレンジを巻き込んで後ろに流れていく。汗とホコリで固まった髪の毛がばさばさ顔に当たって痛い。 「高石君、もっとゆっくり・・」 「え?何?」 「ゆっくりって・・っ」 「あはは。ボクたちの乗った列車は途中下車できないんだよ!」 「何だよ、それは」 引っ張られるままに、少し走っただけだというのにひどく動悸がする。段々増えていく通行人の間を縫って、鈍い金色の頭が光の筋を曳いて先へ先へと。 「着いたよ?」 見慣れたマンションのエントランス。前かがみで膝に手をつっぱって呼吸を整える。 「行っておいでよ」 柱にもたれて頭の後ろで手を組んで、高石君が言う。 「君はどうするんだ?」 「あ、ボク?待ってるよ」 早く行って、と、背中を押されて、丁度下りて来たエレベーターに乗り込んだ。 「待ってるって言われても・・」 エレベーターは待ってくれない。扉が開いて吐き出されるように本宮の家の前。僕は深呼吸してインターフォンを鳴らす。間髪置かずにドアが開いて、胸に軽い痛み。僕は本宮の瞳の中に閉じこめられる。 「賢、あんまし心配させんなよ〜」 ゴーグルが顎に当たる。 「本宮、その・・」 「待ってたんだからな、母ちゃんも姉ちゃんも」 「すまない、その」 待っていた、という言葉でさっきの高石の姿が浮かぶ。待ってる、と彼は言って。 「今日はさ、賢が来るから、なんかうまいもん食いに行こうって」 本宮の腕が僕を迎え入れるために肩にまわる。 「そうなんだ、でも」 少し安堵してしまって、また罪悪感。僕のために料理や準備をしていた訳じゃないっていう。 「でも?」 本宮の眉が上がる。 「用事が・・できてしまって」 「用事だあ?でもよ、賢、お前今日は・・」 「すまない、本当に。用事が」 他にうまい言葉がみつからなくて、馬鹿みたいに。歯切れ悪く繰り返す僕に呆れたんだろう、本宮は僕の肩に手を置いて、顔を覗き込む。 「用事って・・急いでんのか?言いたくないならいいけどな」 何も言えなくなってしまって、頭を左右に振る。小さなため息、それから僕の肩を軽く叩いて。 「荷物取ってくっから」 本宮は踝を返して、廊下の向こうへ。入れ代わりに賑やかに現れたのは、本宮のお姉さんだった。 「あ、いらっしゃ〜い、賢くん!待ってたんだよ〜ん!今日はアタシとおかーさんも混ぜて貰っちゃおーかなって。てへ♪」 「あ、はい、どうも、こんばんは、すみません、こんな時間に」 「いーのいーの。賢くんならいつでも大歓迎!今日はね、みんなでどっかいこうかって、アタシ前から行きたかったお店があるんだーー。あのね、最近できたお店なんだけどね」 「あ、そうなんですか」 本宮の姉さんのお喋りを聞き流しながら、引き返すなら今の内だと、大袈裟だ、何を力んでいるんだろう。本宮が戻ってきて僕の荷物を放り投げる。 「おらよ。そのカッコで帰んのかよ」 「急いでるんだ。後でメールする」 一瞬視線が絡み合う。 「え〜っ!賢君帰っちゃうの〜!」 本宮のお姉さんの素っ頓狂な声で救われたような気分になるだなんて。 「うっせえな、おめえには関係ねーだろ!」 「なによ、その口の利き方はっ!」 雲行きが怪しくなって来たのを幸いに、口の中で辞去の言葉を呟いて、ドアノブに手をかける。 「賢!」 「すまない、本宮、後でメールする!」 最小限に開けたドアの隙間から滑り出て、冷たい匂いのする風の吹き抜けるマンションの廊下をエレベーターまで。途中で何回か人の出入りがあって。 「待ってるから」 本当に彼はそんな事言ったんだろうか。果たしてエントランスにはそれらしき人影は無く。・・僕は何を期待していたんだろう。高石君は本宮の友達なんだ。待ってるっていうのは、事の顛末の報告だったかもしれない。あの冒険の時だって、本当は僕なんか仲間にしたくなかったんだろうに。重いガラスのドアをゆっくり押して、外に出る。冷たい風に横面を張られて、思わず体を竦める。さっきあんなに走ったせいでまた汗をかいたかな、早く帰ってシャワーを浴びなければ風邪をひいてしまう。それもいいか、なんて。そうすれば言い訳になるだろうし。 家に帰らなきゃ。晩御飯に間に合わない。頭の中で繰り返しながら、どうにも気が進まなくて、一息つこうとマンションの前庭のベンチに座る。なんだか落ち着かない。泊まる予定がなくなった事を知らせるべく、公衆電話を探す為に立ち上がろうと。 「意外と早かったんじゃない?」 顔を上げると前庭の入り口に夜目にも白い帽子の頭が見えた。 「・・高石君。帰ったかと思った」 「待ってるって言ったでしょ」 小さく肩を竦めて僕の前に手を差し出す。 「行こうか?」 およそ現実感のない、夢の中みたいな。僕はきっとすごく疲れてる。どこへ、って口から出たのは、高石君の手を掴んで走りだした後だった。 |