昔昔、っていっても水族館があったんだから、そんなに昔じゃないんだけどね。ここまでじゃないけど、大きな水槽が売りの水族館があって。やっぱりその水槽も、回遊するサカナを飼育していて、その底に、小さな巻き貝の子供が住んでいたんだ。 その貝の子供は、水族館で生まれたせいかな、ううん、水族館で生まれた貝はいっぱいいたんだけど、他の貝とはちょっと違っててね、貝っていったら、頭を出しては砂の中に顔を突っ込んで、サカナが通ると頭を引っ込めて、仲間うちでクチクチしゃべってさ、それも親戚の話とかそんなのばっか。みんな水族館が嫌いでさ、なんでかっていうと、明るいからってだけなんだけど。それで、元の海に帰りたがって、海に居た親戚の話ばっかりしてるんだ。 その子は、なんせ水族館生まれで、親戚の話なんかされてもわかんなくてさ。つまんないからずっと上ばっかり見てたんだ。 他の貝はさ、頭を砂に突っ込んでは出して、その貝の子に、頭ひっこめるか砂に突っ込むかしてないと、サカナに食われちゃうって怒ってたんだけど、どうしてもその貝の子は、みんなの言う通りにできなくてさ、だってつまんないからね。 水槽の上のライトが、大量の水やぐるぐるまわるサカナを経由して底に届くまでに、ぐるぐるかき回されてさ、まわりのアクリルガラスがプリズムみたいにライトを取り込んで。砂の中や殻の中なんかじゃ絶対見れない、貝の子供は、光の中でぐるぐるまわるサカナを見るのが大好きだったんだ。 サカナの中にはさ、群れでぐるぐるまわってるのもいれば、夫婦で行動するやつ、一匹オオカミみたいに好き勝手動き回ってるやつもいる。ぐるぐるまわってるサカナたちは、とにかく回ってられたら満足だから、ここが海だろうが水族館だろうが、気にしない。ペアでいるサカナたちも、相手が一緒にいてくれたら満足だからさ、やっぱりあんまり気にしてない。大体、ちゃんとケンカとか、食い合わせとか考えてあるからね、そいつらにはいい場所なんだ、水族館ってのは。問題は一匹オオカミタイプのやつらでさ、そいつらは、水族館なんか嫌いだった。しょっちゅうガラスに鼻をぶつけるし、ケンカの相手もいなくて退屈だからね。 貝の子供は、ずっと上を見てるだけなのに、だんだん飽きてきてしまった。仲間は退屈だけど、やっぱり寂しいからさ、色々話しかけてみるんだけど、話の途中で砂に頭つっこんだり、殻にもぐったりしちゃって要領を得ないし、それに質問に全然答えてくれないんだ。だもんで、貝の子供は、思いきってサカナに話しかけてみる事にしたんだ。 上でぐるぐるまわってるサカナには話し掛けようがないんだけど、時々底迄降りて来るサカナがいてさ、貝の子供はおもいきり身体を伸ばして、大きな声でこんにちは、って言ったんだ。サカナたちは、貝なんかが水槽にいるってことも知らなくて、それは貝達が一生懸命用心してたからなんだけど、最初はびっくりして、それからすっごく面白がってさ、サカナたちもすっごく退屈してたし、その子はサカナたちを尊敬してて、とっても礼儀正しくしたもんだから悪い気はしなくてさ。貝の子供はサカナたちのちょっとしたアイドルみたいになったんだ。 貝の子はこれでやっといろんなことがわかるようになるってんで、サカナたちに沢山質問したんだけど、サカナだってそんなに賢くはないしね、やっぱり要領を得なくて。悲しそうな貝の子の様子にいたく同情したサカナの一匹が言ったんだ、なんなら上の方に連れてってやろうかって。サカナとしちゃ、何か偉そうなことしたかったんだよね、貝の子に崇拝されるのってキモチよかったし。貝の子は二つ返事で承知した。波もない水槽の底にずっと動けないでいるのに絶望してたんで、願ってもないことだったんだ。 サカナのクチに銜えてもらって、貝の子は水槽の上の方に昇っていった。ぐるぐるまわってるサカナ達を避けて、水槽の端っこの方でね。まん中あたりだと、回ってるやつらの流れがあって、巻き込まれたら大変だしね。垂直に向かい合ったアクリルガラスがプリズムみたいに光を歪めて、その間を、ほら、あるじゃない、水槽に酸素入れる機械が。ソコから出る泡が連なってキラキラ光ってひっきりなしに昇ってく。貝の子はめいいっぱい首を伸ばして、泡や泡のまわりのおいしい水を味わった。ここいらが一番イイとこなんだ、とサカナはもごもごと言って、クチに銜えられてた貝の子はくすぐったくてうれしくて、クチクチ笑った。 サカナもうれしくなって、泡のまわりをぐるぐるめちゃくちゃに泳ぎ回った。もっと、もっと、って貝の子は叫んだ。生まれて始めてホントに楽しいって、ホントにホントにね。 それから貝の子は寝ても覚めてもそのことばっかり。またあのキレイなぶくぶくの所に行きたいって。上に昇る時の重さなんかなくなってしまう感じ、泡が身体にあたって弾ける感じ。以前にまして上ばかり見ていて、サカナが近寄って来るのを待っていた。最初に連れてってくれたサカナがあいつを連れてくと面白いぞって宣伝してくれたからさ、何匹かとっかえひっかえ貝の子を上に連れててくれた。夢みたいな日々が続いた。砂に半分アタマを突っ込んだみたいな夜だって、アタマの中はきらきら弾ける光でいっぱい。貝の子は幸福だった。でもね、その幸福もあまり長くは続かなかったんだ。みんな最初は面白がってやってくれるんだけど、そのうちにね、貝の子に興味なくしていった。だって貝の子にしちゃ、すっごく特別で目も眩むようなことがさ、サカナにはフツウの当たり前のことだったから。 貝の子は段々弱っていった。上のぶくぶくのことばかり考えていて、ゴハンも食べられなくなってたし、しょっちゅうサカナに銜えられたせいで身体のあちこちに傷ができていた。別に痛くはないんだけどさ、貝だからね、でも傷口からは透明な汁が出て、身体のあちこちにカタマリを作っていった。貝の仲間はそりゃもう、貝の子はアタマがおかしくなっちゃったってんで、見てみぬフリ。それでも貝の子は一生懸命上を見て、あのぶくぶくのところへ連れてってくれってサカナにせがんだ。サカナたちは貝の子があんまりしつこいもんだからイヤになってきてて、貝の子が頼んでもなかなか連れていってくれなくなってしまった。 ある種類の貝は、傷ついたところから透明な汁を出して傷口を塞ぐ。その貝がそういう種類だったのかはわからないけど、貝の子の体は少しずつ半透明の膜で覆われていった。上を見ると、その膜が光をやわらげ、曲げて、まるであのぶくぶくの中にいるみたいなんだ。なんだかよくわからないものに変わってしまうみたいで貝の子は怖くなった。もうじき、自分は死んじゃうんじゃないかって。もうあのきれいなものを見れなくなってしまうんじゃなかって。ぬるぬるしていた膜は段々堅くなって、体が重くて、もうどんなサカナも自分を運んではくれないだろうって。 貝の子は、痛む体をかばって殻の中に入ってることが多くなった。殻の入り口からわずかに光が膜を通して入って来て、まるいその入り口はレンズになって外の世界を映し出す。貝の子はぽっかり口をあけて見上げる。ちいさなあぶくが口から出て、膜を突き抜けてゆらゆらと昇っていく。膜は殻の中と外を映し出す。殻の中は虹みたいな模様が分厚い膜に映っていて、ぼんやり外の明かりで光っていた。貝の子の中にもちゃんとあったんだ、きらきらした小さな世界が。うれしいんだかがっかりしたのかよくわからないまんま、貝の子はずっと自分の殻の中の世界を見ていた。 しばらくして、貝の子を最初に上に連れて行ってくれたサカナが久しぶりに声をかけてきた。貝の子は久しぶりにクチクチと声に出して、できたらまた上に連れてってくれないかと頼んだ。サカナも久しぶりだったんで承知して、ふたりはライトに照らされたぶくぶくの中を昇っていった。お前、重くなったな、大きくなったのか、とサカナが言った。貝の子はうれしくてクチクチ笑った。大きくなったんなら、こういうことももうやめとくべきだな、とサカナが言った。生き物には分ってもんがある、と。もう最後だから、と貝の子が言った。だから、ぼくを上からぶくぶくの中へ放り投げてくれないかな、ぼくは小さいからきっとぶくぶくのおかげで浮くと思うんだ。ゆっくり降りて来るから、下で受け止めてくれたらいいよ。サカナはその思いつきを面白いと思ったんだ。サカナはいつも泳いでるもんだから、重さってのをあまり感じないんだよね。落ちるってのがどんなことか、サカナにはわからない。サカナにとって怖い事は浮くことなんだから。 できるかぎり上に昇って、サカナは口を開けて、貝の子を放した。ひっきりなしに上がって来るぶくぶくのおかげで、下の方がよく見えなかったんだけど、潜って貝の子を受け止めようと、泳ぎ出す。興奮ぎみにどんなにぶくぶくの中がキレイかを、クチクチやかましく話す変わり者の貝の子の声を思い浮かべて笑いながら。きっと生まれてくる先を間違えたんだろう、そういうことってあるんだなあって、自分がそんなのじゃなくてよかったって思いながら。 貝の子はいつまでたっても落ちて来なかった。サカナは間に合わなかったんだろうか、ってちょっと恐ろしくなって、下の砂利の間を丹念に探したが、それらしい貝のかけらは見当たらなかった。しばらく待って、それからサカナは自分の階層へと戻っていった。他にどうしようもなかったからね。貝の子の親戚に何か言おうかとも思ったけど、どうせ砂に頭を突っ込んでて聞きやしないだろうしね、そのうち貝の子のことなんか忘れちゃったんだ。 |