春の道
5 ボク達は道を隔てたすぐ先の水平線を見るともなしに眺めながら、海沿いの道を歩いていた。いつもこの時期は、たいてい強い海風が吹き荒れているけれど、今は風はとても穏やかで、砂浜には犬を連れた人が散歩しているのが見える。ボクと一乗寺くんは肩を並べて、同じ歩調で歩いて同じものを見ている筈なのに、考えている事は全く違っている。彼はずっと黙っていて、さっきから一言も話してはくれない。話しかけるのも憚られて、ただひたすらにボクは、ボク達は家路を辿っている。 あんな事聞かなければ良かった。でも、ボクだって言いたくない事いったのになあ。結局、抽象的な言葉でお茶を濁されちゃっただけなんだろうかとか、もしかして彼は機嫌を損ねちゃったんじゃないのかなとか、あとからあとからいろんな思いが溢れてくるけど。ボクはただこうして歩いているのも嫌いじゃないなあと思っているので、それも始末が悪い。隣を歩く憂い顔をちらりと覗き見たら、少しばつが悪そうな困り眉。もう何年か一緒に過ごしているせいか、こういう時の彼の心の動きが手に取るように分かっちゃうつもり。うん、君は自分の思いを言葉に置き換えるのが少し苦手なんだよね。だから、今はいいよ。いつか、ちゃんと自分の言葉で言いたい事が言えるようになるといいね。そんな事を漠然と思いながら歩いてたら、一乗寺くんは突然立ち止まりボクの方を見た。 「夕焼けがすごく綺麗だね」 一乗寺くんは夕日を仰いで、眩しそうに目をそばめる。言われてみれば、驚くほど大きくてオレンジ色の太陽が、今まさに沈むところ。ボクは、一瞬言葉を失くして立ち尽くしていた。こうしてじっくり夕日が沈むところを見るのなんて、本当に久しぶりだった。でも、なんでいきなりこんな事を言うのだろう。ボクは、首を捻りながら夕日を見て、そして一乗寺くんの顔を見た。再び、一乗寺くんは感嘆したように呟いた。 「雲の形とか色とか、なんというか作り物めいた完璧さだ」 「そう、いつもとおんなじって気もするけど……」 「ははは」 彼の意図が分からない。分からないまでも、一乗寺くんの笑い声を聞いたら胸のつかえが降りるような気がして、その時になって漸く、ボクは自分が少し落ち込んでいたんだと気が付いた。だってねえ?ボクは力になってあげたかった。もう友達の範疇に入れてもらってるんだと思っていたから。 『特別な思い入れなんて無いから』 さっき一乗寺くんは、そう言った。サッカーだけじゃなく、その他の何もかも、例えば柔道だったりチェスだったり。もはや、彼を惹きつける力は無いらしい。そういうものなんだ?ってボクは言って、それで会話はおしまい。あれで終わりだなんて、不完全燃焼もいいところだけど、もう一度蒸し返す勇気なんて全然無いから。あと一歩、踏み込まないって事で、ボクと一乗寺くんの関係は成立していた。少なくとも今までは。ずかずか踏み込んじゃって、心開かせて、いつのまにか仲良しになってるって芸当が出来るのは、ボクの周りじゃ多分一人くらいしか見当たらない。そういう大胆さに時に憧れて、自分にもその半分……とは言わない、1/3程度でいいから行動力があったらなあなんて思ったこともある。無意識に溜息が漏れたのを、敏感な一乗寺くんが見逃すはずも無かった。 「高石くん……」 夕焼けを背にして、ボクを見つめる。真っ直ぐな視線、ボクはこういうの少し苦手なんだ。思わず目を逸らしてしまって、視線は一乗寺くんのネクタイの結び目の辺りを彷徨う。黙ったままで時間だけが刻一刻と過ぎていく。太陽は寸刻みに削られていって、今はもう上半分が少しだけしか。 「さっきの……ずっと考えていたんだけど」 うわ、予想もしていなかった、彼のほうからの蒸し返し。聞きたいような聞きたくないような、微妙な居心地の悪さを何とかやり過ごして、ボクは神妙に一乗寺くんの目を見つめた。そう言いはしたものの、しばらく言いよどんでるところをみると、自分でもここで言うつもりじゃなかったんだろうな……なんてボクは、彼を冷静に観察してる。聞き取りにくい小さな声。え?って、ボクは聞き返した。と、同時に太陽はすっかりビルの谷間に沈んでしまって、今はもう辺りには、僅かに柔らかな残光が満ちるだけとなる。 「僕はもう、何をしていても生きがいを見出せない。こうしてただ漠然と生きていくことに少し絶望している」 一瞬時間が止まったように感じた。 ……ねえ、そんな事聞いちゃったら、ボクはなんて慰めてあげればいいわけ?それをさらりと、まるで今夜の夕食は何?って聞くみたいな調子で言われちゃった場合。あれだけの才能の煌き、それを具現化させていたのは、忌まわしい例の種の力。それは、確かに目を逸らす事の出来ない真実なのだけど、種の成長を止めて本来の自分を取り戻したあとの一乗寺くんの努力は分かっているつもりだった。少なくともボクは、そう思っていたんだ。分かりやすくサッカーやなんかのスポーツに当てはめて言えば、例えばボールをキープしたりフェイント掛けたりって、しばらく休んでたって案外身体で覚えてる。超人的な運動神経が失われていたにしても、それを補って余りあるテクニックのお陰で、それほどの遜色は無いんじゃないの?って。だけど……周囲が思うより楽なものじゃなかったらしい。こういうのって、当事者じゃなければ本当のところは分からない。かといって、そうそう当事者になんてなれそうも無いけど。以前の自分は超絶的な天才だった……なんて、果たして地球上にどれほどの割合で存在するんだろう。しかも身体の中に入り込んだ何かの影響力のせいだったなんてね。その間の記憶さえ曖昧なまま。簡単に想像付くものじゃない、だけどボクが学校のチームに見切りをつけるというのとは、絶望や諦観の度合いが全然違うんだろうなあとは思う。だからといって、安易な慰めなんか必要じゃないだろうから。……難しいよね。言葉を失くす。一乗寺くんの表情からは、なんの感情の揺らぎも読み取れない。だから余計に。 「自分の生き方に疑問を持たない子なんて、多分居ないと思うよ。ええと……つまり、これからだって生きがいは見つけられるだろうし」 ボクは言葉に詰まってしまう。もうどうしたって、失われたものは取り戻せない。一乗寺くんが目的を失っちゃったって言うなら、新しい目的が見つかるまでボクは一緒に居てあげたいと思う。あの春休みの後で、デジタルワールドへの行き来が自由に出来なくなって以来……一乗寺くんじゃなくたって、あれからボク達は、どこかぼんやりとした毎日を過ごしてきてしまったのだから。 「見つけるの手伝うよ。君が嫌じゃなければ」 本当のところは、彼の本心は分からない。分からないけど、一乗寺くんは微笑んで頷いてくれた。ボクの言葉は多分、ほんの気休めにもならないんだろうけど、ボクは何があっても君の隣に居るからね。決意を胸に、大きく深呼吸。 「そういえば、お腹すいたね!!」 ボクは唐突に切り出す。太陽はすっかり沈んでしまって、遊歩道の灯りがぼんやり光る。家までの真っ直ぐな道、ボクは一乗寺くんの手を掴んで走り出した。言葉に出した程、本当はあんまりお腹なんて空いちゃいない。どんなに悩み事を抱えていても、時間が来ればお腹が減っていたあの頃と比べて、ボク達はいろいろなことを知り過ぎてしまった。心の中の錘はずっしりと身体中に作用して、重力もあいまってボク達を地上に止めつけるみたいに自由を奪う。だから、敢えて逆らうように、小さな子供みたいに家までの道を走って戻ろう。今日は母さんが夕食を作ってくれているから。玄関のドアを開ける前に夕食が何か、ボクは多分百発百中で当てる事が出来るよ。マンションのエントランス走りこんで、エレベータが来るや否や乗り込んだ。大した距離走ってないのに、息を切らしてるボク達は、お互いの髪が乱れてるのをことさら面白がって、そしてお腹が痛くなるまで笑った。 |