冷たい雨が降って、春は近いというのに、今だ寒さは。布団の中で身じろいだら、目が冴えてきて、もう眠れない。季節は巡って、もうじき知り合って一年になるというのに、ボク等の距離は縮まってるとは言えない。柔かな声のトーン、俯く君の憂い顔、ボクはいつも繰り返す、眠れない夜はそれを何度も何度も。





卒業





身体がだるい。ボクは熱っぽい身体を持て余していた。今日は卒業式のあと、京さんを祝う為に皆で集まる事になってるから。永遠に続くんじゃないかと思うくらい長い、校長先生のお話し。ほんのりと目の縁を赤くして、6年の女の子たちはこの日ひどく大人びて見えた。確実に月日は流れてる。なのに、ボクは。何一つ変わっちゃいない。いつも、傍観者の立場で居るしかなくて。

「京さん、卒業おめでとう!」

ヒカリちゃんの声で我に返る。在校生の前を横切って、6年生が講堂から退場して行く。ちょうど目の前に京さんが通りがかって、ヒカリちゃんと目配せしあい、唇の端きゅっと上げた微笑。長い髪さらりと後ろに靡かせ、姿勢を正してまっすぐ歩いていく姿に見とれてしまう。……内心すごく焦ってしまった。果たしてボクは。1年後、あんな風に胸張って歩いて行く事ができるのだろうか。



「京さんのスカートすごく素敵だった。隣の子といいね〜って話してたの」
「ありがとー。この日のために新調したの。いいでしょ?高かったけど奮発したのよー!」

ヒカリちゃんと京さん、喋りだすともういつもの二人で。大人びて見えたのも一時だけの……。やおら立ちあがって、スカートの裾掴んでくるりと一回転。

「あーあ、ちっとは女らしくなったのかと思ったのにな」

大輔くんは苦々しくそう呟いた途端、京さんに一睨みされて大人しく口を噤んだ。そっぽ向いて、手の中のペットボトルを呷る。春の気配はそこかしこ、暖かな日差しに、ボクは眩しく空を見上げる。駅前で、ボク等はもう一人の仲間を待っている。そして、駅の階段を降りてくる、見間違いようのないその姿。ボクはきっと、何千人のなかからだって、彼の姿を瞬時に見つけ出す事が出来ると誓ってもいい。日差しを照り返す艶やかな黒い髪。小走りに近付いて来る、上気した頬。ボクは軽く眩暈を起こす。

「賢く〜〜〜ん。ここよ!」

京さんがボクの隣で声を張り上げて、ボクは一瞬身を固くする。軽く片手を上げて反応を返す一乗寺くんを見るのが何故だか気恥ずかしくて、目を逸らす。駆け寄ってきた君の、張りのある声。今日の主役の京さんへと向けられた、祝いの言葉を上の空で聞く。



卒業……ってなんだろう。ボクらも来年の今ごろは。ボク等の胸躍らせる冒険は終わり、卒業は輝かしい子ども時代への本当の意味での決別。同じ試練を乗り越えたというボク等を繋ぐ絆は、そうなればいよいよその効力を失い、ボクは変わって行かざるを得ない。京さんがあの頃より大人びて見えるように、ボク等も確実に変わっていき、それは避ける事の出来ない定め。

「どうしたの?タケルくん、元気ない」

隣に座るヒカリちゃんが、ボクに声を掛ける。それで、ボクは考え事から引き戻されて、改めてその場に居る皆の顔を見まわす。皆がボクを見ていて、気恥ずかしさに顔に血が上る。朝から少しだけ高かった体温、今ので更に熱が上がったみたい、ボクの耳は一瞬何も聞こえないくらいの耳鳴りに覆われる。

「大丈夫……、今日ちょっと講堂寒かったんだ……」
「風邪かぁ?今更インフルエンザだったりして……」

大輔君が言った一言でその場の空気が変わった。ああ、もう……。インフルエンザだったら、家に閉じ篭って安静にしてなきゃ。こんなところにいたら、皆に移っちゃうじゃない。せっかくの春休み、誰だって寝込んじゃったりはごめんだろうから。

「……ごめん。移すと悪いから、ボク帰るよ」
「タケルさん!僕送ります!」

伊織くんの申し出を丁重に断った。だって、ここ京さんの部屋からボクの家に帰るまでなんて、エレベータ降りてすぐだよ?しかも年下の伊織くんに送ってもらうなんて、なんとなくプライドが許さない。言葉に出してはいけない本音が、胸の奥で渦を巻く。

『君に会いたかった。だからちょこっと熱っぽいの押してまでここに来たんだ。こんな時でもないと君に会えないからね、僕は。京さんごめんね、邪な下心隠して殊勝な顔してて』

立ちあがって、その場を辞する直前、君を盗み見てしまう。曇った表情、もしかして心配してくれてるんだろうかなんて、ちょっとは期待してしまう。いいでしょ?これくらいなら。誰にも迷惑掛けてない。京さんちの玄関、皆に見送られながら靴をはいてると、後ろから掛けられる声。

「高石くん、下のコンビニ行くついでに、君ん家の前まで一緒に行くよ」

何で?何で?鼓動が一つ、大きく撥ねる。冷静を装いつつ、努めてボクは普通の声を出す。

「え〜?いいよ。小さい子供じゃないんだから」
「熱がある時って、普段なんでも無い事が辛かったりするし」
「エレベータのボタン押すくらいが?」
「タケルお前可愛くねえぞ!」

大輔くんの言葉に後押しされて、一乗寺くんが付いてくる、二人きりのエレベータ。言葉は無く、ボク等は黙って回数表示を見つめるだけ。以前だったら気まずいこんな沈黙を避けただろう。でも今じゃ、黙っていても君が気遣ってくれてる気配を感じる事が出来る。

「で、なに買いに行くの?コンビニって……」
「えっ?う……ん。今日は、急遽大輔のうちに泊めてもらう事になったんだけど、替えの下着持ってこなかったから、買おうと思って」
「そんなの大輔くんの借りればいいじゃない」
「ええっ?!」

大袈裟に驚いて、ついでにあとずさる君。あ、新鮮……かも。冷静な君が酷く驚くと、こんな可愛いリアクションするんだ?滅多に見れない君のそんな姿をもっと見ていたかったのに、エレベーターは無常にも目的の階で止まる。

「ありがとう。ここまででいいから。君はそのまま下まで降りるといいよ」

なのに、ボクに付いてエレベータのドアをすり抜ける、軽い身のこなし。案外君は頑固なんだったよね、内心嬉しいボクは、そのまま君を後ろに従えて歩いていく。玄関の前、アルコープの扉開いて、ボクは手を肩の高さまで持ちあげて。

「またね、一乗寺くん。京さんにも、皆にもよろしく伝えといて」
「うん。わかった。……高石くん、お大事にね」

微笑んで手を軽く振り、向けられた君の背中の頼りなさ。行ってしまう、このままボクは黙って見送るだけ。あんなに会いたかった君と、ここでさよなら。でも本当は、一言尋ねてみたかったんだ。君にとっても、春は物思う季節なんだろうか。焦りにも似た何かに身を焦がされるような……。この季節特有の、どこかうら寂しいこの感情の源は。

「京さんすごく綺麗だったと思わない?大人びたよね」

いきなり何言い出すのかと、君は不審そうな目をして振りかえる。立ち止まってボクの言葉を待つ。

「……寂しくなるね」

君を前にしたら、言いたい事の半分だって言えやしない。こんな陳腐な言葉が、今のボクの精一杯。

「卒業って晴れがましい反面、どこか切ない感じもするね。大きな転換点だから……かな。僕も京さんが卒業するの、少し寂しい気がする」

会おうと思えばいつだって会えるのにねって、君は笑う。ほんとはわかってるくせに。これからは、会いたいからっていつでも会えるわけじゃなくなるって事。現にボクは。会いたい気持ちを抱えて悶々として、それでも叶わない苦しさを知っている。君の背中を見送りながら、ボクはそんな気持ち持て余してた。君の姿が見えなくなっても、しばらくはそのまま。また少し上がったみたい、熱が身体の外に出たがってる。ふらつく身体を何とか支えて溜め息をつくと、ボクは漸く玄関の扉を開けた。



熱に浮かされるまま、夢を見る。君の白くて冷たい手のひらが、ボクの額を冷やしてくれる。
……なんでだろう。なんで、こんな事望んでしまうのだろう、全く人間てものはどうしようもなく、望みの薄い願望を持ち続けてしまうのだろ。


そんな、他愛のない妄想が熱に浮かされまどろんだボクを暫しの間慰めてくれた。君に会えただけで、今日ボクが頑張った甲斐はあったよ……なんてね。







end

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